このページでは、心理学的観点から「芸術とは何か」ということについて書いていきます。このことを理解することは、様々な作品を鑑賞する鑑賞者にとっても、様々な作品を生み出そうとする芸術家にとっても、とても大事なことです。

芸術とは「何らかの精神性の真実を捉えたもの」です。ですから、芸術とは何らかの精神性を他者に伝えることを可能にする道具であって、これが芸術の定義です。

我々人間には他者の気持ちは見えず、だからこそ、その相手がどういった気持ちを抱いているのかということを感じ取る事は簡単ではありません。しかし、芸術はそういった目に見えない精神を表現を通して他者に伝えることを可能にします。

だからこそ、我々は芸術を鑑賞することを通して、何らかの精神性を学ぶことができますし、そういった精神性を自分の内に獲得することができます。つまり、芸術は鑑賞者の心を変化させることができるものです。そして、このことの重大さは計り知れません。

何故ならば、他者の心を良い形で変えるのであれば、それはとても素晴らしいことであるのに対して、他者の心を悪い形で変えるのであれば、それはとても酷いことだからです。

こういったことが常識化されていない世の中だからこそ、多くの人々は良い形で芸術と生きていくことができていませんし、多くの芸術家は自分が良い作品を作ることの価値を意識化していませんし、芸術家の中には人間の心に毒でしかない作品を作る芸術家もいます。

芸術が様々な精神性を他者に伝えることを可能にする道具であるという真実を、こういった観点で理解することが「芸術とは何か」ということを理解する上で最も重要で最初に理解すべき観点です。

所謂、文化人や芸術批評家といった人々は、高尚な表現のみを芸術と考えがちですが、そういったことの影響として、高尚な作品のみが芸術であるという間違ったイメージも社会にはびこっています。つまり、「芸術」という言葉自体が高尚なものを意味するような間違った考え方が流行しています。

しかし、実際は何らかの精神性の本質を的確に描写することができている作品は芸術といえます。例えば、歌謡曲であっても芸術と呼べるものはたくさんありますし、クラシック音楽であっても芸術と呼べないものはあるという事です。

また、高尚なものは難しいものであることは多いですから、芸術が難しいものであると考えがちな人もいます。そういったことの影響として、芸術に対する苦手意識を持つ鑑賞者もいれば、小難しいものを作ることが良いことだと思い込む芸術家もいます。

小難しい作品の中には、理解することが難しい精神性を真に捉えているものもあれば、そもそも何の精神性も捉えていない作品も少なくありません。芸術とは「何らかの精神性の真実を捉えたもの」ですから、前者は真実を捉えているので芸術と言えますが、後者は真実を捉えていないので芸術とは言えません。

芸術と呼べるものの中には、分かりやすい芸術もあれば、分かりにくい芸術もあります。例えば、宮崎駿の映画は小さな子供でもある程度分かることができる芸術です。それに対して、タルコフスキーの映画は多くの人にとっては難解に感じる芸術です。

しかし、双方共に、「何らかの精神性の真実」を非常に高いレベルで描いている人類の宝としての芸術です。宮崎駿の生み出す芸術は小さな子供でも分かることができるとは言っても、相当な深みを持っている作品ですから、決してその精神性が浅はかなわけではなく、どこまでも深い理解を繰り返すことができる芸術です。それに対して、タルコフスキーの作品は到底子供には理解することは不可能で、タルコフスキーの表現する精神性に共感できる人のみ理解することができる芸術です。つまり、この2つの芸術は双方ともに優れた芸術ではあっても、質的に異なるものです。

世の中には宮崎駿の作品は芸術ではないと考える人もいるかもしれませんし、タルコフスキーの作品は何だか訳わからないものと考える人もいると思います。そういった風にこれらの作品をとらえる事は間違いですし、正しい理解をすることはとても大事です。

特に、芸術を作ろうとしている芸術家にとっては、何が芸術と呼べるのかということを理解することがとても大事ですから、こういったことを事前に理解した上で芸術という的(何が芸術なのか)が一体どこにあるのかを分かった上で、矢を射ること(作品制作をすること)が大事です。また、どういった立場の芸術を作ることを目指すのかを事前に意識することも大事です。

例えば、いきものがかりというバンドの表現する精神性は子供でも理解できるものですが、彼らはそもそもの表現目標として分かりづらいものを作ろうとする事はしていません。それに対して、Steve Reichという作曲家は、人類の音楽史を発展させるような曲を作ろうとしていますから、自ずと分かりづらいものになります。

というか、今現在地球にない音楽というものは我々人間が接したことのないものですから、自ずと分かることが容易ではなくなります。つまり、それまでに接したことがある精神性を分かるのは容易であるのに対して、今まで接したことがない精神性を分かることは容易ではありません。

このような意味で、芸術の発展、人間精神の多様性の発展というものを目指すと、分かりづらいものになりやすいということを理解することは大事です。つまり、分かりづらいものを表現しようとすることを目指すのは間違っていて、何らかの精神性の真実を捉えようとした結果、しょうがなく分かりづらくなってしまうということは間違いではないということです。

特に、現代においては、分かりづらいものを作ることが「かっこいい」ことだと誤解している芸術家も少なくありませんから、そういった考え方が罠であることを理解することは芸術家にとって大事です。闇雲に分かりづらいものを作ったとしても、そこに表現されている精神性はありませんから芸術的には駄作です。

実は、分かりづらい作品を作ることはとても簡単です。というのも、訳も分からずいい加減に表現していれば、自ずと作品は分かりづらくなるからです。そういった作品をかっこいい作品と捉え始めると、その芸術家は罠に捕まりますし、「芸術とはよく分からないものだ」と誤解してしまう鑑賞者を増やす弊害さえも起こります。

そのような弊害を世の中に与えないためにも、芸術家は作品を制作する時に「何らかの精神性に関する真実を捉えること」に全力を割くべきですし、それが実現できていない作品を世に出すことはすべきではありません。

また、人々が知るべきではない「何らかの精神性に関する真実」は表現すべきではありません。例えば、「かっこよさ」のある「嫉妬」に関する真実を表現することは、間違っています。というのも、そういった作品を鑑賞した人々は、「嫉妬」という精神性に対して良い印象を持ちかねないですし、その作品で表現されている「嫉妬」を覚えてしまうからです。

「嫉妬」という精神性は、良くない精神性です。何故ならば、「嫉妬」は嫉妬しているその人自身を苦しめますし、その人の性格を歪めますし、他者に対する攻撃へも繋がり得る精神性だからです。ですから、そういった精神性を広げることに加担する芸術は、間違った芸術です。

世の中をより良い場所にしていく上で必要な芸術は、「何らかの良い精神性に関する真実を捉えたもの」です。そういった芸術は、人々がまだ知らない素晴らしい精神性がこの世にはあるということや、その精神性の価値を人々に伝えますから、人々に大きな良い影響を与えます。

そういった芸術を芸術家は作るべきですし、そういったことを目指す芸術家が増えることを願って、この文章を書いています。

整理すると、

「何らかの精神性に関する真実」を表現している作品は「芸術」であり、それを表現していないものは「芸術」ではありません。そして、「何らかの良い精神性に関する真実」を表現している作品は「良い芸術」であるのに対して、「何らかの悪い精神性に関する真実」を表現している作品は「悪い芸術」です。

この世界は「何らかの精神性に関する真実」に満ちています。朝日の空気感、子供の笑い声、人間関係の苦悩、海の厳しさ、といった膨大な真実に満ちていますが、そういった真実を切り取ることが芸術家の使命であって、そういった真実を捉えた作品が、この世とは何なのかを少しずつ人々に教えます。

ですから、優れた作品に満ちた世界は、人々がこの世とは何なのかをよく知っている世界で、そういう世界でこそ、人々は正しく生きやすく、狂ったことをしづらくなります。逆に、優れた作品に欠けた世界は、人々がこの世とは何なのかをよく知らない世界で、そういう世界では人々は正しく生きづらく、狂ったことばかりを繰り返します。

こういったことが分かってくると、芸術の価値も分かってきますし、良い芸術家の重要性も分かってきます。そいういった認識を得ることで、社会がもっと芸術や芸術家を大事にしますし、芸術家は意識をより高く持ちながら作品制作と向き合うことができます。

だからこそ、こういったことを理解することは大事ですし、本当はこのようなことは義務教育で教えられるべきことで、常識化されるべきことです。