他の国の人々と比べて、我々日本人は「嫌われたくない」という心と共に生きやすい国民性を持っています。だからこそ、「嫌われたくない」という心の本質を理解することは大事です。
 

【「嫌われたくない心」の本質】

他人から「嫌われる」経験は、他人から「嫌われたくない」という心に繋がり、「嫌われない」ように振る舞うことに繋がりやすいです。特に、トラウマとしての「嫌われる」経験を持ってしまった人は、「嫌われたくない」という心が深く人格に刻まれてしまいます。

しかし、「嫌われない」ように振る舞うことは「他者のため(愛)」ではなく「自分のため(欲)」なので、「偽善」の道へ通じています。というのも、他人から「好かれる」ために「愛」を「偽る」からです。

しかし、それは「偽」の「愛」なので、嘘臭くもなり、本当の「魅力」に達しづらく、「好かれる」ことに至らないことは少なくないです。というか、「ぶりっ子」として逆に「嫌われる」ことも少なくありません。また、本当は「自分のため」ですから、「相手のため」になることも実現しづらいです。

大事なことは、「嫌われたくない」と思った時点で「偽善(欲)」の道に入ってしまうという構造を知ることであり、「嫌われたくない」と思った時点で「善(愛)」の道は塞がるという構造を知ることです。

この構造が分かると、「嫌われたくない」と思わないために、他人からどう思われるのかを気にしないことが如何に大事かが見えてきます。ただ、日本人はこの点を気にしやすいですし、自分にとって大事な相手が自分のことをどう思うかを気にしないことはとても難しいと思います。

そこで重要なことは、「嫌われたくない」という「自分のため」を思う気持ち以上に、「相手のため」を思う気持ちを強くすることです。そのことで「偽善(欲)」の道は塞がりますし、「善(愛)」の道は開きます。

そういう形で「自分のため」よりも「相手のため」を思う人は、本当の「魅力」も獲得していきますし、結果的に「好かれる」人は少なくないですし、「相手のため」を本当に思っているからこそ、「相手のため」になることを実現しやすいです。
 

【「嫌う心」の弊害】

「嫌われるのは嫌だ」という「嫌悪」は「嫌われない方がいい」という「欲」に通じているからこそ、「嫌われたくない」という心は「愛」を見失わせます。「欲」と「愛」は相反するからです。

誰かが誰かを「嫌う」ということは、このような危険な心の「罠」を相手に与え得るので、他人を「嫌う」ことはできるだけ避けるべきです。場合によっては、あなたが誰かを「嫌う」ことを行なったことが、相手の一生を悪い方向へ変える力さえも持ち得ます。

このような構造が分かれば、他人を「嫌う」ことも止めやすくなるかもしれませんし、少なくとも、自分が相手を「嫌っている」ことを相手に伝えないようにしようとは思いやすくなるはずです。

人が人を「嫌う」時、「自分のため」にその相手を「嫌う」ことがとても多いと思います。そういう「嫌う」心は、「嫌う」ことを選んだその人自身の心の「魅力」を損ない「醜さ」を与えますから、他人を「嫌う」ことをしやすい人間は「好かれにくい」人間にもなりやすいです。

このような構造を理解することで、「自分のため」に他者を「嫌う」ことを避けようと思いやすくなるはずです。
 

【最後に】

「察しと思いやり」「本音と建前」「空気を読む」「気遣い」といった言葉が象徴するように、日本人は相手がどう思うのかということを踏まえて、自分自身の行動を決めやすいところがあります。

この日本人の傾向は「他者のため」に使うことも「自分のため」に使うこともできるわけですが、「嫌われたくない」という心は「自分のため」に「空気を読む」ことを促します。

それに対して、理想的には「相手のため」に「空気を読む」ことを行ない、相手が何を感じ考えているのかを察して、「気遣い」を実践するような在り方が理想的な日本人らしい振る舞い方ですし、そこには「美」もあると思います。

「偽善」ではなく、そういった「善」へ向かうためには、「嫌われたくない」という心を克服することや、「自分のため」よりも「相手のため」を思うことが重要になってきます。
 

※補足

「嫌われたくない」と思わず「相手のため」を思い「善」を貫けたなら、必ずしも「好かれる」わけではありません。何故ならば、「嫌われても構わない」と思って「相手のため」に相手に厳しい言葉を与えるような場合は「嫌われやすい」からです。それに対して、最後に書いたような「相手のため」の「察しと思いやり」をする人は「好かれる」ことが多いです。