これからデザインについて複数の文章を書いていきますが、このページではデザインについての概要を書いていきたいと思います。

絵画、ファッション、メイク、映画、建築、日用品など、様々なものでデザインは使われます。このホームページで言っているデザインとは、何か視覚的なものを創ること全般を意味していると理解して下さい。

デザインには元々「光」と「闇」のルールがあります。例えば、我々は「水色」を見た時に晴れやかな気分になり、「深紫」を見た時には晴れやかな気分にはなりません。「水色」と「深紫」を含むデザインを並べますので、それぞれのデザインを見た時にどのように心が動くのかを分析して頂ければ、と思います。
 



 

どうして、これらの色を見た時に我々の心がそのように動くかというと、「水色」は「光」の色であるのに対して、「深紫」は「闇」の色であるからです。色に関する「光」と「闇」の大原則は「光」の基本色が「白」であり、「闇」の基本色が「黒」であるということです。だからこそ、とても強い光が当たると全ては「白」に見え、何も光がないと何も見えず全ては「黒」に見えます。この色に関する大原則は我々の世界に表現されています。

そして、「水色」とは「青」と「白」の混合色であり、「深紫」は「紫」と「黒」の混合色です。だからこそ、「水色」に「光」を我々は感じ、そのことで晴れやかな気分になり、「深紫」に「闇」を感じ、晴れやかな気分にはなりません。色にはこのような「光」と「闇」のルールが定められているからこそ、我々の心の動き方に違いが生じます。

こういったデザインに関する様々なルールは我々が生きている世界にいつも表現されています。我々にとって、自然界のデザインは当たり前のもの過ぎて、気付くことができていませんが、我々は自然を見ることで様々なデザインに関する「光」と「闇」のルールを見出すことができます。

まず最初に、自然の持つ景色のことを例にデザインに関するルールを説明したいと思います。デザインの基本的な要素は「色」と「形」なので、この二つについて少し例を挙げたいと思います。
 

[色]

例えば、青空と言われるように、空は「水色」です。青空は太陽からの光によって映されるものです。元々「水色」が「光」の色だからこそ、太陽の光によって生まれる青空は「水色」をしています。また、雲は「白」です。これもまた、「白」が「光」の基本色であるからこそ、雲は「白」という色を持っています。

もし、「水色」が「光」の色ではなく、「闇」の色だったとしたら、我々の世界は夜に青空が出ています。イメージしづらいですが、その場合は太陽が黒く、黒色の光を地球に向かって放っているような形になります。そして、太陽の光が当たる場所が黒くなるような形です。本当はその形でこの世界は成立していてもよかったのですが、「光」の基本色が「白」であり、「闇」の基本色が「黒」だと定められたが故に、太陽光線は世界を白く照らし出しています。
 

[形]

虹は円形をしています。虹も太陽の光によって描かれるものですが、どうして円形をしているかというと、円という図形が「光」の基本図形であるからです。星には神々が宿っていますが、だからこそ、星は円の集合体である球の形をしています。

もし、神々が円形を「光」の基本図形としておらず、四角形が「光」の基本図形であれば、虹も星も四角形をしています。我々にとって、虹が円であり、星が球の形をしていることはあまりにも当たり前過ぎることなので、気付くことはできていませんが、星が球の形をしていることから円という図形が神々の図形であることは理解できます。

※ちなみに、物理法則があるから星が四角形になることはあり得ないと思われる方もいるかと思いますが、今存在する物理法則はデザインに関する様々なルールが定められた後に生まれたものです。ですから、もし「光」の基本図形が四角形であれば、物理法則自体が今の物理法則とは異なるものになります。このことは光が「白」であることに対しても全く同様のことが言えます。


このように、自然を見ることで、デザインの基本要素である「色」と「形」について、我々は「色」と「形」に関する「光」と「闇」のルールを明らかにすることができます。自然とはここで挙げた景色だけではなく、植物や動物のことも意味します。

どうしてデザインにおいて元々「光」と「闇」のルールが定められているかというと、この宇宙が始まる段階において、様々なデザインを神々と悪魔はお互いに分け合ったからです。そして、神々にとっても悪魔にとっても平等となるように、様々なデザインを半々に分けています。それは非常に細かく定められています。

神々と悪魔は「気」を通して人間に関与することでいつも闘っています。しかし、闘うためには何らかのルールが必要であって、その1つのルールがデザインに関するルールです。このホームページでは神々と悪魔のことについてよく書いてきましたが、デザインにおける彼らの闘いがどういったものであるのかを説明していきたいと思います。


[「気」がデザインの根本であること]

我々はいつも様々な「気」に触れながら生きています。例えば、太陽を浴びれば、太陽神様からの「火の気」に触れ「元気」になり、新宿に行けば新宿に溜まっている「欲望の気」に触れ「欲望」の感情を抱きやすくなります。

そして、「気」には情報を乗せることができ、我々が様々なものを創る際に浮かぶ「アイデア」というものの多くは、神々や悪魔が我々にもたらしている「気」によって生まれています。つまり、我々が何かを創る時、多くの場合それらは神々か悪魔に教えられています。

「アイデアが降ってくる」という言葉がありますが、「アイデア」とは自分が創ろうと思って創ることができるものではなく、自分の意志とは無関係に「降ってくる」ものです。では、どこから「アイデア」はもたらされているかというと、神々や悪魔のもたらす「気」によって生まれています。

「気付き」という言葉がありますが、「気付き」とは「気」+「付く」という構造を持った言葉であって、我々人間に「気」が「付く」ことによって、我々が「気付き」を得ていることをよく表す言葉です。そして、「アイデアが降ってくる」とは、1つの「気付き」の方法であって、本質的に同じことを意味しています。我々が大事なことを忘れてしまっていても、言葉には真実が残っています。

とにかく、何かを創るという活動の多くは神々または悪魔との共同作業です。何故ならば、何かを創る最初の段階は「アイデア」が生まれる段階であって、その段階に神々も悪魔もいつも関わっているからです。そして、神々は我々の幸せのために我々に何かを創らせようとし、悪魔はその悪魔自身のために我々に何かを創らせようとします。我々が何かを創るということに神々と悪魔が関わっていることを踏まえて、この話をデザインの話に繋げていきたいと思います。


[例:キャットメイク]

例えば、現代はキャットメイクというメイク方法が流行っていますが、このメイクは悪魔が人間に教え、流行らせているメイクです。どうして悪魔はキャットメイクを人間にさせたいかというと、キャットメイクをするならば、その人の人格を少し「闇」に近づけることができるからです。

メイクは化ける力を持ちます。それは見た目を変えるだけではなく、内面を変えます。何故ならば、メイクとは自分が自分自身に対するイメージを変更する行為だからです。自分にとって顔とは自分のイメージを決める1つの大きな要素です。そういった自分が自分自身に対してどのようなイメージを持つのかということについて、大きな影響力を持つ顔を変えることは、自分に対するセルフイメージを変えます。そして、セルフイメージが変わると、その人の人格も変わります。

例えば、キャットメイクのように強い目をした目をメイクによって作るのであれば、その人の性格は少し強くなります。逆に、優しい目になるようなメイクをするのであれば、その人の人格は少し優しくなります。

キャットメイクによってもたらされる「強さ」とは、「闇」の「強さ」です。それは「負けず嫌い」「傲慢」「欲望」などのことを意味します。逆に、「光」の「強さ」とは何かというと「愛」によって生まれる「強さ」です。「闇」の立場とは「欲望」によって「強さ」を大きくし、「光」の立場とは「愛」によって「強さ」を大きくします。

例えば、とてつもなくお金が好きな人は自分の「欲望」を実現するために何でもできるだけの「強さ」を持ちます。これは「闇」の「強さ」です。それに対して、誰かに対して本当に強い「愛」を抱くのであれば、その人のために命を投げ出せる程の「強さ」を持ちます。これは「光」の「強さ」です。

「光の感情」とは「愛」の立場であって、「相手のため」の感情です。それに対して、「闇の感情」とは「欲望」の立場であって、「自分のため」の感情です。キャットメイクがその人に「強さ」をもたらすメイクであることは、そのメイクを見ればすぐに感じると思います。しかし、現代は「光」と「闇」の関係性を見失っているが故に、「強さ」には「光」と「闇」の二種類あることを忘れてしまっており、キャットメイクが我々に「闇」の「強さ」をもたらしていることに気が付けません。そして、だからこそ、多くの人がキャットメイクのもたらす「強さ」を手に入れるために、意図せず「闇」に少し寄ってしまいます。「光」に満ちた人であっても、キャットメイクはよく陥っている1つの罠です。

悪魔はそういった構造を全て分かった上で意図的に行なっています。悪魔はいつも我々に「餌」を与える代わりに何かを奪いいます。「ギブ&テイク」という発想は「闇」の発想であって、悪魔はいつもそれを行なっています。キャットメイクによって悪魔が我々に与える餌とは「強さ」や「強さ」から生まれる「美」であって、その代償に我々を「闇」に寄せます。

どうして悪魔が我々を「闇」に寄せようとするかというと、我々が「欲望」といった「闇の感情」を抱いているのであれば、悪魔は我々に「闇の気」を入れることができ、その「闇の気」によって我々の感情と思考に関与ができるからです。そうすると、悪魔は我々の行動を操作することができます。そうすると、その悪魔が思い描くように世界をコントロールできます。

「気分(気を分かつ)」「気持ち(気を持つ)」という言葉が表すのは、何らかの「気」を持つことによって我々は感情を抱いているということです。そして、「気付き(気がくっ付く)」という言葉が表すのは、何らかの「気」が発想の原因であるということです。そして、思考は発想の連続ですから、「気」が思考の原因と言うことができ、思考と感情の原因が「気」であることが言えます。そして、我々の行動はいつも我々の感情と思考から生まれるものであって、悪魔の「闇の気」を受け入れるのであれば、行動を悪魔に操作されます。

新宿の例は分かりやすく、新宿には悪魔の「闇の気」が溜まっていますから、新宿に行くとその「闇の気」の主である悪魔に感情と思考をコントロールされやすくなります。そうすると、悪魔がその人間に買わせたいもの買わせたりできます。もしキャットメイクをして新宿に行くのであれば、自分のセルフイメージが少し「闇」に寄っているので、新宿にある「闇の気」に共感させやすく、その「闇の気」を悪魔はその人間に入れやすくなります。そうすると、悪魔はその人間を操作できます。しかし、今の人間は「気」のことを忘れ、自分の感情や思考が全て自分が生んでいると思っているが故に、悪魔に感情と思考を操作されても気付くことができていません。

ここでは「気」のことを非常に大雑把な形で説明しました。「気」について重要なことは、ものを創る際に「気」を使って神々と悪魔が我々人間に関わっているということ、感情や思考の全てが必ずしも自分から生まれているわけではなく、神々と悪魔はそこに関わっているということです。「気」について詳しい文章はこちらの文章を読んで頂ければ、と思います。

http://junashikari.com/energy/

キャットメイクとは逆に、優しさを感じるようなメイクをするのであれば、自分のセルフイメージを少し「光」に寄せられますから、神々からの「光の気」に共感しやすい状態となります。そうすると、「愛」の感情や思考が生まれ、「愛」による行動も生まれやすくなります。

とにかく、このキャットメイクの話から理解して頂きたいことは、神々も悪魔も我々に「気」を入れるためにメイクを使うということです。デザインに神々も悪魔も関与していると書くと、遠い話のように思えるかもしれませんが、決して遠い話ではなくていつも我々の生活の中にあることです。現代女性の多くはメイクを行なうので、メイクの話をまず最初に取り上げました。

キャットメイクのデザインについて話を深めたいのですが、どうして我々がキャットメイクから「闇」の「強さ」を感じるかというと、元々吊り目という形自体が「闇」の「強さ」を表現するからです。これはデザインに関する「光」と「闇」のルールで元々定められています。

このことは動物を見ることでよく分かります。キャットメイクとは文字通り猫の目の形です。そして、猫とは「闇」の動物です。猫は犬と異なり、基本的に「わがまま」です。そして、「わがまま」という感情は「自分のため」の感情であって、「欲望」の立場を表します。

※猫が「闇」の動物だからといって猫が悪い動物と言っているのではないことは理解して頂けると幸いです。猫に宿っている魂は、猫という動物の器の中で「闇の感情」を学んでいます。猫は人間にとってとてもありがたい存在です。猫については詳しくはこちらに書いています。

http://junashikari.com/日常生活について/犬と猫について/

どうして猫は基本的に吊り目を持っているかというと、他の動物に対して自分が「闇」の動物であることを示すためです。猫は肉食動物であって、猫は狩りを行ない、狩られてしまう生き物も生まれます。しかし、猫の見た目がものすごくかわいらしい目だと、襲われる生き物は逃げようと思いません。猫の見た目は、猫によって襲われてしまう生き物のために神々が行なったデザインになります。

これはライオンなどの見た目も同じ意味を持っています。ライオンの目は猫のように吊り目ですが、猫よりも「恐怖」の目をしています。どうして、ライオンが「恐怖」の目を持っているかというと、ライオンに襲われる様々な草食動物が「恐怖」を感じるためです。また、猫やライオンだけに限らず、蛇やワニといった様々な肉食動物の目は「闇」の目を持っています。

神々はそれぞれの動物の身体をデザインする時に、それぞれの魂が経験するべき魂の試練に合わせて身体をデザインしています。そして、そのデザインは我々の魂が本質的に何をどのように感じるかというものによって生まれるのであって、何をどのように感じるのかということはこの宇宙が始まる段階で神々と悪魔がデザインのルールとして定められています。

余談ですが、肉食動物が怖い目を持っていることが多く、草食動物が優しい目を持っているという傾向だけからでも、神々がそれらをデザインしたということや神々が存在することは明らかです。自然発生的に動物が生まれ、それぞれの身体の形を創っていったのであれば、このような傾向は絶対に生まれるわけがないからです。

動物のデザインを分析することは、デザインの持つ意味を分析する上で非常に重要な意味を持っています。逆に言うと、我々は動物のデザインの意味を分析することで、本当に我々の社会に必要なデザインを創り出すことができます。デザインはいつも我々の心に影響を与えます。だからこそ、デザインの意味を分かった上で、本当にその人の人生に貢献するようなデザインをするのであれば、そのデザインを使う人間の生を支えることができます。


※「美」「かっこよさ」「かわいさ」「強さ」「面白さ」などの「光」と「闇」

今の人間は意味を考えずに、ただ美しいもの、ただかっこいいもの、ただかわいいものなどを作ろうとするが故に、デザインを悪魔に踊らされています。だからこそ、キャットアイが流行っている現状があります。そして、これは全てのデザインにおいて言えることです。

メイクもファッションも建築も映画も何でもそうですが、我々はいつも何かを感じています。しかし、自分が何を感じているのかを「光」と「闇」の観点から、言語に落とし込むことをしなければ、我々は悪魔から「餌」としてもたらされる「美」「かっこよさ」「かわいさ」「強さ」「面白さ」などと代償に、悪魔から心を関与されてしまいます。そして、このことは「光」と「闇」の関係性を見失った現代世界において、いつも起こっていることです。

悪魔が「美」「かっこよさ」「かわいさ」「強さ」「面白さ」などを使うということは非常に重要なので、覚えておいて頂ければ、と思います。我々人間は「美」「かっこよさ」「かわいさ」「強さ」「面白さ」といったものに価値を置いていますが、絶対にそれらの価値には「光」のものと「闇」のものがあります。

例えば、音楽だと、ジョン・レノンが「光」の「かっこよさ」であるのに対して、マリリン・マンソンは「闇」の「かっこよさ」です。


絵画だと、ゴッホが「光」の美であるのに対して、フランシス・ベーコンは「闇」の「美」です。


映画の登場人物だと『ダークナイト』のバットマン(ブルース・ウェイン)は「光」の「強さ」であるのに対して、ジョーカーは「闇」の「強さ」です。


 

こういったことは言われると当然のように思えることなのですが、常に「光」と「闇」の観点を持って世界を見ていなければ、気付くことができないものです。

また、このことは1人の人生全体に影響を強く与えることです。芸術家の方の中には「私は美に生きる」という思想を持って生きている方もいますが、そういった人の中には「私は闇の美に生きる」という立場の人も多くいます。「私は闇を選ぶ」と言うと抵抗感があり、「私は闇の美を選ぶ」と言うと抵抗感が減り、「私は美に生きる」と言うと抵抗感は一切ありません。しかし、この「闇」の「美」を選んだ人間にとって「私は闇を選ぶ」も「私は闇の美を選ぶ」も「私は美に生きる」も同じことを意味します。

悪魔は、こういった形で「私は美を選ぶ」といった聞こえのいい「アイデア」をその人間に入れ、そのことを「餌」にその人間を「闇」に落とし、その悪魔自身の使いとして使います。「光」と「闇」の観点で物事を見ることを忘れてしまった人間だからこそ、悪魔はこのようなことを簡単に行なえますし、我々の世界は本当にこのようなことばかりが起こっています。

このことはデザインを理解する上でもいつも重要な見方ですから、覚えておいて頂けると幸いです。

 

​[例:羽根]

動物のデザインに関連した話で、「羽根」のことを取り上げたいと思います。先程は「目」というもののデザインの一部を取り上げたのに対して、ここでは「羽根」というもののデザインのルールを取り上げていると理解して頂ければ、と思います。身体の部分部分について細かくルールは決まっており、このような形で、様々なものについて神々と悪魔はデザインに関するルールを事細かに決めています。

「光」の鳥である白鳥の羽根は「光」のデザインです。それに対して、「闇」の鳥であるコウモリの羽根は「闇」のデザインをしています。
 


先程は大雑把にしか書きませんでしたが、それぞれの動物が「光」の種か「闇」の種なのかは、彼らの生き方を観察すると分かります。白鳥は日中活動にするのに対して、コウモリは夜行性です。昼は太陽からの「光の気」がある時間であり、夜はそれがない時間なので、本質的に昼は「光」の時間、夜は「闇」の時間です。

そして、白鳥は水辺に住むのに対して、コウモリは洞窟などに住みます。水は「気」を流す力があり、「水の気」も多くありますから、水辺は「光の気」に満ちた場所です。それに対して、洞窟は風も通さず「気」が溜まりやすい場所なので、「闇の気」に満ちた場所です。

つまり、白鳥は「光の気」が好きであり、コウモリは「闇の気」が好きです。このことから白鳥が「光」の種であり、コウモリが「闇」の種であることは分かります。そして、それを踏まえた上で彼らの身体のデザインを分析するならば、我々は「光」と「闇」のデザインの違いについて学ぶことができます。

特に、コウモリは約1000種存在し、その1000種を分析するならば、我々は何が「闇」のデザインなのかということを多く学ぶことができます。神々としては、我々人間にデザインの意味について学んでほしいと思っているからこそ、1000種ものコウモリのデザインを用意してくれています。もしそうでないのであれば、それほどまでに大量のデザインを神々が行なう必要はありません。動物のデザインは絶対に何らかの必然性があって神々が創っています。ですから、我々はそういったことをもっと学ぶべきです。

白鳥とコウモリの話をしたので、神々と悪魔の見た目の話もしておきたいと思います。神々と悪魔は羽根を持っていますから、神々は白鳥のような羽根を持ち、悪魔はコウモリのような羽根を持っています。白鳥とコウモリのデザインを分析することで、我々は羽根のデザインに関する「光」と「闇」のルールを知ることができます。そして、神々は「光」の立場の魂であって、悪魔は「闇」の立場の魂です。そして、神々は絶対に「闇」のデザインを自分の身体に使えず、悪魔は絶対に「光」のデザインを自分の身体に使えないようになっています。何故ならば、もし神々と悪魔がそれを行なってしまうと、誰が神々であり、誰が悪魔かを見分けることが不可能になるからです。だからこそ、神々は白鳥のような「光」の羽根を持っており、悪魔はコウモリのような「闇」の羽根を持っていると間違いなく言えます。ちなみに、鷹のような羽根を持った神々も、カラスのような羽根を持った悪魔もいます。鷹は「光」の動物であり、カラスは「闇」の動物であるからです。

このことは神々と悪魔のことをよく理解していた昔の人間の彫刻などにもよく表現されています。例えば、紀元前に創られた有名なサモトラケのニケ像は白大理石で制作されています。ニケとは女神の一人であり、だからこそ白い羽根を持っています。
 


また、神々は映画製作にも強く関与していますが、神々が創った映画の中で登場する神々と悪魔のデザインは実際の神々や悪魔に非常に近い姿をしています。
 


                                  (『ベルリン・天使の詩』)


                         (『アンダーワールド エヴォリューションズ』)


目と羽根のデザインは分かりやすい話だと思いましたので、ここで例として挙げましたが、その他様々なデザインの要素はあります。そして、それらのデザインの要素は動物や植物のデザインに神々が込めた意味を分析していくことによって分かります。このホームページではそういった部分に関して書いていきたいと思います。

分析方法について整理すると、

1、それぞれの動物の生き方を観察することで、「光」の種と「闇」の種かを見分ける。
2、それぞれの動物が「光」の種か「闇」の種かを踏まえた上で、そのデザインの意味を分析する。

という形で、動物のデザインから我々は身体のデザインに関する「光」と「闇」のルールを学ぶことができます。ですから、根拠のない話をしているのではなくて、とても根拠のある話をしていると理解して頂けると幸いです。

また、これは植物においても同様です。植物にも「光」の種と「闇」の種があり、それは彼らの生き方を分析すると明らかにできます。そして、それを踏まえた上で彼らのデザインを分析すると、デザインに関する「光」と「闇」のルールを我々は学ぶことができます。例えば、蓮やひまわりは「光」の植物であって、「光」のデザインを持っています。
 

植物においてはその植物自体のデザインのみだけではなく、その植物を摂取した人間が何を見たかを通しても我々はデザインに関する多くを学ぶことができます。これはドラッグも同様です。今は何らかの幻覚性植物やドラッグを摂取した人間が見たものが絵や映像として表現されており、そういったものがたくさんインターネット上に落ちていますから、それらの表現から我々は多くを学ぶことができます。ですから、摂取する必要はありません。

重要なことは、ドラッグや幻覚性植物を摂取して見る幻覚は脳が勝手に創るものではなく、悪魔や闇の精霊(植物に宿る悪魔)が見せているものであるということです。何かが生まれるためには必ずそれを創る魂が必要です。そして、脳自体には魂は入っておらず、絶対に脳が自動的に何かの映像を創ることは不可能です。だからこそ、覚醒状態において人間が見る何かとはそれを見せている魂がいます。そして、ドラックにしても幻覚性植物についても、基本的に悪魔や闇の精霊が見せています。

以下は、地球で最も力のある闇の精霊であるアヤワスカが人間に描かせた絵です。これらの絵画は全て「闇」の絵画であって、「闇」のデザインが多用されています。
 


こういった絵画から我々は「闇」の色や形を学ぶことができます。「闇」の色なので全体的に深い色が使われていますし、闇の動物である蛇のデザインが多用されています。アヤワスカ自体蛇のような形状をしているからになります。
 

こういったものを見過ぎると「闇の気」をもらいますから見過ぎには注意しなければならないのですが、勉強のために使うのであれば非常に有効です。

この絵とは対照的に、神々が描いた「光」を表す絵画についても取り上げると、例えば、クリムトの『接吻』は金星神によって描かれた絵画であって、「光」のデザインを学ぶことができます。クリムトは「闇」も抱えている人物であるからこそ、「闇」を意味する黒い長方形が男の方には描かれており、女の方は「愛」に満ちた人物であるからこそ、「光」を意味する円や「気」の増幅を表す正三角形が描かれています。そして、「金色」は「金の気」=「愛の気」の色であって、「愛」の色です。二人が「愛」によって「金色」に輝くことが視覚的に表現されています。この説明は我々が感覚的に感じていることを言語として表現している形になります。
 


モネも神々と共に絵を描いていた画家ですから、モネの絵の色使いから「光」の色について理解を深めることもできます。


画家の中には神々と共に絵を描く画家も、悪魔と共に絵を描く画家もいます。では、そのどちらと働いているかを見極める方法はその画家の絵を観ることで分かります。

画家に限らず、我々は様々な芸術家の作品を通して我々は多くのデザインに関するルールを学ぶことができます。そこで重要なのは、その芸術家が神々と働いていたか悪魔と働いていたかを見分けることなのですが、その芸術家の作品を分析することで、それは明らかにできます。また、その画家の私生活を分析することでも分かりますが、それは動物が「光」の種か「闇」の種であるかを見分けることと似ています。神々と共に働く芸術家はいい人が多く、悪魔と共に働く芸術家は必ず「欲望」「ナルシズム」といった闇の感情と仲がいいです。また、悪魔と共に働く芸術家はよく悪魔に殺されますので、自殺をするケースが非常に多いです。

例えば、ファッションデザイナーにアレキサンダー・マックイーンという方がいますが、マックイーンは悪魔と共に働き、悪魔によって自殺させられた人物になります。マックイーンのデザインから、彼が悪魔と共に働いていたことはよく分かります。

 

蛇もカラスも「闇」の動物であって、左は蛇の身体を、右はカラスの身体を模しています。マックイーンを操作していた悪魔はそういった「闇」のデザインの最も基礎であるこういったものをかっこよく表現することで、人間にこういった「闇」のデザインを好きにさせようと試みています。

 

「痛み」とは、とても「嫌悪」という「闇の感情」に近いものです。例えば、こけると痛いですが、その痛みは「嫌悪」の感情に繋がります。この二つの作品において描かれているのはそういった「痛み」による「嫌悪」です。こういった服を着ていても見ていても我々は「痛み」をどこかで感じるので、「嫌悪」の感情に堕ちやすくなります。マックイーンを支配していた悪魔は、こういった衣服が通用する社会を目指し、マックイーンにこのような衣服を作らせています。

このような形で、マックイーンの服の多くは悪魔のそういった意図があって、マックイーンが悪魔に作らされていたものです。悪魔は様々な衣服のアイデアや、富や名声という「餌」をマックイーンに与え、その代わりに悪魔はマックイーンを操作し、現代のファッションシーンを自分が思うようにコントロールしていた形になります。

マックイーンが悪魔と共に働いていたということは、マックイーンのポートレイト写真にもよく表れています。一枚目の骸骨はマックイーンを操っていた悪魔のことを表し、マックイーンに与えてきたアイデアや富や名声という「餌」をタバコで表現し、マックイーンを操作することでその悪魔自身が手に入れていた「利益」を骸骨(悪魔)が吸うタバコで表しています。マックイーンとマックイーンを操っていた悪魔はこういった「ギブ&テイク」の関係にありました。

二枚目はマックイーンを操作していることを、悪魔の口をマックイーンの口に付けることで表現しています。悪魔からの「闇の気」を大量に抱えると、その悪魔によって何を話すかをコントロールされるからこそ、このような写真をその悪魔が創っています。

三枚目の写真は悪魔の角をマックイーンに付け、「快楽」を感じているマックイーンを表現しています。角が写真の半分近くを占め、マックイーンが三分の一程度しか占めていないのは、その悪魔にとってマックイーンは操られているに過ぎないことを表現するためです。


マックイーンを支配していた悪魔としては、このような写真を創ったとしても、今の人間は神々と悪魔のことを忘れているが故に、この写真の意味を気付かないだろうと思っていました。また、マックイーンが創ってきた衣服も同様です。

ですから、これからのファッションにおいて非常に重要な1つの要素はマックイーンが創ってきた1つ1つの作品から、何故悪魔がマックイーンにその作品を創らせてきたのかを分析することです。それを行なうことで、「闇」のデザインとはどのようなものなのか、悪魔はファッションを通して我々人間をどのようにコントロールしていきたいのかを知ることができます。

こういった分析を行なうことは人類がこれからマックイーンの仕事を本当の意味で活かすことでもあります。マックイーンは大変な人生でもあったと思いますし、悪魔によって殺されています。そして今はあの世でこちらの状況を知っています。ですから、マックイーンの仕事が本当の意味で活かされるのであれば、マックイーンの人生が報われることにも繋がります。マックイーンが「闇」を強く実践したことが、結果的に人類に大きな教訓をもたらすことに繋がるからです。

現代のファッションシーンは全体的に「闇」に寄っています。それは、ファッションというジャンルが非常に「優越感」に堕ちたジャンルとなってしまっていることが大きな原因にあります。「優越感」という感情は「自分のため」の感情であって、「闇の感情」の1つです。そして、「優越感」は必ず「劣等感」に繋がります。何故ならば、「優越感」も「劣等感」も本質的に、自分と他人を比べるという感情であって、「比較の闇」という感情だからです。

そういった「比較の闇」の感情の中で衣服を創るならば、必ず悪魔に関与されます。何故ならば、「闇の感情」を抱いている限り、悪魔からの「闇の気」を受け入れることになるからです。そうすると、悪魔から洋服のデザインの「アイデア」をもらい続けることになり、悪魔の使いとして服を創ることになります。今のファッションデザイナーの多くはこの罠に堕ちてしまっています。

では、神々と共に服を創るためにはどのような立場を取らなければならないかというと、「愛」の感情で服を創る必要があります。「愛」の感情で服を創るのであれば、神々からの「光の気」に共感しながら服を創ることになるので、神々が人間に行なってほしいファッションデザインを創り出すことに繋がります。

しかし、「愛」の感情で服を創るためには、衣服が持っている意味を理解しなければなりません。服が如何に我々の人生に強く影響を与えるものなのかを深く理解して初めて、その服を着る人間やその服を見る人間に対する「愛」を強く抱くことができます。

「愛」を抱くために非常に重要なことは、物事の意味を理解することです。何故ならば、意味を理解せずに、相手のために何ができるのか、何をしているのかを真に理解することは不可能だからです。自分が相手に行なっていることの意味を理解すれば、そのことを行なうことの重要性が分かります。その重要性が分かると人は、本気度合いが変わります。だからこそ、そこで生まれる「愛」の大きさが変わります。そして、「愛」が大きければ大きい程、神々と共に働きやすくなります。

衣服を創るという行為の意味は、「光」と「闇」という観点、「気」の観点を持たずに真に理解することは不可能です。そして、現代は「光」と「闇」という観点と「気」のことを忘れているが故に、ファッションの意味を見失っています。そして、意味を見失ったことによって、「愛」を抱きながら服を創ることができなくなり、「欲望」で服を創る傾向があります。そうすると、悪魔に関与されやすくなり、悪魔が人間に着せたいものばかりが生まれるという現状が生まれています。このような流れによって、今のファッション全体が「闇」の傾向を持つことに至っています。

 

ここでは、様々なジャンルのデザインについて少しずつ触れました。最も重要なのは自然界のデザインです。何故ならば、自然の景色、動物、植物のデザインは神々のデザインだからです。その次に重要なのが、人間の創ったデザインです。そのデザインが神々と悪魔のどちらが創ったのかを分析することが非常に大事になります。

私は絵画の歴史、今のファッションシーンやメイクシーン、建築史に詳しい訳ではなく、今分かっていることも限られています。ですから、今後それらのことを調べながら、そこで分かったことをその都度書いていく形だと思います。

ですから、デザインについての話は果てしなく続いていくと理解して頂けると幸いです。今までは、歌手や映画のことを取り上げることが多かったですが、これらは時間表現です。それに対して、デザインは視覚表現です。そして、それら全てに神々と悪魔は多く関わってきました。ですから、デザインについて、デザインが持っている意味を書いていく必要はあります。このホームページのデザインについての文章はそのように位置づけて頂けると幸いです。

人間は神々と悪魔のことを忘れてしまいましたが、意識していないにしても多くの作家は神々や悪魔と共に働いてきました。ですから、神々や悪魔が創った多くの重要な物や作品は既に生まれています。しかし、それを神々や悪魔が創ったという観点を今の人間は持っていないが故に、それらの物や作品が持っている意味を人間は言語として理解することには至っていません。このホームページで書いていることは神々や悪魔が創ったものの持つ意味についてです。

度々書いてきましたが、これからの聖典は今までに生まれてきた様々な作品であるべきです。それは芸術作品だけではなく、ファッションやメイクなどの様々な表現も含まれます。神々が創ったものには我々人間に対する多くの教えが込められ、悪魔が創ったものには我々人間に対する多くの罠が込められています。ですから、神々が作品に込めてきた教えと悪魔が作品に込めてきた罠を理解するならば、我々は「光」と「闇」に関するルールや、神々と悪魔がどういった魂なのかを理解することができます。そういった大きな視点の中で、デザインに関する様々な文章を読んで頂けると幸いです。

 

※この記事は2016/11/9に最初に投稿、2016/11/11に更新しています。