「闇」が存在しなければ、真に「光」を学ぶことはできません。
「闇」を経験することによって、「光」の「価値」を真に知ることができるからです。

「闇」が無ければ、強い「光」を強く実践することもできません。
「光」を強く実践することによって、魂はより強い「光」を抱えていきます。
 

「光」が存在しなければ、真に「闇」を学ぶことはできません。
「光」を経験することによって、「闇」の「旨味」を真に知ることができるからです。

「光」が無ければ、強い「闇」を強く実践することもできません。
「闇」を強く実践することによって、魂はより強い「闇」を抱えていきます。


世界が「闇」に満ちてしまうと、「光」が何であるのかが分からなくなります。
なぜならば、「光」を経験できなくなるからです。
そうなってしまうと、「光」を学ぶことができなくなります。

世界が「光」に満ちてしまうと、「闇」が何であるのかが分からなくなります。
なぜならば、「闇」を経験できなくなるからです。
そうなってしまうと、「闇」を学ぶことができなくなります。

 

そして、神々は真に「光」を選んだ魂達であり、悪魔は真に「闇」を選んだ魂達です。
人間はまだ、神々程にも「光」を選べず、悪魔程にも「闇」を選べない、未熟な魂です。

 

神々は人間に対してこう思います。

「闇が勝ってしまえば、人間が光を分からなくなってしまう。」
「光が勝ってしまえば、人間が真に光を学ぶことができなくなる。」
「だから、勝っても負けてもならない。」


悪魔は人間に対してこう思います。

「光が勝ってしまえば、人間が闇を分からなくなってしまう。」
「闇が勝ってしまえば、それは面白くない。」
「だから、勝っても負けてもならない。」


だからこそ、「光」と「闇」は永遠に闘い合わなければなりません。
そして、決してどちらかが勝ってしまうわけにはいきません。

この宇宙とはそういう場です。
この宇宙で新しく生まれてくる魂達は輪廻転生の中で
この「光」と「闇」の闘いの中で
自分が「光」と「闇」のどちらを選ぶのかを決めていきます。

 

映画『ダークナイト』は、神々が「光」と「闇」の関係性を表すために創った作品です。
この映画において、バットマンとは神々の象徴であり、ジョーカーとは悪魔の象徴です。

バットマン役のクリスチャン・ベールは神々とチャンネリングをして演技を行なっています。
ジョーカー役のヒース・レジャーは悪魔とチャンネリングをして演技を行なっています。

だから、我々はこの映画を見ることで、神々と悪魔のことを見ることができます。


ジョーカーが最後にバットマンに対して言います。

「お前に俺は殺せない。まるで見当違いの正義感が邪魔して。」
「俺もお前は殺せない。せっかくのおもちゃだからな。」
「どうやら永遠に闘い続ける運命だぜ。」


このジョーカーの言葉とは「闇」側から、「光」と「闇」の「永遠の闘い」を表した台詞になります。
ジョーカーは真に「闇」を選んだ魂であるからこそ、「光」のことを「まるで見当違いの正義感」と言います。
「光」と「闇」のどちらかを選んだ時、相手のことを間違っていると考えるようになるからです。

この映画は「光」と「闇」の関係性を学ぶ上で非常に素晴らしい教科書のような映画です。
そして、この最後のジョーカーの言葉とは「光」と「闇」の関係性を最もよく表しています。


この映画は、神々とこの映画製作者が生んだ光側の非常に有効な一手の意味を持っています。
この映画自体が「光」と「闇」の闘いにおける「光」側の成功例です。なぜならば、この映画とは、

「光」と「闇」の関係性を見えないように人間を「支配」していった悪魔の攻撃に対して、
「光」と「闇」の関係性を見えるようにするための神々の人間に対する「導き」だからです。

このようにして、「光」と「闇」はお互いに闘い合っており、時代が変化する中で闘い方を変えています。

 

今の地球は「闇」に満ちているからこそ、「光」が何であるのかが分からなくなってしまっています。
ほとんど「闇」が勝っているとも言える状態にあります。

「闇」に満ちてしまうと、「光」が無くなり、「闇」も「闇」と感じなくなります。
その内に「光」と「闇」の関係性自体を忘れていきます。

これ以上、このまま地球が闇の方向に向かうのであれば、我々の魂はより「闇」に満ちていきます。
そのことによって、我々は「幸せ」を見失い、この星に生きる他の命を傷付けていきます。

そして、それを見る神々は酷く苦悩します。なぜならば、我々を愛しているからです。
悪魔としては、あまり面白くなくなっていきます。なぜならば、圧勝はつまらないからです。

 

だからこそ、今を生きる人間は全力で「光」を実践していく必要があります。

それは御自身のためであり、
それは隣にいる誰かのためであり、
これから生まれてくる子供たちのためであり、
我々の弟妹に当たる動物達のためであり、
植物や海の生き物といったこの星に生きるその他全ての命のためであり、
我々の親であり、兄や姉に当たる神々のためであり、
我々を苦しめる悪魔達のためでもあります。

つまり、太陽系に生きる魂全員のために、今の時代を生きる人間は努力する必要があります。

 

神々はいつも全力を尽くしています。何故ならば彼らは強い「愛」を持っているからです。
悪魔は面白くて手を緩められません。何故ならば彼らは強い「欲望」を持っているからです。

だから、現場にいる我々人間が頑張るしかありません。
神々も悪魔も持てる力はかなり出しています。
それに対して、人間は全然本気を出していません。

 

この時代の地球は、客観的に見て、それぞれの魂が「光」を選ぶか「闇」を選ぶかという状況ではありません。
「光」を選ばざるを得ない時代です。

「光」を選ぶことを強要することなどできませんし、私自身この言い方は嫌なのですが、
事実としてはそのような状況にあります。


「光」の立場の魂は苦しんでいる命のために、「光」を強く実践すべきです。
なぜならば、他者を大事に想うのが「光」であって、苦しんでいる魂は山のようにいるからです。

「闇」の立場の魂は今後も「闇」を楽しめるように、「光」を強く実践すべきです。
やり方によっては、「光」のために「闇」を使うこともできます。それはきっと面白いです。

 

この地球において、最も大きな問題は核の問題です。
核兵器や核原発がこの地球という場を終わらせようとしています。

地球という場が無ければ、「光」も「闇」も実践できません。
そして、核を使おうとする勢力は「闇」です。
だからこそ、「光」を強くしていかなければなりません。


核の問題はこの地球が直面しているあまりにも大きな問題であるにも関わらず、
我々人間の核に対する意識はあまりにも希薄です。

何故ならば、「光」「闇」以前に我々人間があまりにも「愚か」だからです。
「賢さ」さえあれば、「光」にとっても「闇」にとっても、あまりにも核の問題は都合が悪いということは分かります。

しかし、我々は「愚か」であるが故に、そのことに気付くことができていないですし、意識も低いままです。
だから、本当に我々に必要なことは「光」「闇」以前に「賢さ」を手に入れていくことかもしれません。

 

私は「光」の立場の魂なので、誰かのためにいつも全力を尽くしています。
そういった気持ちで生きて、全力を尽くしていくだけで毎日は過ぎ去っていきます。

だから、こういう目線ではあまり眺めていません。
この文章の視点とは「光」と「闇」の中立の視線であるからです。

「光」か「闇」に属してしまうと、こういった目線で「光」と「闇」は俯瞰はしづらくなります。
そして、我々はいつも知らず知らずに「光」か「闇」のどちらかに属します。

 

しかし、現状は本当にこのような状態です。
我々人間が「光」をやっていかなければならないということは、事実としてあります。

 

物事をどのような動機で進めていくかということは人によって異なります。
私は「愛」で動くタイプの魂です。何故ならば、私は「水の人」だからです。

それに対して、「自分が信じること」のために動くというタイプもいます。これを「土の人」と言います。
「土の気」は「光の気」の中で、唯一その「気」の中に「愛」が含まれていない「気」です。

・土の感情について
http://junashikari.com/emotion/土の感情について/

この文章は「土の人」を強く意識して書いています。
「土の人」にとって、何が正しいかということが最も重要です。

だからこそ、「光」と「闇」を俯瞰して、客観的な事実をここでは書いています。
その事実を通して、「どう考えても今の時代は光を実践することが正しい」ということを伝えようとしています。

我々日本人は「土の気」はそこまで少なくありません。
なぜならば、「愛」のために動いている人は少なくても、「自分が信じること」のために動いている人はいるからです。

「自分が信じること」のために動く人間にとって大事なことは、何が正しいかということを理解することです。
土の人がこういった文章を読み、強く動き出してくれることを願いします。


そして当然、土の人だけに限らず、全ての人が今の現状を正しく理解し、動き出して頂ければ、と思います。
「愛」のためにも、「何をすべきか」という観点からも、我々が「光」を強く実践すべきことは明らかです。

誰かのために何かをすることに間違いなどあるわけがありません。

「愛」の観点からも、「何をすべきか」という観点からも、この時代において、この一行の言葉は真実としてあります。