我々は生きていて、様々なことをいつも経験していますが、様々なことを「同じ」ことだと思うか、それとも「違う」ことだと思うかは、我々の生にとって極めて重要な事です。なぜならば、それを「同じ」と感じるか、「違う」と感じるかで、どれだけ心が動くかということが変わってくるからです。

「新鮮」な経験とは我々の心をより強く動かします。それに対して、「新鮮」でないことは我々の心をあまり動かしません。そして、様々なものを「新鮮」かどうかを決めているのは、それらの経験を、過去の経験と「同じ」と思うか「違う」と思うかということに依ります。

そして、より心が動く生を生きている人間は、魂がより進歩し、心が動かない生を生きている人間は、魂が下っていきます。なぜならば、魂は使えば使う程、その使い方が刻まれていくからです。例えば、「愛」に満ちたパートナーと「愛」に満ちた時間をずっと過ごすのであれば、「愛」の強い性格へ変わっていきます。それに対して、「欲望」の経験をずっと行なっていると、「欲望」の強い性格になっていきます。つまり、「光」の方向性にしろ、「闇」の方向性にしろ、魂が変わっていくためには、魂を使わなければなりません。そして、魂をより強く使うためには、様々な経験を「新鮮」と感じる必要があります。

魂をより強く使っている存在が子供です。子供の頃の我々はとても小さなことを「楽しい」と感じ、ちょっとしたことで「喜び」を感じます。何故ならば、その感覚が「新鮮」だからです。「記憶」にないことを経験しているからこそ、子供は必然的に様々な経験を「新鮮」と感じます。だからこそ、子供はどんどん成長していきます。しかし、年を重ねるにつれて、色々なことを分かったような気になってきます。そうすると、様々な体験を「同じ」として認識していきます。そして、「同じ」という認識を持ち始めると、様々な体験は「新鮮」ではなくなっていきます。そうすると、心が動かなくなり、魂の進歩が止まります。

我々人間が歳を重ねるにつれて、心の変化が遅くなるのは、何か分かったような気になり、自分で自分の進歩を止めているからです。本来、我々は生まれてから死ぬまでずっと、子供のように変わり続けるべき存在です。しかし、人間という種はそのような形で変化をしません。それは、意識的にしろ無意識的にしろ、人間は歳を重ねるにつれて、自分自身が「これ以上変わる必要はない」とどこかで決めているからです。「自分はこれ以上変わる必要はない」と自分が決めると、それは自分自身にかける「呪い」となります。そういった「呪い」を人間は自分達でかけてしまっています。

 

我々は変わるために生きています。言い換えると、魂の進歩のために生きています。そして、日本人は80年くらいは生きるような身体を持っています。これが何を意味するかというと、80年くらいは魂は進歩し続けられると神々が思っているということです。

我々が輪廻転生をしている1つの理由は、一度「記憶」を消すためです。「記憶」があればあるほど、人は変わることが難しくなってきます。なぜならば、「記憶」があればあるほど、自分が自分だと思う自分のイメージに自分を重ねていくからです。つまり、現在の自分が過去の自分と「同じ」だと思ってしまうからです。そういったことを回避するために、神々は我々が生まれ変わる度に我々の「記憶」を消しています。

自分が今までの自分と「同じ」と考えるか「違う」と考えるかということは、魂の進歩にとって最も大きな「同じ」「違う」の問題と言えます。今までの自分と今の自分(これからの自分)が「同じ」だと考えると、とても楽です。なぜならば、努力をしなくていいからです。今までの自分と今の自分(これからの自分)が「違う」と考えると、大変です。なぜならば、変わるためには努力をしないといけないからです。

人間が歳を重ねるごとに、変わらなくなっていくのは、全体的に楽な方向性に人間が歩んでいるからです。それは、「変わるために生きている」という点をあまり意識せずに生きているからでもありますし、どのように我々は変わっているのかを意識していないせいでもあります。特に、自分自身に対して「同じ」だと思うか、「違う」と思うかは、魂が変わることについて非常に重要な点なので、この点はよく意識して頂ければ、と思います。

 

次に、自分自身以外のもの対して「同じ」だと思うか「違う」と思うかという点について書きます。

我々の多くは、無意識的に空はいつも「同じ」と思いながら生きています。しかし実際は、昨日の空と今日の空でも全然「違う」ものです。もし、魂が昨日の空と今日の空を「違う」と感じられるのであれば、いつも空は「新鮮」な存在なので、空を見て心を動かすことができます。しかし、魂が昨日の空と今日の空を「同じ」と認識し始めると、それらは「新鮮」ではなくなっていきます。そうすると、心が動かなくなっていきます。

空は太陽神様の光、水星神様の作る雲などがあります。そして、見るという行為は1つの「気」の摂取の方法です。だから、毎日空を見ているだけで魂は「光」の方に寄っていきます。しかし、それを見る気にならないと、見る事はありません。その見る気になるかならないかに強く関与していることが、空を「新鮮」に思えるかどうかという点です。

「新鮮」に思えると心は「感動」しやすくなります。「感動」とは心が強く動くことです。そして、心が動けば動くほど、魂は変化していきます。だからこそ、「感動」は魂の変化を促します。(余談ですが、芸術活動の大きな意味はこの点にあります。)もし、空をいつも「新鮮」に思えるのであれば、「感動」しやすくなります。そして、空は「光」の存在であって、「光」によって「感動」する場合、魂は強く「光」に寄ります。青空や朝日や夕日を見て、毎日それに「感動」できるのであれば、それだけで魂は「光」により、「愛」の強い人間となっていきます。

どうして我々の多くが空はいつも同じだと無意識に思っていたり、日常的に空を見る生活を送っていないかというと、「闇の気」によってそれを封じられているからです。何かを「同じ」と思うか「違う」と思うかについて、神々も悪魔も関与できます。神々や悪魔は「気」に関与することによって、それを行ないます。そして、現代人は身体に多くの「闇の気」を宿している状態で生きています。ですから、その「闇の気」を司る悪魔によって、様々なものを「同じ」と感じるように操作されています。

気分がいい時、つまり自分が「光の気」に満ちている時は空を美しいと思えます。なぜならば、「新鮮」に感じられるからです。しかし、気分が悪い時、つまり自分が「闇の気」に満ちている時は空を美しいと思えません。なぜならば、「どうせ同じ空でしょ」くらいにしか思えないからです。また、身体が浄化されると、驚く程に空が綺麗に見え始めたりします。それは身体に溜まっていた「闇の気」が抜けて、空を綺麗に見せなかった「闇の気」が無くなったからです。

そのことに象徴されるように、我々が何かを見てどのように感じるかということに関して、神々も悪魔もかなり関与しています。悪魔は空を綺麗には見せません。なぜならば、その魂が「光」の方に行かれると悪魔にとって都合が悪いからです。だからこそ、悪魔は「空はいつも『同じ』」という「アイデア」を我々の潜在意識に与えます。このように、悪魔は我々の潜在意識にかなりの「アイデア」を入れています。潜在意識なので、言われるまで気付く事もできませんし、誰も指摘する事ができていない現状があります。

 

[「同じ」「違う」は、感じる力に影響する]

基本的に、神々は様々なものを「新鮮」と感じさせ、悪魔は様々なものを「同じ」と感じさせます。(例外については最後の※)

神々は様々なものを「違う」と感じさせることによって、人間の心がより動くように働きかけます。何故ならば、神々は我々の魂の進歩を促したいからです。また、様々なものを感じることによって、我々は魂の感じる力を上げることができます。そして、感じる力を上げる事で、光と闇をその魂自身の力で感じ分けてほしいと神々は思っています。

それに対して、悪魔は様々なものを「同じ」と感じさせることによって、心が死んでいくように働きかけます。何故ならば、悪魔は我々をコントロールしたく、感じる能力を下げていけば、より人間をコントロールしやすくなるからです。感じる能力を下げていけば、何が光で何が闇かが分からなくなっていきますから、より闇を人間に選ばせやすくなってきます。

何かを感じるためには、魂がまずそれを「感じよう」としなければいけません。当たり前ですが、「しよう」と思わない限り、それを「する」ことはできないからです。つまり、何かをするためには我々の「意志」が必要です。そして、その「感じよう」というモチベーションに「新鮮」かどうかということが関わってきます。それを「新鮮(違う)」と思うのであれば、人は「感じよう」と思います。それが「新鮮ではない(同じ)」と思うのであれば、人は「感じよう」とは思いません。そして、使わない能力は衰えていきます。我々が感じることをしないのであれば、我々の魂の感じる力が下がっていきます。

地球の多くの悪魔は人間を「馬鹿」にすることで、人間を支配するという方向性で動いてきました。その「馬鹿」にする一つの方法が、魂の「感じる力」を奪うという方法です。そして、「感じる力」を奪うために、この「同じ」という呪いを悪魔達は使ってきました。

我々は魂の「感じる力」を悪魔に奪われています。何かを奪われたことに気付くためには、前との比較が必要です。しかし、「感じる」という行為は他者と比較できないことだから、奪われても気付くことができません。また、我々は記憶能力が極めて低い種ですから、過去に自分がどの程度感じていたかを曖昧にしか覚えていません。ですから、自分の過去の「感じる能力」との比較もできません。そういった理由によって、我々人間は「感じる力」を失っても気付く事ができず、永きに渡って「感じる力」を奪われ続けてきました。

これだけ世界が狂ってしまった根本的な理由は、我々人間が「感じる力」を失ったという点にあります。「感じる力」を失うと何を忘れるかというと、それが「気」です。「気」は感じることによって、そこに存在することを確かめられるものです。人間は「感じる能力」を奪われながら、科学といった「測る能力」の方だけに向かっていったが故に、色々なことが狂ってしまいました。

悪魔によって「感じる能力」を奪われてしまったが故に、我々が忘れてしまった「気」というものは、この世界の「ルール」です。「ルール」を忘れさせれば、悪魔は簡単に人間を支配できます。何故ならば、我々が「ルール」を知らなければ、どのように悪魔と闘うかを見失い、悪魔と闘えなくなるからです。

この神々と悪魔が「気」を使って行なっている「同じ」「違う」の術は、これから人間が意識していくべき点の大きな1つです。

 

※悪魔が様々なものを「違う」と思わせることもあります。それは悪魔に取り憑かれているアーティストなどです。悪魔はそういったアーティストの闇を強めるために、様々な闇の芸術などを「違う」と思わせ、「新鮮」と感じさせます。そうすると、そのアーティストは「闇」の芸術などを好んで鑑賞するようになり、どこまでも魂を「闇」に落としていく事ができます。そして、「闇」に落とせば落とす程、その悪魔がそのアーティストを支配しやすくなっていきます。こういったケースは芸術家や霊能力者には多いですから、そういった方々は気を付けて頂ければ、と思います。