『私の人生の流れ』の4つ目の文章になります。『私の人生の流れ 概要』『私の人生の流れ1〜3』はこちらなので、まだ読まれていない方はこちらから読んで頂けると幸いです。

『私の人生の流れ』概要:http://junashikari.com/profile/life-story/
『私の人生の流れ1(生まれてから高校時代まで)』:http://junashikari.com/profile/life-story1/
『私の人生の流れ2(浪人時代)』:http://junashikari.com/profile/life-story2/
『私の人生の流れ3(大学時代)』:http://junashikari.com/profile/life-story3/

ここでは、大学卒業後から旅立ちまでのことを書かせて下さい。以下、その頃にFacebookに投稿した文章などを取り上げながら、当時自分が何を経験し、何を感じ、何を考えていたのかを解説したいと思います。この一年は、神々はかなり分かりやすく私の文章に関与しています。

この時期に神々が目指したことは、引き続き様々な「闇」を経験することと、様々な人のことを知るということです。上の写真はこの時期に私が「闇」の中で様々な魂と出会ったことを伝えるために神々が撮ったものになります。台風の日に撮っているので、風の神様である木星神様が強く関与しています。


【コントラバスの師匠について】

私は大学一年からコントラバスを始めて、合計四人にコントラバスを習っています。そして、四人目のコントラバス奏者に最も傾倒しました。齋藤徹というコントラバス奏者で、World's End Girlfriendと同様に「闇」の神様と共に音楽を行なっている音楽家になります。そのことはアーティスト写真にもよく表れています。

これは頭の部分がライオンになっているコントラバスと並んで写っているものですが、このライオンが齋藤徹と繋がっている「闇」の神様です。この2人は一緒に齋藤徹のコントラバスを奏でています。また、齋藤徹を描いた小林裕児の絵画があるので貼付けておきます。小林裕児も神々と共に働く芸術家です。

これは先日発売された齋藤徹の還暦記念コンサートの録音のCDですが、小林裕児の絵画を左右対称に引き延ばしています。オリジナルの絵画は左側のみです。この絵画で齋藤徹は首が折れているような姿勢をしていますが、これは「闇」の姿勢です。そして、音が緑色の人間と青色の鳥で表されていますが、これは「闇」の神様の「気」のことを表しています。「気」はその「気」の主が操ることができるものなので、一つ一つの「気」はその主の魂そのもののようです。だからこそ、このように表されています。どうして鳥が青色かというと、青は「水」の色であって、齋藤徹は本質的に「水の人」だからです。また、『TRAVISSIA』とは1967年にブラジルで生まれた名曲ですが、この詩が齋藤徹が「闇」の神様と繋がっていることをよく表しているが故に、齋藤徹のホームページや還暦記念アルバムではこのタイトルが使われています。また、『TRAVISSIA』はホームページのタイトルにもなっています。

私は初めて齋藤徹のコンサートに行った時に、涙を止めることができなくなってしまい、立ってもいられなくなりました。その時のコンサートはどういったものだったかというと、コントラバス五台によるアンサンブルになります。そのグループの映像があるので、貼付けておきます。
 


初めてこのグループを聴いた時の感想を後々Facebookに書いたものがあるので、貼付けておきます。

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2012/4/19(Facebookより)

昨日は、Bass Ensemble Gen311 を聴いた。
なんとかして、もっとたくさんの人に聴いてほしい音楽。
この感動体験は他に有り得ません。

ガット弦コントラバス五台による倍音の海。
コントラバスの天才、齋藤徹の音楽。

巨大な黒い太陽が日の出を迎え、それがゆっくりとした波のように迫ってきて、最終的にこちらを飲み込んでしまいます。しかも、その太陽はすごく人生の色をしていて、僕は涙を流さずにはいられません。(自分の表現力の無さが腹立たしい!!)

震災後にスーデラで聴いた時が初めてでしたが、あの時以来一年間、昨日まで心がここまで動いた時間はありませんでした。すごく個人的なことを言うと、就職をやめてコントラバスと生きようと決心したのもそのスーデラの時です。

どうか聴いてみて下さい!

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ここで、「巨大な黒い太陽が日の出を迎え、それがゆっくりとした波のように迫ってくる」ということを書いていますが、この言葉は齋藤徹が「闇」の神様と共に働いていることをよく捉えています。当時の私は神々の存在も信じていませんでしたが、神々の関与によって齋藤徹の本質を捉えています。

太陽は太陽神様が宿っているものであって、お天道様とも言われます。そして、「光」の基本色は「白」であるのに対して、「黒」は「闇」の基本色です。だからこそ、ものすごく強い明かりは全てを「白」に照らし出し、全く明かりがないと、全ては「黒」に見えます。

そういう意味で、「黒い太陽」という言葉はそのまま「闇の神様」のことを意味しています。また、このグループの音楽はその神様の音楽であって、齋藤徹の音楽を聴くとその神様からの「闇の気」が飛んできます。コントラバスは音量と低音と倍音がよく出る楽器なので、五台も並ぶとその「気」は半端ではないものとなります。そういったことを、「巨大な黒い太陽が日の出を迎え、それがゆっくりとした波のように迫ってきて、最終的にこちらを飲み込んでしまいます」という言葉で表現しています。

私は神々の導きによって、齋藤徹のコンサートを聴きに行き、弟子入りしています。どうして神々は齋藤徹と私を繋げたかったかというと、より深い「闇」を学ばせるためです。World's End Girlfriendの場合は、ただ音楽を聴くことによって「闇の気」をもらいますが、齋藤徹の場合は実際に話す時間も多かったが故に、思想的にもかなり「闇」を学びました。齋藤徹は非常に賢い人間で、音楽だけではなく言葉も達者です。また、我々は2人とも「水の人」なので、とても話が合いました。そういったこともあって、私が「闇」を学ぶ上で最もふさわしい日本人コントラバス奏者と考えたが故に、神々は我々を繋げています。実際、齋藤徹が繋がっていた「闇」の神様によって、私は多くの「闇の気」をもらいましたし、「闇」自体を学んでいます。

齋藤徹が「闇」の神様と共に音楽を奏でるということは、齋藤徹の人生の役割であって、悪魔と共に働くこととは意味が異なります。悪魔と共に「闇」を実践することは間違いを犯すことであるのに対して、齋藤徹は「闇」の神様と共に「闇」を実践すべきであって、それをやっているのですから正しいことを行なっています。また、齋藤徹は音楽的には「闇」を奏でていても、性格が悪いわけではなく、とてもいい人です。そういった点も誤解しないで頂けると幸いです。

齋藤徹が持っている大きな役割はコントラバスという楽器の可能性を広げることであって、それを「闇」の方向性へ広げることです。神々はコントラバスという楽器を非常に重要視しています。何故ならば、人間が神々といった霊的存在と共に「気」を広げることにおいて、非常に能力が高い楽器だからです。だからこそ、私もコントラバスを弾いています。

齋藤徹は度々私に「俺の音楽は死んだ後に売れるだろう」と言っていました。今の時代の人々は齋藤徹の音楽の価値に気付くことは難しいと思いますが、時代が後になるにつれてその価値は理解されていくので、齋藤徹が繋がっている「闇」の神様は齋藤徹にこのことを言わせていた形になります。

コントラバスについて、この頃に私はソロ公演や他のアーティスト(音楽家・ダンサー・画家など)との共演を重ねています。そのことを通して、神々や精霊といった霊的な存在とコントラバスを奏でるということの能力を上げていった形になります。

多くの場合は即興演奏(予め何を演奏するかは決めない演奏のこと)を行なっていましたが、即興はその場の「インスピレーション」だけに委ねて演奏をしていく行為です。そして、「インスピレーション」とは「アイデア」のことですが、神々や悪魔や精霊といった存在が「気」を通して我々に「アイデア」を与えている存在なので、即興演奏は神々や悪魔や精霊と密に働きやすい行為です。だからこそ、即興演奏を通して目に見えない存在と共に働く能力を伸ばしていった形になります。

様々な霊的な存在と演奏する能力を高めることは、私のコントラバス演奏を通して、他の人がその霊的存在について理解する役割を果たします。何故ならば、その霊的存在が私に弾かせたい音には、その霊的存在の性格が表れるからです。そういう意味で、この能力を上げることは非常に重要だった形になります。

また、この当時歌もののサポートもごくわずかですが、行なっていました。Ngatariという歌のユニットがあり、そのNgatariのサポートを時折行なっていました。

彼らと出会ったのは私が彼らのライブを大学生の時にたまたま観に行ったことであって、大学卒業後に、コントラバスを弾いてほしいという依頼を受けていた形になります。私がNgatariを知るきっかけになったライブの映像があるので、載せておきます。当時この『小舟』という曲をとても好きになり、サポートをしている時も弾いていて最も好きな曲でした。

NgatariのボーカルのJessicaは金星神と繋がっている歌手です。そして、この『小舟』で歌われている「君」とは私のことを意味しています。また、他にも『Ngatari』の曲の中で私のことを意図している歌は多くあります。カルロス・レカルテ同様、だからこそ神々としては私とNgatariを繋げています。

「Ngatari(ガタリ)」とはマオリ語で「揺れる」「考えが揺らぐ」という意味であって、私の人生の流れとも重なっています。私は元々は神々のことも信じておらず、「闇」を抱えて生まれてきたのに対して、神々の存在を知り、「光」のシャーマンとなることを人生の役割としているからです。そういう意味で私の人生は強く考えが揺らいでいます。

私を意味するキーワードとして「船」という言葉を神々が使ってきたことは書きましたが、この曲のタイトルは「小舟」ですし、この歌詞の内容から私のことを意味していることが分かります。

君が来たら忘れた
泣き出しそうな危うさで
触れても消えない

君が僕を見つける
響く
優しくて哀しくて

こころの景色は
めくるめく世界
きっと君を失くしたら鳥になる
どこまで行ける小舟になる

Jessicaは金星神と共に歌っているので、この歌の「僕」とは金星神のことです。そして、私は星に神々が宿っていること、金星神の存在を知ることを人生の役割として生まれてきました。そういう意味で「君が僕を見つける」=「私が金星神の存在を知る」という歌詞がありますし、私が元々「闇」を抱えていたことを「泣き出しそうな危うさで」という歌詞で表現しています。また、「どこまで行ける小舟になる」という歌詞がありますが、この歌詞は『私の人生の流れ6』で書いているAimerの『ポラリス』とも同じ表現です。

また、Ngatariには『June Theater』という曲があります。

June Theater
June Theater
眸(ひとみ)は消えて
ぐらりと針は振れて
生きる緊張感は消えた

June Theater
タバコの火消して
カレンダーを埋めて
ぼくは少し笑う

空は反転して
June Theater
June Theater

空は反転して
June Theater
June Theater
June Theater
June Theater
June Theater

「theater」とは「劇、劇場」という意味です。そして、「June」は私の名前である「Jun」を意味しています。フランス語では形容詞の語尾に「e」を足すことがありますが、この「June」はそのような使われ方です。

この曲は神々が私のことを見つめている目線のことを意味しています。「空は反転して」という歌詞が二度に渡って歌われますが、「反転」とは「ひっくり返ること」であって、星の神々が空の上から地球を見つめていることを意味します。星の神々からすると、地球の方向が「空」なので、「空は反転して」と言うことができます。

また、「目が死んでいく」と言うように「闇の気」で満ちると、目が変わってしまいます。そのことを「眸(ひとみ)は消えて」という歌詞で表し、生まれる前は「光」だったのに、「闇」を背負って生まれてきたことを「ぐらりと針は振れて」という歌詞で表しています。

そして、「タバコの火消して カレンダーを埋めて」とは「闇の時期を終わらせ 神々の筋書きを完成させる」ということを意味します。タバコは「闇の気」を吸うものであって、だからこそ「タバコ」は「闇」の言い換えであると言えますし、神々はいつも筋書き=予定を立てます。そのことを「カレンダー」という形で表現している形です。つまり、「闇」を経験する時期を超えて、神々が筋書きを書き始めるということが、「タバコの火消して カレンダーを埋めて」という歌詞で表されています。金星神は地球上に生きる全ての命に対する強い「愛」を抱いた神様なので、私が神々によって苦しめられることも本当は望んでいません。だからこそ、私が「闇」を経験する時期が終わることに対して「ぼくは少し笑う」と言っている形になります。

このような意味で、この『June Theater』は私のことが描かれている歌です。こういった曲がNgatariの曲には多くあります。当時Ngatariと演奏しているリハーサル映像があるので貼付けておきます。

この曲はSalyu×Salyuの感じに似ているのですが、JessicaもSalyuも同じ金星神と繋がっているからこそ、神々が似させた形になります。


【働いていた場所について】

私は大学四年の就職の内定を辞退した頃より、喫茶茶会記という文化サロンの副店主を務めています。この場所との出会いはすごく運命的だったと思っています。このお店の月曜日と土曜日を任され、週にその二日間は店主のように店を回していました。

この場所はライブができる場所で、お店の売り上げを上げるためにアーティストの方に場所を使ってもらったり、自分がイベントを主催する必要があったので、当時の私はイベントオーガナイザー(イベントを企画する人)でもありましたし、多くの人は私のことをイベントオーガナイザーとして見ていたと思います。

ただ、イベントをやるのであれば意味のあることがしたく、当時の自分にとって大事だった「アート」と「人間関係」の2つをテーマにした『異文化交流ナイト』というイベントを毎月2回程開催していました。国内外・新旧問わず、個性的なアーティストの方に出演をお願いし、自分が演奏することもあり、お客さんは色々な人が来ていました。このイベントに関しては神々もかなり集客に関与していたので、毎回このお店の満員程度の人数の人が来ていて、賑わっていた形になります。所謂アンダーグラウンドイベントだったと思います。

ただ、今振り返ると、かなり「闇」のアーティストに出演をお願いしていたと思います。当時の自分は「光」と「闇」という観点を持っておらず、自分が「闇」も抱えていて、「アート」に関しては「闇」のものも好きだったからこそ、「闇」のアーティストもかなり出演していた形になります。そのイベントのダイジェスト映像や写真があるので、貼付けておきます。
 


このお店や自分が主催していたイベントを通して、色々な濃い人達に出会いました。当時の自分にとって、単純にそれは刺激的な日々でしたが、今振り返ると色々な「光」と「闇」の人々を知った日々だと思っています。神々としては、そういったことを私に教えるためにこの店やイベントを主催させていた形になります。

このお店に加えて、六本木のSuper Deluxeというアートスペースや中目黒のバーGAMAでも働いています。旅を決意してから旅立ちの日までにかなりお金を溜める必要があったが故に、こういった場所でも働いていた形になります。ただ、どちらも元々この場所が好きだったが故に働いた形になります。それぞれの場所は異なる人々との出会いをもたらしたので、色々な人を知る意味でとても良かったと思っています。

Super Deluxe(六本木)


Bar GAMA(中目黒)


【屋久島の精霊について】

屋久島の森には「闇」の精霊がいます。それぞれの植物には、それぞれの植物を統括する精霊がいるのですが、その精霊の中には「光」の存在も「闇」の存在もいます。屋久島の森のある植物には「闇」の精霊が宿っており、悪魔のような存在です。これをよく描いているのが『もののけ姫』のこだまです。

『もののけ姫』の森は屋久島を参考に描かれています。そして、その森にいる存在がこだまであって、これは屋久島の森にいる「闇」の精霊の「闇の気」を視覚的に表現したものになります。「気」はその「気」を司っている魂が操ることができるものなので、その「気」の一つ一つは人格を持った存在のような意味を持っています。我々人間は一つの時間に一つの感情と思考しか持てませんが、神々や悪魔や精霊になると、一つの時間に多くの感情と思考を持てるようになります。そういった一つ一つの感情と思考がこだま一人一人として描かれています。屋久島の「闇」の精霊はいたずら好きなので、こだまもそういった形で描かれています。宮崎駿は神々と真に共に働いているので、このような重要な事柄をいつもアニメの中で表現しています。

「闇」の神様と同様に、「闇」の精霊も神々の組織の一員です。ですから、神々の指示には従います。神々としては、私に「闇」を教えるために、屋久島の「闇」の精霊を使おうと思い、私は屋久島の精霊に呪われるために2013年6月に神々の関与によって屋久島に行っています。突然「屋久島に行こう!」と思い立って、行った形になります。

神々がこれらのことを計画的に行なったということが屋久島に行った当時の日記からよく分かるので、その日記を貼付けておきます。

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2013/6/28(Facebookより)

今屋久島から東京に戻りました。昨日は縄文杉に行きましたが、かけがえのない経験でした。もちろん、縄文杉自体もすごかったのですが、縄文杉一帯の森が本当に素晴らしかったんです。

全てが濃い霧に覆われている中、沢の水の音だけが聞こえ、太陽の光によって屋久杉が浮かび上がる。とてつもない神性、エネルギーでした。いくら言葉を尽くしても表現し切れないです。

そもそも、山を歩き回った二日間、終始自我が邪魔でしょうがありませんでした。屋久島の美しい森の世界を目の前にして、自分の中に起こる悪しき感情・悪しき言葉・悪しき記憶、ありとあらゆるものが汚らわしく、とにかくそれを振り払うことに必死でした。清い森を目の前にした分、自分の不純な精神を強く感じたのだと思います。今回、生きていてすっきりしない感覚を根源的なコンプレックスとして認めさせられました。

自我を捨て、森と同化したいとずっと考えていると、これは死ぬしかないのでは、と思いました。自我を持ったこと自体が全ての間違いだと感じたからです。ただ、「私の死とは世界の終わりを意味する=私が生まれて初めて世界は生まれた」という思想を信仰する限り、その方法は取れません。世界が終わってしまえば、その目的を果たせないからです(そもそもその思想が正しいかどうかは死のその瞬間までとっておいてます)。結局、生きながら魂を修練させていくしかありません。それは今の自分にとってはとてもとても長い道のりですが。。。

終始そんなことを考えていました。しかし、その縄文杉付近の森に入った瞬間、目の前の景色によって、悪しき自我は忘れさせられました。口が開き、目が開き、耳が開き、足が止まり、思考が止まり、心を動かされている自己だけが残る。それは、素晴らしい芸術体験でも度々経験してきたことですが、今回は自己のより深い部分で起こりました。かけがえのない体験です。

悪しき自己を捨てること、自己を極限まで薄めるということをあの場所が経験として教えてくれました。それは、偉大な存在の姿を経験として知ることができたとも言えます。それを目指すなんてことはあまりにも傲慢ですが、いつかはあの森と同化したい。

東京での生活は悪しきものに満ちてますが、割り切らず、振り回されず、三ヶ月清くありたいと思います。いい旅でした。

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この日記で、縄文杉付近の森に入るまでは「悪しき感情・悪しき言葉・悪しき記憶」が自分の中に起こっていたということを書いていますが、これは私の身体に「闇の気」を宿していた存在が私に「悪しき感情・悪しき言葉・悪しき記憶」をもたらしていたからです。その人間に「気」が宿っているならば、その「気」の主の魂が「感情」や「アイデア」を与えることができるからです。

では、これはどの魂が私の中に起こしていたかというと、齋藤徹と繋がっている「闇」の神様になります。当時の私は齋藤徹からコントラバスを習うことを通して、その神様からの「闇の気」をもらっていたからです。そして、その「闇」の神様は神々の指示の下、私を苦しめていた形になります。

神々は屋久島の精霊が私に大量の「闇の気」を宿し、私に取り憑くことを行なわなければなりませんでした。そして、「気」がその人間に入るかどうかは、その人間がどれだけその「気」に共感して「気持ち」を抱くかによります。大きく「気持ち」が動く瞬間とは多くの「気」がその人間に入る瞬間であって、多くの「気」を「持つ」からこそ、「気持ち」が大きく動きます。

屋久島の森で私の「気持ち」を強く動かすために神々が取った方法は、その共感の瞬間までは徹底的に私を別の「闇の気」で苦しめることです。そして、その苦しい感覚からいきなり天国のような感覚をもたらすことによって、強く「気持ち」を動かそうと計画し、この時は実現しています。ですから、この日記の出来事は神々の指示の下、「闇」の神様と「闇」の精霊が見事に動いたからこそ実現しています。

私は海外に旅立つ前にもう一度屋久島の森に行きたいと思い、その時に創った映像は今でも残っているので御覧になって頂けると幸いです。当時の私は「気」のことも知りませんでしたが、この日記の中でも、この映像の中でも「エネルギー」という形で「気」のことを表現しています。
 


(ナレーション)

2013年11月3日、屋久島にいます。海外に出る前に、どうしてももう一回来たかった場所になります。昨日まで三日間、山に籠っていました。

屋久島の森以上に自然なエネルギーに満ちた場所を僕は知りません。たぶんそれは、たくさんの水にもたらされるものがあるんだと思います。それが、苔だったり、大きな大きな木だったり、また朽ちた木から新しい植物が芽生えていることだったり。

今回で屋久島は二回目になるんですけど、初めて来た時に縄文杉付近の森に深い霧が立ち込めていて、その様子に、とても感動しました。だから今回も、それを観に行く、その中に身を置くことが旅の一番の目的でした。ずっとそれを待ってたんですけど、なかなか霧が出てこなくて、3日目の朝もダメで、もう本当に諦めて違う場所に行こうとした時に、ようやく出てきました。

霧っていうのは、こちら側とあちら側の境界線をとても曖昧にしてくれるものなような気がするんです。だから、霧が立ち込めると、その純粋なエネルギーに満ちあふれた森と自分の境界線がどんどん曖昧になっていくんです。それが、他のどんな体験よりも、かけがえのない体験だと思っています。

よく、「結局何をしたいの?」と言われることがあるんですけど、最近はその答えを明確に持っていて、とにかく、自然でありたいなと、、自然でありたいと思っています。

では、自然であるとはどういうことかというと、純粋状態にあることだと思っています。では、純粋状態にあるとはどういうことかというと、純粋な意識を持つことだと思います。

あの縄文杉付近の霧がかった森はその状態に最も自分を導いてくれる、とてつもなく重要なものなんです。だから、海外に行く前にそれをどうしても感じたかった。。これからの長い人生、数年に一回はそこに身を置いて、自分がどこまで純粋状態であれるかということを測っていきたいと思っています。そして、いつか、あの森のような人間存在を手に入れたいなと思っています。

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この映像は屋久島の精霊が創っています。当時の私は自分が話し、自分が演奏し、自分が撮影し、自分が映像編集をした気でいましたが、実際は屋久島の精霊に私はただしゃべらされ、演奏させられ、撮影させられ、映像編集をさせられた形になります。ですから、このナレーションは「真実」と屋久島の精霊が私に引っ掛けていた「嘘」が表現されています。

屋久島の精霊が私に教えた「真実」は「水」に関する「真実」です。当時の私は「気」のことも、「水」が「気」を宿すことができるものであることも知りませんでした。しかし、このナレーションの中では「水」が「気」を宿すことができることを表現しています。

「屋久島の森以上に自然なエネルギーに満ちた場所を僕は知りません。たぶんそれは、たくさんの水にもたらされるものがあるんだと思います。それが、苔だったり、大きな大きな木だったり、また朽ちた木から新しい植物が芽生えていることだったり」という発言は、屋久島の精霊がどのようにして自分の「気」を広げているのかをよく説明しています。

「水」は「気」を宿すことができます。それは霧なども同様です。屋久島は非常に雨が多く、そのためにものすごく湿度も高く、霧もよくかかっているので、それらの「水」に屋久島の精霊は自分の「気」を宿し、屋久島の森中に広げています。そして、このような形である精霊の「気」が広がっている場所はありません。何故ならば、これだけ雨が多く、「水」に満ちた場所は無いからです。そういった意味で、「たくさんの水にもたらされるものがある」「屋久島の森以上に自然なエネルギーに満ちた場所」はありません。そして、その精霊は植物の精霊であって、そのことを「それが、苔だったり、大きな大きな木だったり、また朽ちた木から新しい植物が芽生えていること」という言葉が説明しています。そして、以下の言葉でより説明を深めています。

「霧っていうのは、こちら側とあちら側の境界線をとても曖昧にしてくれるものなような気がするんです。だから、霧が立ち込めると、その純粋なエネルギーに満ちあふれた森と自分の境界線がどんどん曖昧になっていくんです。それが、他のどんな体験よりも、かけがえのない体験だと思っています。」

この言葉の意味は、その植物の「気」が宿った「霧」を呼吸によって摂取することによって、大量の「気」を摂取し、そのことによって、自分の内側もその精霊に支配されている森と同化するということが「こちら側とあちら側の境界線をとても曖昧にしてくれる」という言葉で説明されています。そして、「気」が「気持ち」の原因であることも捉えている言葉です。

このように、私も意図していないにも関わらず、屋久島の精霊が屋久島の雨が多い気候を利用して、「気」を使って何をしているのかを私のナレーションは説明しています。私はただしゃべらされているからこそ、このような「奇跡」は発生します。また、このナレーションを話している途中から雨が降り始めていることが分かりますが、これは雨を司っている水星神様がわざと起こした関与になります。「水」に関する真実を話すという「奇跡」の場面だからこそ、雨を降らせています。

そして、屋久島の精霊が私に付いた「嘘」であって、私に取り憑くために私にもたらした罠が以下の発言になります。

「よく、『結局何をしたいの?』と言われることがあるんですけど、最近はその答えを明確に持っていて、とにかく、自然でありたいなと、、自然でありたいと思っています。では、自然であるとはどういうことかというと、純粋状態にあることだと思っています。では、純粋状態にあるとはどういうことかというと、純粋な意識を持つことだと思います。」

「自然でありたい」ということは言い換えると、神々の「光の気」と共に生きるということです。しかし、そのことと「純粋な意識を持つ」ということは必ずしも一致しません。どういった「気」を持つかによって、我々の「意識」に影響を与える霊的存在(神々や悪魔や精霊)は異なってきますが、「純粋な意識を持つ」ということは一人の霊的存在の「気」で自分の身体を満たすことだからです。「純粋」とは「混じり気がない状態」のことを意味します。

そういう意味で、「純粋な意識を持つ(一人の霊的存在の『気』で身体を満たす)」ということは「自然である(『光の気』で満ちる)」ことの、前提条件に過ぎません。もし、神々の「光の気」で身体を満たすのであれば、「自然である」と言えますが、「闇」の精霊や悪魔の「闇の気」で身体を満たすのであれば、「純粋な意識を持つ」ことはできても、「自然である」こととは真逆の状態に達します。

この「嘘」を私に言わせながら、編集段階において、陶酔的な音楽を重ねることにより、観ている人間の気持ちが高ぶるような仕組みを用意しています。我々人間は、何らかの言葉を聞いている時に、どういった気持ちを抱いているのかということが、その言葉を信じるかどうかということに強く影響します。その言葉を聞いている時に音楽で陶酔状態に持ち込めば、その陶酔状態が故に人は言葉を信じます。屋久島の精霊は自分がいつもそういったことを人間にしているということを示すために、このような映像編集にしています。この音楽の感じは私が屋久島で感動体験をしていた時の精神状態を音に置き換えて表現したものなので、いつも屋久島の精霊が人間に行なっている関与そのものです。

屋久島の精霊は感動体験を利用して、私に「嘘」を信じ込ませ、この「嘘」によって私に「呪い」を与え、その「呪い」によって私が屋久島の精霊の「気」で身体を満たすということ促した形になります。この映像の最後にはカメラを私が腹の中に入れるシーンで終わっていますが、これは屋久島の精霊の「気」が私の身体に入ることを示唆しています。私としては雨の水滴がカメラに付いたので、それを拭くためにこのような仕草をしたのですが、神々と屋久島の精霊はこのカットを撮りたいが故に、私にこの部分の撮影をさせ、その時にカメラに水滴を付け、そのカメラを拭く場面を残し、編集段階において屋久島の精霊が私をコントロールすることでこのような映像になっています。

このような意味で、人間は本当に霊的な存在に動かされているものであることを理解して頂けると幸いです。重要なことは一体どの霊的存在と共に生きるのかということを選ぶということです。もちろん、神々と共に生きることが最善になります。

私は一回目に屋久島に行った後の九月末に屋久島での感動体験を再現するためのライブをしています。そして、そのために屋久島での感覚を思い出そうといつも練習していました。このことによって何が起こるかというと、屋久島を去った後も屋久島の精霊に「闇の気」を通してコントロールされることにになります。そのことがよく分かる文章があるので、載せます。

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2013/8/21(Facebook投稿より)

日々、森が恋しくてしょうがない。いつも、ほとんど鬱の状態までいく。

そんな時、自分の中に森を見出すためにコントラバスを弾く。どんな音を弾くか、どんな音符を弾くか、みたいなことを考えているとなかなか森に入れない。うまくいく時はいつも自分の中の森に導かれる。

今度のソロリサイタルはその導かれる感覚だけを大事にしたいと思います。もう、他のことは考えません。考えてはいけません。いい演奏をしようとすると、いつもくだらない自己に落下してしまいます。

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この文章は私が屋久島の精霊に支配されていたことをよく示しています。ここで「鬱」と言われているのは「憂鬱」という意味ですが、屋久島の精霊としては私にコントラバスを弾かせるために、私がコントラバスを弾いていない時間は、私の身体に宿っている「闇の気」を使って「憂鬱」にさせていたということです。そして、屋久島の森を再現させるために、演奏に関与し、その精霊が関与しやすくするように私に様々な「アイデア」を入れています。

「うまくいく時はいつも自分の中の森に導かれる」という言葉は「うまくいく時はいつも自分の中の闇の気に導かれる」ということであって、「今度のソロリサイタルはその導かれる感覚だけを大事にしたいと思います」というのは、屋久島の精霊が私の演奏をコントロールする上で好ましいからこそ、思わせたことです。また、「いい演奏をしようとすると、いつもくだらない自己に落下してしまいます」という一言は私に自分自身のことを「嫌悪」させ、そのことによって自分を表現する演奏にしないように関与していたことが分かります。

「闇」の魂の人のコントロールの仕方はいつもこのような形です。分かれ道があった時に、「闇」の魂がその人間に右に行かせたければ、左のことを「嫌だ」と思わせます。そういったことをこの文章はよく表しています。

そして、この「闇」の精霊は「憂鬱」や「嫌悪」といった気持ちを与えるだけではなく、様々な形で私を苦しめています。そのことがよく分かる投稿が以下の投稿です。

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2013/8/5(Facebook投稿より)

今日は何年ぶりかに海に入った。

波の強い夜の海に入って、沖の方に泳いだ。そしたら、もっと生きてる実感を感じたくなって、さらに奥の方に進んでいった。高い波が襲ってくる中、暗闇の中を途中声も出る程必死で泳いだ。少し気持ち良かった。

そして、もうそろそろ戻ろうと思って、砂浜の方を振り返った時、その砂浜までの遠さに愕然とした。だいぶ潮に流されたので、泳いでも泳いでも近づかない。夜で真っ暗なので、泳いでも進んでいる感じがしない。離岸流にはまってしまったような気もした。本当にこっちの方向でいいのかも不安になる。

「ああ、これで終わるのかなー」とさえ思った。
「まだ、やり切れなかったことばかり、人生そんなもんかもな、、、けど、まだ続けたい」「こんなところでこんな死に方をしたら、お袋に本当に申し訳ないな、、、」

そんなことを考えながら必死に泳いでいたら、ギリギリのところで足が着いた。波の高い夜の海なんて入るもんじゃない。

死ななくてよかった。
引き続き、やるべきことを続けます。

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「闇」の精霊としては、イタズラ感覚で私にこのような経験をさせています。この時の私はもう本当にヤケになっていて、行くと約束していた海沿いでのバーベキューに大遅刻をして到着して、そこでビールだけ飲んで、写真にあるような真っ暗な波の高い海に直進し、そのまま沖の方まで泳いでいます。そこは波が高いために本当は遊泳禁止の場所でもありました。

この一連のことを屋久島の精霊が行なっています。そして、沖に向かって泳いでいる時に「もっと生きてる実感を感じたくなって(欲望)」「少し気持ち良かった(欲望の快楽)」という気持ちを私の中に起こすことで、どこまでも沖に泳がせました。そして、もうこれ以上行かせてはマズイというポイントで私を振り返らせ、「砂浜の方を振り返った時、その砂浜までの遠さに愕然とした」と書いているように、浜との距離に絶望させています。そして、砂浜に戻って泳いでいる時に進んでいるのかどうか分からない感覚を与えることで、私に「不安」をもたらしています。この時、本当に私は死ぬかと思いましたが、そういった気持ちさえも屋久島の精霊はもたらしています。

屋久島の精霊はこういったイタズラ好きの精霊です。『もののけ姫』のこだまの感じからイタズラ好きな感じはするとお思いますが、あの感じにはこういった背景があります。こういったイタズラをすることが楽しいからこそ、屋久島の精霊はこういったことを行ないます。そして、神々としては地球にはこういった精霊がいることを私を通して人間に伝えるために、私は屋久島の精霊にいじめられていた形になります。

また、こういった「恐怖」の体験はものすごく「気持ち」が動くので、こういった体験を通して屋久島の精霊は私に大量の「闇の気」を入れた形になります。「闇」の魂はこのようなことを人間に経験させることで大量の「闇の気」を入れ、そのことによって人間を「支配」することをいつもやっているので、覚えておいて頂けると幸いです。

神々としては、「闇」の魂がこのようなことを通して「闇の気」を大量に入れるということを人間に知ってもらうために、私にこのような体験をさせています。

 

 

【神々の導きについて】

私は旅立ちのちょうど一年前、26歳の誕生日当日に旅立ちを決意し、27歳の誕生日に旅に出ています。この一年間に神々は私にかなり「真実」を教えるということも行なっています。それらのことが分かる当時の日記を抜粋し、解説していきたいと思います。

どうして神々がこのようなことを行なったかというと、説明担当の「光」のシャーマンは、旅に出ることによってシャーマンとなるということを歌った歌を神々は既に多く創ってきたからです。ですから、悪魔としてもそういった神々の予定を知っており、神々が旅立ちを私に決意させたということは、私が説明担当のシャーマンであることを悪魔側に教えるようなものです。すると、悪魔は私を強く襲うことを行ないますし、当時の私はかなり襲われていました。そういった悪魔の攻撃によって、間違った「嘘」を信じ、私が「呪い」を抱えてしまわないように、神々が様々な「真実」を教えていた形になります。

そういったことが分かる、旅立ちを決意した時の投稿から、この時期の文章を複数解説させて下さい。

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2012/11/8(Facebook投稿より)


 

昨日26になりました。
今年どうあるべきか、練習しながら一晩中考えていました。

とにかく根本的に変わりたいと思っています。

数々のごまかしや、自分のいいかげんさはコントラバスの音にはっきりと表れているし、他人に対しても迷惑をかけてきました。
これを変えることは相当しんどいことですが、演奏を変えることからこのことを変えていきたいと思っています。演奏は自分の存在の根本と強く結びついているからです。


去年一年はいいことがたくさんありました。
とにかく、自分のやってることを認めてくれる人がいること、そんな人と出会えたことはかけがえのないことです。そんな風に思ってくれる友人には感謝し切れないです。
本当ありがとうございます!

また、自分よりもはるかに年齢の上の方からたくさんのことを学んできたし、とても助けられて生きてきました。父親のように思える人が複数人もいることは本当嬉しいことですし、今の自分を形成しています。感謝し切れません。


数ヶ月前くらいに、ある友人から突然メッセージが来ました。彼女は僕のことを「心を使って生きている」と言ってくれました。この一年で何よりも嬉しい一言です。これからももっともっとそういう風に生きていきたいと思っています。

数日前、ある友人からメッセージが来ました。彼女は「もっと一人一人をちゃんと見てほしい」と言ってくれました。この一年で何よりも悲しい一言です。そんな意識は全くなかったけど、少なくとも、そう見えてもしょうがない自分になっていたと思います。自分のいいかげんさの一つの表れです。変えていきたいと思っています。


一年半後を目処にコントラバスを持って一年間世界に旅に出ようと思っています。
この国で、変われることはできるだけ変わって、あとは世界で変わっていけたらな、と思っています。そんな意味で今年はとても重要です。


今年も芸術・人と人の繋がりの二つに関して、誰に何と言われようと全力でやっていくつもりです。それが皆さんにとって、より豊かに生きることに繋がれば、と思っています。

こんな僕ですが、今年もどうぞよろしくお願いします。

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[解説]

この投稿から、26歳の誕生日に急に旅に出たくなったことを理解して頂けると幸いです。私の誕生日は11/7で、この投稿は26歳の誕生日の翌日に書いています。私の様々な文章の中で「旅に出ます」という言葉が使われたことはこの時が初めてです。神々としては元々私が26歳になった時に旅立つことを決意させようということは決めていました。だからこそ、26歳の誕生日に旅を思い立っています。

「変わりたい」という気持ちから、音楽を行ない、旅をしようとしていたということがこの日記から分かります。この気持ちは「光」へ向かっていくという「向上心」であって、「水の気持ち」です。

あと、これは単純に文章の意味を理解する為の情報ですが、当時の私はコントラバス弾きでありながら、文化サロンの副店主をしていました。その文化サロンで色々な人の繋げ役をしていた立場でしたし、人と人を繋げることにとても価値を感じていました。それが皆が幸せに生きていく上でとても大事だと思っていたからです。当時、自分が「相手のため」にできる「問題解決」の一つの方法が人と人を繋げるということだったので、それをやっていた形になります。そして、そのことと合わせて、自分の演奏を通していい人間になっていこうと思っていたので、コントラバスの練習を通して「向上心」を使っていた形になります。そういった意味で、「今年も芸術(「向上心」)・人と人の繋がり(「問題解決」)の二つに関して、誰に何と言われようと全力でやっていくつもりです。それが皆さんにとって、より豊かに生きることに繋がれば、と思っています」ということを書いています。

この日記を感情ごとに分けて分析すると、ほとんど「水の感情」であることは分かります。大学時代よりも「水の気持ち」を素直に表現しています。

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昨日26になりました。
今年どうあるべきか、練習しながら一晩中考えていました。(向上心)

とにかく根本的に変わりたいと思っています。数々のごまかしや、自分のいいかげんさはコントラバスの音にはっきりと表れているし、他人に対しても迷惑をかけてきました。これを変えることは相当しんどいことですが、演奏を変えることからこのことを変えていきたいと思っています。演奏は自分の存在の根本と強く結びついているからです。(向上心)

去年一年はいいことがたくさんありました。とにかく、自分のやってることを認めてくれる人がいること、そんな人と出会えたことはかけがえのないことです。そんな風に思ってくれる友人には感謝し切れないです。本当ありがとうございます!(感謝)

また、自分よりもはるかに年齢の上の方からたくさんのことを学んできたし、とても助けられて生きてきました。父親のように思える人が複数人もいることは本当嬉しいことですし、今の自分を形成しています。感謝し切れません。(感謝、向上心)

数ヶ月前くらいに、ある友人から突然メッセージが来ました。彼女は僕のことを「心を使って生きている」と言ってくれました。この一年で何よりも嬉しい一言です。これからももっともっとそういう風に生きていきたいと思っています。数日前、ある友人からメッセージが来ました。彼女は「もっと一人一人をちゃんと見てほしい」と言ってくれました。この一年で何よりも悲しい一言です。そんな意識は全くなかったけど、少なくとも、そう見えてもしょうがない自分になっていたと思います。自分のいいかげんさの一つの表れです。変えていきたいと思っています。(向上心)

一年半後を目処にコントラバスを持って一年間世界に旅に出ようと思っています。この国で、変われることはできるだけ変わって、あとは世界で変わっていけたらな、と思っています。そんな意味で今年はとても重要です。(向上心)

今年も芸術・人と人の繋がりの二つに関して、誰に何と言われようと全力でやっていくつもりです。それが皆さんにとって、より豊かに生きることに繋がれば、と思っています。(向上心・問題解決の心)

こんな僕ですが、今年もどうぞよろしくお願いします。

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ちなみに、写真は当時自分が使っていたコントラバスといつも練習していた自分が働いていたお店になります。コントラバスの練習は家でできるようなものではなくて、いつも営業後のお店で深夜に行なっていました。演奏しては休憩時間に色々なことを考えて、みたいなことをくり返していたのですが、これは色々なことを神々からの関与によって考える上では非常にいい方法だったと思います。しかし、夜型生活は本当に良くなかったと思っています。

次の投稿は、思想的な移り変わりを当時書いたもので、神々から与えられた思想と悪魔から与えられた思想が混在しています。

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2013/9/3(Facebook投稿より)

昨日ドキュメンタリーを撮っている仲間と撮影兼ねて色々話していた。あまりうまく話せず、いい場にならなかった。寝て起きても気分がすっきりしない。

18-20歳の頃、僕は世界の貧困問題をなんとしてでも救うんだ、というモチベーションで生きていました。どっかで死んでいる人がいる以上、それを救おうとするのが人としての道だと思っていたからです。

また、その時期、同時並行して人生の意味みたいなものもずっと考えていました。しかし、頭で考え続けて、とてつもなく絶望していたんです。とてもとても苦しい時代でした。

ただ、その結論を出しているのは自分の認識だと思いました。だから、認識そのものを疑うようになり、自分の世界認識をより深く広くしていくことのみが真実に近づく方法だという結論を出しました。それが、哲学・芸術を始めた動機です。その時にコントラバスを始めました。そして、関心はどんどん芸術の方に傾いていきます。

そこから、芸術・哲学に加えて、「人」という要素がこの数年で加わり、最近は「自然」という要素に強く関心がいきました。そして今、その延長線上に旅があります。今しかできない認識を広げる方法が旅だと思うからです。

つまり、結局は人生の意味みたいなものを考えた末に、世界認識を広げることのみが真実に近づく方法だという結論を出したことが全てのモチベーションです。

昨日彼と話していました。どうして、多くの人はそういうことを考えずに生きていけるのか、俺には分からない。そして、そういう人達を果たして気付かせることがいいことなのか、悪いことなのか。

俺は、気付かない人は一生気付かないのだから、それでいいと思う。その人の持っている世界認識こそ、その人の世界だからです。

ただ、この現実世界になんとなく違和感を感じている人達がたくさんいることもなんとな分かる。だから、彼らに向けて発信していくんです。それは、コントラバスだったり、イベントで素晴らしいアーティストを紹介することだったり、その人と話すことだったり、人を繋げることだったり。

僕はまだクソガキです。気付きの連続です。僕の成長過程を見る中で、他の人も一緒に気付いていければいい、または、僕よりもはるかに先を言っている人は昔を思い出せばいいと思っています。そう思うから、いつもギャーギャー言ってます。お互いを本質的な意味で高め合いたいだけです。

自分の世界認識を、魂を豊かにしていき、それを自分の中に留めず発信し、そのことで他人も魂を豊かにしていく。こんな素晴らしいことはないのでは、と最近思っています。

練習しないと。

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[解説]

この日記のテーマは、我々の感情が何らかの「アイデア」を信じることによって支えられているということです。

「僕はまだクソガキです。気付きの連続です。僕の成長過程を見る中で、他の人も一緒に気付いていければいい、または、僕よりもはるかに先を言っている人は昔を思い出せばいいと思っています。そう思うから、いつもギャーギャー言ってます。お互いを本質的な意味で高め合いたいだけです。自分の世界認識を、魂を豊かにしていき、それを自分の中に留めず発信し、そのことで他人も魂を豊かにしていく。こんな素晴らしいことはないのでは、と最近思っています」という言葉は、文章を書く事を「他人のため」に行なっていることを説明している言葉です。

神々としては私が文章を書く時に「水の感情」を維持させるために、「自分が文章を書く事で、他の人も色々なことに気付いていける」という「アイデア」を予め私にもたらしています。そして、私自身その「アイデア」をすごく信じたが故に、文章を書き、それをアップする事に関して「水の感情」を維持することができています。だからこそ、私の文章に神々は強く関与することができています。

文章を書いて、それをネット上にアップしていくことは「自己顕示欲」「ナルシズム(優越感)」という「闇の感情」に堕ちやすいものです。しかし、そういった感情で文章を書かれてしまうと、「光の気」を神々が入れることができなくなり、文章の内容に関与できなくなります。そういったことを防ぐために、私に「自分が文章を書く事で、他の人も色々なことに気付いていける」という「アイデア」を入れた形になります。これが神々が我々人間に「気付き」によって行なう「導き」です。

我々はこのような形で「光の感情」と「闇の感情」の間を、何らかの「アイデア」を信じることによって選んでいます。そして、神々も悪魔も我々に「気」を送ることによって、我々の心に何らかの「アイデア」をもたらし、その「アイデア」によって「光の感情」や「闇の感情」のどちらかに寄りやすいように「導き(神々)」と「コントロール(悪魔)」を行ないます。

ここでは神々がどのようにして我々を「光の感情」で保つのかという例を書いたので、悪魔が人間に「闇の感情」を抱かせるためによくやる具体例を書くと、悪魔は「嫌悪の気」を人間に入れることで様々な人やものを嫌わせます。例えば、「なんとなくあの人嫌なんだよねー」といった会話は我々の日常において珍しくないと思うのですが、悪魔はそういった「気持ち」と「アイデア」を我々人間の心に入れます。そのことで我々人間を「闇」に陥れていきます。

例えば、ちょうど先日友人が書いていた文章の中にあったのですが、その人は「あなたはひとりじゃない」という言葉に対して「嫌悪」を感じるということを書いていました。(念のため書いておくと、この文章を書いた方々はいい子です。ただ、哲学をやってしまうと「疑い」の気持ちに堕ちてしまうが故に、こういった罠に堕ちてしまっています。)

http://nebulaph.com/index.php/dialog/philosophyofphobia/

悪魔は「あなたはひとりじゃない」という言葉を我々が読んだ時に、その人間の身体に元々入っている「闇の気」に関与するころで「嫌悪」の感情を我々に与え、このことを信じさせないようにします。どうして悪魔はこういったことを信じさせないようにしたいかというと、「あなたはひとりじゃない」という「アイデア」を信じるのであれば、その人間は「愛」に気持ちが少し寄ってしまうからです。しかし、その人間の心が「光」=「愛」に寄ってしまうと、「闇の感情」を抱く時間が短くなり、悪魔がその人間に「闇の気」を入れることができなくなります。すると、悪魔はその人間の心に関与する事が出来なくなるので、悪魔にとっては不都合な事態となります。ですから、悪魔は人間が「あなたはひとりじゃない」という「アイデア」を信じることを、その悪魔自身のために防ぎます。これが悪魔が我々人間に行なう「コントロール」です。

また、「あなたはひとりじゃない」という「アイデア」を悪魔が人間に信じさせたくないもう一つの理由が、この「アイデア」が真実だからです。神々は我々人間一人一人に対して、本当に全力で「気」で支えようとしています。神々とは人間よりも圧倒的に大きな「愛」を抱えた魂達です。そして、「愛」で動く魂は、「相手のため」に身を粉にして働きます。だからこそ、神々が我々一人一人に対して本当に強い「愛」の気持ちで接しているのは真実であって、そういう意味で、「あなたはひとりじゃない」という「アイデア」は真実です。

悪魔は基本的に人間に真実を教えたいと思っていません。何故ならば、真実を知るとほとんどの人は「闇」ではなくて「光」を選ぶからです。神々が自分のことを本当に愛しているということを知ることで、我々の気持ちは「愛」を持ちやすくなります。だからこそ、悪魔はそのことを見えないように長年に渡って「気」で関与し続け、その結果として現代人の多くは神様を信じていないという現状が生まれています。

「アイデア」に関する神々の「導き」と悪魔の「コントロール」の話は、「気持ち」のことと密接に結びついているということを理解して頂けると幸いです。私に対して「自分が文章を書く事で、他の人も色々なことに気付いていける」という「アイデア」を神々が与え、その「アイデア」を私が信じたのは、「他人のために生きたい」=「愛」という気持ちを私自身が選んだからです。

それに対して、「あなたはひとりじゃない」という「アイデア」を彼女達が信じなかったのは、彼女達がリンクの中で書いているように、その発言を発した相手への「嫌悪感」を心のどこかで選んでいるからです。相手への「嫌悪」は「愛」とは真逆であって、相手に対する「嫌悪」を出発点に色々なことを考えようとも、「疑い(「これを書いた人は人気を取るために書いたのだろう」)」や「怠惰(「めんどくさいから考えるのをやめよう」)」といった思考にしか繋がりません。逆に、「あなたはひとりじゃない」と発言した人への「愛」を抱くのであれば、「一体どういった気持ちでこの人はこれを書いたのであろう」という「思いやり(=優しさ)」などで思考することができます。つまり、ある「アイデア」を信じるかどうかということには、いつも「愛」が影響しています。

何かを信じるということは本当に大変なことです。それを行なうためには、魂の「愛」や「強さ」や「賢さ」といった様々な要素が必要です。「愛」が弱ければ相手や相手の意見に対して尊重ができずに、その問題と真に向き合うことができません。「強さ」が無ければ、自分にとって都合の悪い真実を受け入れることはできません。「賢さ」が無ければ、そのことを信じることの価値を真に理解することができません。

だからこそ、何かを信じるためには、自分の心の中で自分の心が抱える「嫌悪」や「弱さ」や「愚かさ」と闘いを行なわないといけません。そして、こういった闘いをするためにも我々は生きています。しかし、現代社会はこういったことをするために生きているということが見えないように仕向けられています。多くの人は出来事ばかりを気にして、心を見つめようとはしません。しかし、そのような生き方をしていると、魂は闘わず、「愛」や「強さ」や「賢さ」といったものは養われず、むしろどんどん魂はダメになっていきます。

我々が生きているのは生きていないとできないことがあるからです。その一つが心の中の闘いであって、そういった闘いを行なう中で、魂は「愛」「強さ」「賢さ」といった要素を手に入れていきます。こういうことを書くと、なんてストイックな世界なんだと思われてしまうかもしれませんが、これは生きるということが必要な一つの理由だと思って頂けると幸いです。こんなストイックな面だけではなくて、大事な人が笑ってくれるから嬉しいという「喜び」の側面も生きていないと感じられません。そういった「喜び」のためにも我々は生きています。ただ、こういった「喜び」は魂が「光の気」を強く抱えていなければ感じられません。そういった「光」を養うためにも、心の中の闘いは必要になります。

かといって、自分自身の「喜び」のために心の中の闘いを行なおうとするのであれば、根本的な動機が「自分のため」なので、「闇の感情」に堕ち、魂の「光の気」を増やすことはできません。本当に純粋に「他人のため」に生きてこそ、魂の「光の気」は増え、そのことで他者が笑ってくれることの「喜び」も大きくなります。こういった闘いを「光」を選ぶ魂は行なう必要がありますし、強い「光」の立場である神々は我々にそのようなことをやってほしいと思っています。

そういった神々の気持ちは、彼らがいつも我々の心にどのような関与をしているかを、見極めることで分かります。そのためには、自分の心を真に見つめる必要があります。だからこそ、悪魔は自分の心を見つめられないような社会を創りたがっているという面があります。

ちなみに、私は昔は「闇」も抱えていたので、「あなたはひとりじゃない」という「アイデア」に対して「嫌悪感」を感じていた一人です。だから、こういった「アイデア」に対して「嫌悪」を感じる人の気持ちはよく分かります。

この日記の中でも「俺は、気付かない人は一生気付かないのだから、それでいいと思う。その人の持っている世界認識こそ、その人の世界だからです」と書いていますが、これも悪魔から与えられた間違った「アイデア」を信じていたということの一つの証です。私は大学で哲学を勉強していたのですが、この「アイデア」は実存主義を信じたことで植え付けられた「アイデア」になります。実存主義とは大雑把に説明すると、「この世界の本質よりも、それぞれの人間の物の見方(実存)の方が大事」といったものです。

当時の私は「この一回の生が終わったら全て終わる」という「アイデア」を信じて生きていました。だから、「この世界があるのは今生きている私がいるから」という「アイデア」を信じていました。そういう部分から「この世界の本質よりも、それぞれの人間の物の見方(実存)の方が大事」という「アイデア」を信じていた形になります。こういった思考の流れは全て悪魔によって植え付けられた「アイデア」になります。

そして、これらの「アイデア」を信じたことによって、「俺は、気付かない人は一生気付かないのだから、それでいいと思う。その人の持っている世界認識こそ、その人の世界だからです」といった「愛」に欠けた「アイデア」を信じていました。「俺は、気付かない人は一生気付かないのだから、それでいいと思う」という発想は他人を見放している考え方だからこそ、「愛」に欠けていると言えます。悪魔としては私を「光」から遠ざけ「闇」に陥れるために色々なことを私に信じ込ませた形になります。そして、当時の私もそれを信じた形になります。どうしてこれを私が信じたかというと「愚かさ」が原因です。

また、「また、その時期、同時並行して人生の意味みたいなものもずっと考えていました。しかし、頭で考え続けて、とてつもなく絶望していたんです。とてもとても苦しい時代でした」と書いていますが、これは芥川龍之介を通して悪魔のもたらす様々な罠に引っかかっていた時期のことを意味します。このことは『私の人生の流れ2』に詳しく書いています。

かなり説明が長くなりましたが、これらの説明からどういった「アイデア」を信じるのかということが、我々が「光の感情」と「闇の感情」のどちらを選ぶのかということと非常に密接な関係にあることを分かって頂ければ、と思います。また、どういった「アイデア」を信じること自体が、我々が「光の感情」と「闇の感情」のどちらを選ぶのかということと密接な関係にあることを理解して頂けると幸いです。

一度この文章の様々な「アイデア」を神々と悪魔のどちらからもらったのかということを整理しておきたいと思います。

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昨日ドキュメンタリーを撮っている仲間と撮影兼ねて色々話していた。あまりうまく話せず、いい場にならなかった。寝て起きても気分がすっきりしない。

18-20歳の頃、僕は世界の貧困問題をなんとしてでも救うんだ、というモチベーションで生きていました。どっかで死んでいる人がいる以上、それを救おうとするのが人としての道だと思っていたからです。(神々:問題解決の心)

また、その時期、同時並行して人生の意味みたいなものもずっと考えていました。しかし、頭で考え続けて、とてつもなく絶望していたんです。とてもとても苦しい時代でした。(悪魔:芥川龍之介を好きになったことが原因)

ただ、その結論を出しているのは自分の認識だと思いました。だから、認識そのものを疑うようになり、自分の世界認識をより深く広くしていくことのみが真実に近づく方法だという結論を出しました。それが、哲学・芸術を始めた動機です。その時にコントラバスを始めました。そして、関心はどんどん芸術の方に傾いていきます。(神々:向上心)

そこから、芸術・哲学に加えて、「人」という要素がこの数年で加わり、最近は「自然」という要素に強く関心がいきました。そして今、その延長線上に旅があります。今しかできない認識を広げる方法が旅だと思うからです。(神々:向上心)

つまり、結局は人生の意味みたいなものを考えた末に、世界認識を広げることのみが真実に近づく方法だという結論を出したことが全てのモチベーションです。(神々:向上心)

昨日彼と話していました。どうして、多くの人はそういうことを考えずに生きていけるのか、俺には分からない。そして、そういう人達を果たして気付かせることがいいことなのか、悪いことなのか。

俺は、気付かない人は一生気付かないのだから、それでいいと思う。その人の持っている世界認識こそ、その人の世界だからです。(悪魔:実存主義を信じたことが原因)

ただ、この現実世界になんとなく違和感を感じている人達がたくさんいることもなんとな分かる。だから、彼らに向けて発信していくんです。それは、コントラバスだったり、イベントで素晴らしいアーティストを紹介することだったり、その人と話すことだったり、人を繋げることだったり。(神々:問題解決の心)

僕はまだクソガキです。気付きの連続です。僕の成長過程を見る中で、他の人も一緒に気付いていければいい、または、僕よりもはるかに先を言っている人は昔を思い出せばいいと思っています。そう思うから、いつもギャーギャー言ってます。お互いを本質的な意味で高め合いたいだけです。(神々:問題解決の心)

自分の世界認識を、魂を豊かにしていき、それを自分の中に留めず発信し、そのことで他人も魂を豊かにしていく。こんな素晴らしいことはないのでは、と最近思っています。(神々:問題解決の心)

練習しないと。(向上心)

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一人の人間が生きるということは、本当に膨大な神々と悪魔の関与があります。ですから、御自身の問題と置き換えて、自分が一体どのような「アイデア」を信じて生きているのかを考えてみて頂けると幸いです。

ちなみに、この投稿の写真は当時自分が住んでいたアパートの屋上からの景色です。先程も書きましたが、コントラバスの練習のために私は夜型生活を送っていました。また、旅の資金を稼ぐために当時の私は夜中にも週3くらいで働いていました。だから、起きるのはいつも夕方で、起きるとすぐに太陽を浴びに屋上に行っていた形になります。これはその時の写真です。屋上で太陽を浴びながらこの日記を携帯で書いて、そのままアップしていました。これも神々の「導き」によるものです。人は太陽を浴びなくなるとどんどん「元気」を失い、「闇」へ堕ちていくので太陽を浴びることはとても大事です。そして、太陽を浴びながら文章を書くと太陽神様=お天道様が様々な「アイデア」をもたらすので、非常にいい影響をもらえます。そもそも「お天道様」とは「天の道」です。これはお天道様が「天の道」を人間に教えてくれていることを昔の人間は知っていたからこそ、このような名前を持っています。

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2013/7/21(Facebook投稿より)

今日も太陽を求めて屋上へ。

もう、だいぶ前から色々なことを清算することについて考えている。それは他人との関係性のことだったり、自分の中での根源的なものだったり。

他人との関係性のことは相手が介するという意味で清算することは難しくても、構造的には分かりやすい。清算できれば喜べるし、清算できなければ悲しむ。喜びや悲しみといった感情に落とし込むことができれば、時間が解決してくれる。

問題なのは、自分の中の根源的な部分での「何か」に対する清算です。もう、本当これはどうしようもない。生きていてすっきりしない感覚があるのに、その問題の構造が一体どこにあるのか、全然分からない。もう、いいかげん勘弁してほしい。

それは育った家庭がめちゃくちゃになったことによるのか(家族は個人個人は皆いい人です)、20歳の頃に人生の転換期を迎えたことによるものなのか、恋愛で瞬間的でない幸福を感じたことがないせいなのか、それともあの何をしていいか分からなかった小学生時代から引きずってきているものなのか、、、どのことを原因に押し付けようとしても、全然しっくりこない。他人なんてなおさらその原因を知るはずもない。

結局、自分はこの清算できないものを見つける、もしくは清算できないものを覆してくれる何かを探すために、楽器を弾いて、旅に出たいと思い、いい芸術に触れたいと思い、自然の中に入り、哲学科に入り、恋愛をしたり、尊敬できる人間を探したり、人と話しているだけです(そういうレベルでの会話はなかなかないけど)。逆にそれ以外のことなんて、全く興味がありません。それは20歳頃から真実を探していることとほとんど同じ意味かもしれません。真実を知りたいと思うのは、その清算できないものを清算したいと思うからです。

最近山に行くようになって、一つ原風景を思い出しました。家族で山奥の沢沿いでバーベキューをした記憶、そこで感じた木の匂い・川の水の冷たさ・太陽の光。自分は当時とても無邪気で、本当に幸福感に満ちていました。よく「最近アウトドア派になったみたいだけど、どうした!?」みたいなことを言わますが、そういうことです。一つ重要な原風景を見つけたんです。本当にこのことに気付けてよかったな、と思います。だから、いずれは森に住みたい。今屋上にいることもその延長線上にあるんだと思います。少しでも原風景に近い状況に身を置きたい。

人が生まれて、清算できないものを抱え、それを清算しようと努力し、死んでいく。こんな馬鹿馬鹿しいことはないですが、たぶん、僕の人生はそれだけの人生になると思います。尊敬する芸術家の人生はほとんどそれだけの人生です。だから、間違ってない気もします。

ただ、もう少し余裕を持って、もっと人に優しくなりたいと思う今日この頃です。

つってな。

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[解説]

この文章で書いているように、私は非常に幼い頃から、自分の中にある「何か」=「闇の気」によって苦しめられていたことが分かります。そして、その「何か」が何なのかが全く分からなかったという事が「生きていてすっきりしない感覚があるのに、その問題の構造が一体どこにあるのか、全然分からない。もう、いいかげん勘弁してほしい」という言葉によく表れています。

そして、その清算出来ない「何か」が何なのかを解き明かすことが、真実を知るということと繋がっているかもしれないと思っていることが「結局、自分はこの清算できないものを見つける、もしくは清算できないものを覆してくれる何かを探すために、、(色々なことをしてきた)、、それは20歳頃から真実を探していることとほとんど同じ意味かもしれません。真実を知りたいと思うのは、その清算できないものを清算したいと思うからです」という言葉に表れています。

自分は「気」のことは当時全く知らなかったですし、自分の抱えている問題が「闇の気」であることも知らなかったので、「真実」=「気」を知ることが自分を苦しめている「何か」が何であるのかを解き明かすことに繋がるということは分かるはずもありませんでした。そんな中で、「自分はこの清算できないものを見つける、もしくは清算できないものを覆してくれる何かを探すために、、(色々なことをしてきた)、、それは20歳頃から真実を探していることとほとんど同じ意味かもしれません」と思っているのは、神々の「導き」があったからです。つまり、神々が私に「真実(気)のことを知ることで、清算できない『何か』も分かる」ということを感覚的に教えていたということを意味します。

神々としては私が悪魔によって旅に行くことを止めさせられることを最も恐れていました。だからこそ、「旅に出ることが真実を知ることに繋がる」という気持ちを私に信じさせていた形になります。私はその気持ちを信じていたからこそ、旅に出ていますし、この投稿はそういった気持ちを強くするために神々が私に書かせたものです。

また、ここで、「清算できないものを見つける、もしくは清算できないものを覆してくれる何か」と言われているのは、「清算できないもの」=「闇の気」と「清算できないものを覆してくれる何か」=「光の気」のことです。

ここで、「光の気」について「清算できないものを覆してくれる何か」という言葉が使われていることがとても重要な意味を持っています。私は「光」のシャーマンになって、自分が生まれた時から抱えていた「闇の気」を浄化したのですが、「光」のシャーマンになるために必要だったことは、魂の「光の気」です。ですから、「清算できないものを覆してくれる何か」とは言い換えると「闇の気を覆し、『光』のシャーマンになるためには光の気が必要」ということを意味します。私が生まれた頃から抱えていた「闇の気」の量はとてつもない量でした。それは、シャーマンにならない限り、取り去ることができない程のものでした。だからこそ、このような意味をこの言葉は持っています。

しかし、当時の自分は自分の身体が持っている「闇の気」に自分の魂が負けてしまい「闇」に堕ちることもありました。そんな中で本当に有効だったことは、自分の身体に「光の気」を受け取ることです。そのことで、自分の身体に宿っている「闇の気」の強さが緩和され、「光」の方向性へ向かうことができます。

この話の後に自然の話があるのは、「光の気」のことを説明するための文章だからです。自然は神々が支えているものなので、神々の「光の気」に満ちています。「木の匂い・川の水の冷たさ・太陽の光」という言葉は「光の気」のことをよく捉えています。また、「自分は当時とても無邪気で、本当に幸福感に満ちていました」という言葉も書かれていますが、これは何を意味するかというと、まだ「闇の気」に対してオープンでなかった頃を意味します。このことは『私の人生の流れ1』に説明させて頂きました。

「自分は当時とても無邪気で、本当に幸福感に満ちていました」とは、まだ自分の身体の「闇の気」の影響を受けていなかった時期のことを意味しています。逆に言うと、「闇の気」にオープンになってからはずっと、非常に強く苦しんできたということを意味します。

ここで「原風景」という言葉が使われていますが、「原風景」とは人の心の奥にある原初の風景のことです。「光の気」を感じてそのことによって「幸福感」を感じていたことを当時の自分が覚えているのは、神々の導きによります。我々は自分自身の意志で記憶の管理はできず、ある記憶は残り、ある記憶は消えていきます。では、どのように記憶の保存と削除はされているかというと、基本的には神々が行なっています。そして、神々は我々人間にとって重要な記憶は残します。記憶についてはここに詳しく書いています。

http://junashikari.com/body/記憶について/

神々としては、「光の気」がもたらす「幸福感」を覚えさせておくことが大事だと思い、私にバーベキューの記憶を残していました。何故ならば、かつてのそういう記憶があれば、自分が進むべき目的地が分かるからです。もし私がこういった記憶を持っていないのであれば、私は「光」のもたらす「幸福感」を本当に知らずに生きていくことになります。そうすると、目的地がどこにあるのかはより分からなくなっていきます。神々としては、私に「闇」を解決し、「光」の方向へ向かわせるために、そういった記憶を残していた形になります。

その後に「人が生まれて、清算できないものを抱え、それを清算しようと努力し、死んでいく。こんな馬鹿馬鹿しいことはないですが、たぶん、僕の人生はそれだけの人生になると思います」という「アイデア」は自分の「人生の役割」がシャーマンになることを知らないからこそ発せられている言葉です。そして、その判断方法として、「尊敬する芸術家の人生はほとんどそれだけの人生です。だから、間違ってない気もします」と思っていたのは、悪魔がそのように思わせていたからになります。悪魔は私の人生の役割は元々分かっていたので、その役割をさせないようにするためにこのようなことを思わせていた形になります。また、当時私が尊敬していた芸術家の中には「闇」の芸術家も多くいたので、この言葉の方向性としては「闇」です。

この次に「ただ、もう少し余裕を持って、もっと人に優しくなりたいと思う今日この頃です」と書いていて、「ただ」という形で逆説の接続詞があるのは、悪魔が自分に与えた「闇」の人生像ではなく「光」でありたいと思う自分がいるということを意味します。感覚的に「光」と「闇」のことは感じていたからこそ、ここで「ただ」という逆説が使われています。

そして、最後に「つってな」という言葉があるのは、「軽さの闇」という「闇」のことを意味します。真剣に内容の重い話を書いて、その話を軽くしようとしているからです。現代人は重い話を嫌がりますが、これは現代人が「軽さの闇」にかなり侵されていることを意味します。本当のことも、自分の人生も、真剣に考えるならば、とても重みがあるものです。逆に、そういった本当は重いものを軽く感じている限り、真剣に物事を考えることはできません。悪魔は「軽さの闇」によって本当のことを見えないようにさせるために、「軽さの闇」の「気」を日本人に広げ、その結果として日本人は重い話を嫌がるという傾向が生まれています。この日記の最後の方は、こういった形で「光」と「闇」の間を振れています。

この「つってな」という言葉は既に亡くなってしまった私の親友の口癖の言葉でした。私は彼女が友人としてとても好きだったので、彼女の言葉は使いたいと思う気持ちもあって、ここで使っています。しかし、実際は悪魔によって使わされている形になります。悪魔は我々の善意さえも利用します。

この日記では「クソガキ」という言葉も使われていますが、これは『私の人生の流れ1』で書いたように神々が「クソガキ」と「糞餓鬼」を掛けています。

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2013/8/23(Facebook投稿より)

「願い」と「欲」、両者は似ていますが質的に全く異なります。
この違いを深く認識するところから全てが始まる、と最近よく思います。
前者であるべきであり、後者には何の救いもありません。

※自分への戒めです。

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[解説]

当時の私は「光」と「闇」という言葉を使って物事を認識するということは全く行なっていませんでした。しかし、感覚的に「光」と「闇」のことは感じていたので、このような文章を書いている形になります。神々としては、当時も感覚としては「光」と「闇」を感じていたこと、そういったことを教えていたことを残すために、この文章を私に書かせています。

「願い」とは「光」の立場の魂が作る目的のことを意味します。これは「誰かのために何かをしたい」という気持ちのことを意味しています。それに対して、「闇」の立場の魂が作る目的とは「欲望」です。これは「自分のために何かをしたい」という気持ちのことを意味しています。

そして、この「願い」と「欲」と書かれてあることよりも重要なことは、「この違いを深く認識するところから全てが始まる」と書いている点にあります。これは言い換えると、「光と闇を深く認識するところから全てが始まる」と書いていることを意味するからです。そして、その後に「と最近よく思います」と書いていることから、当時神々が私にこのことを思わせていたということが分かります。ですから、この当時から神々が私に対して、「光」と「闇」の構造を教えるつもりであったということが分かります。そして、現代社会において、「光」と「闇」を誰からも学ばずに理解する為には神々から直接学ぶしかありません。そして、そのためにはシャーマンになる必要があります。ですから、この文章は言い換えると「シャーマンになるところから全てが始まる」と言っていることを意味します。

その後に「前者であるべきであり、後者には何の救いもありません」と書いているのは、単純に「欲望」には果てがなく、「願い」は「幸福」をもたらすということを感覚的に感じていたからこそ書いた言葉です。当時、自分は「欲望」に負けてしまうことも、他人が笑っているのを見て自分がとても「幸福」を感じているということも経験していました。そういった体験を踏まえて、「欲」ではなく「願い」の方が尊いと感じていた形になります。だからこそ、こういったことを書けていますし、このことは言い換えると神々が私が「光」を実践する事を支え、悪魔が私に「欲望」という「闇」を実践させようとしていたことを意味します。「※自分への戒めです」と書いているのは、当時の自分が「欲望」と闘っていたからこそ書かれてある一言です。

また、「※自分への戒めです」と書いているのは、この文章を書いている時の私の感情の動きとしては、「前者であるべきであり、後者には何の救いもありません」という「傲慢」に見えるようなことを書いてしまっているけれども「傲慢」「優越感」に堕ちずに「謙虚」を使って「向上心」に戻ろうとする態度です。つまり、「水の感情」を維持するためにもこのことを神々の「導き」によって書いています。

人に何かを教えるという行為は相手よりも自分が上に立っている気分になることにも使えます。実際「自分のため」に相手に色々なことを教えたがる人はいますが、そういった人は自分が「優越感」を感じるために人に教えるという行為を使っています。または相手に自分が勝っているという「負けず嫌い」の気持ちでそういったことを行なう人もいます。「傲慢」「負けず嫌い」「優越感」はそれぞれの人によってこの言葉に対して抱くイメージが少しずつ異なりますが、これらをまとめると「相手よりも自分の方が上と感じている・感じたい感情」です。人に教えるという行為はそういった感情にも繋がりやすい行為です。

また、この注意書きが自分を「水の感情」に戻すために書いていた根拠として、実際、この投稿に対する友人からのコメントの返事に「大体注意書きは、『謙虚でありたい』っていう自分への願いです」とも書いています。このコメントで「謙虚」であることを「願い」として捉えているのは、当時から自分が「水の感情」を「願い(光)」の方だと感じていたことを意味します。そして、どうしてそのように感じていたかというと、神々が「光の気」で私に導くことでそういった感覚を与えていたからです。

このようにして、神々は当時の私に一体何を「気」で教えていたのかを明らかにしようとしている形になります。この投稿の大きなテーマは当時の私にどのように「光」と「闇」の違いを教えていたかということになります。

この時期の私の投稿には重要なものが本当に多いのですが、あまりにここで取り上げ過ぎるとこの文章が長くなり過ぎるので、ここまでで止めておきます。いずれ、別のページでその他の投稿について説明します。

また、屋久島の精霊に取り憑かれた後に様々な「真実」を精霊から教わることもありましたが、神々と屋久島の精霊は同じ組織の一員だからこそ、そのような現象が生まれます。神々が精霊に指示を出し、その指示によって私は精霊から学んでいた形になります。

 

【恋愛について】

この時期も、大学時代と同様に私は「光」と「闇」の2人の女性と恋愛をしています。そのことについて説明させて下さい。「闇」の女性をCと呼び、「光」の女性をDと呼びます。
 

・Cについて

浪人生だった頃、友達とばったり路上で会って、その友達と話している時にCと出会いました。よく晴れた日で、日に照らし出される彼女がすごく美しく見えたことをよく覚えています。当時、私は哲学科に志望変更するかどうかを迷っていた時で、心の中では哲学科に行きたいと思っていたのですが、三年も早稲田の政経のために浪人しておいて、今更志望変更することで気が引けていました。しかし、その子は私に「哲学科似合うと思うよ!」と真っ先に言ってくるような子でした。これは何を意味するかというと、この時彼女は神々によって発言させられたということです。だから、前もって書いておきたいのですが、彼女は「闇」も抱えていましたが、100%「闇」というわけではなくて「光」も抱えていたということです。そうでないと、この時にこのことを私に言うことはできていません。当時の私はこの一言に背中を押された感じがしました。

その時が彼女と初めて会った時で、それ以降5年近く会っていなかったのですが、私は彼女の名前を忘れることがありませんでした。私は人の名前は元々全然覚えない方なのにも関わらず、フルネームで漢字までちゃんと覚えていた形になります。たったの数十分間、一回しか会っていないのに、人の名前をずっと覚え続けたことは私の人生で他にありません。これは神々の導きになります。神々としては、私と彼女を元々恋愛させるために、私に彼女の名前を5年間覚えさせた形になります。

それから五年後に突然私は彼女のことを思い出して、Facebookで検索して探し出して、メッセージを出しました。これも神々の導きになります。そして、私は彼女と会う約束をして、それ以来何度か会って食事をしていました。その過程で、私は彼女のことを好きになった形になります。

それで告白をしたのですが、フラれてしまい、しかし関係性が切れることはなく、再び告白をしてはフラれるみたいな日々となりました。この形は大学時代に付き合っていたBと同じ構造になります。そのまま友達以上恋人未満のような関係性がしばらく続いた形になります。それはBと同じように、振り回される日々でした。また、私自身が悪魔にも動かされていたので、我々2人は悪魔によって振り回されていた形になります。

大学時代同様、悪魔としてはこの女性を使って私を「闇」に陥れることを目指していました。好きだけれども付き合えず、しかし、関係性を切ることができない状態は私にとって拷問のようにも感じられていました。お互いが好き同士に感じる瞬間には「喜び」があるのですが、蓋を開けると私だけが好きだという真実を彼女の口から告げられ、その度に「絶望」していた形になります。

ある日、そういった状況に限界を迎えて耐えられなくなり、渋谷の路上で、彼女に向かって「俺がCのこと好きなのと、俺がCのこと好きではないの、Cにとってはどっちがいいの?」と言ったことがあります。極限の状態だったので、私は自分が楽になるための「逃げ」の感情から「好きでいてほしい」「好きでいない方がいい」という2つの返事のどちらかを期待して、この問いをしました。しかし、それに対しての彼女の返事は「どっちでもいい」という言葉でした。

「どっちでもいい」という返事はあまりにも彼女にとって自分がどうでもいい人間と思われていることを感じてしまって、半端ではない「絶望」に堕ちた形になります。その時は三年目の浪人が決まった時と同様に重力が三倍に感じられ、その瞬間に彼女から逃げるように家に帰ったのですが、帰り道も倒れそうで、家に帰ってからもベッドの上で泣き通し、泣いても「絶望」から逃げられないので、「逃げ」の気持ちから友達の女の子に電話を掛け続けるような形でした。また不眠症にもかかり、その時期だけ髪の毛が全部切れ毛のような形にもなっています。

それで彼女とは全てを切ろうと思って、Facebookなどの繋がりも切り、連絡先も消すということを行なったのですが、翌日に彼女から電話がかかってきて、「昨日はごめん」というような形で繋ぎ止められるような日々でした。

こういった一連の流れを全て悪魔が行なっています。どうして渋谷の路上でこれが起こったかというと、渋谷は悪魔の「闇の気」に満ちているからです。また、私にこの質問をさせたのは悪魔であって、悪魔は元々「どっちでもいい」と彼女に言わせることを狙ってこの質問を私にさせた形になります。また、私は自宅でその時に女友達に連絡をしたことで、悪い印象を抱かれてしまって、その友達とは距離感が生まれてしまいました。悪魔はこういった距離感を作るためにも私に「逃げ」で電話をさせています。

Bと同様ですが、Cも自分の人生の流れの中で悪魔からの「闇の気」を抱えてしまうどうしようもない理由があります。ですから、本当にC自身は悪くないです。Cは心を悪魔に動かされ、私にダメージを与えていく上で最善の形を悪魔によってさせられていた形になります。また、神々としては、Cとの恋愛を通して私に「闇」を教えたいと思っているので、この過程でCが神々から支えられることはありません。だからこそ、C自体も私と恋愛をする過程で、神々から守られず悪魔に襲われるということを経験しています。

とにかく、我々2人は神々の意向によって、悪魔に踊らされていた形になります。そして、そういった悪魔の関与によって、私はこの時期に深い「闇」を恋愛を通して経験しています。ここで書くことができないような話もあるのですが、「どうでもいい」の一言の話は書くことができると思ったので、書いた形になります。実際は様々な形で我々2人は悪魔に踊らされています。


・Dについて

Dは神々と共に芸術を行なっている人間であって、本当に天使のような子でした。私は彼女の「光」に惹かれて、自分から話しかけ、告白をして付き合っています。Cとのことでボロボロになってからそれ程日も経っていなかったので、彼女との日々は本当に「光」の日々に感じられました。

ただ、それと同時にその頃の私は「闇」も抱えていたので、彼女の「光」が嫌になるような場面もありました。「光」は「闇」を嫌い、「闇」は「光」を嫌うという法則はいつもあります。私は彼女の「光」が「幼さ」に感じられてしまって、その「幼さ」を理由に、彼女の「光」に対して「嫌悪」を悪魔によってもたらさせられていた形になります。

これはAの時も同じような理由で「嫌悪」に堕ちていった形になります。多くの子供は「光」ですが、そういう意味で「光」は子供にも見えてしまいます。特に、悪魔の「闇の気」を抱えていると「光」の人はそのような形で、幼い人に見えてしまって、馬鹿にも見えます。悪魔は「光」の人をそのように見せることで「光」の人を「嫌悪」させるということをいつも行なっています。

私自身、この時は悪魔のこのような方法に引っかかってしまい、彼女のことが好きではなくなってしまって、別れています。また、Cに対する気持ちもまた出て来てしまったことも大きな原因です。悪魔は我々の恋心も操作できるので、このような形に堕ちてしまった形になります。悪魔としては、私がDを通して「光」の方へ向かうことを阻止するために、Dを「嫌悪」させ、Cに対する気持ちを起こした形です。また、他にもDのことを「嫌悪」させる理由を悪魔は用意し、そういった罠に引っかかってしまった形になります。

Dとのことを通して、強い「光」の人に対して、「嫌悪」を抱くということを学んだ形になります。旅立ちの直前にも彼女ともう一度会う機会があったのですが、当時の私は彼女の強い「光」が理解できなくて、また「嫌悪」に堕ちてしまいました。

このことは、「闇」を学ぶ上では重要な経験だったと思いますが、個人的に、彼女に対して最低なことをしてしまったと今でも反省しています。あと、今は彼女と同じ「光」の立場の人間になることができたので、だからこそ今は、彼女は本当に素晴らしい人間だと心から思っています。

 

【悪魔の関与について】

悪魔が当時私を強く襲っていたということは私の日常の中にもよく表れていました。この2人の女性とのことがあった頃は、この2人の女性を通して悪魔は私を攻撃していましたが、この2人とのことが終わった後からは別の攻撃になっています。それは時期的にも、旅立ちを決意した時期の後だったので、悪魔は私に対する攻撃を強めています。

悪魔が私を攻撃するために使った方法は様々ですが、その中で最も悪魔が使った方法は女性を使った方法です。悪魔は「闇の気」を抱えている人間との性行為を通して、私に「闇の気」を与え、その「闇の気」によって私をコントロールするということを目指していました。性行為は強い「気」の交換を促すので、悪魔はよくターゲットの人間にその悪魔の「闇の気」を大量に抱えた異性と性行為をさせます。

悪魔が性行為を通して「闇の気」を広げていることをよく表している音楽と映像があるので、イメージを掴んで頂くために一度御覧になって頂けると幸いです。悪魔が何をしているのかを伝えるために神々が創った音楽と映像になります。
 


歌詞:http://petitlyrics.com/lyrics/71581

悪魔の「闇の気」を摂取すると、感情や思考を悪魔にコントロールされるので、様々な行動を悪魔によってさせられることになります。そのことをこの歌では「ぜんまいをまく」と表現しています。「となりに誰がいるのかも気付かなかった」という歌詞は悪魔が「闇の気を入れる」=「ぜんまいをまく」ということを表しています。PVの中では、性行為をしている2人の横に悪魔がいることが描かれています。

この時期は、このPVのような形で「性欲」の強い女性が自分に迫ってくることが度々ありました。例えば、ある夜、自転車に乗って信号待ちをしていると、目の前に止まったタクシーからある酔っぱらった綺麗な女性が降りてきて、いきなり私にキスをし、誘惑をしてきたことがあります。普通はいきなり路上で知らない人にキスをされることなどないことを考えると、悪魔から当時私が狙われていた一つの表れだと理解して頂けると幸いです。この時のことは当時友人にも話しています。

悪魔は普通は性行為を通したそういった攻撃を風俗店の女性や合コンで知り合った異性を使って行なうのですが、そういったものには私は手を出さないようにしていたので、止むを得ず強行手段をしてきた形になります。

念のために書いておくと、自分がモテたといった自慢話と誤解しないで頂けると幸いです。「闇の気」を使ってその人間をムラムラさせることなど悪魔は簡単にできますし、我々がムラムラする場合とはほとんどの場合がそういったケースです。悪魔は私と「闇の気」を抱えた女性を性行為をさせるために、その女性をムラムラさせ、私と性行為をさせたい気分にさせていた形になります。

また、悪魔はその性行為を気持ちいいものにするのかどうかということをコントロールできます。ですから、その悪魔にとってその性行為が都合が良ければ、その性行為を可能な限り気持ちよくします。こういった悪魔の都合によって、人間同士の「欲望」の性行為が気持ちいいかどうかということはコントロールされ、そのことによって悪魔が望むような形で「闇の気」は人間から人間に渡っています。

悪魔はよくターゲットの人間を性行為を通してダメにしていきますが、私はそのような方法によってダメになった人間を多く見ています。元々は大事な役割を持っていたのに、異性との性行為をし過ぎて「闇」を抱え過ぎた人達とはいます。そういったことをこのことから知って頂けると幸いです。

性行為は「光」にも「闇」にも平等にできています。「愛」の性行為は「金の気」を2人にもたらし「愛」を強くし、神々が2人を導きやすくなります。「欲望」の性行為は「欲望の気」を2人にもたらし「欲望」を強くし、悪魔が2人をコントロールしやすくなります。

私はこの時期に悪魔が性行為を通して何をしているのかを学んでいます。現代日本を狂わせている諸悪の根源の一つは性行為です。本当に日本人は性行為を通して、悪魔に泳がされています。だからこそ、この問題は絶対に知るべきでしたし、この時期の悪魔の攻撃を通して学んでいる形になります。神々としては私にこのことを学ばせるために、わざと悪魔に襲わせていた形になります。


『私の人生の流れ5』はこちらになります。読んで頂けると幸いです。
http://junashikari.com/profile/life-story5/