「誰かのため」に何かをすることの中にも「楽しいもの」と「苦しいもの」があります。この両者がどのような違いがあるのかを理解することは大事です。

「楽しい善」は「欲望」に近いのに対して、「苦しい善」は「嫌悪」に近いです。だからこそ、「楽しい善」を行なう時は「欲望」に注意し、「苦しい善」を行なう時は「嫌悪」に注意する必要があります。

つまり、「楽しい善」を行なっている時、「誰かのため」をそれを行なっているつもりが、無意識の内に「自分のため」にそれを行なうようになり、「善」が「偽善」にすり替わってしまいやすいです。それに対して、「苦しい善」を行なっている時、「自分のため」を思うが故に、その「善」を行なうことをやめやすいです。これは両者の「短所」です。

こういった構造が理解できてくると、ある程度「苦しい善」を行なっている方が、「偽善」に墜ちることを防ぎやすくなることが分かってきます。そして、「楽しい善」を行なっている方が「善」をやめにくくなることが分かってきます。これは両者の「長所」です。

「苦しい善」の方が「偽善」に堕ちにくいとは言っても、心に「弱さ」を抱えている人は「苦しい善」を行なうことが難しいです。それに対して、「楽しい善」を行なうことは心に「弱さ」を抱えている人でも行なうことがしやすいです。

理想的には、心に「強さ」を抱える人は他の人には行なえない「苦しい善」を行ない、心に「弱さ」を抱える人は「楽しい善」を行なうべきです。こういった構造が実現することで、世の中で実践される「善」は最も多くなるからです。

とは言っても、心に「強さ」を抱える人が「楽しい善」を実践する必要がある現場で、わざわざ「苦しい善」を行おうとするのは間違っています。それは優先順位を間違えていますし、「楽しい善」の「喜び」を学ぶ機会を逃しているからです。

また、心に「弱さ」を抱える人が「苦しい善」を実践する必要がある現場でも「楽しい善」を行おうとするのは間違っています。それは優先順位を間違えていますし、「苦しい善」によって「強さ」を養う機会を逃しているからです。

我々人間は他者との関係性の中に生きています。そういう中で「善意」を持ちながら生きていると、自ずと守りたい誰かは現れるもので、そういった誰かを守るために行なうべき「善」も自ずと向こうから現れます。

だからこそ、自分に行なうことのできる「善」をできるだけ増やす必要があり、「弱さ」などを抱えていることは、自分のできる「善」を限定させます。だからこそ、「苦しい善」でもできる人間になる努力を「他者のため」にすべきです。

そうやって生きていく中で、「楽しい善」でも「苦しい善」でも行なえる人格を形成し、その時に行なうべき「善」を行なうようにしていくことが、「善」を目指して生きる人間の王道です。