ここでは、人を「信じること」「疑うこと」「問うこと」はどういった心の状態であるのかについて書いていきます。

これは前提ですが、「信じる」という気持ちは「光の気持ち」です。それに対して、「疑う」という気持ちは「闇の気持ち」です。我々人間は「愛」している相手に対しては「信じる」ということをよく行なうのに対して、「嫌悪」している相手に対しては「疑う」ということをよく行ないます。このことに「信じる」ということと「疑う」ということの本質的な違いがよく表れています。

「信じること」は「愛」と密接な関係にあり、「疑うこと」は「嫌悪」と密接な関係にあります。そして、「愛」が「光の気持ち」であるのに対して、「嫌悪」は「闇の気持ち」なので、「信じる」という気持ちは「光の気持ち」であるのに対して、「疑う」という気持ちは「闇の気持ち」ということになります。

だからこそ、「信じること」をできるだけ行なうべきですし、「疑うこと」を極力すべきではありません。何故ならば、「光の気持ち」を抱いているのであれば神々からの「光の気」を人間は受け入れるのに対して、「闇の気持ち」を抱いているのであれば悪魔からの「闇の気」を受け入れることに繋がるからです。

例えば、深い「絶望」に堕ちてしまうと、悪い発想しか浮かばなくなってしまいますが、この現象は「絶望」という「闇の気持ち」を抱いているが故に、悪魔からの「闇の気」ばかりを受け取ることに繋がり、その「闇の気」に乗った「アイデア」ばかりがもたらされるが故に起こる現象です。神々も悪魔も「気」に「アイデア」を乗せて、我々人間に届けます。そのことをよく表しているのが、「気付き」=情報の乗った「気」が「(くっ)付く」という言葉の構造になります。

だからこそ、「疑い」という「闇の気持ち」に堕ちてしまっては、悪魔から「感情」と「思考」を操作されてしまうことに繋がります。そうすると、必要以上に「疑い」の思考で物事を考えたりしてしまい、真実が見えなくなっていったりします。そういった理由によって、「疑い」を抱くことは避けるべきです。

しかし、残念ながら今の日本はどんな人に対しても「信じる」ということを行なえるような社会ではありません。何故ならば、「自分のため」に相手を利用しようとしている人も多いからです。そういった人を「信じる」のであれば、何らかの酷い経験をしてしまうことにも繋がるかもしれません。

そこで重要な気持ちが「問い」の気持ちになります。「問い」の気持ちとは「水の気持ち」=「向上心・問題解決の心」から生まれる心の動きであって、「光の気持ち」です。「疑い」がそもそも相手に対する「嫌悪」を元々含んでいるのに対して、「問い」の気持ちはそういった「嫌悪」の気持ちを含んでおらず、より中立的=ニュートラルです。

「疑い」は基本的に相手に対する「嫌悪」から生まれる気持ちであるのに対して、「問い」は基本的に「問題解決」をしようとする姿勢から生まれる気持ちです。何かを疑問視するという意味で両者は同じですが、根本的な動機が異なるが故に「問い」=「光の気持ち」、「疑い」=「闇の気持ち」という形で分かれています。「疑い」は言語化すると「本当にそうかよ?(嫌悪)」といったものであって、「問い」を言語化すると「これは正しいだろうか?(中立的な立場)」といった形になります。

一般に「信じる」の対義語は「疑う」ですが、「信じる」ことができない相手に対して必ずしも「疑い」の気持ちを抱く必要はなく、そういった相手に対しては「問い」の気持ちを持つことがとても大事です。そのことで、「疑い」という「闇の気持ち」に堕ちることなく、「光の気持ち」を維持できます。そうすると、神々からの「光の気」の中で「感情」と「思考」ができるので、適切に物事を判断ができます。

「信じる」「疑う」「問い」という心の動きは、どんなジャンルの仕事をしていようといつも選択しなければならない心の動きです。的確な判断を行なうためにも、相手に対する「嫌悪」を強めないためにも、この三つの関係性について御理解して頂けると幸いです。そして、できるだけ「信じる」ということを行い、「信じる」ことが難しい相手に対しては「問い」の気持ちで向き合い、決して「疑い」に堕ちないようにして頂ければ、と思います。