ここでは比喩について書いていきます。比喩について理解することは非常に重要なので、御理解頂けると幸いです。

比喩を使ったり聞いたりする時に最も重要なことは、比喩の対象となっているものとその比喩が明確に対応しているかどうかを吟味することです。このことをしなければ、比喩として成立していない比喩を使ったり、比喩が成立していない説明を鵜呑みにすることに繋がります。

比喩とは、何かを説明する時の例え話です。その例え話を通して、ある事を説明したい時に使います。だから、比喩が比喩として成立していないということは、例え話が例えになっていないということを意味します。しかし、それが比喩になっていないことに気付かないと、説明としていい加減なものであることに気付けず、その比喩を通して話し手が言いたいことを鵜呑みにしてしまいます。比喩を使う人も、比喩が比喩として成立しているかどうかを吟味しない限り、誤った比喩を通して自分自身に誤ったことを信じ込ませたり、他人に間違った説明をすることになります。

以下、このことについて具体例を書いていきます。


【比喩として完全な比喩】

以下の例文は比喩として成立している文章です。

「事前の準備がいいかげんだと、現場でミスが生まれやすい。それはまるで、靴ひもをしっかり結んでいないと、走っている時に靴ひもが解けやすいように。」

この文章を理解し、この文章が正しいかどうかを見極める上で重要なことは、比喩の対象となっていることと比喩の対応関係を明らかにすることです。この文章は分解すると以下のようになります。

    準備               現場
事前の準備がいいかげん    → 現場でミスが生まれやすい
靴ひもをしっかり結んでいない → 走っている時に靴ひもが解けやすい

ということになります。「それはまるで〜〜ように」という表現はこの文章が比喩であることを示す言葉です。

「事前の準備がいいかげん」であることも「靴ひもをしっかり結んでいない」であることも、「準備」の意味で同じ意味「=」です。そして、「現場でミスが生まれやすい」ことも「走っている時に靴ひもが解けてしまう」ことも「現場」の意味で同じ意味「=」です。だからこそ、この比喩は比喩として成立していると言えます。

この文章をどのように受け取るかは人様々だと思いますが、

「事前の準備がいいかげんだと、現場でミスが生まれやすい」という真実を「靴ひもをしっかり結んでいないと、走っている時に靴ひもが解けやすいように」という比喩を使うことで、より重みを増している文章です。もし、ただ「事前の準備がいいかげんだと、現場でミスが生まれやすい」という文だけだとしたら説明としては薄い文になりますが、「靴ひもをしっかり結んでいないと、走っている時に靴ひもが解けやすいように」という比喩があることで、より重みを増しています。比喩にはこのような形で説得力を増す力があります。

もし、この対応関係が「=」でないと比喩としては成り立っていない比喩になってしまいます。しかし、そういった比喩としては成立していない比喩を正しいものとして受け入れてしまうと、誤ったことを信じることに繋がります。以下、そういったことについて書きます。

 

【比喩として不完全な比喩】

以下、比喩として不完全な比喩のことを書いていきます。例えば、ブルゾンちえみの以下のネタは比喩としては不完全ですが、その不完全さが「罠」となっています。短いので、一度ブルゾンちえみのネタを見て頂けると幸いです。
 


「え?元カレのことが忘れられなくて仕事に集中できない?ダメウーマン!」
「クミちゃんは、味のしなくなったガムをいつまでもいつまでも噛み続けますか?」
「新しいガム、食べたくない?」
「男はガムと一緒。味がしなくなったらまた新しいガムを食べればいい」

このことを先程の例文のように書き換えます。

「男から味がしなくなったら、新しい男を食べればいい。それはまるで、ガムから味がしなくなったら、新しいガムを食べればいいように。」

   欲望の対象          欲望の快楽
男から味がしなくなった  →  新しい男を食べればいい
ガムから味がしなくなった →  新しいガムを食べればいい

「男」と「ガム」は「欲望の対象」という意味で捉えるのであれば、同じ意味「=」です。しかし、「男」は生きているものであるのに対して「ガム」は生きているものではありません。ですから、本質的には「男」=「ガム」ではありません。しかし、相手の生を軽く考え、「自分のため」=「欲望」の道具として考えるのであれば、「男」=「ガム」と考えられます。

「愛」とは「相手を自分よりも大事と想う気持ち」のことであって「相手のために自分が何かをしたい」という気持ちに繋がります。それに対して、「欲望」とは「自分を相手よりも大事と思う気持ち」のことであって、「自分のために相手を利用したい」という気持ちに繋がります。我々はいつもこの「愛」=「相手のため」、「欲望」=「自分のため」という気持ちを振れています。

「愛」の立場は絶対に相手の生を尊重します。それに対して、「欲望」の立場は相手の生を尊重しません。これはそのまま、「男」と「ガム」と違うと考えるか、「男」と「ガム」を同じと考えるか、ということの違いになります。

こういった構造があるからこそ、ブルゾンちえみのこのネタの比喩を比喩として受け入れるのであれば、我々は無意識の内に「男」=「ガム」という思想を受け入れることになります。そして、このネタが非常に巧妙なのは「笑い」によって、こういった「罠」に気付きにくいということです。人が何かに笑うということはそのことに対して「共感」をすることに繋がります。もし「それは違う」といった「嫌悪」の気持ちで対象に向き合うのであれば、人は笑うことはできないからです。また、音楽を使うことによって、こういった問いを行なう隙を我々の意識に与えない点も巧妙です。

また、「男」=「ガム」と捉えると、異性というものは「味がしなくなる」ものだという発想を無意識に受け入れる事に繋がります。これは「欲望」の立場で恋愛をするのであれば真実ですが、「愛」の立場で恋愛をするのであれば真実ではありません。何故ならば、「飽き」とは「欲望」に起こるものであって、「愛」には起こらないものだからです。「飽き」とは何なのかについては、以下の文章を読んで頂けると幸いです。

http://junashikari.com/emotion/飽きについて/

この比喩は、この比喩が比喩として成立しているとも言えますし、成立していないとも言える比喩です。そして、これが比喩として成立しているかどうかを決めるのは聞き手です。比喩として受け取るのであれば、知らず知らずに「闇」を選ぶという構造になっている例になります。こういったケースは非常によくあるので、注意をして頂ければ、と思います。

 

【比喩として間違っている比喩】

比喩としてそもそも成立していない比喩を、比喩として受け入れるのであれば、人は間違ったことを信じることになります。これもブルゾンちえみを例に取り上げたいと思います。
 


このネタの構造を整理すると以下のようになります。

このことを先程の例文のように書き換えます。

「遊ばないと人は乾いてしまう。それはまるで、花に水を注がないと乾いてしまうように。」
「人間は短い睡眠でも大丈夫。何故ならば、キリンの平均睡眠時間は1.9時間だから。」

花の水が不足   →  乾いてしまう
人間の遊びが不足 →  乾いてしまう

「花」と「人間」は明らかに異なるものなので、この比喩は比喩として成立していないことは明らかです。そして、「キリン」と人間も異なるものなので、キリンが1.9時間睡眠だからといって、睡眠時間を削ってもいいという比喩も誤っています。

睡眠は「闇の気」の浄化のために我々は行なっています。ですから、睡眠時間が短いと「闇の気」が浄化されにくくなり、悪魔の「闇の気」が体に溜まり、悪魔からの影響が強まります。また、このネタの「遊び」も異性を「ガム」と考えることも「欲望」のことを意味していますが、「欲望」と同調するのであれば、人間は悪魔からの「闇の気」をより強く受け取ることに繋がります。

ブルゾンちえみも自覚していない形で、彼女は悪魔によってネタを作らされ、人が「闇」に堕ちるための「罠」をネタを通して人間に伝えている芸人です。誰かから話を聞いて、それを信じるということは、我々にとって大きな影響を与えます。そこで「真実」を信じれば人はいい方向へ向かいますが、「闇」に堕ちることを促す発想を信じれば人は「闇」に堕ちていきます。

それは友達のアドバイスであっても、新興宗教の教祖の教えであろうと、ブルゾンちえみのような芸人のネタであっても、全く同じ意味を持っています。そして、芸人は「笑い」を使って、人々の「共感」を促す立場の人間になります。だからこそ、神々も悪魔も芸人の取り合いをかなり強く行なっています。芸人と言うと、現代人からすると軽い立場の人のように思えるかもしれませんが、実際は人々に大きな影響を与えることができる立場の人間であって、とても力のある立場になります。
 

人間が比喩とは何なのかということを意識化していない点や、芸人の言う事を軽々と受け入れる点を悪魔は利用し、比喩として成立していない比喩や、比喩と認めるのであれば「罠」に引っかかるような比喩のネタをブルゾンちえみに言わせている形になります。

ブルゾンちえみのネタはただのお笑いであって、それほどまでに重く捉えなくてもいいと思われる方も多いと思いますが、こういったネタで前提とされている「闇」の思想を無意識に信じてしまうことによって、本人が気付かないところで「闇」に寄っていることは多くあります。特に、これはテレビ放送なので、本当に「新しいガムを食べたい」と思うのと同様に、異性との付き合いを考えるきっかけを与えられる人は多くいると思います。

ブルゾンちえみのネタを見て、こういった「罠」に気付かなければ、このネタが持っている思想を覚えることに繋がります。そして、覚えていることはいつでも思い出す事ができるので、このネタの内容を覚えている限り、ずっと「罠」を持ったまま生きていくことになります。これはこういったネタに関わらず、ネット上の情報や友達から聞いた話など、ありとあらゆることが同様の意味を持っています。

そういった「罠」にはまらずに、「真実」を学んでいく必要があります。そして、一体何が「罠」であって、何が「真実」であるのかを判断するのは、一人一人の人間の心です。そういった判断を行なう時に知識は我々に物事をどう見るのかという観点を与えます。例えば、「光」と「闇」の観点を持っているかどうかということは大きな差を生みます。「光」=「愛」=「相手のため」、「闇」=「欲望」=「自分のため」という基本原則を踏まえて世界を見つめるだけでも多くの「真実」は見えてきます。

そして、「罠」に引っかからないようにする上で、比喩とは何なのかということを理解しておくことは非常に重要です。これは現代人が持たなければならない一つの知識です。何故ならば、本当に人間は比喩として成立していない比喩に騙されて「闇」に陥れられているケースはよくあるからです。

ブルゾンちえみの話が長くなってしまいましたが、とにかく、比喩というものが何なのかということを理解して頂けると幸いです。比喩で説明されている事柄と比喩の内容がちゃんと対応関係を持っていない比喩を我々が信じるのであれば、我々は簡単に誤ったことを信じる事態に陥ります。

そういったことを防止する方法は、比喩の説明をする時や聞く時に、その比喩が比喩として成立しているのか、対応関係を見定めることになります。これは誤ったことを信じないためにも、誤ったことを人に伝えないようにするためにも、とても大事なことなので、覚えておいて頂けると幸いです。