昨日書いた「教育」と「支配」の話について、少し別の書き方をしています。どちらから読んで頂いても大丈夫なように書いていますが、両方の文章を読んで頂けると、「教育」というものについて、理解を深めて頂けると思います。

・「教育」と「支配」
http://junashikari.com/other/「教育」と「支配」/
 

本当の「教育」とはその魂の「意志」を尊重し、その魂が成長することを助ける営みです。魂の成長はその魂がその魂の「意志」で何かを「選択」していくことによって生まれます。そういった「選択」を促すために、「教育」を行なう者は様々な物事の「意味」を教え、その魂が「選択」をしやすい状況を整えることを行なうべきです。これが本来の「教育」です。

しかし、今の日本人はこのような「教育」はしておらず、徹底的な「支配」をしてしまっています。「ああしなさい!」「こうしなさい!」と言って、相手に自分の言うことを聞かせていきます。これは「教育」ではなく、「支配」です。以下、「教育」と「支配」の関係性について、親が子に「優しさ」を教える例を使って説明します。

 

例えば、「人には優しくしなさい」と親が子供に教えるとします。これは「教育」ではなく、「支配」です。なぜならば、これは「〜しなさい」という「命令」であるからです。「命令」に従うのはその魂の「意志」ではなく、ただ従っているだけです。その場合、子は親の「奴隷」になっているに過ぎません。

「人には優しくするべき」と言う場合も同様になります。「〜するべき」という考え方は「義務」であって、理由無しの「義務」の「アイデア」はその魂を「支配」します。

理由無しに何かを「しなさい(命令)」「するべき(義務)」と教えるのは、魂の「選択」を促しているのではなく、「支配」しているに過ぎません。「〜しなさい」と教える場合は親の「命令」による「支配」、「〜するべき」と教える場合は「アイデア」による「支配」です。今の「教育」と呼ばれているものは、実際はこのような「支配」を行なっていることばかりです。

しかし、以下のように教えるのであれば、それは「教育」となります。母が子に教えるような口調で書きます。

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「優しさ」っていうのは、「相手のことを大事と想う気持ち」から「自然」と生まれる行動なの。もし、あなたが「相手のことを大事」と思うのなら、「素直」に心に従って「優しさ」を実践すればいい。この「相手を大事と想う気持ち」のことを「愛」と言うの。だから、「優しさ」とは「愛」の実践のこと。あなたが「愛」を持つ時、自然と「優しさ」は出てくる。「優しさ」は作るものではなく、出てくるものなの。

「素直」な「優しさ」じゃないとダメよ。「素直」じゃないということは、それは「嘘」になってしまうから。「嘘」で「優しさ」は実践できない。だって、「嘘」は基本的に「自分のため」に付くものだから。「相手のため」という気持ちが「愛」であって、「優しさ」で「愛」を実践している時にちょっとでもそれが「自分のため」だったら、それはもう「愛」ではないし、だからこそ、本当の「優しさ」でもないの。

「愛」とは「純粋」なものだから。「純粋」でない「愛」なんてあり得ないの。「愛」が「純粋」さを失った時、それはもう「愛」ではなくなる。本当に「相手のため」と思う時、私達は「自分のため」とは思えないの。それが「愛」なのよ。ちょっとでも「自分のため」であると「愛」ではなくなってしまう。「優しさ」も本当の「愛」によって生まれるものだから、「純粋」でない「優しさ」なんてない。「優しさ」が「純粋」さを失った時、それはもう「優しさ」ではなくなるの。

だから、「優しさ」を実践できるかどうかはあなたが他人に対して「愛」を抱くかどうか次第なの。そして、「愛」を抱くことは、勉強したからといって実践できるようなものではない。けどね、相手のことを考えれば考える程、相手のことを知れば知る程、「愛」は自然と生まれてくると私は思ってるし、私にとってはそうなの。「愛」がないと、相手のことを心から知ろうとは思えないんだけど、相手のことを知る中で「愛」が生まれてくることもある。だから、あなたが他人に対して「愛」を抱きたいのなら、相手のことをもっと知ろうと、その人とよく話すことがとても大事なの。

他人もあなたと同じように生きてる。色んなことを抱えながら皆生きている。だから、同じ生きている「仲間」として、他人もあなたも何ら変わりがない。私はそう思うの。そう思うと、自然と「愛」は生まれてくる。けど、あなたが他人を「仲間」と思えるかもあなた次第。全てはあなた次第だからね。

私はあなたに優しい子になってほしいと思ってるの。これは私の希望だから、あなたが自分でどういう人間になるのかを決めればいいのよ。あなたはきっとこれから色々なことを「経験」していく。その中でこういったお母さんの言葉の「意味」がよく分かるようになる。「経験」なしにこういったことは分からないの。

お母さんは、こういったことを知るために生きていると思ってるの。だって、生きてないとこういうことは学べないんだもの。お母さんもまだ学んでいる途中。けど、私が学んできた確かなことをあなたには教えたいと思う。お母さんが言うことに対して、あなたもたくさん質問してね。それがお母さんも成長させていくから。子供の方が大人より分かることもたくさんあるの。

お母さんに従う必要なんてない。あなたが正しいと思う道を進んでいけばいい。けど、お母さんの言葉はずっと覚えておいてね。それがあなたを助けることになるから。私はあなたのことを大事だと想ってる。あなたのことを愛しているからこそ、こういったことを教えたいと思う。こういった知識があなたのことを本当に助けるから。だからね、この会話が私のあなたに対する「優しさ」なの。今は難しいかもしれないけれど、このお母さんの言葉を少しでも覚えていてね。

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母という存在は子に対して「愛」を抱きやすい存在です。なぜならば、自分が確かに生んだ子であるからです。だから、母が子に何かを「教育」する時、その言葉自体に「愛」が込められます。それは、この文章を読んでいるだけでも感じると思います。だから、本来は親が子に「愛」を教えることは、他の人よりもやりやすいことです。「愛」を持って相手と接するだけで、相手は「愛」を学びます。だからこそ、家族というシステム自体が、「愛」を教え合うためにあります。

少し長い例になってしまいましたが、「命令」や「義務」を押し付けるのではなく、このように物事の「意味」を教えることが、本当の「教育」です。教える側はあくまで相手にどうなってほしいかを伝えるだけです。ここで言うと、「私はあなたに優しい子になってほしいと思ってるの」という言葉がそれを表しています。

「教育」は「真実」を伝えることによって、魂の「選択肢」の「意味」を教える行為です。「真実」ではなく、「間違ったこと」を教えるのであれば、それは魂に対する「呪い」をかけていることになります。何故ならば、「間違ったこと」を信じ込ませると、魂は誤った「選択」をし始めるからです。というか「間違ったこと」を信じ始めると「選択肢」自体がおかしくします。例えば、「優しさ」についてこういった説明をする親がいるとします。

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いいか、「優しさ」っていうのはな、相手が喜ぶことをすることなんだ。例えば、タバコが好きな奴にはタバコをあげればいい。そいつのタバコに火をつけてやると、そいつは喜ぶかもしれない。こういうのが「優しさ」っていうんだ。そしてな、「優しさ」っていうのは便利だ。相手が喜ぶことをすると、大抵の相手は自分のことを気に入ってくれる。そして、気に入ってくれると結構自分に良くしてくれる。世の中でうまくやっていくために大事なことは「優しさ」だ。成功したければ他人に優しくしなさい。他人に好かれたければ優しくしなさい。成功も人に好かれるのもいい気分だ。人生でいい気分を感じたかったらな、他人に優しくするんだ。これはマジで大事だから、よく覚えておくんだぞ。

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この「教育」は「呪い」です。決して「命令」でも「義務」でもないですが、「間違ったこと」を教えています。これは「優しさ」を教えているのではなく、「自分のための優しさ」を教えてしまっています。「自分のための優しさ」とは、それはもはや「優しさ」ではなく、「自分のための気遣い」のことです。「優しさ」と「気遣い」の関係性はここに詳しく書いています。

・風の感情について
http://junashikari.com/emotion/風の感情について/

しかし、子供がこの父の誤った「教育」を本当に信じると「優しさ」=「相手が喜ぶことをすること」として、学んでしまいます。そして、これは子供の「呪い」となります。そして、この「呪い」が様々な問題を生んでいきます。例えばこの子供が大人になって結婚した後、この誤った「教育」=「呪い」が原因で夫婦喧嘩になったりします。その夫婦喧嘩を書いてみたいと思います。

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妻「あなたは本当に自分のことしか考えてない。もっと私に優しくしてよ。」(「愛」を求めている)
夫「優しくしてるじゃないか。この前はお前が好きなあそこに連れていったし、誕生日プレゼントもお前が好きなあのブランドを買ってあげたじゃないか。」(「呪い」)
妻「そうだけど、、、あれは確かに嬉しかったけど、、、けど、私が求めてる優しさはそういうことじゃないの。」(「愛」を求めている)
夫「せっかく俺はお前が喜ぶように努力したのに、あれは無駄だったんだな。じゃあ、お前が言う優しさってどういうことなんだ?」(「嫌悪」)
妻「、、、それを言葉で説明するのは難しいんだけど、優しさって、、なんというか、、、もっと相手の温かさを感じることだと思うの。」(「愛」を求めている)
夫「俺はお前が喜ぶようなことを頑張ってやってるのに、それは温かくないって言うのか?」(「嫌悪」)
妻「いや、そういうことじゃないんだけど、、、言い方が悪かったかもしれない、、、ごめんね。。。もうこの会話は止めよ。あなたと喧嘩したくないし。」(「愛」)

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こういったすれ違いが重なり、離婚に至ったり、お互いの愛情がすり減っていく夫婦というのは実際とても多いと思います。妻は夫に「優しさ」を求め、夫は妻に「優しさ」を実践している気になっています。夫は「優しさ」=「相手が喜ぶことをすること」だと思っていて、妻は本当の「優しさ」を曖昧にしか理解していないが故に、夫が理解できるようにそれを言葉で説明できません。このことが原因ですれ違っている会話です。

この夫のように、大事な事柄に対して「間違った考え」=「呪い」を持っている人は多いですし、この妻のように、感覚では大事なことを分かっていても言語で表現できない人はとても多いです。だからこそ、我々の日常は非常な大事な会話ですれ違ってしまっています。そして、そういったすれ違いが関係性を壊していきます。決してこの二人は悪い人ではありません。しかし、「呪い」や「無知」によってこのようなすれ違いは生じます。

この男性の父が誤った「教育」をしなければ、この男性はこのような「呪い」を抱えませんでした。そして、妻が「優しさ」を言葉で表現できたのなら、夫の「呪い」を解くだけの説明ができました。どちらも、正しい「教育」を受けなかったが故にすれ違ってしまっています。

「呪い」という言葉は現代人にとっては遠いものに感じられます。しかし、「呪い」は非常に我々にとって身近なものです。我々は自分の考えを抱えていく中で、自分を形成していきます。その自分の考えが「間違ったこと」である場合、それは「呪い」であって、この男性のように人生全体が狂っていきます。また、この夫婦のように、自分が持っている「呪い」によって、自分だけでなく、自分にとって大事な人を傷付けてしまいます。本当に、我々人間はこのようなことばかりを行なっています。我々人間の多くは「愛」=「相手のことを大事だと思う気持ち」という、この生において最も基本的なことも言葉で言えなくなってしまっているので、こういったすれ違いは非常に多いです。

「呪い」を防ぐためにも、正しいことを子供に教えるためにも、「教育」をする者は「真実」を知らないといけません。少なくとも、「間違ったこと」を教えることが、教えられる魂にとって如何に有害なことであるのかを理解しないといけません。我々は「教育」の危険性を全然理解していません。だからこそ、我々は「教育」と呼びながら実は「支配」を行ない、「呪い」をかけ合っています。

教える側にも教えられる側にも必要なのは「賢さ」です。「賢さ」が無ければ何が「真実」で何が「間違ったこと」かを見分けられないからです。「賢さ」とは様々なことを的確に「問う」能力のことです。「暗記力」などとは異なります。しかし、今の日本の教育は「問う」能力を養うのではなく、ひたすらに「暗記力」です。「暗記力」さえあれば、大抵の大学には入ることができます。だからこそ、魂の「賢さ」が養われず、「賢さ」に欠けた人間が互いに間違ったことを教え合うからこそ、社会全体が「呪い」に満ち、狂っていきます。

「賢さ」は、魂が「光」か「闇」かとは関係ありません。どんなに「愛」に満ちた「光」の魂であっても、「賢さ」が欠けていると誤ったことを人に教え、他人に「呪い」をかけてしまいます。そういう意味で、本当の「愛」を持っているのであれば、「愛」を実践できるように「賢さ」を養っていくべきです。そうでなければ、自分の「愚かさ」が故に相手を傷付けてしまうからです。真に「光」の立場で生きたいのであれば、「賢さ」は絶対に養っていく必要があります。そういった「光」と「賢さ」の関係性も人間はもっと意識していくべきです。

そういう意味で、「謙虚」な人間とは「教育」に向いています。なぜならば、「謙虚」な人間はよく自分自身や様々なことを「問う」からです。だからこそ、「謙虚」な人間は「問う能力」=「賢さ」を養っていけます。だからこそ、「謙虚」な人間は「真実」をよく教え、「間違ったこと」をあまり教えません。上の例の母の言葉はそういう意味で「謙虚」に書いています。それに対して、父の言葉は「傲慢」に書いています。「傲慢」な人間はあまり「問う」ことをせずに、自分が正しいと思いがちだからです。だからこそ、「傲慢」な人間はよく間違った「教育」を行ないます。

 

[まとめ]

「教育」とは様々な「選択肢」の「意味」を相手に伝えることであって、その「意味」は「真実」でなければなりません。それぞれの「選択肢」の「意味」を適切に教えることで、その魂が「選択」しやすい状況を整えることが「教育」です。それに対して、ある「選択肢」を無理矢理選ばせるのが「支配」であって、これは「教育」ではありません。「命令(〜しなさい)」や「義務(〜するべき)」の考え方は、この「支配」に相当します。また、「選択肢」の誤った「意味」を教える行為は「呪い」を使った「支配」です。

この文章の例だと、「優しさ」というのが「選択肢」であって、母親は「優しさ」の「意味」の「真実」を教え、父親は「優しさ」の「意味」の「間違ったこと」=「呪い」を教えています。母親に「優しさ」を教えてもらった子は、その後「優しさ」をより深い意味で「選択」できるようになります。なぜならば、「優しさ」の「意味」を知っているからです。それに対して、父親から「呪い」をもらった子は、その後、歪んだ「優しさ」を「選択」していくことになります。なぜならば、「優しさ」の「間違った意味」を学んでしまったからです。つまり、「優しさ」という「選択肢」自体が歪んでしまいます。

このような「呪い」を防ぎ、正しい「教育」を行なうために必要なものは「賢さ」です。何故ならば、「賢さ」が「真実」と「間違っていること」を見分けるからです。「賢さ」とは「問う」能力のことです。そして、「問う」能力は「謙虚さ」によって養うことができます。だからこそ、我々に必要なのは「謙虚さ」であるとも言えます。

「教育」に関する、このような構造をこの文章から理解して頂けると幸いです。そして、正しい「教育」を実践していって頂ければ、と思っています。