ここでは、THEATRE BROOK、The SunPaulo、TAIJI at THE BONNET、インディーズ電力などのグループのボーカル/ギターを務め、太陽光発電による野外フェスTHE SOLAR BUDOKANの長を務める、音楽家の佐藤タイジについて書きます。

佐藤タイジは太陽神様と共に働くアーティストです。そして、太陽神様とは太陽系における長の神様であって、だからこそ佐藤タイジは非常に重要な意味を持っています。なぜならば、太陽神様と共に働く音楽家の音楽はその音楽家のメッセージであるだけでなく、太陽神様からの人間に対するメッセージでもあるからです。

我々の持っている名前は非常に重要であって、佐藤タイジが太陽神様と共に働くことを人生の役割として持っていることは様々な名前にも書かれています。

例えば、普通「サンパウロ」のつづりは「Sao Paulo」なのですが、佐藤タイジのユニットのThe SunPauloは「Sao Paulo」ではなくて「SunPaulo」になっています。これは「Sun」=「太陽」を意識するために太陽神様が用意した一つの構造です。また、TAIJI at THE BONNETの「BONNET」は「ボンネット」のことですが、通常車のボンネットは熱いものであって、太陽が熱を与えていることと掛けています。また「インディーズ」とは「independent」=「独立系」から派生した言葉ですが、太陽光発電は「独立系電力」と言うことができます。さらに、「THE SOLAR BUDOKAN」という野外フェスティバルの名前は非常に不思議なものであって、野外なのに「武道館」という名前を持っています。これは後で詳しく書きますが、佐藤タイジが太陽神様の「闘いの心」と共にこのフェスティバルを創ったことを日本人に意識してもらうために「武道」=「武士の道」=「闘いの心」という言葉を太陽神様が置いた形になります。(THEATRE BROOKという名前の意味は下に書きます。)

このような名前に関連した情報の中で、最も重要な情報は佐藤タイジというアーティストネームに込められた意味です。まず最初にそのことについて詳しく書いていきます。

 

【名前について】

佐藤タイジの本名は佐藤泰司ですが、アーティストネームは「佐藤タイジ」です。これは太陽神様の明確な意図があります。どうして「タイジ」がカタカナになる必要があったかというと、「泰司」という漢字では神々が人間に伝えたい意味として不十分だと太陽神様が考えたからです。

「気持ち・気分」と書くように、我々は「気」を「持つ」こと、「気」を「分つ」ことによって「気持ち・気分」を抱いています。大自然の中にいる時と都会にいる時の「気持ち・気分」は異なりますが、それは大自然はとてもいい「気」に満ちているのに対して、都会は悪い「気」が多いからです。

そして、「気付き」と書くように、我々が何かに「気付く」という現象は「気」が我々に「付く」ことによって起きている現象です。「気」には「アイデア=情報」を乗せることができます。そして、そういった「アイデア=情報」が乗った「気」が我々に「付く」ことによって、我々の心には「アイデア」や「インスピレーション」が湧きます。例えば、音楽家の中には歌詞に使うべき言葉が降りてくることを感じながら作詞をする人も多いですが、そういった現象は神々といった存在が、その歌に使うべき歌詞の「アイデア」を「気」に乗せ、その「気」を音楽家に「付けて」いるからこそ起こる現象です。

そして、佐藤タイジが太陽神様と共に働いているということの実際の意味は、太陽神様との間に「縁」があるということです。「縁」とは「気」が流れるラインのことを意味します。だからこそ、太陽神様は「縁」を通して佐藤タイジに「気」を送ることができ、佐藤タイジの心に太陽神様は「アイデア」を与えることができます。

このような構造の結果として、佐藤タイジの中には様々な「インスピレーション」が湧きます。名前を「泰司」から「タイジ」にしたことも、太陽神様が「気」で佐藤タイジの「気持ち・気分」「気付き(アイデア)」に関与したからこそ、起こった出来事になります。このような関与を太陽神様が行なうということは、何かしらの意味を「タイジ」というカタカナ表記に込めたからです。

太陽神様が「タイジ」に込めた意味は、「太陽の児」という意味の「太児」と、「対治(退治)」という意味です。それぞれの意味について書きます。

「太陽の児」=「太児」という意味は非常に直接的で分かりやすいと思います。佐藤タイジが太陽神様と共に働いている人間であることを「太陽の児」として表現しています。そもそも、本名の「泰司」も「太児」と同じ意味を持っています。「泰」には様々な意味がありますが、「大きい」「豊か」「穏やか」といった意味があり、そういった意味は太陽と通じます。また、「泰」の読みは「太陽」の「太」と同じ「たい」です。そして、「司」とは「つかさどる」であり「役割」のことを意味します。つまり、「泰司」は「太陽を司る」ということであって、太陽神様と共に働くということを意味しています。そういう意味で、「タイジ」=「太児(太陽の児)」=「泰司(太陽を司る)」という意味があります。

そして、「タイジ」のもう一つの意味である「退治(対治)」の意味とは「①(悪いもの・害をなすものを)平らげること、うちほろぼすこと」「②人々を光へ導くために、煩悩の悪魔を降伏させること」「③病気をなおすこと」です。これらは全て太陽神様の司る「火の気持ち」の「闘いの心」のことを意味します。この「闘いの心」の意味を深く理解するためには、太陽系の構造について説明する必要があります。

太陽系は「水・火・風・土・金の気」という5つの「光の気」を地球に送るためのシステムです。地球から見ると太陽と月は同じ大きさに見えます。このような現象は偶然生じるものではなく、それをデザインした存在=神々がいるからこそ生まれる現象です。太陽と月が同じ大きさであることから、太陽系が神々によってデザインされたということは間違いなく言えます。

だからこそ言えることは、太陽系の太陽と月以外の惑星も地球にとって何らかの意味で必要があったからこそ存在するということです。では、水星・金星・火星・木星・土星といった惑星は何故必要だったかというと、水星は「水の気」を、金星は「金の気」を、火星は「火の気」を、木星は「風の気(木の気)」を、土星は「土の気」を送るためです。昔の人間はこのような構造を知っていたので、それぞれの惑星の名前にその星に宿っている「気」のことを名前に書いてくれています。

「光」とは「愛」の立場であり、それぞれの「光の気」は「愛」を原因とする「気持ち」を作ります。また、その星に宿る「気」を司っているのが星の神々であり、例えば、水星神様は水星に宿る「水の気」を地球に送りながら、その「水の気」に関与しながら、地球上に生きる様々な命の心に「水の気」で関与しています。「気」は「気持ち・気分」「気付き」であって、水星神様は「水の気」を通して地球上に生きる命に「気持ち・気分」「気付き」で関与している形です。

そして、太陽系の中には「火の気」を地球に送っている星が2つあります。それが太陽と火星ですが、何故このような構造があるかというと、「火の気」が作る「気持ち・気分」には二種類あるからです。その二種類が「元気・笑い」と「闘いの心」になります。

「愛」の実践のために相手を笑わせたいと思う気持ちは「元気・笑い」であり、「愛」の実践のために相手を傷つける何かと闘おうとする気持ちが「闘いの心」です。この2つは「愛」を原因とした「愛」の実践のための気持ちです。そして、太陽と火星は基本的には以下のような形で担当しています。

太陽:火の気(元気・笑い)
火星:火の気(闘いの心)

太陽神様は「火の気」を司る神様ですが、メインの気持ちは「元気・笑い」です。しかし、佐藤タイジは太陽神様と共に働きながら太陽神様の「闘いの心」を音楽や他の活動を通して表現し続けている点に非常に大きな特徴があります。

このことを踏まえて、佐藤タイジの「タイジ」が持っている「退治(対治)」という意味についての説明に戻ります。「①(悪いもの・害をなすものを)平らげること、うちほろぼすこと」とは「闘いの心」=「愛」の実践のために相手を傷つける何かと闘おうとする気持ちそのものです。そして、「②人々を光へ導くために、煩悩の悪魔を降伏させること」とは、自分や相手の中にある「闇」と闘おうとする気持ちです。そして、「③病気をなおすこと」についてですが、「火の気」とは言い換えると「元の気」であり「元気」の源です。逆に、「病気」とは「病の気」と書きますが、これは「闇の気」のことを意味します。よく、風邪を引くと熱が出ますが、熱とは「火の気」そのものです。どうして風邪を引くと熱が出るのかというと、我々の体の中で「火の気」が「闇の気」に対して闘っているからになります。そういう意味で、「火の気」の「闘いの心」は「病気をなおすこと」という意味を持っています。これらの①②③の意味が「気」のことを理解していた昔の人間は繋がって見えていたが故に、「退治(対治)」という言葉はこれらの①②③の意味を持っています。そういう意味で「退治(対治)」とは「闘いの心」そのものです。このような背景があり、佐藤タイジは「タイジ」という名前を持っています。

我々人間には神々の姿は見えません。しかし、古代の人間は神々のことをよく理解していました。だからこそ、古代の人間は神話などを書くことができました(今残っている神話は全てが正しいわけではありません)。どうして、古代の人々は神々について理解する事ができたかというと、古代の人々は人間がどのようにして神々と働くのかという仕組み、つまり「気」のことをよく理解していたからです。

例えば、神々のことをよく理解していた古代ギリシャでは「気」のことを「プシュケー」と呼び、多くの哲学者(アリストテレスなど)が「プシュケー」について研究をしていたことは今でも文献から分かります。現代世界は「気」のことを忘れてしまったが故に、「プシュケー」が「気」のことを意味することが分からなくなってしまっています。だからこそ、古代哲学研究者でさえ、古代ギリシャの哲学者の文章の本当の意味を理解する事ができず、そういった大事な知識が一般に普及していない現状があります。

ある神様のことを理解するための大きな手がかりは、その神様と共に働く人を研究する事です。そして、歌というものはとても「気持ち・気分」がよく表現されるものであり、神々と共に働く歌手の歌を聴くならば、その歌手が繋がっている神様の持っている性格がよく分かります。また、歌詞にもその神様の個性が強く反映されます。この点に、神々と共に働く歌手の重要性があります。神々と共に働く歌手達は、本当に大切な神々の使いです。現代社会においては歌さえも消費されるものになってしまっていますが、本質的には歌はそのようなものではなく、歌は我々が神々のことを思い出すための貴重な資料であって、我々が大事なことを思い出すためのものです。

そして、佐藤タイジは太陽神様と共に働く人間であって、太陽神様とは太陽系における長の神様です。だからこそ、我々は太陽神様について知るべきです。なぜならば、太陽が無ければ地球が消滅してしまうことから明らかなように、我々は太陽神様によって一瞬一瞬を常に心身共に支えられているからです。自分をいつも支えてくれている方がどんな方なのかを知るということは、とても大事なことだと思っています。

そして、太陽神様と共に歌を歌う桑田佳祐などは太陽神様の「火の気(元気・笑い)」を表現しているのに対して、佐藤タイジは太陽神様の「火の気(闘いの心)」を表現しています。実は太陽神様の「火の気(元気・笑い)」を表現している歌手は桑田佳祐の他にもいます(トータス松本など)。しかし、太陽神様の「火の気(闘いの心)」をメインに表現している歌手はあまりいません。その点に佐藤タイジの音楽の価値があります。我々人間は佐藤タイジの歌を通して太陽神様の「闘いの心」を理解し、そのことで太陽神様のことを理解していくことができます。

また、このような意味を理解すると、THE SOLAR BUDOKANというフェスティバルの名前の意味もよく分かります。「THE SOLAR BUDOKAN」とは「太陽の武道館」という意味であって、非常に直接的に「太陽神様の闘いの心の場」ということを表現しています。「武道」とは人を殺傷・制圧する技術という意味だけではなく、そのことを通して人格の形成を目指す道という意味を持つ言葉です。この「武道」という言葉は「闘いの心」とそのまま重なります。何故ならば、「闘いの心」とは、「闇」と闘う心のことであって、「闇」を持った他者と闘うということに加えて、自分の内なる「闇」と闘うこと=「人格の形成を目指す道」という意味も持っているからです。そういう意味で、『THE SOLAR BUDOKAN』という名前は「太陽神様の闘いの心の場」という意味を持っています。このフェスティバルは佐藤タイジが太陽神様の「闘いの心」と共に創り、太陽神様はこのフェスティバルを通して人々に「火の気(闘いの心)」をもたらしたいと思っているからこそ、このような意味のある名前を持っています。

以下、佐藤タイジが太陽神様と共に働いていること、太陽神様の「闘いの心」を表現していることについて、具体的に曲を取り上げながら解説していきたいと思います。佐藤タイジの楽曲には太陽神様が関与しているので、歌詞には佐藤タイジ本人が意図したわけではない太陽神様からのメッセージが多く込められています。そして、この世界の重要な真実がいつも歌われています。


【ありったけの愛】

佐藤タイジが太陽神様と繋がっていることを理解して頂くためにTHEATRE BROOKの『ありったけの愛』という歌を最初に取り上げたいと思います。一度この動画を御覧になって頂けると幸いです。SalyuとCharaとのコラボレーション映像になります。
 


この曲においては、繰り返し以下の歌詞が繰り返されます。

「その上の太陽は ありったけの愛だけで」
「出来てると思いませんか?」
「ありったけの愛だけで あの太陽は」
「ありったけの愛だけで あの太陽は」
「ありったけの」
「ありったけの」
「ありったけの愛だけで」

現代人にとって、太陽はただの物質的な存在だと思われがちですが、そうではなく、この歌詞は太陽に太陽神様という魂が宿っていることを非常に直接的に表現しています。「愛」は絶対に魂が無ければ生まれないものであるからこそ、この歌は太陽には魂が宿っていることを歌っている曲と言えます。

「ありったけ」とは「あるだけ全部」「思う存分」という意味がある言葉であって、だからこそ「太陽は ありったけの愛だけで出来てる」という歌詞は、太陽神様は本当に限界まで「愛」を実践しているということがこの歌詞の意味です。

佐藤タイジは太陽神様と共に歌を歌っているからこそ、このような歌を歌っています。他にも、佐藤タイジの歌の中には太陽のことを歌った歌が多くあります。逆に言うと、こういった歌が多いことから佐藤タイジが太陽神様と共に歌っているということはよく分かります。

太陽のことを描いた歌が多いということから、その歌手が太陽神様と繋がっていると考えることは、一見根拠のない話のように感じられるかもしれませんが、神々の立場に立って考えると納得できます。神々はその歌に使うべき歌詞を歌手に「気付き」を通して教えていますが、神々はその歌詞にどの神様と繋がっているのかがよく分かるようにしたいと思うからです。神々は神々の存在を伝えるために歌手と共に歌を創ってきたからこそ、そのように言えます。

ですから、例えば、水星神様と共に歌を歌う歌手の歌に「太陽」のことを歌った歌を多く創るということは神々は基本的に行ないません。もし、そのような関与を行なうのであれば、後で人間がその歌手がどの神様と繋がっているのかを考える時に、判断が難しくなってしまうからです。だからこそ、その歌手がどの神様と共に歌っているかということは、歌手の名前や歌詞に書かれています。このことは、様々な歌手の解説を読んで頂けると深く理解して頂けると思いますので、このホームページの様々な歌手の解説を読んで頂けると幸いです。

 

【裏切りの夕焼け】

『裏切りの夕焼け』という曲の意味を理解できれば、佐藤タイジが太陽神様と共に「闘いの心」を描いている歌手であることを感覚的にも強く理解できます。一度、PVを御覧になって頂きながらこの曲を聴いて頂けると幸いです。
 


「裏切りの夕焼け」
「やっかいに絡みつく汗を」
「切り裂くようにして」
「マシンは叫ぶ 歌うように」

「blow up louder」
「無口な妖精はそこにいる」
「blow up louder」
「償いは砕けた愛のかけら」

「ああ朝日は昇る」
「ビルの谷間」
「今 信じれば変わるのさ」
「無意味じゃない あの夢を」

「旅人はもういない」
「デジャヴのような毎日を」
「解き放つように」
「マシンが駆け抜ける夜明け」

「fairyride」
「アクセル 妖精は踏みこんだ」
「fairyride」
「拭えない涙を流せないまま」

「ああ朝日は昇る」
「闇を抜けて」
「今 感じれば見えるのさ」
「無意味じゃない あの明日」

「ああ朝日は昇る」
「水平線」
「今 信じれば変わるのさ」
「無意味じゃない あの光」

「ああオレたちには見えてるモノがある」
「きっと 誰にも奪われないモノがあるはずさ」
「意味がないと思えるコトがある」
「きっと でも意図はそこに必ずある」
「無意味じゃない あの意図が」

「ああ朝日は昇る」
「闇を抜けて」
「今 感じれば見えるのさ」
「無意味じゃない あの明日」

「ああ朝日は昇る」
「水平線」
「今 信じれば変わるのさ」
「無意味じゃない あの光」


[解説]

この歌のタイトルは『裏切りの夕焼け』ですが、これは「裏切りの太陽神」ということの言い換えです。では、どうして太陽神様が「裏切り者」と呼ばれているかというと、太陽神様は「光」の立場であるのに対して、今の人間の多くは「闇」を選んでしまっているからです。

「光」とは「愛」の立場であり、「愛」は「相手のことを自分よりも大事だと思う気持ち」から「相手のため」に何かを相手に「与える」という立場です。それに対して「闇」とは「欲望」の立場であり、「欲望」は「自分のことを相手よりも大事だと思う気持ち」から「自分のため」に何かを相手から「奪う」という立場です。

これが「光」と「闇」の構造そのものであって、太陽神様はいつも「相手のため」に地球上に生きる膨大の命のために「火の気」を「与える」ということを行なっているのに対して、今の人間の多くは「自分のため」に地球上の膨大な命から「奪う」ということを繰り返しています。

そして、「光」の立場からすると、仲間が「光」から「闇」に堕ちることは「裏切り」であり、「闇」の立場からすると、メンバーが「闇」から「光」に向かうことは「裏切り」です。

例えば、慈善活動を貧乏ながらに「誰かのため」に行なっているグループがあったとして、その内の1人が「もっとお金がほしい」ということを理由にそのグループを離れていったとします。これは他の仲間からすると、皆で「光」をやっていたのにも関わらず「欲望」という「闇」を選んだという「裏切り」になります。それに対して、麻薬商売を「自分のため」に行なっていたグループがあったとして、その内の1人が「人を傷つけるようなことはもうやりたくない」ということを理由にそのグループを離れていったとします。これは他のメンバーからすると、皆で「闇」をやっていたのにも関わらず「愛」という「光」を選んだという「裏切り」になります。「裏切り」は「光」と「闇」について、このような構造を持っています。そういった構造がこの歌のタイトルに反映されています。

そして、太陽神様がどのような形で我々に「火の気」で関与しているのかを説明している歌詞が以下です。

「blow up louder」
「無口な妖精はそこにいる」
「blow up louder」
「償いは砕けた愛のかけら」

「fairyride」
「アクセル 妖精は踏みこんだ」
「fairyride」
「拭えない涙を流せないまま」

ここで歌われている「愛のかけら」が「火の気」のことです。どうしてそのように言えるかというと、「blow up louder(激しく爆発する)」とは太陽の表面上で起こっていることであり、そのことによって「火の気」は生まれているからです。また、太陽神様は「愛」を動機として「火の気」を地球に放っているからこそ、「愛のかけら」は「火の気」と言うことができます。

そして、太陽神様が「火の気」に関与していることを「妖精」という言葉を使い表現しています。太陽神様は我々に直接話し掛けることはできません。しかし、我々に「気」を「付ける」ことによって、様々な「アイデア」を我々の心に起こすことはできます。例えば、太陽を浴びながら考え事をしていると、いい「発想」が浮かびやすいですが、太陽神様が「火の気」を通して我々の心に「アイデア」をもたらしているからこそ、こういった現象は起きます。そのような意味を「無口な妖精はそこにいる」という歌詞が表現しています。声が聞こえるわけではないので「無口」なのですが、語りかけているので「妖精」と表現されています。また、この歌では「意図」という歌詞もよく使われますが、この「意図」という歌詞が意味する内容が「火の気」によって我々の心にもたらされる「アイデア」のことです。

我々人間は一つの時間に一人の自分しかいません。しかし、神々の認識はこのような認識ではなく、一つの時間に膨大な自分がいます。どうしてこのように言えるかというと、神々はそれぞれの命に「気」で関与している立場ですが、一人一人と真に向き合うためにはその相手の数だけの自分の思考と感情が必要だからです。そういう意味で、太陽神様は我々人間に例えるのであれば、自分が1兆人いるようなものです。一兆人の自分が地球上に生きる全ての命の一人一人と向き合っています。この歌詞で「妖精」と言われている歌詞とは、太陽神様のそういった一兆人の内の一人一人を意味します。そして、その一人一人が一つ一つの「火の気」です。そのことを「fairyride」という言葉で表現しています。

「fairyride」という英語は、「fairy」=「妖精」と「ride」=「乗る」という英語から作られた造語です。「乗る」ということなので、必ず乗る対象が必要となりますが、その「乗る」対象が「火の気」のことです。一つ一つの「火の気」を使って太陽神様が地球上に生きる全ての命に関与していることを「妖精」が「火の気」に「乗っている」という表現を通して伝えています。

このことを視覚的にイメージするいい方法が宮崎駿の『もののけ姫』のこだまを参考にすることです。宮崎駿もまた神々と共に働く芸術家であり、我々人間が忘れてしまった真実をアニメーションを通して表現し続けている芸術家です。

こだまはある植物の精霊の「気」を視覚的に分かりやすい形で描いたものです。「こだま」を漢字で書くと「木霊」であることにそのことはよく表れています。一人一人のこだまはそれぞれが別々に生きているように見えますが、一つの植物の精霊の魂が全てのこだま=「気」を動かしています。

また、「償いは砕けた愛のかけら」「拭えない涙を流せないまま」という歌詞が同じ部分に置かれていますが、このことには意味があります。「償い」とは「裏切り」に対して行なわれることです。そして、「償いは砕けた愛のかけら」という歌詞の通り、太陽神様としては「火の気」を地球に送ることは、地球上に生きる命に対する「償い」です。何故ならば、太陽神様としては自分がもっとうまくやれば、より多くの命を「光」へ導くことができたと思っているからです。そして、多くの人間は「闇」を選んでしまい、「闇」を選んだことで苦しんでいます。太陽神様としては、自分のせいで人間の多くを「闇」に陥れてしまったと思うが故に、太陽神様にとって「火の気」を送ることは「償い」です。

太陽神様のように、膨大な数の自分=「気」がいるということは言い換えると、膨大な数の成功と失敗を繰り返しているということを意味します。神々と悪魔は「気」で人間に関与することを通していつも対立しています。これは勝負なので、勝つこともあれば負けることもあります。そして、一兆個の戦をいつもやっているようなものなので、その失敗の中には悔しい経験もいつも起こります。

こういったことが神々の苦悩です。神々からすると、地球上に生きる命は我が子です。そんな我が子が自分のミスによって苦しむ様は本当に心を痛めます。そのような痛みと付き合っていかなければならないのが神々であって、太陽神様はこのことを「拭えない涙を流せないまま」という歌詞で自分の気持ちを表現しています。

我々人間は身体という器に魂が乗っていて、泣くことによって「気持ち」を落ち着けることができますが、太陽神様は太陽という器に魂が乗っているが故に、泣くことによって「気持ち」を落ち着けることはできません。だからこそ、人間よりも圧倒的に、より自分の痛みと自分自身が向き合わないといけません。「拭えない涙を流せないまま」という歌詞は「拭えない涙」を「流せない」という不思議な構造を持っている歌詞であって、これは「拭いきれない程の多くの涙」を「流すことさえできない」ということを意味します。

このように、佐藤タイジの歌においては、一番と二番などで同じ場所に書かれている歌詞の内容を比較すると、その歌詞に太陽神様が込めた意味が分かるようになっています。これは神々がよく歌詞に作るからくりなので、多くの歌手の歌について同様に言うことができます。他の部分を取り上げたいと思います。

「ああ朝日は昇る」
「ビルの谷間」
「今 信じれば変わるのさ」
「無意味じゃない あの夢を」

「ああ朝日は昇る」
「闇を抜けて」
「今 感じれば見えるのさ」
「無意味じゃない あの明日」

「ああ朝日は昇る」
「水平線」
「今 信じれば変わるのさ」
「無意味じゃない あの光」

「ああ朝日は昇る」
「闇を抜けて」
「今 感じれば見えるのさ」
「無意味じゃない あの明日」

「ああ朝日は昇る」
「水平線」
「今 信じれば変わるのさ」
「無意味じゃない あの光」

これらの歌詞においては、様々な要素が並列的に置かれていますが、これらの歌詞がどうして並列で並べられているのかを分析すれば太陽神様がこれらの歌詞に込めた意味が分かります。例えば、

「無意味じゃない あの夢を」
「無意味じゃない あの意図が」
「無意味じゃない あの朝日」
「無意味じゃない あの光」

という並べ方には意味があり、ここで歌われている「夢」=「意図」=「朝日」=「光」は全て同じことを意味しています。これが同じことであることを人間に伝えるために太陽神様がこのような構造を作っています。

我々は皆自分の「人生の役割」を持って生まれてきていますが、それはこの地球のためにもその人間のためにも神々が定めたものです。そして、神々は我々人間が自分の「人生の役割」を実践するために「光の気」でいつも導こうとしています。そういう意味で、「夢」=「人生の役割」という言葉があり、神々が「光の気」を通して、その「夢」に向けて人間を導くために、様々な「アイデア」=「意図」を「光の気」に乗せて地球へ送っています。そして、この歌は太陽神様の「光の気」である「火の気」のことが歌われた歌であって、「火の気」は太陽の光=「朝日」に乗っているものです。そして、これら全体は「光」=「愛」の立場の営みのことですし、精神的にも物理的にも太陽は我々に「光」=「愛」をもたらしています。まとめると

夢:神々が定めた我々人間の「人生の役割」
意図:神々が我々を導くために行なっている「気付き」
朝日:太陽神様が我々に「火の気」を与えるために使っているもの
光:精神的にも物質的にも「光」=「愛」を意味(この歌の全てを総括)

という意味を太陽神様はこれらの歌詞の構造に持たせています。この4つの言葉の全てが「愛」の実践のためのものであることが人間に伝われば、人間は本当に大事な真実を学ぶことに繋がります。また、これらの言葉にどれだけの重みを感じるのかということはどういった人生を生きるかで変わっていくものです。そういった形で、太陽神様はこのような構造を持たせています。

この歌の感情は太陽神様がいつも抱いている「気持ち・気分」そのものです。太陽神様にとって、太陽の光がない「夜」という時間は自分が関与できない時間です。それに対して、太陽の光がある「昼」という時間は自分が関与できる時間です。ですから、太陽神様にとって「朝日」とは自分が地球上の命に関与できるその始まりの時間です。

太陽神様はとてつもない程の大きな「愛」を地球上に生きる全ての命に対して抱いている魂です。そんな太陽神様が我が子を守り始めることができる最初の時間が「朝日」の時間です。そして、地球はいつも回っているので、太陽神様はいつもその「朝日」の瞬間を経験しています。

太陽神様はいつも自分が関与できない「夜」にいる子供達の心を見つめています。そして、そんな我が子を守る時間が来ることをずっと待ち望んでいます。そして、やっとの思いで自分が関与ができる「朝日」の時間が始まります。この曲の持っている感情は、その瞬間の太陽神様の気持ちであって、だからこそ強い気持ちで歌われています。

この歌は不思議な構造を持っていて、タイトルは『裏切りの夕焼け』なのにも関わらず、「朝日は昇る」という歌詞の方があまりにも多い点です。これは冒頭には書きませんでしたが、『裏切りの夕焼け』というタイトルには自分が我が子から去っていくという意味もあります。自分が支えたくてしょうがない我が子がいるのに、その我が子から太陽神様は離れないといけません。そのことはあたかも我が子に対して「裏切り」を行なっているようなものです。

太陽神様はいつも、夕日の時間は我が子から離れ、朝日の時間は我が子を迎えにいくということを常に繰り返しています。地球上のどこかは夕日の時間であり、どこかは朝日の時間だからです。太陽神様はそのような心の闘いをずっとやっている魂であって、この歌を本当に理解するためには、このような太陽神様の闘いを知る必要があります。

太陽神様の「愛」のとてつもない強さは半端ではないものです。この歌はそういった太陽神様の「愛」を人間に伝えています。特に、

「ああ朝日は昇る」
「〜〜〜」
「今 〜〜れば〜〜のさ」
「無意味じゃない あの〜」

という構造が最後の方は何度も繰り返されますが、これは太陽神様の熱い想いの表れです。佐藤タイジは太陽神様からの「火の気」を「縁」を通して受け取り、その熱い「闘いの心(愛)」を太陽神様と一緒に歌うことによって、声で太陽神様の「闘いの心(愛)」を我々人間に強く伝えてくれています。

これは本当に本当に価値のあることであって、だからこそ、日本人はもっと佐藤タイジの歌をよく聴くべきであるということを知って頂けると幸いです。また、その音楽家が神々と共に一体何を表現しているのかを理解した上で、その音楽を聴くならば、より深い形で音楽を聴くことができるようになります。ですから、この解説を読んだ上で、太陽神様の気持ちを感じながら『裏切りの夕焼け』を聴くことはとても大きな学びを我々にもたらします。是非もう一度聴いてみて頂けると幸いです。

 

【ぜんまいのきしむ音】

「闘いの心」は「闇」と闘う心のことですが、「光」の立場から「闇」を「闘いの心」で描いた曲の中に『ぜんまいのきしむ音』という曲があります。この曲は『裏切りの夕焼け』が「光の気」のことを描いたのとは対照的に「闇の気」のことを描いています。一度、PVを御覧になって頂きながらこの曲を聴いて頂けると幸いです。
 


[歌詞]

ぜんまいをいっぱいにまかれ
走り出すのはこのオレだ
機械油の味はしょっぱくて 苦く 重い

ただ前に進むだけの
臆病者はこのオレだ
見ることのできたのは真正面だけ ゴキゲンや

となりに誰がいるかも気付かなかった
ぜんまいのきしむ音も気付かないのか
気付かないのか 気付かないのか

ただ前に進むだけの
臆病者はこのオレだ
見ることのできたのは真正面だけ ゴキゲンや

深い霧がたちこめる
べたつく生ぬるい空気
見ることのできるのは目の前5センチ以内

となりに誰がいるかも気付かなかった
ぜんまいのきしむ音も気付かないのか
気付かないのか 気付かないのか
 

[解説]

この歌はぜんまい式おもちゃのことを考えるととても分かりやすいです。ぜんまいを巻くとその巻いた分だけおもちゃは進みますが、この「ぜんまい」のことが「闇の気」であり、人間がおもちゃに相当します。そういった比喩の構造を持っています。

「光の気」を司っているのが神々であるのに対して「闇の気」を司っているのが悪魔です。人間が「闇の気」を受け取ると、人間はその「闇の気」を入れた悪魔から感情と思考を操作されることに繋がり、悪魔のおもちゃにされてしまいます。この歌を通して太陽神様が表現したい内容とは、そういった構造です。

どうして「闇の気」=「ぜんまい」と言えるかというと、「気」は「気持ち・気分」と「気付き」の原因だからです。先程はちゃんと説明はしませんでしたが、「気」は我々の「思考」の原因でもあります。なぜならば、「思考」とは「アイデア」=「発想」の連続だからです。

「思考」とは自分の中の自問自答です。例えば、誰かに酷いことをされてしまった時に「どうして彼は自分にあんなことをしてしまったのだろう。」→「きっと機嫌が悪かったのだろう」と思うこともできれば、「どうして彼は自分にあんなことをしてしまったのだろう。」→「きっと自分のことが嫌いになのだろう」と思うこともできます。この「きっと機嫌が悪かったのだろう」「きっと自分のことが嫌いになのだろう」という部分が神々と悪魔が我々に入れている「アイデア」になります。神々は「真実」を人間に教えるのに対して、悪魔は「嘘」を人間に教えます。だからこそ、人は悪魔の「闇の気」を多く抱えていくと、悪魔に多くの間違った「アイデア」をもたらされ、悪魔に「思考」を掴まれてしまい、非常に被害妄想が強い人間になってしまったり、ネガティブにしか物事を考えられなくなったり、不安に取り憑かれてしまったり、様々な形で悪い「アイデア」=「発想」しか浮かばなくなっていきます。そういった人は今の日本社会には非常に多いですが、そういったことの根本的な原因は悪魔の「闇の気」によってその人の心もたらされている「気付き」=「アイデア」です。

悪魔によって「気持ち・気分」と「気付き」を支配されると、その悪魔にとって都合のいいように人間は動かされるようになります。何故ならば、我々の中に「〜をしたい」という「気持ち・気分」を起こし、そのことをさせるために都合のいい形で「気付き」を支配されるからです。

例えば、悪魔の「闇の気」を抱えていると、ある異性に対してムラムラする感覚が起こり、その相手と性行為をしたいという「気持ち・気分」が起こります。そして、その相手がとても美しく・かっこよく見えるように「気付き」に関与されます。

現代を生きる日本人にとって誰かに対してムラムラするという感覚は誰しもが感じたことがある「欲望」の「気持ち・気分」ですが、それは基本的には悪魔が行なっています。我々人間は自分の「意志」でムラムラしようと思ってできるものではなく、ムラムラするという感覚は我々に起きるものであって、そういった感覚は何かしらの原因があるからこそ発生しています。ムラムラが何故発生するのかということの明らかな理由は医学的には解き明かすことはできません。なぜならば、そういった感覚を起こしている存在は悪魔であって、我々が「闇の気」を抱えるのであれば悪魔の気分次第で我々はムラムラしたりしなかったりするからです。悪魔はその悪魔が性行為をさせたい人間同士を性行為させるために、その一方や両方をムラムラさせることをよく行なっています。

また、そういう形で性行為を行い、その翌朝目が覚めて相手を見てみると、その前日の夜に見た相手とは別人のような見た目をしていると思うようなことはよくある話です。どうしてその前日に、その相手がとても美しく・かっこよく見えたかというと、その相手の見え方にも悪魔は関与できるからです。これが、悪魔による「気付き」の支配の一例です。

よく、恋をすると相手のことがとても美しく・かっこよく見えたりしますが、これは神々も悪魔も我々によく行なう関与です。神々は我々を「幸せ」にするために、絶対に繋げたい二人に関してはお互いの見え方を良くするということをよく行なっています。悪魔はその悪魔自身の都合のために、その悪魔が絶対に繋げたい二人に関してはお互いの見え方を良くするということをよく行なっています。そうなると、相手の見た目の悪いところなどには「気付く」ことができなくなっていきます。ですから、これも一つの「気付き」の関与の方法です。

この曲の歌詞の中で、「闇の気」を通した「気持ち・気分」と「気付き」への関与のことをよく表しているのが、「見ることのできたのは真正面だけ ゴキゲンや」「見ることのできるのは目の前5センチ以内」という歌詞です。「闇の気」を抱えると悪魔によって「気付き」を支配されるからこそ、気付くべきものに気付くことができなくなります。これは先程の例だと、相手がものすごく美しく・かっこよく見えたことを意味します。そのことを「見ることのできたのは真正面だけ」「見ることのできるのは目の前5センチ以内」という歌詞が示しています。また、悪魔によって「欲望」といった「気持ち・気分」をもたらされることによって「ゴキゲン」という「気持ち・気分」を抱いている形になります。これは先程の例だと、相手に対してムラムラしたということと重なります。

「闇の気持ち」は30種類あります。悪魔はその人間の身体に「闇の気」を宿していたのであれば、その「闇の気」を使って、その30種類の「闇の気持ち」の全てを起こすことができます。よく精神病患者に関してその患者の精神が酷く乱れる時間のことを「発作」と表現しますが、これは悪魔が「闇の気」で関与し始めるからこそ起きるものです。もし、悪魔を想定しないのであれば、何故急に「発作」が起きるのかということは理由が分かりません。

そして、悪魔が「闇の気」を通して何らかの気持ちを作り、その気持ちによって人間を動かしたい時には基本的には「欲望」を使います。その悪魔の都合次第では「闇の気」を「憂鬱」といった「闇の気持ち」にもするのですが、多くの人は理由も無く「憂鬱」になった経験をしたことがあると思います。しかし、我々は自分で「憂鬱」になろうと思って「憂鬱」になれるものではありません。では、どのような理由によって我々は「憂鬱」になるかというと、「闇の気」を通して悪魔が我々の中に「憂鬱」を起こしている形になります。これも先程の異性に対してムラムラするという「欲望」と同様です。

ただ、「憂鬱」といった「闇の気持ち」では人はむしろ動かなくなるので、悪魔が人間を動かしたい時はその「闇の気」によって「欲望」を抱かせます。この歌は悪魔が人間に動かされていることを歌った歌だからこそ、悪魔が人間に「闇の気」を通して「欲望」をもたらしていることが歌われています。

このPVにおいては、そういった「欲望」を促す存在として風俗嬢のような女性が登場し、主人公(佐藤タイジ)と性行為を働いています。このPVを創った武藤眞志も神々と共に働く映像作家だからこそ、このような形でこのPVに「欲望」を描くことができています。

我々人間は「光の気持ち」を抱くのであれば「光の気」を受け取り、「闇の気持ち」を抱くのであれば「闇の気」を受け取ります。つまり、我々人間は自分がどういった「気持ち・気分」を抱くかによって、自分が受け取る「気」をいつも選んでいます。そして、「闇の気持ち」の代表例が「欲望」であり、性行為は強い「欲望」を我々にもたらすものです。だからこそ、「欲望」の性行為を働いていると悪魔からの「闇の気」を大量に受け取ることになります。

このPVで描かれているエレベーターの中で性行為を働く二人とその周りにいる悪魔達の姿はこの構造を描いています。悪魔としては、ターゲットの人間に「闇の気」を入れるために何らかの「欲望」を抱かせるきっかけを与えようとします。このPVにおいては「欲望」のきっかけを起こしているのがこの風俗嬢であって、悪魔の「闇の気」まみれな人間として描かれています。

性行為は接触を伴うので、強い「気」の交換が行なわれます。だからこそ、「闇の気」まみれな人間と性行為を働くと、「闇の気」を大量に受け取ります。

この女性が強い「欲望」を持っている人物であることは、この女性の振る舞い方によく表れているので、そのことからこの女性が「闇の気」まみれであることは理解できます。そして、悪魔はターゲットの人間を「支配」するために「闇の気」を入れることを目指しているからこそ、二人の性行為が行なわれている現場=ターゲットの人間に「闇の気」を入れている現場の周りで悪魔達が気味悪く笑っています。

この歌の「となりに誰がいるかも気付かなかった」という歌詞は「悪魔がいることに気付かなかった」ということを意味しています。二人の周りにいる存在が悪魔である根拠ですが、PVの中で一瞬前にいたそれらの存在が一瞬で消える描写がありますし、周りの存在には気付いていない二人の様子から、これらの存在が目に見えない存在であることが分かるからです。

「気」のことを忘れた人間は、「闇の気持ち」を抱くのであれば「闇の気」をもらうことを忘れています。そして、様々な「欲望」を働くことによって悪魔からの「闇の気」を受け取るということに気付くことができていません。

このPVの中ではタバコや酒や牛乳や音楽といったものも「闇の気」をもらうことを促す道具であることを説明しています。音楽は「光の音楽」と「闇の音楽」があります。「闇の音楽」に心を奪われてしまうと、絶対に「闇の気持ち」に同調した状態でその音楽を聴くので、「闇の気」が入ります。また、今売られている牛乳は基本的に薬漬けにされた牛達が強いストレスを抱えながら作っているものです。牛も我々人間と同じ動物であって、ストレスを感じていると体が「闇の気」まみれになっていきます。そして、その「闇の気」は牛乳にも混ざっていきます。また、酒は基本的に寝かせて作るものであり新鮮ではなく、その寝かせる過程で「闇の気」を宿していくことによって酒はできています。だからこそ、過剰に酔っぱらうと人は異常な行動を行なったりします。そういう意味で、過剰に酒を飲むのは好ましくはありません。

「闇の気」を抱えていくのであれば、大事なことがどんどん見えなくなっていきます。「闇の気」を抱えるからこそ、悪魔に「気付き」を支配されてしまい、大事なことに「気付く」ことがよりできなくなっていき、「闇の気」をもらっていること=「ぜんまいのきしむ音」に気付くことができません。

悪魔とは非常に恐ろしい存在であり、彼らの「闇の気」を抱えるのであれば、「気持ち・気分」「気付き」を支配されることにより「感情」と「思考」を支配されてしまいます。そうなると、もはや「感情」と「思考」を悪魔に支配されていることさえも気付くことができなくなっていきます。呪われているのに、自分が呪われていることが気付けなくなっていきます。そういう意味で、「闇の気」は非常に恐ろしいものです。

この歌の最後に「気付かないのか」という歌詞が繰り返されることにはそのような背景があります。この歌は太陽神様が創り、佐藤タイジは太陽神様と共にこの歌を歌っているので、最後の「気付かないのか」という歌詞が繰り返されることは太陽神様の「闘いの心」です。

この歌とPVの価値はそういった「闇の気」の恐ろしさをよく捉えている点にあります。そして、この歌を作った佐藤タイジもこのPVを作った武藤眞志も、「気」のことを理解していなかったにも関わらず「闇の気」のことを完璧に捉えている作品を創ったことに、間違いなくこの作品が神々によって創られたということの根拠があります。これは一つの「奇跡」を意味します。

神々としては、こういった「奇跡」を通して、人間に「真実」を伝えるということを長年目指し、実践してきた形になります。「気」のことを忘れた人間が神々と働く事によって「気」のことを完璧に捉えている作品を創り、その歌手も意図しないような意味を持っている作品が生まれる。そして、その意味をこれから人間が理解していく中で、神々が間違いなくいることや「気」という重要な真実を学ぶ事に繋がっていく。こういった「奇跡」の構造を神々は長年に渡って用意してきたのであって、これからの時代はこれらの「奇跡」を解き明かし、理解していく時代に入っていきます。

そして、この歌とPV程に「闇の気」のことを的確に描いた作品は多くありません。そういう意味で、この歌とPVはこれから日本人が学ぶべき教科書の意味を持っています。参考にして頂けると幸いです。

この解説を読んだ上でもう一度PVを御覧になって頂けると、この作品の価値がより理解できますので、再度御覧になって頂けると幸いです。

 

【THE SOLAR BUDOKANについて】

佐藤タイジは音楽だけではなく、生き方としても太陽神様と共に「闘いの心」を実践しています。そのことをよく表しているのが、佐藤タイジが始めた『THE SOLAR BUDOKAN』というフェスティバルです。このフェスティバルは日本で初めて太陽光発電による野外フェスを行なったフェスティバルです。2012年12月20日に日本で初めて日本武道館で太陽光発電によるコンサートを行なったことから始まっています。

2012年12月20日の日本武道館で行なわれたコンサートの名前が『THE SOLAR BUDOKAN』だったのは、非常にストレートな表現なのですが、2013年に日本武道館から中津川に会場を移動した後もそのまま「武道館」という名前を残したのは、このフェスティバルに「武道」=「闘いの心」という意味を太陽神様が持たせたかったからです。「太陽の武道の館」=「太陽神様の闘いの心の場」という意味を持っています。

佐藤タイジは311の後に脱原発に向けて自分ができることが何だろうかということを考えた時に、太陽光発電によって武道館コンサートをやろうという「アイデア」が心に浮かび、その「アイデア」を実践に移した形になります。佐藤タイジの魂が優れている点の一つは、「実行力」の高さにあります。普通は何か「アイデア」が浮かんでも、それを実践に移すことができない人がほとんどなのですが、佐藤タイジは大きな「アイデア」であってもやることができるほどの「実行力」のある魂です。

そして、太陽光発電によるフェスティバルを太陽神様と共に働いている佐藤タイジが始めたということには大きな意味があります。これから人間は「気」のことを思い出し、神々のことも思い出し始めます。そういった流れが起きた後に今この時代を振り返るのであれば確実に「太陽神様と繋がっていた佐藤タイジが太陽光発電による野外フェスティバルを始めた」という神話として語られることになります。神々は人間に大事なことを伝えるために、人間と神々の間で一体何が行なわれてきたのかということが書かれた神話を再び作ろうとしていますが、このフェスティバルのことは神話に載る話です。何故ならば、太陽光発電によるフェスティバルは今後絶対に永きに渡って続いていくからです。

太陽光発電は脱原発やエコのような観点だけではなく、その他にも大きな意味があります。最も大きな意味はその電気を太陽神様が創っているが故に、太陽神様がそのフェスティバルに非常に「火の気」で関与しやすいことにあります。

神々と悪魔はいつも人間に何かを作らせることで、それぞれの持ち物を作ろうとします。例えば、悪魔がデザインした衣服を着るのであれば、その衣服は悪魔の持ち物となり、その衣服に「闇の気」で関与できるようになります。その例とは対照的に、太陽神様が作った電気は太陽神様の持ち物であって、その電気には太陽神様が「光の気」で関与できるようになります。

だからこそ、太陽光発電の音楽フェスティバルでは演奏者もお客さんも皆、音楽を通して太陽神様からの「火の気」を受け取り、非常にいい影響を受けることになります。「祭り」とは神々と行なう儀式であって、太陽光発電という方法はより太陽神様と共に働きやすい状況を人間が太陽神様に用意することを意味します。実際、THE SOLAR BUDOKANの日が毎年晴れであるのは、神々がこのフェスティバルを重要視している一つの根拠です。天気は神々が司っています。

「気」のことを思い出していくと、人々はより太陽光発電による野外フェスティバルを行なおうと思います。その第一回目を太陽神様と繋がっている佐藤タイジが始めたことは本当に意義のあることであって、原発という「闇」に対する「闘いの心」が生んだ「光」そのものです。この出来事自体が、これから我々人間が「光」を強く実践していくための一つの教科書のような意味を持っています。「心に浮かんだ光のアイデアはどんなに難しいものであろうと、その意味を全て知っているわけではなくとも、やってみることが大事」という教訓を学ぶことができるからです。
 


佐藤タイジ自身、「今ここで頑張ることが必ず未来にとって人類の遺産になるような気がするのよ」ということをこの映像で話しています。太陽神様としては、この出来事が実現すれば人類の遺産に残る出来事だと元々分かっていたからこそ、佐藤タイジにそういった「アイデア」を与えています。佐藤タイジも明確に何故このことが人類の遺産になるのかということをはっきり知っていたわけではないのですが、「人類の遺産になるような気がする」というその「光」の感覚に従ったが故に、とても素晴らしいことを始めた形になります。こういった「アイデア」を信じることができるだけの「光」と「実行力」のある魂だからこそ、実現しています。

また、この動画の中で「嫌悪」という「闇」と「闘いの心」という「光」の違いを「反対」と「賛成」という言葉を使って説明していますが、これも太陽神様と共に生きている人間だからこそ、佐藤タイジは感覚的に真実を理解している形になります。「嫌悪」と「闘いの心」は非常に近い感情であって、この違いを理解することは本当に重要なことです。そのようなことを感覚的に分かる人間とは本当に魂の力がある人間です。

また、太陽光発電で作った電気を使って演奏すると非常に音がいいということも、実際に太陽光発電で作った電気を使って演奏してみることによって理解しています。もちろん、このことも太陽神様は元々知っていた上でTHE SOLAR BUDOKANのアイデアを与えていますが、我々人間がこういったことに気付くのはいつもやってみた後です。本当に、「光の気持ち」の中で出てきた「アイデア」は実際にやってみることでその意味が分かるという教訓を学ぶ上で、非常にいい歴史を佐藤タイジは作った形になります。

 

【THEATRE BROOKについて】

冒頭でTHEATRE BROOKの名前の意味を説明しませんでしたが、「THEATRE」とは「劇団」、「BROOK」とは「小川」のことです。これはTHEATRE BROOKというバンド自体の役割を意味し、THEATRE BROOKは「時代の流れ」という「小川」を表現する「劇団」という意味を持っています。

THEATRE BROOKは結成して30年のバンドであって、この30年の中で「時代の流れ」を表現し続けています。その「時代の流れ」とは「闇」から「光」の時代に向かうという流れです。

地球は「光」の時代と「闇」の時代が交互に繰り返されるように元々デザインされています。それは具体性の無い話ではなくて、具体的に「気」の関係性が変化することによって生じる現象です。我々人間の様々な行動は我々の「気持ち」から生まれます。そして、「気持ち」の原因は「気」なので、地球に降り注ぐ「気」の関係性が変化すると、我々人間の抱きやすい「気持ち」が変化し、人間のどういう行動を起こすのかということにも変化が生まれます。

金星は「金の星」と書かれているように、「金の気」が大量に宿っている星です。そして、金星は「金の気」を地球に送る時期と送らない時期があります。このことが、その時代が「光」の時代なのか「闇」の時代なのかを決定します。

「金の気」とは「愛」の原因の「気」であって、「光」の立場の最も前提となる重要な「光の気」になります。「金の気」を我々が受け取ることができるのであれば、「愛」を抱きやすくなります。そして、「愛」とは「相手のことを大事だと想う気持ち」そのものであって、その気持ちが様々な「愛」の実践の気持ちに繋がっていきます(水・火・風の気持ちなど)。

そういう意味で、金星が「金の気」を地球に降り注いでいる時代は皆が「愛」を抱きやすくなり、逆に金星からの「金の気」が無い時代は皆が「愛」を抱きにくくなります。だからこそ、金星からの「金の気」が地球に降り注ぐ自体を「光」の時代、金星からの「金の気」が地球に降り注いでいない時代を「闇」の時代と呼びます。

そして、金星からの「金の気」は、2012年12月まで2000年以上の間、降り注いでいませんでした。だからこそ、多くの戦争がこの2000年の間に起こり、「闇」の時代の末期である20世紀は第一次世界大戦や第二次世界大戦といった大きな戦争が起こっています。このように、この地球で起こる様々な出来事は、一体どういった「気」がその時代に多いのかということにかなり影響されます。

金星からの「金の気」の有無によって「光」の時代と「闇」の時代が交互に繰り返されるということをよく理解していたのがマヤ文明でした。マヤ文明の人々が非常に優れた天文学を持っていたことは、彼らが残した遺跡からよく分かります。

マヤ人達は「歴史は繰り返す」という考え方を持ち、そのことが星から地球に送られている「気」の違いによって成立することが分かっていました。つまり、マヤ人達は「気」のことや、星の神々のことをよく理解していた形になります。彼らの知識はほとんど燃やされてしまいましたが、彼らの持っていた重要な知識の一つである暦の考え方は今でも残っています。

2012年12月とはマヤ文明で使われていた長期暦が終わった時でした。ですから、人類滅亡論などが流行った時でもありました。しかし、実際は地球は滅びず、地球は今でもあります。しかし、変わったことが1つあり、それが金星からの「金の気」が降り注ぎ始めたということです。

マヤ文明においては、地球は5125年周期であり、その周期の中で「光」の時代と「闇」の時代が成立していることをマヤ人達は知っていました。だからこそ、紀元前3114年8月12日とはマヤ人にとって「金星が誕生した日」と呼んでいます。これは金星が物理的に誕生したということを意味するのではなく、金星からの「金の気」が降り注ぎ始めたということを意味します。ですから、整理すると以下のような形で地球の歴史は流れています。

紀元前3114年8月12日〜紀元前三世紀頃:「光」の時代(金星からの「金の気」が降り注いでいる)
紀元前三世紀頃〜2012年12月22日頃:「闇」の時代(金星からの「金の気」が降り注いでいない)
2012年12月23日頃〜現在:「光」の時代(金星からの「金の気」が降り注いでいる)

マヤ長期歴の5125年周期で考えると、紀元前3114年8月12日と2012年12月23日は同じ意味を持っています。そして、マヤ人達が紀元前3114年8月12日を「金星が誕生した日」と呼んだことから、2012年12月23日も「金星が誕生した日」と言う事ができます。つまり、紀元前3114年8月12日と2012年12月23日は「金星からの金の気が降り注ぎ始めた日」です。

THEATRE BROOKの役割とは、2012年12月23日頃前後で変化した、「闇」の時代から「光」の時代へ向かう時代の流れ=「BROOK」を表現=「THEATRE」することにあり、それを見事に実現してきました。例えば、上に取り上げた『ぜんまいのきしむ音』は地球の「闇」の時代を強く表現している曲です。人間は悪魔によって「闇の気」を入れられていることに気付くことができませんでしたが、度々歌われている「気付かないのか」という歌詞は人間が当時「闇の気」に気付いていなかったことを表現しています。

また、2012年12月に発表されたアルバム『最近の革命』は、タイトルにも表れているように金星からの「金の気」が降り注ぎ始めたことが歌われています。佐藤タイジは地球において「光」の時代と「闇」の時代が繰り返されるということを「気」の観点で理解していたわけではありません。ですから、「金の気」の有無の話を知っていたわけではないのですが、このアルバムにおいては見事に「金の気」のことが歌われています。

例えば、『愛の源』という曲がこのアルバムには入っていますが、「愛の源」とは「金の気」をそのまま言い換えたタイトルです。また、この歌は他の曲と佐藤タイジの歌い方が異なりますが、太陽神様の「闘いの心」がよく分かる歌い方になっています。佐藤タイジが太陽神様の「闘いの心」を表現している歌手であって、時代の変化を最も象徴する『愛の源』というタイトルの曲だからこそ、このような歌い方の関与を太陽神様が行なっています。

2015年7月に発表されたアルバム『LOVE CHANGES THE WORLD』においても「光」の時代の始まりのことが歌われています。例えば、『もう一度世界を変えるのさ』という曲が最初と最後に収録されていますが、このタイトルには「光」の時代と「闇」の時代が繰り返される思想が込められていますし、「ぼくたちはきっと 試されているよ 愛し合える機会 見失わないか」という歌詞は「金の気」のことを説明している歌詞です。

「気」はその本人がその「気」に「共感」する事によって「気持ち」となります。もし、本人が「金の気」を受け取ったとしても「共感」しなければ「愛」は抱けません。例えば、体が不自由なお年寄りが横断歩道を渡っていることを見た時に「金の気」が入ると、「横断歩道を渡るのを手伝ってあげたい」と思ったりします。もしそこで手伝うということをその本人が「選択」するのであれば「愛」は持続します。しかし、その本人が「けど、まあいいか」という風に「愛」に「共感」しないことを「選択」するのであれば、「愛」は持続しません。このように、「気」は我々の「アイデア」と「気持ち」の原因なのですが、その「気」に「共感」するかどうかということは、我々の魂の「選択」=「意志」によって決まります。

こういった「気」の性質と魂の「選択」=「意志」の関係性を「ぼくたちはきっと 試されているよ 愛し合える機会 見失わないか」という歌詞は表現しています。また、この歌詞の後の「見て見ぬふりの 大人には なってほしくはない アナタにわかってほしい 世界を変えるのさ」という歌詞は、前の歌詞にさらに意味を足しています。「見て見ぬふりをする」ということは「愛」に「共感」しないということを「選択」する立場であって、そうではなく「愛」に「共感」することを「選択」してほしいという願いが込められていますし、皆がそのように生きていくのであれば「世界を変える」ことができるからです。

また、このアルバムには『ドリームキャッチャー』という曲がありますが、この曲も「金の気」のことを歌っています。「この星に 網を張れ 目に見えぬ 愛の網 この星に 網を張れ 目に見えぬドリームキャッチャー」という歌詞が「ドリームキャッチャー」=「金の気」であることをよく表現しています。


【佐藤タイジの魂について】

佐藤タイジは若い頃一度「闇」に堕ちていたという話をかつてラジオで話しています。そんな当時の御自身の状態について、自然に対して挑むようなスタンスで生きていたとのことです。ある日、スタジオに行ってギターを持つ事さえもできない程に精神が乱れていて、そんな佐藤タイジを助けるためにバンドメンバーが自然のある場所へ佐藤タイジを連れて行ったというエピソードがあります。そこで苔の生えた石に太陽の光が当たり、その石が輝く様子が本当に美しく目に映り、「俺は自然に負けた」と思ったということです。

この時に佐藤タイジは「闇」から「光」へ方向転換しています。佐藤タイジが最も強く抱えている「光」は「闘いの心」であるのに対して、佐藤タイジが最も強く抱えている「闇」は「負けず嫌い」です。「闘いの心」は「闇」に勝つことを目指す気持ちからこそ「闘いの心」と「負けず嫌い」という2つの感情は非常に近い関係性にあります。だからこそ、佐藤タイジも自分の中に「負けず嫌い」を抱えています。また、「闘いの心」は「闇」を許せないという気持ちでもあるので、「闘いの心」は「嫌悪」や「怒り」とも近く、佐藤タイジは自分の中に「嫌悪」と「怒り」も抱えています。

「負けず嫌い」が「闇」という考え方を現代人は見失っていますが、本質的に「負けず嫌い」という「気持ち」は「自分のため」の気持ちです。「光」は「愛」を動機とする「相手のため」という立場であるのに対して、「闇」は「欲望」を動機とする「自分のため」という立場です。だからこそ、「自分のため」に誰かに勝ちたいという「負けず嫌い」という気持ちは「闇の気持ち」です。

この「俺は自然に負けた」というエピソードは佐藤タイジが「負けず嫌い」の方向性で生きることが終わり、「闘いの心」の方向で生き始めるというきっかけを意味します。人は経験を通して自分を変化させていくためにも生きていますが、このエピソードは「負けず嫌い」を抱えた魂がどのように「光」へ向かっていくことができるのかということを示し、我々日本人にとって大きな学びをもたらすエピソードです。

「負けず嫌い」の気持ちを抱いていると、相手よりも上にいる、相手よりも勝っていると感じる時に「快楽」を感じます。何故ならば、「相手よりも勝っている」という感覚は気持ちがいいものだからです。しかし、「負けず嫌い」の気持ちを抱いていると、相手よりも下にいる、相手よりも負けていると感じる時に「苦悩」を感じます。何故ならば、勝ちたい者にとって「相手に負けている」という感覚は辛いからです。

そして、自分が「負け」を認める時、「負けず嫌い」を強く抱える魂は「負けず嫌い」を止めたいと思うようになります。なぜならば、「負け」を認めるということは、ずっとその「負け」を背負うということであって、そんな状態は「負けず嫌い」が強い魂にとって、あまりにも「苦悩」が大きいからです。

そういう意味で、この「俺は自然に負けた」というエピソードは佐藤タイジの魂が「負けず嫌い」を終わらせる事に繋がった、大きな意味を持った出来事であって、神々が佐藤タイジを「光」へ導くために起こした出来事です。だからこそ、佐藤タイジはずっとこの記憶を持っています。我々の記憶は基本的に神々が守っていますが、佐藤タイジの記憶は太陽神様が守っているので、記憶に鮮明に残っている映像は太陽神様からの佐藤タイジに対する重要なメッセージです。

「闇」を理解するためには自分が「闇」に堕ちなければならず、「闘いの心」を強く実践するためには絶対に「闇」を強く知る必要があります。何故ならば、「闘いの心」を強く抱えた魂にとって「闇」を理解するということは「敵」を理解するということであって、「敵」の正体がよく分かれば分かる程、「闘いの心」を実践する時の気持ちが強くなるからです。よく分からない相手に対しては本気を出しづらいですが、相手が如何に強いのかを理解すると、その相手に勝つだけの気持ちを持つことに繋がります。

佐藤タイジは強い「闘いの心」を太陽神様と共に実践するために、神々によって一度「闇」に堕とされています。大きな役割を持つ魂はこのような過酷な経験を神々によってもたらされます。また、THEATRE BROOKという名前が意味するように、佐藤タイジは「闇」の時代から「光」の時代への流れを表現することを人生の役割として持っているミュージシャンであって、そのことを行なうために「闇」を理解する必要があり、一度わざと神々によって「闇」に堕とされています。そして、その後に「光」へ導かれています。

神々によって「闇」に堕とされる人間は魂が「強さ」を持った人間です。佐藤タイジの魂は非常に「強さ」を持った魂だからこそ、このような人生の役割を持っています。そして、このような大変な役割を持った人間に対しては、神々は必ずその役割を引き受けるかどうかということを本人に尋ねます。何故ならば、神々によって「闇」に堕とされる状況では、本当に救いの無い状況を経験するからです。そのような役割を本人の了承を得ずに神々が与えることは、あまりにも酷いが故に、神々は必ず尋ねます。

ですから間違いなく言えることは、佐藤タイジは地球のために自分が一度「闇」に堕ちることを選んだ魂であるということです。そういった地獄を経て、「光」へ向かい、今は「光」を表現している立場の人間になります。「闇」を経験しなければ、「光」の価値を真に感じることはできませんし、「闇」を経験しなければ、「闇」のことは理解できません。佐藤タイジは「闘いの心」という「光」を強く実践するために、一度「闇」に堕ちることによって「闇」という「闘いの心」にとっての「敵」を学んだ形になります。

佐藤タイジの魂が「光」へ強く向かったとは言っても、魂から完璧に「闇の気」が抜けることは難しいです。また、自分の中に「闇」があるからこそ、「光」が強くなるということもあります。ですから、佐藤タイジに「負けず嫌い」が完璧に無くなっているわけではなく、だからこそ悪魔はいつも佐藤タイジを「負けず嫌い」に陥れることを狙って様々な攻撃をしています。どうして悪魔はそれを狙うかというと、佐藤タイジが「負けず嫌い」に堕ちると、太陽神様が佐藤タイジに「気」で関与することができなくなり、悪魔が佐藤タイジを「気」で操作することができるからです。(基本的に人間は「光の気持ち」を抱くのであれば神々からの「光の気」を受け取り、「闇の気持ち」を抱くのであれば悪魔からの「闇の気」を受け取ります。)

例えば、悪魔は佐藤タイジの周りにいる人間に佐藤タイジの「負けず嫌い」をかき立てるような一言を言わせたりします。例えば、「負けず嫌い」の魂にとって「俺の方がお前よりも上にいるぜ」というような発言は「挑発」の意味を持っています。そして、こういった「挑発」を言われると「負けず嫌い」を少しでも抱える魂は「負けず嫌い」の気持ちに堕ちやすくなります。そういったことを狙って、悪魔は佐藤タイジの周りの人にこのような「挑発」の意味を持った言葉を言うように仕向けたりします。

また、悪魔は佐藤タイジが売れないようにずっと邪魔をし続けてきました。それは佐藤タイジや佐藤タイジの周りの人間の心に関与するだけでなく、日本人全体の気持ちに関与しています。悪魔と言うと、人間の後ろにいて人間に関与しているといったイメージを抱かれてしまうかもしれませんが、そうではなく、非常に力のある悪魔は一つの時間に日本全体に関与できます。そして、日本を荒らしている悪魔は非常に少数であり、力のあるその少数の悪魔によって佐藤タイジは苦しめられている形になります。神々にとって佐藤タイジは最も重要な人間の一人であって、だからこそ、悪魔は佐藤タイジが活躍しないようにとことん邪魔をしてきました。

「売れる」「売れない」という問題は、結局は日本人の多くがそのアーティストのことをいいと思うか悪いと思うかによって決まります。そして、神々も悪魔も人間が何を好きと思い、何を嫌いと思うかということについて「気」で関与ができます。神々と悪魔は日本人全体のそういった気持ちをいつも取り合っています。

そして、佐藤タイジについては可能な限り売れないようにするために、悪魔は最大限の邪魔をしてきました。このページの文章や佐藤タイジの音楽を聴くことによって、佐藤タイジの重要性を認識すればする程、佐藤タイジが可能な限り売れないようにするために悪魔が強く邪魔する理由がよく分かります。また、歌も演奏も容姿もすごくかっこいいのに対して、CDの売り上げ枚数や知名度がそのかっこよさと釣り合うものではないことからもよく分かります。内容と売り上げがこれだけ釣り合わないアーティストは珍しいと思います。

例えば、最新アルバムの『LOVE CHANGES THE WORLD』はものすごく「光」の価値がある楽曲が並び、Kj(Dragon Ash), 斉藤和義, 堂珍嘉邦(CHEMISTRY), 福原美穂, 仲井戸 "CHABO" 麗市,  Char, 細美武士, TOSHI-LOW, 浜崎貴司, 増子直純, 高野哲, うつみようこ, bird, Leyona, 矢井田瞳, 中村中, 元晴 & タブゾンビといった豪華ゲストが参加しているのにも関わらず、売り上げが内容と釣り合っていません。これだけ豪華ゲストを迎えているのですから、佐藤タイジを知らない人であっても買いそうであるにも関わらず、売り上げが伸びないのは目に見えない力の邪魔があるからです。悪魔は全力で佐藤タイジの作品が世に広まらないように、日本人の心に関与しています。

また、悪魔は佐藤タイジが売れないように日本人全体の心に関与を行なうだけでなく、そういったことを行なった上で佐藤タイジ本人に「闇の気」で関与することによって佐藤タイジの心に「闇の気持ち」を起こそうとします。例えば、「俺売れてねえなー」という形で「負け」の気持ちと、その感覚からの反動で生まれる「いや、売れてやる」という「勝ち」を目指す気持ちにすることで、佐藤タイジを「負けず嫌い」に陥れることをずっと狙ってきたはずです。しかし、それでも「負けず嫌い」に堕ちることなく、「光」を貫いてきたのは、「闘いの心」で「負けず嫌い」を乗り越えてきたからだと思います。

「(自分のために)売れたい」と思うのであれば、佐藤タイジは悪魔に心を掴まれることになり、「光」が実践できないようになります。それに対して「この国をより良くするために、誰かのために、一人でも多くの人に重要な音楽を届けたい」と思うのであれば、佐藤タイジは太陽神様と共に働くことになります。「闘いの心」と「負けず嫌い」を心に抱えるアーティストはこのような間を何度も振れていくことになります。

佐藤タイジが心の中で行なっている闘いの一つはそういった「負けず嫌い」との闘いだと思います。また、自分が経験する様々な問題やこの国が抱える様々な問題に対して「嫌悪」や「怒り」の気持ちに負けることなく、「闘いの心」に如何に自分を導くかという闘いもずっと行なってきたのだと思います。こういった闘いを「闘いの心」という「光の気持ち」と「負けず嫌い」「嫌悪」「怒り」といった「闇の気持ち」の違いを理解せずに行なっていくことは本当に大変なことです。どの気持ちが「光の気持ち」であり、どの気持ちが「闇の気持ち」であるのかはここに具体的に書いています。

http://junashikari.com/emotion/感情一覧(光・闇・中立)/

悪魔は佐藤タイジを「闇」に堕とそうと「闇の気」をもたらし、そういった攻撃に負けないように神々が「光の気」を通して佐藤タイジを「光」へ導くということは確実に長年に渡って強く行なわれてきたことです。つまり、佐藤タイジは神々と悪魔によってずっと激しい取り合いをされてきています。

よく歌手の方の中には精神を病んでしまったり、病気になってしまったりすることは本当に多いですが、そのことの背景にはものすごく悪魔に襲われることがあります。佐藤タイジはそのような攻撃をずっと受けてきたのにも関わらず、今でも強く「光」を実践しています。これはものすごく魂の能力が高い証拠でもあります。

佐藤タイジの魂は宮本武蔵と非常に似た傾向を持っています。宮本武蔵も佐藤タイジと同様に自分の中に「負けず嫌い」と「闘いの心」の両方を抱え、「闇」から「光」へ向かうことを目指し、それを見事に成し遂げた人間でした。

宮本武蔵については、火星神様と共に漫画を描いている井上雄彦の『バガボンド』を読むと非常に理解が進みます。『バガボンド』は火星神様が井上雄彦と共に書いているので、佐藤タイジの音楽と同様に、我々に多くの学びをもたらします。この絵で描かれている黒い何かは「闇の気」を視覚的に描いている形になります。

佐藤タイジの音楽と歴史は人間に知られるべきものだからこそ、悪魔は強く邪魔し続けてきました。そのことを踏まえて逆に言えることは、我々はもっと佐藤タイジの音楽と歴史を知るべきだということです。ずっと悪魔に襲われながらも、佐藤タイジは太陽神様と共に様々な名曲を創り、『THE SOLAR BUDOKAN』という非常に意義のあるフェスティバルを創り、それらを我々に用意してくれています。

このような意味で、佐藤タイジは我々が非常に重要視していくべき人間の一人です。そういったことをこれらの文章から理解して頂き、佐藤タイジの音楽を通して感じて頂けると幸いです。

 

【最後に】

日本社会は年々「闇」が強くなり、「光」が弱まっています。そして、「光」は「光」を求め、「闇」は「闇」を求めるという法則は常にあります。魂が「光」に満ちると「愛」を実践したいと思い、「欲望」は実践したいと思わなくなりますし、「闇」に堕ちると「欲望」を実践したいと思い、「愛」を実践したいと思わなくなります。これは「愛(相手のため)」と「欲望(自分のため)」というものがお互いに矛盾し合うだからこそ、必然的に生まれる傾向です。だからこそ、佐藤タイジがどんなに「光」を実践しても「闇」の強くなった日本人からの支持は非常に獲得しづらい状況がどうしてもあります。

また、日本人の「闘いの心」はかなり弱くなっています。どうしてそのように言えるかというと、もしこの国の国民の「闘いの心」が強ければ、もっと社会の様々な問題と闘っている人間を我々は多く見るからです。しかし、実際そのような日本人は本当に少なく、何かしらの「闇」と闘っている人間を見ることは本当に少ないです。これは、この国の「闘いの心」が如何に弱いのかを物語っています。

「闘いの心」を求める人間とは「闘いの心」に共感する人間のことであって、自分の中に「闘いの心」がある人のことです。しかし、今の日本人の「闘いの心」は弱いので、「闘いの心」を表現する佐藤タイジの音楽に共感しづらく、求めづらい現状があります。だからこそ、佐藤タイジは支持を得にくい状況があります。

佐藤タイジの音楽を聴くのであれば、我々は再び「闘いの心」を取り戻すことができます。何故ならば、歌を聴くという行為は魂の「共感」のプロセスであって、「共感」する「気持ち」を我々は自分の中に強くしていくからです。我々にとって、どういう気持ちをどれだけの時間、どれだけの強さで抱くかということは、我々の性格を変化させていきます。

例えば、「欲望」まみれな生活を過ごしていると「欲望」が強くなることはイメージしやすいと思います。どうしてこのような現象が発生するかというと、その「気持ち」を抱いている時は必ずその「気持ち」の原因の「気」が魂に入るからです。例えば、「欲望の気持ち」を抱いている時には必ず我々の魂に「欲望の気」が入り、その結果として魂の「欲望の気」が増え、性格がより「欲望」に満ちていきます。

このような意味で、「闘いの心」を抱いている時間が長くなれば、我々は自分の魂に「火の気(闘いの心)」が増えていきます。そして、音楽を聴くことはその歌の持っている「気持ち」との「共感」のプロセスであって、佐藤タイジの歌を聴いていると魂の「火の気」が強くなっていきます。

こういったことを理解するならば、もっと佐藤タイジの音楽を聴こうと思えます。また、我々が「闘いの心」の価値を理解するのであれば、佐藤タイジの音楽の価値がより分かり、もっと聴こうと思えます。

それぞれの「光の気持ち」はそれぞれ不完全で、それぞれの「光の気持ち」はお互いを補い合うようにできています。例えば、「相手のため」に相手を笑わせようとすることも(火の気持ち1=元気・笑い)、相手に優しい言葉をかけることも(風の気持ち=優しさ)、相手の抱える問題を解決しようとすることも(水の気持ち=問題解決の心)、それぞれはとても大事であって、こういった異なる「愛」を実践する人が増えれば増える程、皆が協力し合って世界はいい方向へ向かいます。そして、「火の気持ち2」の「闘いの心」はとても価値のある一つの「愛」の実践方法です。

日本人が「愛」の実践方法の種類とそれぞれの長所と短所を認識した時、「闘いの心」の価値を真に理解することに繋がります。そして、太陽神様と火星神様の「闘いの心」の違いを認識した時、より高いレベルで我々は「闘いの心」について理解し、太陽神様の「闘いの心」と火星神様の「闘いの心」を使い分けることができます。

そして、その違いを学ぶ上でとても大事な教材となるのが、太陽神様と火星神様と共に「闘いの心」を歌ってきた歌手の歌です。そういった意味で、佐藤タイジは太陽神様の「闘いの心」を表現し続けている非常に重要な歌手であって、これからの時代においてとても重要な資料を残し続けた歌手です。絶対にこれからの時代にもっともっと注目されなければならない歌手です。

また、そのことに加えて、佐藤タイジは『THE SOLAR BUDOKAN』=『太陽神様の闘いの心の場』といった非常に重要な、太陽神様と人間との間で行なわれる祭りを創ってきた人間であって、非常に行動力のある一人の魂です。そういった行動に日本人は付いていくべきですし、そのことで我々が学ぶことは多くあると思います。例えば、『THE SOLAR BUDOKAN』に参加すれば、太陽神様がかなり「火の気」を我々に入れることができるので、今までに感じたことのない、とてもいい「火の気持ち」を感じることもできると思います。そして、その「火の気」を魂に抱えて帰っていくことになります。大げさな言い方をすると、いい形で生まれ変わって日常に戻っていくことになります。

我々人間にとって新しい「光の気持ち」を学ぶこと以上に価値があることはありません。何故ならば、一つの新しい「光の気持ち」を学ぶということは、我々の魂を「光」に寄せていくからです。我々は「光」=「愛」を学ぶために生きています。「光」の価値を知るために、「光」との対照的な「闇」がある世界に生きています。ですから、新しい「光の気持ち」を学ぶことは我々が生きる目的を実践する行為でもあります。

また、それは「幸せ」を学ぶ過程でもあります。「幸せ」は「光の気持ち」を抱く時に生まれる「喜び」の気持ちです。「愛」を抱く相手のために我々が抱く気持ちが「光の気持ち」ですが、「光の気持ち」を抱いている時に、その相手がいい方向へ向かうのを感じるであれば「喜び」を感じます。この「喜び」が「幸せ」という言葉の真の意味になります。「欲望」は「快楽」をもたらしますが、「快楽」は「幸せ」ではありません。それに対して「愛」は「喜び」をもたらしますが、「喜び」は「幸せ」そのものです。

他者が「幸せ」を学ぶことができることができる道具を用意することは本当に価値あることであって、それは神々と共に音楽を創る音楽家の使命でもあると思いますし、佐藤タイジは音源を残すことだけではなく、太陽神様との祭りを通してもそれを行なってくれています。その場にいる皆で「光の気持ち」を抱き、皆がいい方向に向かっていくことを通して感じるのが「喜び」です。そういった「喜び」の中で太陽神様の「火の気」を魂に獲得していくという儀式が『THE SOLAR BUDOKAN』というフェスティバルの意味になります。

神々と共に働く歌手は日本人の中に少なくはありません。しかし、我々日本人の全員が人生の教科書のように一度通るべき歌を残している歌手は限られています。佐藤タイジは太陽系における長である太陽神様と共に、太陽神様の「闘いの心」を表現し続ける数少ない歌手の一人ですから、我々日本人の全員が一度通るべき歌手であることは間違いないと御理解して頂けると幸いです。そして、『THE SOLAR BUDOKAN』のような非常に意義あるフェスティバルを用意してくれているので、是非参加して頂けると幸いです。