生きていると、我々はそれぞれの「意見」を持ちますし、色々な人の「意見」を耳にすることになりますが、その「意見」が「提案」なのか「押しつけ」なのかを見抜くことは非常に重要なことです。
 

【「提案」と「押しつけ」の違い】

本質的に自分の「意見」を言うことは「このような考え方もあります」という「提案」に過ぎません。何故ならば、その「意見」を相手に言ったとしても、相手がその「意見」を取り入れるか取り入れないかは「自由」だからです。

それに対して、同じ職場や家族の一員であると、その職場や家族の中でも上の立場にある人の「意見」が「強制力」を持つことがあります。そういう場面においては「不自由」が発生することはあります。例えば、職場や家庭での「規則(ルール)」などは、どのような「意見」によって成り立とうとも「押しつけ」です。

このような意味で、「提案」は相手の「選択」の「自由」を前提とするのに対して、「押しつけ」は相手の「選択」の「不自由(強制)」を前提としています。

この点を意識化することはとても大事です。何故ならば、他人が何らかの「提案」としての「意見」を「押しつけ」と「誤解」するケースは大変多いからです。
 

【「道徳」と「義務」】

「提案」としての「意見」が「道徳」に関する話である場合は、その「意見」を「押しつけ」と「誤解」することは多いです。何故ならば、「道徳」と「義務」の本質的違いが現代は常識化されていないからです。

本来「道徳」とは全て「提案」に過ぎません。何故ならば、本来「道徳」は「強制力」のある「義務」ではないからです。逆に言うと、「道徳」が我々を「強制」するならば、それはもはや「道徳」ではなくなります。

「道徳」はその本人が自らの「意志」で何を「選択」するのかを前提に成り立つものです。つまり、「道徳」はその本人が「善」を実践していく上での「道案内」に過ぎず、その「道」を実際に進むかどうかは本人の「意志」です。そもそも、「善意」の前提には「自由(意志)」があり、「善意」は「支配(強制)」によって生まれることはないからこそ、「道徳」が何かを「強制」することはありません。

しかし、「道徳」にせよ「義務」にせよ、「〜すべき」という言葉が使われるので、「道徳的」な意味で「〜すべき」という言葉を「義務」のように「誤解」しやすく、だからこそ、「道徳的」な「意見」を「押しつけ」と「誤解」しやすい構造があります。

「道徳」の意味で「〜すべき」という言葉が使われる時、その意味は「あなたが人として正しい道を歩みたいのであれば」という「前提」が常に入っています。それに対して、「義務」の意味で「〜すべき」という言葉が使われる時、その意味は「あなたがどんな道を進みたくとも」という「前提」が入っています。

つまり、「道徳的」な内容の「意見」は相手がその内容を実践するのか「自由」であるのに対して、「義務的」な内容の「意見」は相手がその内容を実践することを「強制」させるものです。このような違いが見えてくると、「道徳的」な内容の「意見」を「押しつけ」と「誤解」することは無くなります。
 

【「意見」を「押しつけ」と考えることの弊害】

心に「弱さ」を抱える人は、自分にとって都合の悪い「意見」を「否定」したいと思います。何故ならば、「弱さ」を抱える人は自分にとって都合の悪い「意見」を「受け入れられない」からです。だからこそ、その「意見」を「否定」するための「理由」を無意識に探します。

その一つの方法が、その「意見」を「押しつけ」と捉える方法です。「押しつけ」は良くないことだからこそ、「押しつけ」と捉えることで、その「意見」を「否定的」に捉えることができます。だからこそ、自分にとって都合の悪い「意見」を聞かなくてもいい「理由(口実)」を無意識に自分に与えます。

その「意見」を「聞くべき」と分かっていて「聞かない」よりも、その「意見」を「聞かなくてもいい」と思って「聞かない」方が、心は「楽」です。だからこそ、自分にとって都合の悪いことを「受け入れる」ことの「苦しみ」を避ける人は、その「楽」を選ぶとも言えます。

逆に、心に「強さ」を抱える人は自分にとって都合の悪い「意見」を「否定」したいとは思いません。何故ならば、「強さ」を抱える人は自分にとって都合の悪い「意見」も「受け入れられる」からです。だからこそ、その「意見」を「否定」するための「理由(口実)」を無意識にも探しません。

そして、その「意見」を「押しつけ」という形で「否定的」に捉えないからこそ、より「客観的」にその「意見」の内容が正しいかどうかという点を考えることができ、このような視野が自分に必要な「意見」を人生に取り入れる生き方を促します。

仮に相手の「意見」が「押しつけ」であったとしても、その内容自体が正しいかどうかを見極めようとすることも大事です。ですから、「押しつけ」と認識することによって、その「意見」の内容を「客観的」に見つめられないようになることが良い判断になることは大変少ないです。

「強さ」は「無意識」に我々を良い方向へ導き、「弱さ」は「無意識」に我々を悪い方向へ導きます。重要な点は、極めてそれが「無意識」である点です。「強さ」と「弱さ」のどちらかを心が選んだ瞬間に、次に自分の心にどのような動きが生まれるのかが決まってしまいます。このようなことが分かると、心で「強さ」と「弱さ」のどちらを選ぶのかということが極めて重大な選択であることが見えてきます。

そういった「強さ」と「弱さ」の本質を、この点はよく我々に教えてくれるので、この構造を意識化することは「強さ」の重要性を理解する上でもとても大事です。
 

【最後に】

他人の「意見」に触れることは、より良く生きることを促すきっかけにも、より悪く生きることを促すきっかけにもなり得ます。だからこそ、良い「意見」を見抜いていく必要があります。

しかし、心に「弱さ」を抱えていると、自分にとって都合のいい「意見」を取り入れ、自分にとって都合の悪い「意見」を取り入れない構造が生まれます。それは本当の意味で他人の「意見」に触れることとは全く異なりますし、「不幸」や「退化」や「破滅」へ向かっていく構造です。

また、そういう「弱さ」に負ける人が増えてくると、相手にとって都合のいい「意見」を言うことで自分が他人から支持されることを狙う人も出てきます。そして、心に「弱さ」を抱えていると、そういう人に心を「操作」されてしまいます。

他人の「意見」に触れることは、人生における一つの「勝負」の場面でもあります。心が「弱さ」に堕ちてしまえば、もはや相手の「意見」は聞けなくなりますし、「強さ」を維持することで、初めて相手の「意見」をちゃんと聞くことが始まるからです。そして、ちゃんと聞くことは相手の「意見」の真意を理解するための始まりに過ぎません。

SNSなどで、あまりにも気軽に自分の「意見」を発信できるような時代だからこそ、我々は「意見」自体を軽く見ることが心に染み付いてしまっています。その「軽さ」の「癖」を取り払うことから始めなければ、我々はお互いの「意見」によって首を絞め合ってしまうかもしれませんし、実際にそういうことはかなり起こってしまっています。

現代がそういう状況にあることを意識化して頂き、他人の「意見」に触れることが本質的に「重み」のある「勝負」の場面と認識することが「癖」になっていけば、良い形で他人の「意見」から良い影響を受けやすくなるはずです。