「飽き」という状態について説明します。「飽き」という状態は「闇」の立場を選ぶのであれば、よく起こる状態になります。二行だけ前提知識を書きます。

「光」は「愛」の立場であって、「相手のため」に動く立場です。そして、「愛」は「喜び」をもたらします。
「闇」は「欲望」の立場であって、「自分のため」に動く立場になります。そして、「欲望」は「快楽」をもたらします。

「飽き」という状態は「快楽」に対して起こる気持ちです。例えば、「もうラーメン食べ飽きた」とは言いますが、ラーメンを食べることが我々にもたらすのは「快楽」だからこそ「飽き」が発生します。そして、「快楽」の原因は「欲望」なので、「飽き」という状態は「欲望」と非常に密接な関係にあります。「快楽」というものが「飽き」が来るようにできている形になります。

それに対して、「飽き」という状態は「喜び」に対しては絶対に起きません。例えば、「子供が幸せなことに対して喜びを感じる」とは言いますが、大事な人が幸せになることが我々に「喜び」をもたらします。そして、「喜び」だからこそ、こういった事に対して「飽き」は発生しません。逆に、「子供が幸せなことに対して飽きた」という状況を考えようとしても、それは不可能です。このことが、「飽き」という状態が「快楽」=「欲望」に向けられる状態であって、「喜び」=「愛」に向けられる状態ではないということを示しています。

「欲望」の立場で人と接する場合、相手は「自分のため」の道具であって、相手のことを大事と思う気持ちはありません。そして、「欲望」を抱く相手を通して「快楽」を感じます。しかし、しばらくすると相手に対して「飽き」が来ます。何故ならば、「欲望」=「快楽」という感情が元々「飽き」が来るようにできているからです。

それに対して、「愛」の立場で人と接する場合、相手は「自分のため」の道具ではなく、ただ純粋に大事と想います。そして、「愛」を抱く相手を感じたり、幸せになってくれた時に「喜び」を感じ、相手に対して「飽き」が来ることはありません。何故ならば、「喜び」は「飽き」がくるようなものではないからです。

だからこそ、「幸せ」は「闇(欲望)」ではなく「光(愛)」の方にあるということも言えます。「喜び(愛)」に「飽き」は来ませんが、「快楽(欲望)」に「飽き」は必ず来ます。「幸せ」は「喜び」のことを意味しています。

こういった「飽き」の構造が分かると、自分が「幸せ」になるために「快楽(闇)」よりも「喜び(光)」を選ぼうと思う方もいると思うのですが、そういった気持ちは本質的に「自分のため」=「闇」であって、「光」を選べず「闇」に堕ちてしまいます。「自分のため」ではなくただただ「相手のため」に生きて頂けると幸いです。そのことによって、結果的に「喜び」も「幸せ」も感じます。

「幸せ」になることが難しいのは、自分の「幸せ」のため=「自分のため」に何かをし始めた時点で「幸せ」になることができなくなるという構造にあります。「自分のため」という気持ちを抱いた時点で「欲望」に堕ちてしまうので、「愛」によって生まれる「喜び」という気持ちには至りません。だからこそ、「幸せ」には至りません。

また、どんな善行をしようとも、それが偽善=「自分のため」であれば、それを行なっている気持ちが「欲望」なので、「喜び」も「幸せ」も感じることには至りません。「相手のため」に生きるということは、行為の問題ではなく、気持ちの問題だと理解して頂けると幸いです。ただ、本当に強い「愛」を持つ人は自然と善行を行なっています。

ただ、いきなり全てを「相手のため」に生きることは難しいです。だから、少しずつでもいいので、「相手のため」に動く時間を増やして頂ければ、と想います。今大事だと想う誰かを大切にすることでもいいですし、ペットを飼って、そのペットを本当に大事にするところから育てることもいいと思います。猫や犬は人間と共に生きることを想定されているデザインであって、彼らは可愛いです。カタカナの「カワイイ」ではなく本来の漢字の「可愛い」とは「愛することが可」という意味を持っています。猫や犬は我々人間が「愛」を抱きやすいデザインをしているので、我々が「愛」を抱くことを支えてくれます。

「光」を目指す人にとって、生きている状態は心の闘いであって、「闇」に同調せずに如何に「光」を保つのかということになります。そして、今どういった気持ちを抱いているかによって、未来の自分の性格が決まってくるので、「光」を選び続けることによって、自然と自分の「愛」も大きくなります。そして、そのことによって、結果的に「喜び」を感じる機会も増え、「幸せ」になっていきます。

これから人間が目指すべき姿はそういった形になります。皆が「幸せ」になるために、お互いに「奪い合い(欲望:相手を自分のための道具のように扱うこと)」を行なうのではなくて、「与え合い(愛:相手のために何かをすること)」を心から行なう必要があります。それは一人一人の人間の努力によってしか生まれないですし、これだけ「欲望」が強くなった地球の現状を見ると途方もない闘いですが、皆さんにとって大事な人を「幸せ」にすることから始めて頂ければ、と思います。

もし、「欲望」=「快楽」という気持ちが「飽き」の来ないように設計されていたとしたら、多くの魂は「闇」を選び始めると思います。しかし、「欲望」=「快楽」には「飽き」が来て、「愛」=「喜び」には「飽き」が来ないようにこの世界は設計されています。これは、この宇宙を創った神様(創造神)の「『闇』ではなく『光』を選んでほしい」という「願い」を意味します。「飽き」の構造から「光のためにこの世界はある」という「真実」は理解できます。

「飽き」という状態を理解することを通して、「光」と「闇」の関係性や「幸せ」の意味など、様々なことを理解して頂けると幸いです。