他人からの「評価」を「欲望」する心は我々人間にとって、身近な感情です。しかし、この心は様々な意味で危険な心なので、そのことについて解説していきます。


【「不要」なことや「問題」を生み出す】

「なめられること」に対して「嫌悪」をする人は少なくありません。つまり、自分を「過小評価されること」で「嫌悪」する人は少なくありません。これは言い換えると、他人から「評価されること」を「欲望」しているということでもあります。「欲望」と「嫌悪」は表裏一体だからです。

また、「尊敬されること」に対して「快楽」を感じる人も少なくありません。このことも、他人から「評価されること」を「欲望」しているということを意味します。「欲望」していることが実現した時に人は「快楽」を感じるからです。

他人から「評価されたい」と思う心は非常に危険な心です。何故ならば、その「動機」は「自分のため」の「欲」だからこそ、本質的には「不要」なことや「問題」を実践しやすいからです。自分を「なめている(過小評価している)」相手の考えを変えたり、自分が「尊敬」されるために自分の力を見せつけようとしますが、結局は「自分のため」なので本来「不要」なことをやりやすいです。

例えば、あるヤンキーが自分のことを「なめている(過小評価している)」相手に対して喧嘩をして、相手に深手の怪我を負わせてしまうようなケースなどは、その分かりやすい例だと思います。

他にも、自分が「評価」されるために、ライバルを蹴落とし、そのことで「不要」な「対立」という「問題」を生み出したり、といった形で、他人からの「評価」を「欲望」する心が生み出す弊害は様々です。
 

【この「欲望」が「偽善」を生み出す】

それに対して「愛」は「他者のため」を思うからこそ、本質的に「必要」なことをしたいと思いやすいです。それは「自分のため」に自分が「評価」されることよりも、「他者のため」を優先していることの表れでもあります。

「善」を実践することは結果的に他者から「評価」されることに繋がりやすいです。だからこそ、他者からの「評価」を得るために「善」を実践してしまう人もいますが、そうなると「偽善」に堕ちてしまいますし、「動機」が「欲」になると本来「必要」なことを実践することからも遠ざかりやすいです。

他者からの「評価」に繋がりにくい「善」を実践している場合は、このような「偽善」に堕ちてしまう可能性も低いのですが、「評価」に繋がりやすい「善」を実践している場合は、他人からの「評価」を得ようとする「偽善」に堕ちてしまわないように注意が必要です。