心に「強さ」があれば、どのような「問題指摘」であっても「受け入れる」ことができるので、「傷付き」や「嫌悪・怒り」ではなく、「感謝」さえも抱くようになります。そのような相手に対しては、適切な「問題指摘」は常に「正しい」ことです。何故ならば、「問題指摘」される度に「成長」を実現していくからです。このような構造があるからこそ、「強さ」を持つ人同士は「教え合い」を実現しやすい構造があります。

逆に、心に「弱さ」を抱えている人は、相手から自分の「問題指摘」をされることで「傷付く」ことや「嫌悪・怒り」を感じることをしやすいです。何故ならば、「弱さ」を持つと「自分を肯定したい」「自分を否定したくない」と強く思うようになるので、「否定」されることに耐えられなくなるからです。

そういう構造が生まれるなら、もはや「問題指摘」をすること自体が「間違い」となってしまいます。何故ならば、そういう「傷」や「嫌悪・怒り」を抱えていくことで、心が「病む」ことをしやすくなってしまうからです。

良い「問題指摘」は相手の「向上」のきっかけとなるのに対して、「病む」ことは相手の「悪化」を促します。そういう構造があるからこそ、「正しい」内容の「問題指摘」が全て「善」なわけではなく、相手が「弱さ」を抱えている場合、「正しい」内容の「問題指摘」も「悪」となりやすいです。つまり、「問題指摘」の内容が「正しい」かどうかということと、受け手の心の「強さ・弱さ」が「問題指摘」の「善悪」を決めます。

この点は教える方も教えられる方もよく分かっておくべき点です。というのも、「厳しさ」を持つ人は内容が「正しい」ならば「問題指摘」も常に「正しい」と考えやすいですし、「弱さ」を持つ人は「問題指摘」によって「傷付く」ことや「嫌悪・怒り」を感じることで、相手から「攻撃」されたと誤解しやすいからです。
 

【最後に】

現代は「厳しさ」自体が「悪」のように捉えられやすい時代となってきています。しかし、「厳しさ」自体が本質的に「悪」なのではなく、我々日本人が全体的に「弱さ」を強めている結果、「厳しさ」を活かせない時代に入ってしまっているとも言えるはずです。

そんな時代だからこそ、「厳しさ」を持つ人は「厳しさ」の乱用に注意すべきですし、「弱さ」を持つ人は自身の「弱さ」が「傷付き」や「嫌悪・怒り」を生み出していることを自覚すべきです。そういう認識を持つことで真実が見えてくるからです。

我々人間は皆「不完全」で何らかの「問題」を抱えています。だからこそ、我々人間には本質的には「教え合い」は必要であって、相手の「問題」を「指摘」すること自体が「悪」に感じられ始められることは大変大きな「問題」です。何故ならば、そのような社会は皆が「向上」を実現しづらい社会だからです。

「自分のため」に相手の人格を否定するような「問題指摘」は「問題」だと思います。しかし、「相手のため」に相手の「問題」を「指摘」することもしづらい状況となってしまうことは避ける必要があるはずです。

そのために必要なことは我々が「弱さ」に堕ちず、「強さ」を高めることです。