ここでは「ずる賢さ」について説明していきます。「闇」の立場の人間は、「自分のため」に生きているために、他者を「自分のため」の道具として考え、それが原因で「わがまま」になっていくということは、こちらで説明しました。

・「わがまま」について
http://junashikari.com/word/「わがまま」について/

しかし、「闇」の立場であって「わがまま」ではない人の中には、人間関係を自分の「思い通りにする」ためにうまく他人と付き合っている人も多くいます。これが「ずる賢い」人です。根本的には「闇」の立場ではあるために、自分のために相手を利用するのですが、「わがまま」とは思われないように工夫を行ないます。そして、その工夫のために「ずる賢さ」を使います。

重要なことは、「自分のため」の「賢さ」は全て、「ずる賢さ」であるということです。あまりにもそういった人が多いために、我々はもはやそういう態度を「ずる賢さ」とも思わず、単純に「賢さ」だとも誤解する傾向があります。「賢さ」とは「光」のためにも「闇」のためにも使うことができ、「光の賢さ」と「闇の賢さ」に分けて考えるべきです。そして、「闇の賢さ」が別名「ずる賢さ」と言われます。

そういった「ずる賢さ」を持った人は、相手を自分のことを好きにさせるためにお世辞を言ったり、相手に好かれるように自分の表情を作ったり、本当は思ってもいないのに話を合わせたり、自分のことを大きく見せるために話を盛ったりします。相手に好かれることは自分にとって気分がいいことですし、相手が自分のことを好きになってくれたり、自分のことを尊敬すると、自分にとってその相手とは都合のいい存在となります。「闇」の立場の人間は意識的にも無意識的にもそういったことを行なっています。

そして、これらは全て「自分のため」の「嘘」です。「闇」の立場であって、「わがまま」ではなく、「ずる賢さ」を持った人とは「嘘つき」であることが多いです。しかし、現代はお世辞、表情を作ること、思ってもいないのに話を合わせること、話を盛ることなどが「嘘」とは思っていないがために、本人も「嘘付き」である自覚がありません。「嘘」とは自分が思っていないことを相手に表現することです。それは言葉でも、表情でも、何でも構いません。ですから、お世辞も、表情を作ることも、思ってもいないのに話を合わせること、話を盛ることは全て、紛れもない「嘘」です。

「闇(自分のために生きる)」の立場の人間でありながら、「わがまま」ではない人の中には、こういった「ずる賢さ」を持った人達がいます。こういった「嘘」を付くためには「ずる賢さ」が必要です。逆に言うと、こういった「嘘」を付けるようにするために、人は「ずる賢さ」を手に入れていきます。そして、こういった「嘘」をついて生きていくと、楽に生きていけます。だからこそ、全体的に皆が「ずる賢さ」を手に入れていく傾向があります。

自分の本音で生きていくことは大変です。場合によっては人から嫌われることもあります。それに対して、周りに合わせて生きていくと非常に楽です。嫌われもしないし、むしろ好かれやすいからです。だからこそ、皆「自分のため」に周りに合わせていくようになっていきます。そして、そういった人があまりにも多いために、現代人はそれが「ずる賢い」とも、もはや思いません。しかし、それは紛れもなく「ずる賢さ」です。何故ならば、「自分のため」に相手に「嘘」を付いているからです。

「自分のため」に相手に「嘘」を付いていると言うと、それは「ずる賢い」と考えられると思います。しかし、現代人は自分の心を見つめないが故に、自分が心の中で何をやっているのかが見えないようになってしまっています。だから、それが「ずる賢さ」であることにも気付けません。そして、お世辞、表情を作ること、思ってもいないのに話を合わせること、話を盛ることなどが「嘘」とも思っていません。どうしてこれが「嘘」と思えなくなってしまったかというと、これも我々が自分の心を見なくなってしまったためです。


また、どうして我々が「ずる賢さ」に気付けないのかというと、これは言葉の問題でもあります。現代人は「ずる賢さ」を「賢さ」や「スマート」という言葉で言う傾向があります。このことが大きな罠となっていて、我々が「ずる賢さ」を分からなくなってしまった大きな理由です。

「ずる賢い」と言わず「賢い」と言えば、聞こえがよくなります。「スマート」という言葉の方が、人によってはより聞こえがいいかもしれません。このような形で我々は「ずる賢さ」と言わず、それを別の聞こえのいい言葉で置き換えることによって「ずる賢さ」が価値のあるものとして感じるようになってしまっています。そして、それが「ずる賢さ」であることにももはや気付くことができなくなっていきます。

「本当にあの人はスマートですよね」と言うと、人はその人のようになりたいと思います。「尊敬」の気持ちが込められているからです。
「本当にあの人はずる賢いですよね」と言うと、人はその人のようになりたいとは思いません。「軽蔑」の気持ちが込められているからです。

しかし、実際は「自分のため」の「賢さ」は全て「ずる賢さ」です。それを「賢い」と言おうと、「スマート」と言おうと、本質は「ずる賢さ」になります。

今は皆が「自分のため」に生きており、真に「他人のため」に生きている人が少ないために、「賢さ」の具体例がほとんど「ずる賢さ」になってしまっています。だからこそ、「賢さ」自体がほとんど「ずる賢さ」にすり替わってしまっています。

言葉とは、いつも具体例に対して向けられるものです。例えば、この世界に「愛」が無くなれば、「愛」という言葉が一体何を意味するのかは我々には決して分かりません。それと同様に、「自分のため」の「賢さ」というものばかりで、「相手のため」の「賢さ」というものが無ければ、いつしか「賢さ」という言葉は全て「自分のため」の「賢さ」=「ずる賢さ」になってしまいます。こういったことが今実際に起こっています。

「相手のため」の「賢さ」を実践している人があまりにも少なく、「自分のため」の「賢さ」を実践している人があまりにも多いために、「賢さ」という言葉自体が「自分のため」の「賢さ」=「ずる賢さ」を意味しているように我々は無意識に思えてしまっています。これは非常に大きな罠ですから、今後この罠に引っかからないようにして頂ければ、と思います。


御自身が、「自分のため」に相手を欺いている時、それが「ずる賢さ」であることを自覚して頂ければ、と思います。そうでなければ、気付かない内に魂が「闇」に堕ちてしまいます。誰しも、自分のことを「ずる賢い人間」とは思いたくもありません。だから、自分の「ずる賢さ」を「認める」ことは非常に大変なことだと思います。しかし、問題を認識しない限り、その問題を乗り越えることは非常に困難です。ですから、より良い人間に、「光」の立場の人間になりたいと思う方は、そういった「認める」努力をして頂ければ、と思います。

こういった自分の否を「認める」ことが魂の闘いです。こういった闘いの中で我々は、自分の魂の本当の「強さ」を養っていくことができます。こういった闘いを行なわないという「選択」を行なうのであれば、そういった方はこの時点で「闇」を選んでいることになります。なぜならば、厳しく聞こえるかもしれませんが、自分の悪い部分を改善しようとする「意志」の無い人間は、「光」に寄ることはできないからです。

また、この文章を読んだ時に、自分の「ずる賢さ」を認めずに、私に対して「疑い」を抱くことも非常に簡単なことです。しかし、真の「賢さ」を持ってすれば、こういった「ずる賢さ」の話が間違いなく正しいことであるということは理解できます。なぜならば、「他人を自分のために欺くこと=ずる賢さ」ということを書いているに過ぎないからです。

我々に必要なのは「強さ」と「賢さ」です。我々は自分の否を「認める」過程の中で、誰かのために何かを全力で行なっていく中で、「強さ」を養っていくことができます。そして、こういった文章を理解しようと努力する中で、自分の心を真に見つめながら生きていく中で、何が正しいのかを自分自身の力で必死に考えていく中で、誰かのために全力で思考を使うことによって、愛する人と真に理解し合うために話し合うことによって、「賢さ」を手に入れていくことができます。

「強さ」も「賢さ」も本当の「愛」があれば養うことができます。何故ならば、本当に「愛」する者を本気で「幸せ」にするためであれば、我々はどんな魂の闘いでもできるからです。だからこそ、逆に言えることは、我々が「強さ」を失い、「賢さ」にも欠けているのは「愛」が足りないからです。全ては我々が「愛」を失ったことにあります。

「愛」が無ければ、魂が「光」に向かう動機を強く持つことはできません。ただ、魂が「光」に向かう中で、自然と「愛」は生まれてくるものでもあります。自分が誰かを「愛」しながら、その人を「幸せ」にするために、自分の魂を「光」へ寄せていくこと。魂が「光」に満ちていくからこそ、「愛」を強くしていくこと。この双方の連鎖の中で、その人自身が「光」に満ち、周りの人も「幸せ」にすることができます。

そういったことが我々の生の理想の形です。今の現状はあまりにもそこから遠いですが、一歩ずつ進んでいくしかないと思います。そのためにも、いつも文章を通して、皆さんに伝えようとしています。

我々の生の一瞬一瞬は大きな大きな魂の闘いです。そこで闘わなければ、魂はどんどん「闇」に堕ちてしまい、大事なことが分からなくなってしまいます。ですから、どうか全力で闘って頂ければ、と思います。

本当のことは非常にシンプルです。しかし、そのシンプルなことを真に理解するためには、様々なことを考え、様々なことを経験し、自分の心を真に見つめなければなりません。こういったことが「理解」できたとしても、他人の問題のようにこのことを考えていては「気付き」にはできません。そして、「気付き」を得ない限り、実践はできません。真に自分の問題として受け入れ、そのことを胸に生きていくことが真の「気付き」です。どうか、「理解」ができた後は、魂の「気付き」にして頂ければ、と思います。