相手から「信用」されないことで「嫌悪」に堕ちてしまう人はいます。これは言い換えると、相手から「信用」されることを「欲望」していることを意味します。「欲望」と「嫌悪」は表裏一体だかです。

自分がある人から「信用」されない場合、自分の側に何らかの「問題」があると考える方が好ましく、相手の側に「不満」を抱くことは非常に危険です。何故ならば、自分の「問題」を探そうとすることは自分の「向上」を促すのに対して、相手に「不満」を感じることは「ストレス」による自分の「悪化」を促すからです。

もちろん、「人間不信」などに堕ちてしまっている人などは「信用」すべき相手を「信用」できないこともあると思います。けれども、そんな相手に対しても「不満」を持つことは間違っています。

しかし、他者を誰も「信用」できないなら、その人が「孤立」しやすく、「孤立」は「不幸」を促しやすいです。何故ならば、「孤立」は「愛」を抱くきっかけを奪い、「愛」こそ「幸せ」を促すからです。このような意味で、その「相手のため」に相手の「信用」を「必要」とすることが間違っていないことはあります。

また、「信用」は「協力」を生み出し、「協力」は「他者のため」に何かをする上で非常に大事な要素になります。だからこそ、「他者のため」に相手の「信用」を「必要」とすることが正しいことはありますが、「自分のため」に相手の「信用」を「欲望」することは間違っていることが多いです。

生きていると、相手から「信用」されることが「必要」で、相手から「信用」されないことが「問題」であることは色々あると思います。けれども、それが「誰のため」に「必要」なのかを意識しながら生きていくことはとても大事ですし、「自分のため」に相手の「信用」を「欲望」し、相手の「不信」を「嫌悪」することは避けるべきです。

特に、我々は自分が「好意」を抱く相手に対して、相手の「信用」を「欲望」しやすいところがあります。「好意」を抱く相手は自分にとって非常に重要な存在だからこそ、「信用」してほしいと思うからです。

ただ、仮にそういった相手が自分のことを「信用」してくれなくとも、「嫌悪」を抱くのではなく、「悲しみ」の範囲に留めることが大事ですし、「信用」してくれていたとしても、「快楽」を抱くのではなく、「喜び」の範囲に収めることが大事です。そういうことで、心を「欲望・嫌悪」の領域に入れてしまうことを防げるからです。

相手が自分のことを「信用」してくれるからこそ、自分が「相手のため」に何かをしやすくなるところはあると思います。何故ならば、「信用」してくれているからこそ、自分が相手に何かをしようとしていることを「受け取る」ことをしてくれるからです。

そういう意味では、「愛」の実践を「信用」が支えているところがあります。このような意味で「愛」の実践のために「信用」を「必要」に感じることは正しいですし、「愛」の実践を止めるような「不信」が生まれることを避けようとすることも正しいです。

この文章を通して、「信用」と「愛↔︎欲」の関係性について理解を深めて頂き、その意識化を実現して頂き、良い形で生きていって頂けると幸いです。