「善」の中には、他人から「好かれる」ものもあれば「嫌われる」ものもあります。例えば、「優しさ」は「好かれやすい」のに対して、「厳しさ」は「嫌われやすい」です。

他人から「好かれる」ことは「楽」であるのに対して、他人から「嫌われる」ことは「楽」ではありません。だからこそ、「善」を実践する人も、他人から「好かれる善」は実践しやすいのに対して、他人から「嫌われる善」は実践しにくいところがあります。

しかし、世の中に必要な「善」の全てが「好かれる善」ではなく「嫌われる善」もあります。だからこそ、誰かが「嫌われる善」をやる必要があることは少なくないです。

「嫌われる善」の典型例が「説教」であり「問題指摘」です。人は自分のことを「否定」する相手のことを「嫌う」傾向が強いので、「説教」や「問題指摘」は「嫌われる」ことを促します。

しかし、ある「問題」を抱えている人に対して、誰かが「問題指摘」をしなければ、その本人は自分の「問題」を一生気付けない可能性もあります。こういう構造が生まれてしまうからこそ、「嫌われる覚悟」をしてでも「問題指摘」をする必要がある場面はあります。

ただ、「嫌われる善」を実践したことにより、実際に「嫌われる」ことが「問題」となることもあります。何故ならば、関係性の悪化が「問題」となることがあるからです。例えば、元々は素晴らしい親友だった2人が疎遠になってしまうことなどは「問題」です。

そういう観点で考えた時、そこまで関係の深くない誰かが「嫌われる善」を実践した方がいいことはあります。何故ならば、そういった関係性であれば、実際に「嫌われる」こととなり疎遠になったとしても「問題」ではないからです。

ですから、「嫌われる覚悟」を持てる人は、ここまでのことを計算して、「問題指摘」をすべきです。つまり、あの人が「問題指摘」をして「嫌われる」よりかは、自分が「問題指摘」をして「嫌われる」方がいいだろうと考える形です。

世の中には「好かれる」必要のある人もいます。例えば、ある組織のリーダーなどは「好かれ」ていた方が、チームとしての団結は深まります。だからこそ、二番手などがチームのために自ら「嫌われる覚悟」を持って、「問題指摘」を行なう「嫌われ役」に徹することなどが必要なことはあります。

このような形で、必要とあらば「嫌われ役」も務められるような精神性を多くの人が持つことが、全体としては非常に良いことを生み出すことに繋がりやすいです。

しかし、「嫌われる」ことを恐れがちな日本人は、なかなか「嫌われ役」を引き受けられる人も少ないです。「嫌われる善」を実践することはある意味「自己犠牲」ですが、「自己犠牲」ができる「善人」が減ってきていることを意味します。

「自分のため」ではなく「他者のため」に、今自分は「好かれ役」でいた方がいいのか、それとも「嫌われ役」になった方がいいのかを見定め、それぞれの人が適切に「好かれ役」「嫌われ役」を務めることで、全体としては良いことが起きやすくなります。

そういったことが理想ですし、今の現実からは遠い目標ではありますが、理想が何なのかを理解することは大事だと思います。この文章が、正しい「嫌われる覚悟」とは何なのかを考えるヒントになることを願います。