自分の記憶を制御できる方はこの世に1人もいません。何かを覚えているということは本人の意思を超えています。覚えておきたくても覚えていられないことや、逆に覚えたくもないのにいつまでも覚えていること、そのようなことばかりです。記憶とはそういうものであって、そういう意味で記憶は我々の意思を超えて、いつもそこにあります。そして、ある記憶は我々を良き方向へ導き、ある記憶は我々を生きている間ずっと苦しめます。

記憶は我々の意思を超えているならば一体どのようなものによって、記憶は残ったり消えたりするのでしょうか?その答えは気にあります。そのことを理解するためには記憶というものがどういった形で保存されているのかをまず理解しなければなりません。

西洋医学でも言われているように記憶は脳に蓄積されます。というよりか以前も書きましたが、脳とは記憶の蓄積のみのためにあるものです。我々は物を考えたり感じたりする時にも記憶を使っているが故に、思考をする時や感情を抱く際にも脳を使っています。脳で思考を行なうことや感情を抱くことをしているわけではありません。この点について詳しくはこちらを読んで下さい。

http://junashikari.com/body/脳と感情・思考について/

では、どのような形で脳に記憶は貯蓄されるのでしょうか?もっとちゃんと言うならば、記憶という情報をどういった形で脳に保存しているのでしょうか?

結論から言いますが、我々は記憶を気に乗せ、その気を脳細胞に宿していっているのです。そのことにより、記憶を脳に貯蓄することができています。そして、もし我々が記憶を使う場合、脳細胞に宿ったその気に再びアクセスすることで、その記憶を取り出し、その気を魂がある心臓まで神経を伝って届けるということを行なっています。

気には情報を乗せることができるということ、これがとても重要な点であって、そのことはアイデアが気に乗って我々に入ってくる時も全く同じです。先日も書いたように気には何らかのアイデアを乗せることができます。記憶もアイデアも情報であって同じです。アイデアと気の関係性についてはこちらを御覧下さい。

http://junashikari.com/energy/アイデアと気(エネルギー)について/

気はそれぞれ管理している存在がいるということは今までに何度も述べてきました。光の気は神々が、闇の気は悪魔が操っています。そして中立の気は神々も悪魔も操ることができます。ですから、記憶を蓄える際に使う気は三種類です。神々が操る光の気、悪魔達が操る闇の気、この両者が操る中立の気です。この点について詳しくはこちらを御覧下さい。

http://junashikari.com/energy/感情一覧(光・闇・中立)/

我々自身の魂は気を作りますが、一度その気が生まれるとそれは神々・悪魔の管理するものとなります。光の気を作れば神々がそれを管理し、闇の気を作れば悪魔達が管理することとなります。中立の気は両方が関与できます。自分がその気を作ったからといって自分がその気を管理できるわけではありません。

ほとんどの人の脳は、光・闇・中立の気が混在している状態になります。ちなみに、脳の浄化が完璧に果たされている方の脳は、光の気と中立の気のみによって構成されています。神々も悪魔も気を操ることにおいて、我々よりも何億倍も秀でている存在です。彼らは気の次元に存在し、常に気を操っているからです。ですから、当然我々の脳に宿っている気にも彼らは強く関与しています。

もしあなたが昔見た美しい景色をまだ覚えているのならば、それは神々があなたのためにその記憶を残しているからです。逆に本当に辛く悲しい経験をあなたはまだ覚えているのならば、それは悪魔がその記憶を残しているからです。今までのあなたの人生、ありとあらゆることが起き、そして多くのことを忘れていった中でもその特定の記憶を覚えていられるのは本当は不思議なことです。

こういうことを書くと、「それはその時の心の動きが強かったから覚えているに過ぎない」と思われる方もいらっしゃると思います。この意見は半分正しいです。その正しい半分の点について述べます。何故その時の心の動きが強い時、我々はそういった記憶を保存するのか、ということについてです。


【魂の記憶について】

強い感情を経験する時、特に今までに経験したことのない感情を経験する時、我々は脳だけでなく魂でも記憶します。何故ならば、「魂の進歩について」でも書いたように我々は今までに経験したことのない感情を経験する時は、新たな気を魂に加える時があるからです。

http://junashikari.com/energy/魂の進歩について/

新たな気を我々が魂に加える時、その気は魂の一部になるわけですから、その気は我々自身になります。この気自体を魂の記憶と呼んでいます。そして、何らかの出来事を原因に我々はその気を摂取するわけですから、その出来事の記憶自体もセットとして保存されます。一度魂に保存された気を取り出すことは非常に大変なことです。だからこそ、強い経験によってもたらされた記憶とは我々にいつまでも残るのです。

例えば私は前世の妻に何人か会ったことがありますが、彼女達に会うと前世において彼女達と過ごした時に感じていた感情を経験します。記憶が蘇るわけではないのですが、当時の感情が蘇るのです。つまり、魂の記憶が蘇ります。それは今世によって経験したことのない感情であることがほとんどです。

夫婦というものは数十年に渡って人生を共にします。そして、その数十年の内にその相手と共に歩んだことによって魂は成長していく、つまり、魂は新たな気を加えていくこととなります。そして、それはお互いが共有した気のことでもあります。何故ならば、夫婦というものは強く気を共有し合うパートナーだからです。ですから、前世の妻に合うと、自分とその彼女の中に共通してある気に触れ、そのことで当時の感情を思い出すことになります。こういったことが魂の記憶です。


【記憶の持つ気と時間の考え方】

私には思い出すだけで悲しくなる記憶がいくつもありました。しかし、その記憶を保存していた闇の気を脳から完璧に浄化すると、もはやその記憶は悲しい記憶ではなく、ただの一つの出来事としての記憶となりました。闇の気によって保存されていたその記憶ですが、闇の気を浄化するとその記憶が消えるわけではなくて、光の気または中立の気によってその記憶は保存されることになります。するとその記憶を思い出したところでもはや悲しくなることはないのです。

我々がある記憶を思い出す時に感情を動かすことについて、記憶の情報自体が問題なのではないのです。我々は記憶を思い出す時、その記憶を保存している気に触れ感情を動かしているのです。これは大変重要なことですからよく理解して下さい。ですから、記憶を使うということは非常に危険なことでもあるのです。もし闇の気によって保存されている記憶を思い出す場合、我々はその闇の気に触れることになるからです。こういったことまでも踏まえた上で、我々は記憶と付き合っていくべきです。

もし気分をどうしてもいい形にできない時は過去の喜ばしい経験を思い出して下さい。その記憶を保存している光の気があなたの現在の魂の状態を光の方へ導きます。これはその記憶を保存している脳のある細胞に宿っている光の気に触れることを意味します。感情が動く原因は気ですから、その細胞に宿っている光の気に触れると気分は良くなるのです。

しかしながら、記憶には頼り過ぎないで下さい。記憶の中にあると、現在に集中するという、我々の生の修行にとって最も大事な点ができなくなるからです。我々の闘いとは常に現在にあるのであって、魂を進歩させるためには現在を生きる必要があるのです。

過去を見ないようにしろ、と言っているのではありません。過去のありとあらゆることによって身体に蓄積した気によって、我々の現在の魂の状態は成立しているのであり、現在をより良くしたいのであれば、それは過去に身体に蓄積していった闇の気と向き合い、それを取らねばならないからです。問題はほとんどの場合、我々の身体にあります。

記憶に頼ってはいけないということの意味は、過去に生きてはならないということです。過去とは本質的には存在しないからです。人間は過去・現在・未来を同等の存在として並べる傾向がありますが、これは人間の悪しき癖です。過去・現在・未来の内、存在するのは現在のみです。過去は我々が頭の中で作り出すものであって、それはどんなに完璧に再現したとしても存在するものではなく、非自然なのです。未来も同様であり、我々が勝手に作り出すものに過ぎず、それは非自然なのです。

時間の中で、自然なのは現在のみです。この現在という一点のみがこの宇宙そのものであり、神によって守られている時間なのです。「現在とは自然である」ということは是非とも真に魂で理解して下さい。我々の修行の場はそこにあるのです。そしていつも言っていますが、自然とは神が創ったものであるからこそ、神の管轄内であって、それは守られているものなのです。逆に、過去や未来とは神の管轄外であって守られていないものであるからこそ、悪魔達が関与できるのです。

時間に関連した話だと、真に現在に生きるということは感じることによって成立するということも知っておいて下さい。我々は考えている間、ずっと現在から目を遠ざけられます。なぜならば、少しでも何かを考えていると真に感じることはできないからです。この現在という一点は感じることによってしか捉えられません。


【記憶が消されること、変更されること、足されることについて】

脳に蓄積された光・闇・中立の気は神々や悪魔によって関与され続けます。何故ならば、全ての気とは彼らによってコントロールされているからです。そして、神々や悪魔が我々の記憶に行なう変更とは3パターンです。記憶を消す事、記憶を変更する事、記憶を足すことです。まず記憶が消される事について書きます。


・神々が記憶を消すケース

脳とは記憶装置であって、実は容量が決まっています。つまり、どれだけの記憶を保存できるかということは前もって決まっているということです。パソコンで言うところの外付けハードディスクだと思って下さい。逆に、脳が無限に記憶していられるわけがなく、どこかで限界量は決まっていると考えるのは極めて自然です。

少し脱線しますが、実は人間の脳の記憶容量は非常に低く作られています。我々は全然昔のことを覚えていられません。昨日のことはうる覚え、一週間前のことなどかなり忘れてしまっています。記憶を保存することについては我々は相当馬鹿に創造神によってデザインされている種なのです。宇宙人は10000種以上いますが、その中でも我々の脳は相当馬鹿に設計されています。他の宇宙人はもっと記憶を保持していられます。我々が魂が馬鹿だと言っているわけではないので誤解をしないで下さい。記憶を保存する能力は低いということを言っているだけです。

脳に容量があるのならば、できるだけ不要な情報はそこに置いておきたくはなく、だからこそ神々は我々の記憶をいつも消していっています。それは我々の日常の記憶もそうですが、最も分かりやすい例が我々の見る夢についてです。夢は全然覚えていられませんが、それは神々が夢の記憶をいつも消しているからです。ほとんどの夢は我々の人生にとって不要だからこそ、神々はいつもその記憶を消している形になります。

・悪魔が記憶を消すケース

悪魔達が記憶を消すケースとは神々達とは異なり、悪意に満ちています。例えば、大事な約束を忘れたり、忘れ物をさせたりというものです。彼らはいつも大事なことを忘れさせ、我々が良く生きていくことを邪魔しようとします。また、大事なことだけに限らず、脳に闇の気が溜まっている状態においては何でもかんでも彼らは消すようになります。これが所謂、痴呆です。

現代の日本では高齢者はかなりボケています。ほとんどの方がそういう方向性にいっているのではないでしょうか?なぜそのようなことが起こるかというと、我々日本人は全然浄化をしておらず、一生闇の気を貯め込んでしまっているからです。特に脳は最も我々が闇の気を貯めこみやすい部分です。なぜならば、我々は生きている間ずっと考え、そして瞑想をしないからです。基本的に脳の浄化は運動によってできるようなものではなく、意識的にやっていかなければならないものです。では、脳の浄化方法は何かというと瞑想とあくびです。脳に闇が溜まっている方、物忘れが始まった方は一日にあくびを1000回して下さい。それで良くなります。

・記憶が変更、足されることについて

神々も悪魔も気を操り、脳に蓄積された気の持っている情報をコントロールできますから、両者は当然記憶を変更することも足す事もできます。基本的に神々が記憶を変更・足すことはなく、悪魔達はよくそれを行ないます。何故ならば、基本的に記憶の変更や足す事とは我々を悪い方向に導くからです。

これは起こっている人間は全く気が付かないことです。想像してもらえれば分かると思いますが、仮に記憶がすり替えられていたとしても、よっぽどのことがない限り、すり替えられていることに気付くことはできません。皆様の中にはある人と話している時に、こういう会話を経験したことはないでしょうか?

A:「私はそんなこと言ってないよ」

B:「え、絶対言ったよ。」

A:「いや、言ってないと思うんだけどなー。。。」

こういった会話が起こる時、皆様は単純にAさんが忘れているだけだと思ってしまいがちですが、Bさんの記憶がすり替えられていることもよくあるのです。特に例えば夫婦間であったり、親友同士でこういったことは起きやすいです。何故ならば、悪魔達はいつも親しい関係を壊そうと試みているからです。


【最後に】

大変長くなりましたが、以上が記憶についてでした。記憶がどのように成立しているのか、そしてどのように変更や修正が加えられているのか、ということを理解することは非常に大事ですからどうか何度もこの文章を読んでほしく思います。そして、なによりも悪魔に記憶を関与されないために、脳は完璧に浄化しなければなりません。脳を完璧に浄化するための最も有効な方法は瞑想をした状態において、頭の内側の感覚を捉え、そしてそれと同時によくあくびをすることです。このことにより風と土の気を使った脳の浄化が進みます。瞑想法についてはこちらを参照下さい。

http://junashikari.com/修行について/瞑想について/