自分の「意志」によって何かをしている時、「私が〜をしている」という意識が生まれるのに対して、他者の「強制」によって何かをさせられている時、「私は〜をさせられている」という意識が生まれます。

そして、「意志」の意識は「ストレス」に繋がりにくいのに対して、「強制」の意識は「ストレス」に繋がりやすいです。何故ならば、「〜させられている」という「強制」は「嫌悪」の対象となりやすいからです。

自分の「意志」で何かをやっているにも関わらず、無意識にそれを「強制」されているように捉えてしまい、そのことによって「嫌悪(ストレス)」を抱えている人は非常に多いです。

例えば、自分自身の「意志」でその職場で働くことを選んだにも関わらず、「上司からこき使われている」といった形で「強制」の意識を持つといった形です。その人は仕事を辞める「自由」も持っているはずだからこそ、自分自身でその状況を「選択」しているはずで、そのような「意志」の意識を持つことは大事なことです。

自分の「意志」でそれをしているという意識は自分の「選択」に「責任」を持つということでもあります。それに対して、他者の「強制」によってそれをしているという「意識」は自分の「選択」に「責任」を持っていないというということでもあります。

だからこそ、「意志」の意識を持つ人は「他人のせい」にしづらいのに対して、「強制」の意識を持つ人は「他人のせい」にしやすいところがあります。そして、「他人のせい」と思うなら、その他者に対する「嫌悪」なども溜まりやすいですから、余計に「ストレス」が増えることとなります。

心に「弱さ」があると「他人のせい」にしたくなるからこそ、「強制」させられていると思いたくなるものですが、そういった「他人のせい」にする心は自分自身の心を蝕んでいくので、そのような「弱さ」の同調することは大変危険です。

本当の意味で、他者からの「強制」によってやっていることについて「強制」の意識を持つなら、その「強制」の意識を抱くこと自体は間違っていないかもしれません。しかし、本質的には自分の「意志」でそれを「選択」しているにも関わらず、「強制」されていると「誤解」するケースは非常に多いです。

例えば、「自分は一人息子だから、自分が親の仕事を引き継ぐしかなかったんだ」という考えで、ある仕事をしている男性がいたとして、こういう人は「強制」の意識を持ちやすかったりします。けれども、こういうケースであっても、本質的にはその人の「意志」によってその仕事を「選択」しています。

というのも、親の仕事を引き継ぐ以外の生き方もあったからです。もちろん、その人が親の仕事を引き継がないと様々な「問題」が生まれたかもしれません。しかし、そういった「問題」が起こることを止めようとしていることはその人の「意志」です。

このような意味で、「そうせざるを得なかった」と「誤解」することが「強制」の感覚を生み、「嫌悪(ストレス)」を生み出します。だからこそ、このような「誤解」を防ぐために、自分が「強制」させられてやっているように思えることが、自分の「意志」によってやっていることかどうかを考えることはとても大事です。

そもそも、我々人間は皆「生きる」ということを自分自身の「意志」によって「選択」しています。言い換えると、「死ぬ」ことができるという「自由」を常に持った状態で、我々は「生きる」ことを自分の「意志」で「選択」しています。

このようなことを理解した時、今の自分の経験している状況は自分自身の「意志」によって経験していることなのだと認識できますし、そういう意識が自分の「選択」に「責任」を持つことに繋がりますし、不必要な「ストレス」を減らします。