「負けず嫌い」は時によっては良い影響をもたらし、時によっては悪い影響をもたらすので、一概に「良い」とも「悪い」とも言い難い心です。

しかし、「負けず嫌い」はどのように使われるなら「良い」ものとなり、どのように使われるなら「悪い」ものとなるのかを深く理解することで、「負けず嫌い」を「良い」形で使うことができるようになります。

だからこそ、「負けず嫌い」の「可能性」と「危険性」を解説していきます。
 

【「負けず嫌い」の本質】

「負けず嫌い」は本質的に「自分のため」の気持ちだからこそ、「愛」ではなく「欲望」です。そして、「勝つ」ことを「欲望」するので、自分が「勝ち」を経験する時には「快楽」を感じ、自分が「負け」を経験する時には「嫌悪」を感じます。

だからこそ、「負けず嫌い」になっていくと、「勝ち」に対する「欲望」と「負け」に対する「嫌悪」の間を揺れ続けることになります。このような意味で、「負けず嫌い」は「欲望」と「嫌悪」を内に抱える気持ちです。
 

【「負けず嫌い」の「可能性」】

「負けず嫌い」は自分が様々な「能力」を獲得していくことや、その「能力」を発揮する上では役立つ場面はあります。というのも、「勝ちたい」という心が「能力」の獲得や発揮の大きな「動機」になり得るからです。

我々が「能力」を獲得したり発揮したりする上で必要なものは「動機」です。そのケースの理想的な「動機」は「愛」ですが、「愛」の「動機」を抱きづらい場面もあり、そういう時でも「負けず嫌い」が「動機」となることはあります。

例えば、スポーツ選手で考える場合、理想的には「チームのため」「仲間のため」「支えてくれた人達のため」といった「愛」の「動機」が好ましいです。しかし、個人競技で誰にも支えられず孤独に実力を上げてきたアスリートなどはこのような「愛」の「動機」を抱きづらいこともあります。ただ、そのような場合でも「負けず嫌い」は「動機」になり得ます。

このような意味で、「愛」の「動機」を抱きづらいけれども、自らが活躍すべき局面において、「負けず嫌い」は非常に有効に働くことはあります。

また、我々人間にとって、自分が活躍すべきか活躍する必要がないのかを見抜くことが難しいことは大変多いです。そして、そういった「意義」の部分が見えなければ、「活躍しなければならない」という「動機」を持つことは難しいです。

例えば、スポーツ選手で考える場合、そのチーム内で誰が活躍することが最も好ましいのかを選手の側が分かっていないことは多いです。だからこそ、「自分が活躍しなければならない」とも思いづらいのですが、最も活躍すべき選手が「負けず嫌い」を強く抱えている人物であれば、そのような「意義」が見えずとも活躍することの「動機」は大きいです。

つまり、「愛」や「意義」の部分で「動機」を固められるならそれが「最善」ですが、現実はその「動機」を持ちづらい場面もあり、そのような場面では「負けず嫌い」は非常に有効な「動機」として働きます。ですから、「負けず嫌い」を使うとしたら、このような三番目の位置付けで使うことが適切です。
 

【「負けず嫌い」の「危険性」】

「負けず嫌い」は「能力」の獲得と発揮に役立つことを説明しましたが、世の中には「能力」の獲得と発揮をすべきではない人もたくさんいます。

例えば、自分の金儲けのことしか考えておらず、不健康な食べ物を売って儲けようとしている人が「負けず嫌い」によって「能力」の獲得と発揮を強く行なうなら、非常に有害な結果を招きます。

このような意味で「善意」に欠けた人物が「負けず嫌い」と共に生きる時、非常に大きな「悪」になり得ます。これは「負けず嫌い」の持つ大きな「危険性」ですし、このような意味が分かると、「負けず嫌い」を使う人物が「善意」の豊かな人間であるべきであることも見えてきます。

また、心に「弱さ」を持つ人物が「負けず嫌い」を抱く場合も大変危険です。というのも、心に「弱さ」を持つ人間は自分が「負ける」ことによる「苦悩(嫌悪)」に心が負けてしまって、自分も他人も「不幸」にしていくからです。

例えば、芸人で考える場合、自分が「勝つ(売れる)」ことを「負けず嫌い」の心で目指し続けたにも関わらず、いつまで経っても「負ける(売れない)」ことを経験するなら、自分のその状況に耐えることができず、「自暴自棄」になることで自分を「不幸」にもしますし、そのことで周りの人も「不幸」にします。

このような意味で「弱さ」を抱える人物が「負けず嫌い」と共に生きる時、自分も他人も「不幸」にしやすい状況を作りやすいです。これは「負けず嫌い」の持つ大きな「危険性」ですし、このような意味が分かると、「負けず嫌い」を使う人物が「強さ」の豊かな人間であるべきであることも見えてきます。

「勝負」はいつも「勝てる」わけではなく、「負ける」時も必ずあります。そして、「負けず嫌い」を抱いていると「勝ち」の「快楽」も大きいですが「負け」の「嫌悪(苦悩)」も大きいです。だからこそ、その「苦悩」に耐えられるだけの「強さ」がない人間が「負けず嫌い」と共に生きることは大変危険です。

また、「負けず嫌い」は自分が「勝つ」ことを考えるので、自分以外の人間を「敵」と認識しやすいからこそ、本来「仲間」になるべき他者を「敵」と認識しやすいところがあります。特に、「愚かさ」を持つ人は、このような認識が故にマイナスなことを引き起こしやすいです。

例えば、スポーツ選手で考える場合、「負けず嫌い」の心でチームで一番になりたいと思っている人物が試合中に「負けず嫌い」によってチーム内のライバルにボールを回さなくなるとチームにとってはマイナスとなります。

このような意味で、「負けず嫌い」によって自分のチームの「負け」を自ら促してしまうことはありますし、「愚かさ」を抱えている人間はこのような意味で自分で自分の首を絞めることを行ないやすいです。このようなことが分かると、「負けず嫌い」を良い形で使うためには「賢さ」も必要であることも見えてきます。

「負けず嫌い」という「自分のため」の精神によって、ボールを独占しようとすることは「わがまま」とも言えます。「愚かさ」があるとこのような意味で「負けず嫌い」は「わがまま」な態度に繋がることも合わせて理解して頂けると幸いです。

以上を整理すると、「負けず嫌い」を使う上で必要な要素は「善意」「強さ」「賢さ」であり、「負けず嫌い」を使う上で危険な要素は「悪意」「弱さ」「愚かさ」ということです。
 

【最後に】

「負けず嫌い」の「本質」を深く理解して頂き、そのことによって「負けず嫌い」の「可能性」と「危険性」を理解して頂けると幸いです。

我々人間にとって「愛」と「信念(意義)」によって物事を実践していくことはとても良いことなので、まずはそれを実践できるように自分を「向上」させていくことが理想的ですし、それは王道です。

しかし、「愛」や「信念」の部分で「動機」を形成しづらいけれども「能力」を獲得・発揮すべき局面もあります。だからこそ、三番目の「動機」として「負けず嫌い」を使いこなせるようになるなら、より「善」は素晴らしい形で実践されます。

この文章で書いていることは現実やフィクションの人物について理解を深めることでさらに学びを深められます。

例えば、「負けず嫌い」に関する様々な「真実」を最も素晴らしい形で描いた作品の一つが『スラムダンク』ですが、「愚かさ」を抱える桜木花道は「負けず嫌い」が故に流川にパスをしません。こういうことが分かると、漫画の最後の部分で流川にパスを出すことの意味もより見えるようになります。

現実の世界で最も素晴らしい形で「負けず嫌い」を実践した人物の一人がマイケル・ジョーダンです。彼のドキュメンタリーなどを見て彼のことを知っていくと分かっていきますが、彼は人間離れした「負けず嫌い」を持つ人物です。しかし、彼は「善意」や「強さ」や「賢さ」も非常に豊かな人物だからこそ、「負けず嫌い」の「可能性」の部分を最大限に活かすことができています。

彼自身は彼が活躍することが本質的にどのような「意義」を持つことなのかを自覚していなかったはずですが、彼の動きは非常に意味の深い「表現」であって、その映像が膨大に残っています。その「表現」が我々に教えてくれることは非常に重要な意味を持っているからこそ、当時のチームメイトが点を取るよりもマイケル・ジョーダンが点を決める方が好ましかったわけですが、それを彼は「負けず嫌い」によって実践してきました。

「負けず嫌い」は「諸刃の剣」です。だからこそ、その「可能性」と「危険性」を理解することはとても大事なことですし、そのような理解を得ることで、「負けず嫌い」による「善」を増やし、「悪」を減らすことができます。