『私の人生の流れ』の2つ目の文章になります。『私の人生の流れ(概要)』『私の人生の流れ1』はこちらなので、まだ読まれていない方はこちらから読んで頂けると幸いです。

『私の人生の流れ』概要:http://junashikari.com/profile/life-story/
『私の人生の流れ1(生まれてから高校時代まで)』:http://junashikari.com/profile/life-story1/

高校卒業後、私は三年間浪人をしています。ここでは、その時期の説明をさせて下さい。


・勉強について

どうして三年も浪人したかというと、早稲田大学政治経済学部国際政治経済学科(以下、早稲田の政経)をずっと目指し、一浪目・二浪目に合格しなかったからです(私は高校時代は理系でしたが、浪人の途中から文系になっています)。

高校時代は勉強よりもバスケットボールに熱中する日々で、部活を引退してからも体育祭のリーダーに没頭するような日々で、高校時代は全然勉強をしていませんでした。また、ちゃんと将来のことを考えるような時間もほとんどありませんでした。ただ、高校を卒業して時間ができ、ちゃんと将来のことを考えた時に、「世界のどこかに食べられなくて死んでいる人がいるのだから、貧困問題を解決するために自分が全力を尽くすことが人として当然の生き方だろう。そのために国連に入ろう」という考えに至り、その気持ちを強く抱きました。これは問題を解決しようと思う気持ちなので、「水の気持ち」です。そういった「水の気持ち」を抱いたが故に、浪人の途中から理系から文系になり、早稲田の政経を目指し始めました。

どうして早稲田の政経を目指していたかというと、この学科で勉強しながら色々な知識を身に付けながら、国連を目指そうと思っていたからです。また、大量の人脈を作ろうと当時は計画していて、できるだけ上の学科に入った方が人脈作りで効果的だろうと思っていたことも一つの理由でした。一人の人間が一人の力で頑張っていても大した効果を得られないけれど、大量の人脈は効果を生むだろうということを当時の経験則から感じていて、そういった発想を抱いていた形になります。

三年の浪人期間、私はずっと勉強していました。そのことは浪人時代の私のことを知っている人は知っています。朝から晩まで、予備校の自習室の壁際の席でずっと勉強していた形になります。とにかく当時は「世界のどこかで食べられなくて困っている人を助けるんだ」という気持ちでずっと机に向かっていました。

これが当時の私の気持ちの面の説明なのですが、神々としては元々私に三年浪人をさせたかった形になります。何故ならば、「誰かのため」にずっと机に向かって勉強するという行為は楽なものではなく、その過程で私の魂の「水の気」や「土の気」を増やしたかったからです。「土の気」とは「自分が信じることをやり始める・やり続ける気持ち」=「勇気・忍耐」です。

また、浪人生は社会的には本当にいい扱いを受けず、三年も浪人するならば、かなり冷たい目で見られます。そういった状態でも「光」を実践することに慣れさせるためにも神々はこういったことを私にさせた形になります。現代社会でシャーマンとして生きていると冷ややかな目で見られることが本当に多いです。そういった中でも周りからの視線を気にせずに「光」を実践する必要があるので、その練習をさせていたという意味もあります。

また、浪人時代は時間があるために色々なことを考えてしまいます。そのことが深い認識をもたらす上で有効だということも理由の一つにあります。実際、私が行った予備校にはかなり深い視線を持った先生が多かったですし、私は彼らから学んでいたので、そういった先生方からいい影響を受けています。

私は結果的には早稲田の政経ではなく、上智大学哲学科に進学しています。それは三年目の浪人の途中からそちらに進学したいと思い始めたからです。どうしてそのように考え始めたかというと、以下のように考えたからです。「今自分が抱いている世界認識によって、自分は貧困問題を解決すべきだと思っている。けれど、世界認識が変われば、何をすべきかという答えは変わるはずだ。だから、より深い世界認識を学ぶ必要がある。そのことによって、本当に自分がすべきことも分かる。そして、世界認識を深めるために有効な手段は哲学と芸術だと思う。何故ならば、哲学は言葉によって世界認識を深めるための方法であって、芸術は言葉以外のものによって世界認識を深めてくれるから。上智大学哲学科は哲学と芸術の両方を取り扱っているので、ここに行きたい。」このような思想の変化があったからこそ、私は上智大学哲学科に進学しています。この出来事も神々の導きによって起こっています。

この思想の変化で重要なことは、「誰かのため」に何かをしたいという「問題解決の心」が故に、その気持ちが「向上心」に変化している点です。この思考の過程は「水の気持ち」の教科書のような意味を持っています。「水の気持ち」は「向上心・問題解決の心」であって、だからこそ「向上心」と「問題解決の心」は繋がっています。どうして、この2つの気持ちは繋がっているかというと、「誰かのため」に「問題解決」を強く行なうためには、まず最初に自分を「向上」させる必要があるからです。また、自分の問題を解決する気持ちが「向上心」であり、自分以外の問題を解決する気持ちが「問題解決の心」でもあるからです。そういう意味で、私の浪人期間の思想の変化は「水の気持ち」が「向上心」と「問題解決の心」であることをよく表しています。

当時このように考えたことは、今に強く繋がっています。私は当時、前世や来世のことや魂などは信じておらず、神々の存在も信じていないが故に、「世界のどこかで食べられなくて困っている人を助けるんだ」という気持ちを抱いていました。しかし、魂や神々の存在を確信した後は今世だけのことを考えるよりも、人が生きていく上でどのような世界が好ましいのかということをより考えるようになっています。神々は元々このように思想の変化をさせるために、「向上心」の「アイデア」を与え、私もその「アイデア」を信じた形になります。

神々としては私を早稲田の政経に行かせようとは思っておらず、上智大学の哲学科に行かせることを元々計画していました。どうしてそのように言えるかというと、「光」のシャーマンになる上で早稲田の政経よりも、上智の哲学科の方が圧倒的に好ましい環境だったからです。では、どうして早稲田の政経を目指させたかというと、一番受かるのが難しい学校を目指させることで、三年浪人させやすくするためでした。また、どうして上智の哲学科に神々が入れたかったかというと、古代哲学を私に学ばせたかったからです。

古代哲学で取り上げられていることは「気」のことです。ただ、今の古代哲学研究者は古代哲学で扱われているものが「気」であるということは知らないので、そういう教え方をしません。ですから、大学時代の私が古代哲学を「気」のことと結びつけて考えたことは一度もありませんでした。当時の私の印象としては「古代哲学」=「なんだかよく分からない哲学」といった感じでした。しかし、この過程は今の古代哲学研究者が古代哲学のことをよく分かっていないということを学ぶ上では本当に重要なプロセスだった形になります。

つまり、神々としては私に古代哲学を学ばせる為に上智哲学科に入れたというよりかは、大学の哲学科がどのように古代哲学を理解していないのかということを学ばせるために上智大学哲学科に行かせた形になります。古代哲学には多くの真実が書かれています。それにも関わらず、その知識を人は使うことができておらず、だからこそ、どうして人はその知識を活かすことができないのか、ということを理解することはとても重要なことです。何故ならば、問題を解決するためには、問題の構造を知るべきだからです。私はそういった問題の構造を学ぶために、哲学科に進学した形になります。

「光」のシャーマンになるための修行として、三年間の浪人という方法があると言うと、現代人からすると意外かもしれませんが、実際はこのことは有効な修行となりました。みっともなく、どうしようもない状況の中で、誰からも認められない中、「誰かのため」に何かをし続けることは楽ではないです。しかも、そんな状況の中で特別な方法はなく、やるべきことは勉強しかないので、本当に地道な作業でした。

また、二年目や三年目の浪人が決まった時の「もう一年か、、、」という「絶望」も本当に深いものでした。不合格通知を電話の自動音声で聞いた瞬間に重力が三倍に感じたことを今でも覚えています。そういった「絶望」との闘いの日々でもあったので、「強さ」を養われたと思います。

今は本当によく分かりますが、神々が私の成績を上げようと思えば、簡単に上げることができました。何故ならば、「気」で関与すれば問題の正解は教えられるからです。今は神々から色々なことを「気」で教えてもらっているからこそ、色々なことが分かります。だからこそ、このホームページもあります。それにも関わらず、大学受験で苦労したのは神々が極力私の勉強に関与せず、邪魔さえもしていたからです。神々は我々の記憶を管理しています。ですから、神々は記憶を消すことは簡単にできます。当時、覚えたはずのことを忘れてしまうことでかなり苦労していました。あと、私は高校受験の時は受験直前に急激に成績が伸びていますが、それは神々がその地区で最難関の高校に行かせたかったからになります。どうしてかというと、その高校は私が魂の修行をする上で非常にいい高校だったからです。

神々としては高校受験の時は急激に私の成績を伸ばし、大学受験の時は成績が伸びないように関与していた形になります。どうして、このような対照的な構造を用意したかというと、神々は我々の成績に「気」でかなり関与しているということを人間に伝えたいからです。例えば、神々は「人生の役割」が医者の人の成績は極力上げるように「気」で関与します。何故ならば、医者になるためには難しい医学部に行かないといけないからです。あまり勉強しなくても賢い人はいますが、そういう人とは勉強において神々から色々なことを「気」で教えられている人のことを意味します。もちろん、神々の導きに付いていけるだけの魂の「賢さ」もないといけないのですが、神々がどれだけその人間に「気」で関与するかということは人間の成績に大きく影響します。

人間は自分の成績がどのような形で神々に関与されているのかを知りません。だからこそ、全ての成績は自分自身だけが生んでいると思ってしまい、その結果として、成績がいい人は「優越感」に堕ち、成績が悪い人は「劣等感」に堕ちがちです。「優越感」「劣等感」も「闇の気持ち」なので、それは好ましいものではありません。そういった構造も経験を以て学んだ形になります。

 

・音楽と文学

三年の浪人の間、神々は私をわざと「闇」に導くということも行なっていました。『私の人生の流れ1』に書いたように、私は様々な「闇の気持ち」を理解しないといけなかったからです。そういうこともあって、「闇」に堕ちやすい浪人という状態を神々は三年間させたという経緯もあります。

しかし、高校卒業時の自分は「闇」を学ぶ上では「光」が強すぎました。「闇」を経験する為には、魂が「闇」の状態まで堕ちなければなりません。そして、神々が私を「闇」に導くために使った方法が音楽と文学です。そのことについて、ここで説明していきたいと思います。


[中島美嘉『MUSIC』]

高校を卒業して浪人生になった頃、ちょうど中島美嘉の『MUSIC』(2005/3/9発売)が発売され、私は神々の導きでこのCDを買っています。CDショップ屋に行って、平積みにされている『MUSIC』を見て、買いたいという気持ちが自分の中に起こったことを今でも覚えています。また、どうして買いたいと思ったかというと、2004年の大晦日の紅白歌合戦で中島美嘉が『朧月夜』を歌っているのを観て、ひどく感動したからでもあります。その紅白の映像はこちらのリンクから観ることができます。

http://v.youku.com/v_show/id_XMjI5MTQzMzY0.html

浪人生になった当初、いつもこの『MUSIC』を聴きながら予備校に通っていました。『桜色舞うころ』を聴きながら桜並木の中を自転車で予備校に通っている時、桜は綺麗だけど、浪人という現実が悲しく、複雑な気持ちで『桜色舞うころ』を聴いていたことをよく覚えています。

この『MUSIC』は私の人生にとって音楽との本当の出会いです。そういう意味で、このアルバムが『MUSIC』というタイトルを持っていることは私の人生とすごくシンクロしています。そういったことも神々は狙って、私にこのアルバムを買わせています。

私は小学生の頃はピアノを独学で弾いたりしていましたが、中学高校はバスケットボール一筋だったので音楽とは遠い生活を送っていました。しかし、大学生になる頃よりコントラバスを始め、大学卒業後もコントラバス奏者として生きていました。音楽と全然縁がなかった私がすごく音楽の方向へ向く変化が起こったのは、浪人時代に音楽との出会いがあったからです。そして、浪人の最初に買ったのが『MUSIC』であって、私にとって『MUSIC』は「音楽」との出会いそのものです。

このアルバムの中で『蜘蛛の糸』という曲があるのですが、この曲も好きで当時いつも聴いていました。この『蜘蛛の糸』を聴いていたのも神々の導きになります。『蜘蛛の糸』は芥川龍之介の小説のタイトルです。どうして神々の導きでこの曲を聴いていたかというと、神々は芥川龍之介を通して私を「闇」に導こうと考えていたからです。実際、私は中島美嘉の『蜘蛛の糸』に影響を受けて、芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』を買っています。これは私が最初に買った芥川作品ですし、この作品を通して強く「闇」に堕ちました。

中島美嘉の『蜘蛛の糸』は「闇の気」を獲得することをよく描いている曲です。中島美嘉自身、一度「闇」に堕ちることを人生の役割としている人間です。そして、その構造は私の人生も同じです。中島美嘉の『蜘蛛の糸』は、神々が定めた人生の役割の中で「闇」に堕ちる必要がある人間の様子を描いた歌であって、中島美嘉自身のことを描いた歌でもあり、私に置き換えることもできる曲です。作詞は中島美嘉本人になります。中島美嘉本人はこの詩を金星神と共に書いていますが、中島美嘉本人が意図したことと金星神が意図したことは異なるかもしれません。この歌は金星神が作った「闇」の歌になります。解説はこちらに書いています。私は当時このような意味は分からず、今だからこそ分かる形になります。

http://junashikari.com/中島美嘉について/『蜘蛛の糸』について/

また、この『MUSIC』のジャケット写真は中島美嘉が「ホラ貝」を耳に当てていますが、私が初めて作った自分の音楽ユニットはスペイン語の「Hola guey」です。当時は全く意識していませんでしたが、「Hola guey」は「ホラ貝」と読めます。そういう意味でも、中島美嘉の『MUSIC』は私にとって「音楽」の始まりです。

このユニットでボーカルを担当していた男性は中島美嘉同様に金星神と繋がっている人間で、メキシコ系アメリカ人です。彼の提案で「Hola guey」というユニット名になっていますが、金星神が「ホラ貝」を意識してこの名前にした経緯があります。ちなみに、金星神と共に歌を歌っているSalyuの名前は「salut」=「やあ(親しい間柄の挨拶)」から来ていますが、「hola guey」は「salut」とほぼ同じ意味です。この構造も意図的に金星神が創っています。このことの意味はいつか別で解説します。Hola gueyの音楽はここに載せています。

http://junashikari.com/music/


[芥川龍之介]

以下、芥川龍之介についてですが、芥川龍之介は悪魔と共に文章を書いています。だから、芥川龍之介の文章を読むと、その悪魔から「闇の気」をもらいますし、悪魔が芥川龍之介の文章に込めた様々な「罠」に引っかかることになります。

私は最初にこの本を買っています。『蜘蛛の糸』を読むために買ったのですが、この本の中に『侏儒の言葉』が載っていて、この『侏儒の言葉』によってかなり「闇」に堕ちています。『蜘蛛の糸』『侏儒の言葉』については、以下のリンクに詳しく書いています。

http://junashikari.com/芥川龍之介について/『蜘蛛の糸(芥川龍之介)』について/
http://junashikari.com/芥川龍之介について/芥川龍之介『侏儒の言葉』について/

悪魔が芥川龍之介に文章を書かせることで目指したのは、人間が「闇」に堕ちるための思想を読者に信じ込ませることです。魂が間違ったことを信じるのであれば、その魂は「呪い」を抱えます。「呪い」とは我々人間にとって本当に身近なことであって、間違ったことを信じたり、「闇」のものを好きになることです。

神々は私を「闇」に一度陥れるために芥川龍之介を読ませているので、悪魔が芥川龍之介の文章の中に様々に仕掛けている「罠」にわざと引っ掛けるということを神々は行なっています。このような状況だったので、悪魔が芥川龍之介の文章に仕掛けた「罠」に私が引っかからないということは絶対にできません。そのようにして「罠」に引っかかり、間違ったことを信じ、「呪い」をもらい、魂が「闇」に堕ちていった形になります。このような方法で、神々と悪魔の両方によって「闇」に陥れられるということが、中島美嘉の『蜘蛛の糸』の歌詞にも描かれています。

私が芥川龍之介の『侏儒の言葉』の中で、信じたが故に最も苦しんだ文章は以下の文章になります。

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好悪

 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただ我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、まさおぼれんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度にったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬはずである。いや、この二つの快不快は全然相容あいいれぬものではない。むし鹹水かんすいと淡水とのように、一つにっているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁をすすった後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? かつ又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あののろうべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教キリストきょうの聖人たちは大抵マソヒズムにかかっていたらしい。
 我我の行為を決するものは昔の希臘人ギリシアじんの云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味をらねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすことなかれ。』耶蘇やそさえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟ひっきょう荊蕀けいきょくみちにも、薔薇ばらの花を咲かせるもののことである。

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この文章で芥川龍之介が書いていることは「全ては自分の快楽のためだ」ということです。どんな善行であっても、それを「快楽」と感じるからこそ、人はそれをするということを書いている形になります。

この文章は巧妙に真実が見えないように書いてあります。「快楽」とは「自分のため」の「欲望」を実践した時に得られる気持ちのことです。それと対の関係にあるのが、「喜び」であって、「喜び」とは「誰かのため」に「愛」を実践した時に自分の中に起こる気持ちです。人間は「快楽」と「喜び」の違いをこのように言葉として明確に意識化していないが故に、悪魔は「喜び」を「快楽」のように見せることができます。この文章で悪魔が芥川龍之介に書かせた罠はその点になります。このような罠を設定することで、この文章を「愛」の強い人間が信じた時に、自分の「愛=相手のため」を「欲望=自分のため」と捉えてしまい、そのことで色々なことを狂わせていくということを目指して悪魔は芥川龍之介にこの文章を書かせています。

当時の自分は強い「愛(誰かのため)」の気持ちで貧困問題を解決するんだという気持ちの中を生きていました。しかし、この文章を信じたことで、自分が貧困問題を解決したいと思う気持ちが「欲望(自分のため)」の気持ちというとても汚らわしい気持ちにも思えてしまって、非常に苦しい時期でした。

そういった形で、本質的には「誰かのため」に何かをしたいという気持ちを抱えているにも関わらず、その気持ちのことを「自分のため」の気持ちと誤解してしまっているような状況になりました。気持ちと思考の間にギャップができてしまって、頭で考えれば考える程、自分が汚らわしく思えていました。

当時は今のように「自分のため」=「闇」、「相手のため」=「闇」といった観点もなく、そういった観点を持たないようにも神々に関与されていたので、この芥川龍之介の文章を否定する根拠を見出すこともできませんでした。神々によって「闇」に陥れられるとは、このような事態を引き起こされます。普通は人間がこういった文章を読むと、罠にはまらないように神々が色々なことを考えさせたり、この文章を読んだことを忘れさせるのですが、神々によって「闇」に陥れさせられる魂はそのように助けられることがなく、むしろ罠に引っかかる思考をさせられたり、この文章を読んだことを深く記憶させます。

当時、私にとって芥川龍之介の文章は本当に「かっこいい」と思うようなものでした。そして、「かっこいい」が故に、その文章に惹かれ、信じてしまった形になります。これはとても大事なのですが、神々も悪魔も魂に様々な「アイデア」を信じさせる為に「かっこよさ」や「美しさ」や「かわいさ」などを使います。人が何かを信じる時、どれだけその対象に心が惹かれるかということが強く影響します。神々も悪魔も心を惹かせるために、「美しさ」「かっこよさ」「かわいさ」を使います。

芥川龍之介は「疑い」と「ナルシズム」の「かっこよさ」を使い、人の心を奪います。そして、その「かっこよさ」に同調してしまうと、芥川龍之介の本を読んだ人も「疑い」と「ナルシズム」を抱え、様々な悪魔が創った罠の「アイデア」を信じてしまいます。芥川龍之介をとても好きになった浪人の後、大学一年生の21歳の頃、私は自分でブログを作って、そこに文章を何個か書いたのですが、そのブログのタイトルは『ashikarism(アシカリズム)』です。悪魔が私に作らせたブログになります。

悪魔は私の名前の「Ashikari」が「as+光(hikari)」である構造は当然見抜いていました。だから、この英語+漢字の構造を利用して、「芦刈+ism」→「Ashikarism」というタイトルにしています。そして、悪魔が「ism」に込めた意味は「ナルシズム」です。「ナルシズム」は「闇」であって、「Ashikari」の「hikari(光)」とは真逆です。悪魔は神々を挑発するために、神々が「光」の意味を込めた「Ashikari」という名前を「闇」の方向へ使うために、「Ashikarism」という言葉を私に使わせています。

以下にこのブログの序文のリンクを貼っておきます。このブログに対して、今は本当にあの頃は間違っていたと思っていますし、貼るのも恥ずかしいくらいなのですが、とても参考になると思います。

http://ashikarism.exblog.jp/12588943/

このブログから序文だけを抜粋して解説したいと思います。

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[2009/10/11]
 

  まず初めに、ここの在り方のようなものを述べておきたいと思います。
  それは自ずと、以下の命題から始まることになります。

 
  「様々な哲学的問題に対して、命題の形での真理を述べることは困難なことである。」

 
  このことは、様々な原因に依るのであるが、
  そのひとつに論理というものの不完全性が考えられる。

  その不完全性とは、「論理は必ずしも我々を一本道に導くことはない」という特徴である。
  論理はしばしば対立する思想の両方の味方をし得る。

  また、単純な因果関係であってもそのあり方は様々である。
  おそらく、この「論理は必ずしも我々を一本道に導くことはない」という命題に対してさえ、
  我々の様々な見解は「論理は必ずしも我々を一本道に導くことはない」
  という特徴を示すことになるであろう。


  二つ目の大きな原因は、命題というものの不完全性である。

  我々が述べることには、我々が意識している以上に様々な問題が含まれている。
  例えば、先ほどの「論理は必ずしも我々を一本道に導くことはない」という命題も、
  命題の形であるが故に、主張の危うさを内に秘めている。


  ここで言う「論理」とは何なのか?

  「必ずしも」という表現によって、この命題は、
  論理を絶対視する人間以外には、もはや何も意味しないのではないか?

  「一本道」とは、どこまでを一本道と見るのか?

  そもそも、論理が我々を導いているのか、
  我々が論理を導きの道具として使っているだけなのか?

  これはただの経験談であって、この命題を結論付ける論理はあるのか?

  しかし、この命題を論理によって導いたところで何の意味があろう。
  この主張が論理の不完全性を述べているのであるから。


  繰り返しになるが、
  我々が述べることには、我々が意識している以上に様々な問題が含まれている。


  また、「様々な問題が含まれている」ということは、見方を変えれば次のようにも言える。


  我々があることを認める際には、その認めるという行為を可能としている基準が存在する。
  言い換えれば、疑わないという行為を可能としているのは何らかの同意である。

  しかしながら、その基準や同意というものが間違っている場合、
  我々がそれらによってその主張を認めたという行為もまた、間違った行為であると言える。
  よって、我々は、より正確な思考を行おうとするならば、
  その前提条件を吟味していく必要がある。

  そして、その前提条件の前提条件も、である。
  そして、この「吟味」は限りなく続いていく可能性が高い。
  このような考えによれば、
  ここで言う「同意」とは「思考停止」ということとほぼ同義になるであろう。

  
  このような意味で、我々が述べることには、
  我々が意識している以上に様々な問題が含まれているのである。


  以上を全てまとめる。


  「論理は必ずしも我々を一本道に導くことはない」ということと、

  「我々があることを述べる際、我々が述べるそのことは、
  我々が思っている以上に様々な問題を内包している」ということは、

  「様々な哲学的問題に対して、命題の形での真理を述べることは困難なことである」
  という命題を成立させている。


  そしてこの考察に対する如何なる反論も、この命題の確からしさを確認させるものである。


  つまり、この主張が命題の形をとっている以上、
  この主張に対する如何なる反論もできるわけだが、
  この主張が正しければ、反論は生じて当然であるわけだから、そのような意味で、
  如何なる反論も、この命題の確からしさを確認させるものであるのである。


  また、この命題は、命題の形で命題の不完全性を述べるという自己矛盾を犯しているが、
  ここで生じる自己矛盾というものも、命題の不完全性を証明するものであると考えられる。
  よって、この自己矛盾はこの主張の下に成立するものとして見なせるわけであるから、
  この自己矛盾はこの主張の不完全性を証明する道具とはみなせない。

  仮にこの主張の不完全性を証明するものとみなした場合も、
  それはこの主張である命題の不完全性を証明するものと見なすことができる。


  以上のような意味で、この考察に対する如何なる反論も、
  この命題の確からしさを確認させるものなのである。
  
  
  このことから、以下の考えが生まれる。


  最も賢い人間は、決して語らない人物であり、
  より正確な知識を求める人間は、問題の複雑性をより深く知ろうとすべきである。

  言い換えるならば、

  どこまでも沈黙を貫く立場が最も安全なわけであり、
  より正確な知識を求める人間は、
  どこまでも謙虚な姿勢を貫き通すことが最も大事なのである。


  では、私はここで何をしたいのか?

  それは、

  様々な哲学的問題に対して、
  命題の形での真理を述べることはとても困難なことであると分かりつつ、

  様々な哲学的問題に対して、
  命題の形での真理を述べることをやってみることである。


  つまり、どこまでも語ってしまうことである。
  自分の考えがどれだけ確かなものではないと分かりつつ、敢えて語ることである。


  長くなりましたが、

  なぜ、このようなことをするかというと、問題の複雑性をより深く考えるためです。
  私はだらしない人間ですから、このような場を作った方が、より考える時間も増えますし、
  その内容の質も多少は上がってくると思います。

  無論、健全に哲学を学ぶ者は、過去の哲学者の思想を通して、
  問題の複雑性を理解すべきであると考えています。
  しかしながら、偉大な哲学者の文章に対し、
  自分がより実感を持って理解できるかどうかということは、
  日々の問題意識の蓄積によります。
  ここでは、その問題意識をより強固なものとするためでもあるのです。
  その点で、過去の哲学を学ぼうとする姿勢と矛盾しないことは御理解下さい。

  また、ここにおいては宗教の教えを、問題を考えるための道具として使うつもりはありません。
  それは、私が無宗教者であるからではなく、とりあえずは宗教無しの思考によって、
  問題を捉えるやり方を優先的にやるべきであるという考えからである。
  最終的に宗教という選択肢が残されているからこそ、
  絶望的になる必要がないとも考えています。
  よって、我々には常に宗教という選択肢が残されているまま、
  ここでは勝手なことが述べられているとご理解下さい。



  ここを始める動機をまとめます。
  私は、命題の形での確固とした真理を語るためではなく、
  問題の複雑性をより深く理解するための過程として
  このようなことをやっていこうと思っています。
  この点をどうかご理解下さい。


  禁断の果実を食べた人間には、その償いに値する努力が必要である。

 

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このような出口のない迷路のような文章を書いています。芥川龍之介の空気とも近く感じると思うかもしれませんが、それは芥川龍之介に文章を書かせていた悪魔と同じ悪魔に書かされていたからこそ、このような文章になっています。その悪魔が芥川龍之介に書かせていた罠と同じような罠を私は書かされています。

結局当時の自分は「ナルシズム(優越感)」で文章を書いていたが故に、悪魔から「闇の気」をもらいながら間違った「アイデア」ばかりを悪魔からもらい、それを書いていた形になります。悪魔としてはこのブログを書かせることで、私に「闇の気」と間違った「アイデア」を与えることで、シャーマンになることを防ごうとしていたのに対して、私は自分が賢く偉そうなことを書ける「快楽」に堕ちていた形になります。悪魔と人間のやり取りとは、このような「ギブ&テイク」の関係になります。しかし、悪魔と手を結ぶと「闇」に堕ちていき、悪魔から「闇の気」をもらい続け、悪魔から支配され切ることに繋がります。

あと、このブログの写真でこの写真を使っていますが、このことにも意味があります。

この写真の真ん中に写っている男の子が私自身です。そして、黒は「闇」の色なので、周りにいる女性達は「闇」と考えることができます。そういった「闇」に私が囲まれている様子がこの写真に描かれている景色です。ですから、この写真自体が、私がこのブログで悪魔に文章を書かされていたことをよく表しています。この写真を選んだのも悪魔ですが、神々に対する挑発としてこの写真を使わせています。

この写真を撮ったのはマリオジャコメッリという写真家で、悪魔と共にモノクロ写真を撮っていた写真家になります。この写真家は文章も書いていますが、その中に「白は虚無、黒は傷跡」という言葉を残しています。このことが彼が悪魔と共に働いていたことをよく示しています。

とてつもなく強い明かりは全てを「白」に照らし出すのに対して、何も明かりがないと全ては「黒」に見えます。このことによく表れているように「光」は「白」、「闇」は「黒」という色に関する基本ルールはあります。ジャコメッリは「闇」を選んでいる魂だからこそ、「白」を「虚無」と言っています。また、彼は「傷跡」の美学の写真を撮ります。様々な「闇」を「かっこよさ」のある写真で切り取ることで、「闇」を肯定するために悪魔に利用されていた写真家です。そういう意味で、「黒は傷跡」という言葉は彼のそういった美学があります。

とにかく、このような形で、私は神々の導きによって、中島美嘉の『MUSIC』の中の『蜘蛛の糸』と出会い、そのことがきっかけで芥川龍之介を読み、様々な悪魔の「罠」に引っかかり、多くの「呪い」を抱え、自分自身が悪魔の使いと化していた形になります。

また、その他にも神々が私を「闇」に陥れるために使った音楽があります。それが、UAと浅井健一の音楽です。元々はUAが好きで、そこからUAと浅井健一のグループであるAjicoが好きになり、浅井健一が好きになった形です。そして、浅井健一のソロと浅井健一のグループであるJUDEとSHERBETSも聴いていました。それぞれを少しずつ解説していきたいと思います。


[浅井健一]

浅井健一は火星神様と共にロックをやっている立場の音楽家です。純粋な「光」に加えて、「闇の中の光」や「闇に対する闇」も表現します。浅井健一は「光」だけではなく「闇」も表現するにも関わらず、悪魔と共に働かずに神々と共に働くことができる、とても優れた魂になります。浅井健一については別で詳しく書きます。

浪人当時、浅井健一の初ソロアルバム『Johnny hell』が発売され、私はこのアルバムを買い、いつも聴いていました。以下の動画と歌詞は『Johnny hell』です。聴いてみて頂けると幸いです。
 

 

ドーナツを盗んだのは 飢えた子供
でもそれは悪いことじゃないよね
戦争に行かされて 憎しみもない
人たちを殺すことは 悪魔だよね
Hey Johnny Hey Johnny 答えろよ
Hey Johnny Hey Johnny それでいいの

あまりにも残酷な事がなされてる
僕たちには知らないが本当なんだ

Hey Johnny Hey Johnny いかれようぜ
Hey Johnny Hey Johnny だって世界は
Hey Johnny Hey Johnny いかれてるぜ

Hey Johnny Hey Johnny いかれようぜ
Hey Johnny Hey Johnny だって世界は
Hey Johnny Hey Johnny いかれてるぜ
Hey Johnny Hey Johnny 正義はどこ

Johnny…


このページの最初に書きましたが、浪人の頃から私は世界に対する問題意識が本当に強くありました。そして、ご飯を食べられない子供達がどこかにいるのであれば、その子達に食べ物がいくようにするために貧困問題を少しでも解決することが人が生きる道として当然の道だと思い、そのために全力を尽くして生きていこうと思っていましたし、そのためにずっと勉強していました。ですから、この歌の最初の歌詞の「ドーナツを盗んだのは 飢えた子供  でもそれは悪いことじゃないよね」という歌詞は自分がいつも考えていたこととすごく重なり、強く共感しました。

しかし、この曲は「狂った世界があるからこそ、それを解決するべきだ」という発想ではなく、「狂った世界があるからこそ、自分も狂ってしまおう」ということを歌っています。私は神々の関与によって、この曲がどうしても好きになり、よく聴いていたので自分の中で矛盾を抱えることになりました。逆に言うと、神々はそれを狙い私がこのアルバムを買うことに関与しています。

この曲は当時の私に強く響きました。神々が私の心に関与し、私の心を強く動かしていたからです。神々は「気」を司り、我々の「気持ち」の原因は「気」なので、ある音楽を聴いていてどのように「気持ち」が動くのかということに神々はかなり関与できます。この曲が持っている感情は「絶望」とも言えると思います。感動は自分と対象の間で共感が起こる時に発生する現象です。例えば、「嫉妬」をしたことが無い人は「嫉妬」の歌を聴いても共感できずに、心を動かすことはできません。それと全く同様に、強い「嫉妬」を抱える人は「嫉妬」の歌を聴くと強く心を動かすことができます。そういう意味で、私は自分の中にずっと「絶望」を抱えていたが故に、自分の中の「絶望」とこの曲の描く「絶望」がひどく共感していました。

しかし、この曲に共感してしまうのであれば、「狂った世界があるからこそ、それを解決するべきだ」という「水の気持ち」ではなく、「間違った世界があるからこそ、自分も狂ってしまおう」という「闇」に堕ちてしまいます。私はこの曲を聴く度にそういった「闇」に堕ちながらも、「水の気持ち」に戻るということを繰り返していた日々でした。

アルバム『Johnny hell』の中には、他にも様々な曲がありますが、『人はなぜ』といった曲も同様の「絶望」を描いています。また、『哲学』という曲は「希望」として描かれています。そういったことも当時の私に強く影響を与えています。「哲学」という言葉の意味もまだよく分からなかった当時の自分にとって、『哲学』という歌が「絶望」ではなく「希望」の匂いのする歌だったことは、「哲学」という言葉に対する印象自体を良くしています。人にとって、その言葉と出会った時に、その言葉に対してどのような印象を抱くのかということは、その後ずっとその人に残っていきます。

とにかく、『Johnny hell』のこの構造は芥川龍之介の『侏儒の言葉』の『好嫌』の文章を信じたことで、自分の「愛」を「欲望」に思えてしまって苦悩していた構造と似ています。神々はこういった構造を用意しては私を苦悩させ、「闇」に陥れるということを目指し、実践し続けてきました。
 

[Ajico]

私が浅井健一を知ったのはAjicoを通してでした。Ajicoとは造語であって、UAが作った言葉なのですが、浅井健一は「宇宙をさまようヨットのこと」と言っています。神々としては、私にとってキーワードである「船」の意味を持っているバンドであるからこそ、私に聞かせていたという面もありますし、私自身の人生と近い要素をかなり持っているが故に、私に聞かせていた形になります。
 


『私の人生の流れ3』で詳しく書きますが、Ajicoのデビューシングルは『波動』であって、「波動」とは「気」のことです。私はこの『波動』が生まれて初めてライブでコントラバスの演奏をした曲でもあります。私は「気」のことを伝えるために生まれてきたので、神々は私に『波動』を好きにさせ、『波動』を生まれて初めてのライブで演奏させている形になります。
 


上の『すてきなあたしの夢』の中には「もしも世界をつなぐ光を 神様の手が隠すのなら あたしはそうねこの目を裂いて きっと真っ赤な河を描き 貴方の中に色を見つけよう」という歌詞がありますが、これは神々によって「闇」に陥れられる人間を意味している歌詞です。神々によって「闇」に陥れられる人間は「世界をつなぐ光を 神様の手が隠す」状態になるからです。このことは私の人生の役割と重なっています。



この『美しいこと』の中には、「僕には見える 美しいことが どんなに弱くても 美しくなれる」という歌詞がありますが、これは「闇」の「美」を肯定することによって、「闇」を肯定している歌詞です。人が「闇」に堕ちる上で「闇」の「美」を愛するということは、一つの有効な方法になります。これも『johnny hell』と同様に、人が「闇」に堕ちる罠をわざと神々が描いた歌になります。そして、神々は私を「闇」に堕とすために、この曲を好きにさせた形になります。


[UA]

私は姉の影響もあって、UAを幼い頃からよく聴いてきましたが、浪人時代は本当によくUAを聴いていましたし、私がコントラバスを始めるきっかけとなったのもUAの『空の小屋』というアルバムを聴いたからでした。UAは金星神と共に歌う歌手であって、浅井健一と同様に非常に重要な曲を膨大に残している歌手です。
 


PV:http://v.youku.com/v_show/id_XMjU2NDAzODMy.html

UAの歌の中に『悲しみジョニー』という曲がありますが、この曲は浅井健一の『johnny hell』以前に発表している曲で、この2つのジョニーは同一人物を意味しています。どちらのジョニーも、神々によって「闇」を選ばされる人間を意味し、そのことは私の人生の役割と重なっているが故に、神々は私にこの曲をよく聴かせていた経緯があります。また、『悲しみジョニー』はAjicoのライブでも演奏されています。

いつもUAの歌詞は金星神の代弁の意味を持っていて、この曲もそのような意味を持っています。「あきらめよりもおどけたキスを 楽しい嘘を捧げましょう ありふれた涙もひからびた 飢えた空は血まみれ」という歌詞は、「諦め(中立の気持ち)」よりも「欲望(闇の気持ち)」を目指し、「嘘」を付くことを神々が人間に薦める歌詞であって、神々によって「闇」に堕ちるべき役割を持っているジョニーに向けて歌われています。そして、そのことによって神々が「悲しみ」を感じていることを「飢えた空は血まみれ」という歌詞で表現しています。「風はひどく嘆いた」という歌詞もありますが、これも神々の「悲しみ」のことを意味しています。UAの歌詞で歌われている「空」という言葉は基本的に神々のことを意味していますし、「風」は神々が司っているからこそ、「空」も「風」も神々と言うことができます。

「はり裂けるまでなじっててよジョニー エサのありかを教えて 闇つきるまで黙っててよジョニー 肌のすき間を触って」とは、ジョニーが性行為を通して「闇の気」を抱えることを神々が薦めている歌詞です。性行為は強い「気」の交換を促す行為です。そして、「エサ」とは「快楽」であって「欲望の気」によって生まれるものであり、「欲望の気」は悪魔の司っている「闇の気」です。そういった「闇」に「つきる」ということを「闇つきる」という言葉で表現しています。「つきる」とは「次第になくなって無くなる」という意味であって、「闇の気」を食べ尽くすことを意味します。また、「病み付き」とも重なっていると思います。

このような意味で、『悲しみジョニー』とは「闇」に堕ちるべき役割を持ったジョニーを神々が「闇」に陥れることで、神々が「悲しみ」を感じていることを意味する歌です。だからこそ、『悲しみジョニー』というタイトルを持っています。

『悲しみジョニー』のPVについても神々が関与しています。このPVでは人形が燃やされる描写がありますが、火とは神々が司っているものであって、その火が人形を燃やすということは神々が人間を傷つける=「闇」に陥れることを意味しています。また、そういった火が何カ所もあり、やがて海水によって火が消されるということが示されています。

これは、神々がある人間を「闇」に堕とし、その人間を神々が後で「光」に引き上げることを意味します。「闇」のことを理解するためには、実際に「闇」に堕ちなければなりません。そして、「闇」のことを深く理解しなければならない役割を持った人間はいます。そういった人間に関して、神々は一度わざと「闇」に堕とし、そこから「光」に引き上げるということを行ないます。そういった役割を持つ人間が複数いることを意味するために、このPVではこのような描かれ方がされています。例えば、UA自身がそうですし、中島美嘉もそうですし、私も同じ立場です。そういった人間達を表現しています。


[JUDE]

浅井健一のグループにJUDEとSHERBETSがありますが、当時私はよくJUDEを聴いていました。JUDEにもジョニーに関連した曲はあるので、そのことについて書かせて下さい。

当時私が最も聴いていたJUDEのアルバムが『Dirty Animal』で、このアルバムの中に『Jhonny Sherry』という歌があり、当時よく聴いていました。このジョニーは『Johnny hell』や『悲しみジョニー』と繋がっていて、「闇」に堕ちる必要がある「水の人」が描かれている歌です。この歌詞の中で重要な歌詞は以下の歌詞です。

「ジョニージョニー」
「明日は船に乗って遠い街を目指すよ」

「そうだ心から願えば かなうかも」
「心を水にして願えば かなうかも」

「真実なんて知って君は何をするつもりなの」
「湿度は500% 水中を歩くナメクジ」
「醜さっていった何のこと」

歌詞全体:http://utaten.com/lyric/JUDE/Jhonny+Sherry/#sort=popular_sort_asc

「明日は船に乗って遠い街を目指すよ」という歌詞は神々が私と「船」を重ねている点や、私が旅立つ必要があったことと重なっています。また、「心を水にして願えば かなうかも」とは「水の気持ち」を抱けば神々が支えてくれることを意味します。そして、「真実なんて知って君は何をするつもりなの」という歌詞は私が「気」という「真実」を知るということと重なっています。「湿度は500% 水中を歩くナメクジ 醜さっていった何のこと」という歌詞は「真実」を知るために「闇」を経験する必要があることを「ナメクジ」「醜さ」という言葉で表し、「闇」を経験しても「光」に戻ることができるということが強い「水の気持ち」を表す「湿度は500%」という歌詞で表現されています。

JUDEの楽曲の中には『Silvester & Johnny K』という曲もあり、この曲も同じ「ジョニー」を意図しています。

重要な歌詞だけを抜粋します。

「溶けだした雪ぐちゃぐちゃ道路」
「よけながら歩いて行くよ」

「水しぶきあげ走るトラック」
「雪が降ってる 小鳥死んでる」

「Silvester & Johnny K」
「動かない雲見てた」
「Silvester & Johnny K」
「ハットはベージュのラコステ」

歌詞全体:http://kashinavi.com/song_view.html?11571

「雪」も「水しぶき」も「水」を象徴する歌詞です。これらの歌詞からここで描かれているジョニーが「水の人」であることが分かります。また、「闇」を経験することが「小鳥死んでる」という歌詞や「ハットはベージュのラコステ」という歌詞に表れています。小鳥も人間も神々からすると同じ動物なので、「小鳥死んでる」とは死ぬような経験をするということを意味します。そして、ラコステのマークは「闇」の動物であるワニです。そういったハットを被っていることは「闇」を被るということを視覚的に表現しています。

このような形で「水の人」であるジョニーが神々によって「闇」を経験するということを歌った歌が、UAと浅井健一の間に4つあります。また、歌詞はないですが、浅井健一は『Johnny Love』という曲も発表しています。私はこのジョニーの立場の人間であるからこそ、神々の導きによってこれらの楽曲をよく聴いていた形になります。

UAや浅井健一と同様に桑田佳祐も神々と共に歌を歌う歌手であって、桑田佳祐の『波乗りジョニー』はとても有名です。このジョニーも「水の人」であるからこそ、この歌のタイトルは「波乗りジョニー」になっています。
 


歌詞:http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=a00013

このジョニーも「闇」を経験していることが「星に願いを込めた日も 二人の海に夜明けは来ないと 君は気付いてた」という歌詞に表れています。また、この歌の最後の歌詞は「愛よもう一度 今、蘇る」ですが、「愛」を一度失った人が「愛」を取り戻すということが意味されています。つまり、一度「闇」に堕ちた人間が「光」に戻ってくるということが歌われています。

このように、神々は神々と共に歌う歌手の歌に、計画的に「ジョニー」という歌詞を使ってきました。そして、中でも浅井健一は「ジョニー」という歌詞に関して何度も的確に描いてきた形になります。

浅井健一が私のことを非常に直接的に描いた『GOD』という曲があります。意味は分かっていませんでしたが、このCDが発売された当時、私は神々の導きでこのCDを買っています。この曲の中では「ジョニー」ではなく、私の名前である「純」という歌詞をそのまま使っています。この曲は浅井健一が私のことを意図する曲を作るように火星神様が関与していたことを理解する上ではとても参考になりますので、PVと歌詞を全部書きます。

PV:http://embed.nicovideo.jp/watch/sm6331254

「通り過ぎる かわいいギャルたち」
「関係ないけど関係ないWANNA」
「道徳的に生きなくちゃいかんよ」

「出会い求め 街うろつく」
「知らない誰か 俺は気分いいぜ」
「レインボーカラーのサンダル」

「Passenger」
「全然ありのままでいいじゃん 必死になってあーだこーだ」
「とりつくろう事なんかない」
「Psychedelic World Psychedelic World World」
「Passenger」
「どっちみちどう転んだって ありえるのは愛 愛」

「月の裏に住んでるのは うかれきった3匹のこぶた」
「宇宙遊泳あけくれちゃって はめ外してロープ切れた」
「そのまま果てまで飛んでく」

「Passenger」
「流れる景色を見てたら 何だか心が冷たく」
「冷たく凍りつき始めたんだBaby たんだBaby Baby」
「Passenger」
「だからさどう転んだって 大切なのは純 純」

「遊牧民 内気なるカンガルー シカゴ スパニッシュ」
「キッズランド ナンバーボーイ」
「レミー トゥエンティー 弱くたって強くなれるさ」

「見ためばかりよく見えたって 中身なけりゃそれはそこまで
「なけりゃないでそれもいいかもね そうやってムギも言いたげさKnuckle

「Passenger」
「全然ありのままでいいじゃん 必死になってあーだこーだ」
「とりつくろう事なんかない」
「Psychedelic World Psychedelic World World」
「Passenger」
「どっちみちどう転んだって ありえるのは」
「Passenger」
「流れる景色を見てたら 何だか心が冷たく」
「冷たく凍りつき始めたんだBaby たんだBaby Baby」
「Passenger」
「だからさどう転んだって 定めてるのは神 神」
「Passenger」


「Passenger」とは「乗り物に乗る人」のことであって「船客」という意味もあります。「船客」と捉えるのであれば、私にとってキーワードである「船」という言葉と繋がります。そして、この歌はこの「Passenger」について歌われています。

冒頭の「出会い求め 街うろつく 知らない誰か 俺は気分いいぜ」という歌詞は「欲望」の歌詞です。そして、「どっちみちどう転んだって ありえるのは愛 愛」という歌詞は「欲望を選んでも、どっちにしろ後で愛を取り戻す」ということを意味します。

「月の裏に住んでるのは うかれきった3匹のこぶた」という歌詞についてですが、地球から見ると、太陽と月は全く同じ大きさに見えるように太陽系は神々によってデザインされています。これはそのまま「光」と「闇」の関係性を表していて、太陽は「光」の存在であるのに対して、月は「闇」の存在です。地球に絶えず「光の気」を送っているのが太陽であって、地球から絶えず「闇の気」を吸っているのが月です。

http://junashikari.com/energy/太陽系について/

そういう意味で「月の裏に住んでるのは」「闇」の存在と考えられますし、豚は「闇の気」を学んでいる動物です。神々と共にアニメーションを作っている宮崎駿の『千と千尋の神隠し』や『紅の豚』の中でも、豚は呪われた存在として描かれていますが、これは豚という存在が「闇」の存在だからになります。そういった意味で、「月」「豚」という点からここで「月の裏に住んでるのは うかれきった3匹のこぶた」として描かれているのは悪魔です。そういった歌詞の後に「流れる景色を見てたら 何だか心が冷たく 冷たく凍りつき始めたんだBaby たんだBaby Baby」という歌詞があるので、これは悪魔に襲われていることを表しています。

そして、その後に「だからさどう転んだって 大切なのは純 純」という歌詞があるのは、この歌で歌われている人間=Passengerが私であることを説明しています。そして、最後の「だからさどう転んだって 定めてるのは神 神」という歌詞は神々によって「純」は悪魔に襲われることを定められたということを意味します。

この歌詞の構造は「純」が「純粋」といった意味ではなく、ある魂であることを示唆しています。それはこの2つの歌詞の構造の一致によって言う事ができます。

だからさどう転んだって  大切なのは純 純
だからさどう転んだって 定めてるのは神 神

「だからさどう転んだって △△(な)のは○○」という構造はこの2つの歌詞について同じです。そして、片方には魂である「神」という言葉が置いてあり、もう一方には「純」という言葉が置いてあります。普通に考えるのであれば、この「純」もある魂であると考える方が自然なので、ある人間を意味していると言えます。また、「純粋」「純愛」といった意味を伝えるために「純」とだけ言うことは、我々日本人からすると不自然です。そういった、意味合いの観点からもここで歌われている「純」が人物であることが分かります。

また、他にも浅井健一は『光のスクリュー』という曲を作っていますが、この歌も私のことを意味しています。私の名前は「芦刈純」であって、「Jun Ashikari」=「Jun as Hikari」=「純 as 光」=「光として純粋」です。ですから、「光」という単語も私を表す言葉であり、浅井健一の『光のスクリュー』は私のスクリューのことを意味しています。歌詞を書いていきます。
 

「愛することばを 集めて」
「小舟を作った」
「星降る 夜だよ 乗り込む」 
「そのまま 夜空へ」

「光のスクリュー」
「やさしく まわって」
「お前の 思いで」
「やさしく 包んで」
「この世を 光で」 
「満たして」

「満たして 光で」

「エンジン ルームは 愛だぜ」
「かすかに あたたか」
「けれども 心が 寒くて」 
「うたおう 奇跡を」

「光のスクリュー」
「まわって まわって」
「お前の 思いで」
「やさしく 包んで」
「この世を 光で 洗って」 

「まわって まわって」
「お前の 思いで」
「やさしく 包んで」
「この世を 光で」
「満たして 満たして…」


冒頭の「愛することばを 集めて 小舟を作った」という歌詞は、この歌で歌われている人物が言葉を使って「光」を実践する立場のことを意味しています。私は説明担当の「光」のシャーマンなので、この歌詞は当てはまっています。また、「星降る 夜だよ 乗り込む そのまま 夜空へ」という歌詞は星からの「光の気」と共に働くということであって、ここで歌われている人間が星の神々と共に働く立場の人間のことを意味しています。

「スクリュー」は船に付けるものであって、この「スクリュー」という歌詞はこの歌で歌われている人物が「水の人」であることを示しています。「この世を 光で 洗って」という歌詞も「水の人」であることを示しています。「水の気持ち」=「向上心、問題解決の心」であって、「洗って」という歌詞は「浄化」=「問題解決」のことを意味しています。私は名前に「芦」という「水の植物」を表す漢字があり、「刈」はそれを使うということなので、名前自体に私が「水の人」であることは書かれています。また、私が「水の人」であることはこのホームページ全体を読んで頂ければ確信を持って頂けると思います。このホームページ自体が、現代人が抱える問題を解決するために行なっているからです。

「エンジン ルームは 愛だぜ かすかに あたたか けれども 心が 寒くて うたおう 奇跡を」という歌詞は私が「闇」を経験するということを示しています。「愛」を原因に動いてはいるけれども、「闇」の構造を説明するために「闇」を経験しなければならないが故に「心が 寒くて」という状態を経験している形になります。また、「うたおう 奇跡を」という歌詞は、今までに神々が起こしてきた「奇跡」を私は解説する役割を持っているので、このような歌詞があります。説明担当としてすべきことは、多くの根拠のある説明をすることです。その根拠の部分に今までに神々が起こした「奇跡」の解説があります。このページの解説自体も神々の起こしてきた「奇跡」を解説していることを意味します。

 

・影響を受けた講師

私は三年の浪人期間、代々木ゼミナール福岡校にずっと通っていました。三浪目はほとんど授業を受けておらず、自習室を使いに行っていただけでしたが、どうしてこの予備校に通い続けたかというと、神々としてはこの予備校の講師が当時の自分に好ましかったからです。

代ゼミは非常に個性的な講師が多く、その中には神々と共に働く講師もいます。私が当時学んでいた講師達は皆神々と繋がっている人達であって、だからこそ、その授業はとても意味のあるものでした。この時期に神々が私に行ないたかったことは様々なことに対する問題意識を持たせることです。そういった問題意識を持たせる上で、私が学んでいた講師達は非常にいい先生方でした。以下、YouTubeに上がっているものを取り上げながら、私が当時好きだった講師達のことを少しだけ解説させて下さい。


[菅野朋哉]
 


この先生の最初の授業の時のことは今でもよく覚えています。その授業の時に私は一番前の中央に座っていたのですが、いきなり質問をされ「お前は自分の顔を見たことがあるか?」と私は尋ねられました。それに対して私が「はい。。」と普通に応えると、「そうか、お前は自分の目ん玉を取り出したことがあるんだな」と返され、その時に私は「あぁ、自分は何も知らないんだな、、」と深く思った形になります。この最初の出会いによく表れているように、菅野先生の授業には毎回多くの気付きがありました。高校を卒業したばっかりで、色々なことを深く考えることもまだ無かった自分にとって、菅野先生の授業は様々な問題意識を持つ上で非常に有効でした。毎週月曜の夜に、『知の技法』という授業があって、そこではこのYouTubeのようなことを延々と菅野先生がしゃべり続けるのですが、人間の歴史の流れの中で一体どういう思想が生まれていったのかということの概要を毎回聞くようなもので、何も知らない当時の自分としては非常に大きな刺激になっています。

当時、私は講師室に行って菅野先生と何か話すということはほとんど無かったのですが、本当に数回だけ行った内の一回にこんなエピソードがあります。当時授業中に菅野先生が「君子豹変、小人革面」という『易経』の言葉を取り上げ、私がその言葉にとても心動かされ、講師室に行って菅野先生にサインをもらうかのようにその言葉を自分が持っていった紙に書いてもらったことがあり、今でもその紙は実家に保存しています。「君子豹変、小人革面」とは、「立派な人物は、自分が誤っていると分かれば、豹の皮の斑点が、黒と黄ではっきりしているように、心を入れ変え、行動の上でも変化がみられるようになる。反対に、つまらぬ人間の場合は、表面上は変えたように見えても、内容は全然変わっていない」という意味です。この「君子豹変」という言葉はそのまま「水の気持ち」=「向上心、問題解決の心」という「光の気持ち」を意味します。それに対して、「小人革面」は「執着」「頑固」などの「闇の気持ち」を意味します。この言葉の原典の『易経』は古代中国の書物であって、「光の気」と「闇の気」についての思想が中心思想にある本です。だからこそ、この「君子豹変、小人革面」という言葉もあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/易経

神々としては、私が元々「気」のことを説明する「光」のシャーマンであることを示すために、「光と闇」について書いている『易経』の言葉に心を動かさせ、なおかつ私が「水の人」であるが故に、「君子豹変、小人革面」という言葉に共感させた形になります。そして、そのことが事実であることを残すために、菅野先生にこの言葉を書いてもらっています。

菅野先生は当時「君子豹変」ははっきり書き、「小人革面」は読むことができないような形で書いています。これはどういうことを意味するかというと、私が「水の人」であることを伝えるために作ったからくりです。菅野先生は神々の関与によって、わざと「小人革面」を読めるように書かされなかった形になります。実家にその紙があるので、実家に帰った時に写真に撮ってここに張りつけます。


[富田一彦]
 


英語の講師で影響を受けたのは、富田一彦と西きょうじになります。このYouTubeは富田一彦が神々と共に英語を教えていることがよく分かるので、先に富田先生のことを書きます。

このYouTubeには非常に多くの重要な要素が込められています。この動画の中で富田先生は「気」のことをチョークを使って説明しながら、日本語と英語が持っている「気」に関する捉え方の違いをよく説明しています。ここでチョークで表現されているものは「気」そのものです。

英語は相手からの「気」によって自分が感情を動かしていることが言葉によく表れているものであって、日本語は自分の中からの「気」によって自分が感情を動かしていることが言葉によく表れているということを説明しています。これはそのまま英語が「支配(闇)」に重きを置いた言語であって、日本語が「自由意志(光)」に重きを置いた言語であることを説明しています。

例えば、動画の中である「His story annoyed us」という例文は「嫌悪」の感情に関する例文ですが、「彼の話が我々に不快を与えた(英語の発想)」≒「彼の話を聞いて我々は不愉快になった(日本語の発想)」という意味を持っています。英語で物事を考える人は我々日本人が「彼の話を聞いて我々は不愉快になった」と同じような考え方をしているのではなく、本当に頭の中で「彼の話が我々に不快を与えた」という言葉として捉えています。では、「彼の話を聞いて我々は不愉快になった」と「彼の話が我々に不快を与えた」という捉え方で何が異なるかというと、彼の話を聞くことによって自分が「嫌悪」に堕ちるのかどうかということを自分が選ぶかどうかということを自分自身に問うプロセスが異なってきます。

我々人間はどんなに嫌なことを言われても、自分自身の魂の「意志」で「嫌悪」を選ばなければ、「嫌悪」に堕ちることはありません。その時に「嫌悪」に堕ちにくくする上で重要なのが、相手に対する「愛」です。しかし、心の中で「嫌悪」に堕ちないように努力しなければ、嫌なことを言われた時に人は簡単に「嫌悪」に堕ちてしまいます。この心の闘いをしやすさについて、英語と日本語は差があります。

「彼の話が我々に不快を与えた」という発想は、自分自身が「嫌悪」に堕ちるかどうかを闘うプロセスがより生まれにくい発想です。何故ならば、自分自身の「意志」で「嫌悪」に堕ちていることが見えづらい言葉の使い方だからです。「自分以外の何者かが自分に何かをもたらす」という発想は「支配」の構造です。それに対して、「彼の話を聞いて我々は不愉快になった」という発想は、最終的に自分自身の「意志」で「嫌悪」に堕ちていることがこの言葉自体によく表れているので、自分自身が「嫌悪」に堕ちるかどうかを闘うプロセスがより生まれやすい発想です。何故ならば、この言葉自体が「意志(自由)」の言葉だからです。

「私が不愉快になる」という表現の有無はこのような形で、自分自身の「意志」が言葉として表現されているかどうかということに強く関わります。英語は感情の動詞について、そういった自分自身の「意志」が見えづらくできており、日本語は感情の動詞について、そういった自分自身の「意志」が見えやすくできています。だからこそ、英語を使っている方が「闇」に堕ちやすく、日本語を使っている方が「光」を保ちやすいです。

英語表現はこのような形で「支配」にフォーカスが置かれるように言葉自体ができています。「彼の話を聞いて我々は不愉快になった」という言葉は「因果関係」を説明しているに過ぎませんが、「彼の話が我々に不快を与えた」という言葉は「支配」の思想を根底に含んでいます。

富田先生はこの動画の中で、「日本語は間違っている」と言っている点は間違っていますが、こういった言葉の違いがあるということを説明してくれています。ただの大学受験用の勉強ではなくて、言葉の持つ本質を教えようとする視点が当時の私にとてもいい刺激を与えています。

また、富田先生の英語の読み方は非常に論理的な読み方で、富田先生の英語の読み方を通して私は言語表現においての論理の扱い方も学んでいます。言葉をそういった形で論理で読み解いていくという方法は、私は日本語にも多く応用していますし、このホームページの文章の書き方にも反映されていると思いますし、様々な歌手の歌詞に神々が込めてきた意味を読み解く上でも役立っています。神々は元々そういったことを狙って、富田先生から学ばせた形になります。


[西きょうじ]
 


西きょうじについてはいい動画があまり無かったのですが、この動画だけでも富田先生と同様に物事の本質から英語を教えようとしていることが分かります。この動画の中では「put」という動詞の持つイメージの解説を通して、「put」が「置く」「言葉にする」「書く」という異なる意味をどうして持っているのかを説明しています。こういったアプローチはその言葉が持つ本質を学ぶ上で非常に大事ですし、言葉というものがこのようにして様々な意味を持っているということを学ぶ上でも有効です。

西先生が言っていた言葉の中で当時私が一番共感した言葉があって、その言葉は「今の自分に自信は持てなくても、自分が前に進んでいるということに関しては自信は持つことができるはず」という言葉です。この言葉は予備校を卒業した後もずっと信じ続けた言葉になります。この言葉は私に「水の気持ち」を抱くことを促すために神々が私に強く共感させた言葉です。この言葉にかなり支えられながら生きてきました。

「水の気持ち」=「向上心、問題解決の心」を強く持つ人間は自分自身のダメな部分もよく見えてしまいます。「水の人」はまず最初に「問題」が見えるからです。だからこそ、『エヴァンゲリオン』の碇シンジのように、「自己嫌悪」という「闇」に堕ちやすいものです。しかし、「自分が前に進んでいるということに関しては自信は持つことができるはず」という発想を持つのであれば、如何に今「問題」を抱えている自分がいても、一つ一つ「向上」「問題解決」している自分を見ることになるので、「自己嫌悪」に堕ちにくくなり、「水の気持ち」を抱きやすくなります。

 

[定松勝幸]
 


数学はずっとこの定松勝幸に習っていましたが、この先生は所謂天才と言われるような人でした。この先生から「自分が前に進んでいるということに関しては自信は持つことができるはず」といったことを学ぶことは一切ありませんでしたが、論理という道具のことを学び続けた形になります。

定松先生はどんなに難しい問題でも、分かりやすく説明していました。それは、論理という道具を使って難しく見える問題が本当は簡単な問題であることをいつも示してくれたからでした。もし、定松先生に出会っていなかったら難しい問題とは天才的な発想が無ければ解決することができないと思っていたかもしれないですが、この先生から学んだことでどんなに難しく見える問題でも、論理を使って簡単な問題に書き換えていくことによって解決することができるということを習ったと思っています。

これは数学の問題だけではなく、この世界の様々な問題に対して同様の接し方を今はしています。そういった癖を付ける上で、定松先生から学んだことはとても良かったと思っていますし、神々も定松先生を通して私にそういったことを教えたいと思っていたからこそ、定松先生に数学を学ばせています。


[講師についてのまとめ]

このような形で、代ゼミの神々と共に働いている講師達を通して様々な言葉を聞くことで、それぞれの講師から異なった重要な事柄を学んでいます。そして、それは大きく分けると様々な事柄についての問題意識と論理の扱い方です。この2つをこれらの講師から影響を受ける中で伸ばすことができました。

代ゼミには神々系の講師も悪魔系の講師もいました。この予備校は人気制の予備校で、人気のある講師は東京の本校から衛星中継で全国に授業を配信し続けることになります。そして、予備校生にとって、講師という存在はものすごく影響をもらうものですから、代ゼミの人気講師はかなりの人に対して影響を与えることができる存在です。だからこそ、神々も悪魔も全力で代ゼミの予備校講師に関与し、その結果、人気講師は神々系か悪魔系のどちらかになっていました。芸能人は基本的にいつも神々と悪魔から強い関与をされるものですが、それに近い状態が代ゼミの人気講師についてもあった形になります。

私は当時、自分があまりいいと思わない先生の授業は全然受けないようにしていました。これも神々の導きなのですが、悪魔系の予備校講師を通して「呪い」をもらわないようにするためです。そういった「呪い」に関して説明すると、私は高校受験の時に通っていた塾である先生が「お前ら、大人になるといいことなんて何もないからな」と言っていたことを今でもよく覚えています。中学生の自分にとって、その一言は「そうなのかな、、」と思うような一言でした。何故ならば、自分は中学生で大人になったことがないが故に、それが正しいのか誤っているのか判断がしづらかったからです。ただ、もちろん「そんなことあるものか!」と思っていた自分もいました。もし、この時にこの先生の言葉を信じたのであれば、私は「呪い」を抱えることになります。そして、その「呪い」を通して、将来に関して希望を抱きづらくなり「闇」に堕ちやすくなります。

神々も悪魔も先生と言われる人達にはかなり関与します。神々は講師を通して私に「自分が前に進んでいるということに関しては自信は持つことができるはず」という発想を与えたように、「光」へ近づくための「真実」を教えます。それに対して、悪魔は講師を通して私に「お前ら、大人になるといいことなんて何もないからな」という発想を与えたように、「闇」に堕ちるための「嘘」を教えます。

神々は浪人時代を通して、私に「光」と「闇」の両方の影響を与えたかった形になります。そして、神々は私が経験すべき「闇」を芸術を通してのみに限定しました。何故ならば、既にある作品はもう変化しないものであって、どういった「闇」を私に経験させるかということに関して、神々が望むような形通りになるからです。それに対して、講師に関しては今この瞬間に悪魔がその講師に何かを言わせることができるが故に、講師を通して「闇」をもらう場合は、神々が望まない「闇」を私が経験することになりやすくなります。こういった理由があるからこそ、神々は芸術を通しては私を「闇」に陥れ、講師を通しては私を「闇」に陥れなかった形になります。

 

『私の人生の流れ3』はこちらになります。読んで頂けると幸いです。
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