他人を「嫌う心」も「問題視する心」も、相手を「否定する心」ではあります。そして、残念ながら、この世には「否定」しなければならない人もいます。

例えば、ヒトラーは「肯定」すべき人間ではなく「否定」すべき人間です。つまり、大きな「間違い」を進む人間は「否定」すべき人間です。何故ならば、そういう人間を「肯定」することは多くの人を「不幸」にするからです。

ただ、そういう相手を「否定」する時に、「嫌う心」に堕ちるのではなく「問題視する心」に入ることが重要です。何故ならば、「嫌う心」は「憎しみ」へ通じ、「憎しみ」は判断を誤りやすい心だからです。

例えば、中学生のAさんが同じクラスのBさんに対して「嫌う心(憎しみ)」を抱いていた場合、AさんはBさんをいじめるかもしれませんが、そういうことが起こると、Bさんは心に不必要な「傷」を抱えてしまいますし、その「傷」がBさんの一生を狂わせるかもしれません。

それに対して、AさんがBさんを「問題視する心」を抱く場合、AさんはBさんをいじめることはないでしょうし、AさんはBさんの「問題」を「指摘」できるかもしれません。その「指摘」が適切な場合、その「指摘」はBさんの一生を支えるかもしれません。

つまり、「嫌う心(憎しみ)」は有害で不必要な「攻撃」に繋がりやすいのに対して、「問題視する心」は有益で必要な「指摘」に繋がりやすいところがあります。

とは言っても、その「問題指摘」を受け取ることができない相手であれば、「問題指摘」が心の「傷」になってしまうこともあるので、「問題視する心」を抱いていれば常に正しいわけではないですが。

最も大事なことは、「嫌う心」にせよ「問題視する心」にせよ、「自分のため」に相手を「否定」しないということです。

というのも、そういった「自分のため」に相手を「否定」する心は、自分にとっても相手にとっても悪影響を及ぼすことが多いからです。いじめっ子の例は分かりやすい例だと思います。

それに対して、「他者のため」に相手を「否定」することは必要なこともありますし、その場合に「嫌う心」ではなく「問題視する心」を選ぶことが大事です。

「嫌う心」は「感情的」であるのに対して、「問題視する心」は「冷静」です。だからこそ、「問題視する心」の方が、より適切な対処の実現を促します。

残念ながら、膨大な他者に悪影響を与える生き方をしてしまっている人間はいます。そういう人間を「肯定」している限り、その悪影響は止まらないので「否定」は必要です。

しかし、そういった時に、判断を誤らないためにも、「感情的」な「嫌う心」ではなく「冷静」な「問題視する心」を抱くことが大事です。