人間は一つの時間に一つのことしか考えられないから、目の前のことに没頭していると、何のためにそれをやっているのかを忘れやすいです。

だからこそ、時折自分が何故それをやっているのかを考える時間を作らなければなりません。そういう時間を作ることで、何のためにそれをやっているのかを忘れることを防げますし、本来の目的が別の目的にすり替わってしまうことを防げます。

特に、「善」をやっているつもりが、「偽善」になってしまうということはよくある構造です。やっていること自体が同じでも、やっていることが無意識にも「自分のため」になってしまえば、「善」は「偽善」にすり替わるからです。

「善」と「偽善」は非常に近いところにあります。そして、「善」が「偽善」にすり替わるかどうかは、一瞬一瞬の勝負です。つまり、1秒前に「善」だったものが、1秒後に「偽善」にすり替わり得ます。

「偽善」になっているものを「善」だと思い込めば、その人は知らず知らずの内に道を誤っていきます。だから、「善」の道を進む者は、絶えず自分が「偽善」に堕ちていないかを「問う」ことを続けなければなりません。しかし、そういう「問い」は「不安」と隣り合わせです。自分自身、自分が「偽善」に堕ちていないかをよく「不安」に思ってしまう瞬間があります。そこで「不安」に堕ちても道を誤ります。

「愛」の感覚をよく知ってる者にとって、自分が「愛」で動いているかどうかを見極めるのは簡単です。「愛」の感覚はそれだけ分かりやすいからです。それに対して、「信念」で動く者にとっては、その動機が「善」であるのかを見極めるのは「愛」よりも難しいです。「愛」に基づく「信念」であっても、その「信念」は「欲」に基づく「信念」と非常に近いからです。

こういう立場になって5年以上経ちますが、最初の数年は分かりやすい「愛」によって生きていました。それに対して、ここ数年自分を動かしている動機は「愛」に基づく「信念」です。

そういう経験を踏まえてつくづく思うことは、「善」を目指す者は「信念」よりも「愛」によって生きるべきだということです。何故ならば、「信念」は「愛」よりも「偽善」に近く、「信念」は「愛」よりも「偽善」に対する「不安」に近いからです。

こういうことを伝えられるようにするためには、こういうことを経験的に分からざるを得ず、だからこそ、こういった経験をしていると理解しています。

「俺が偽善に堕ちていたら、俺が悪魔の使いになっていたら、俺を殺してくれ」と、何度も神々に頼みながら生きています。「善」の道を進む者にとって、この頼み事をすることは非常に基本的なことです。何故ならば、「善」を実践していると思い込んでいる「偽善」の人間程、恐ろしい存在はいないからです。 

「悪意」によって動いてしまうことを人間はよく止めようとします。人間はそれ程までに邪悪な存在ではないからです。しかし、「善意」によって動いてしまうことを人間は止めようとしません。人間はそれ程程度には正善な存在ではあるからです。

だからこそ、「善意」によって「悪」を働いてしまうことを人間はあまり止めようとしません。この点に、「偽善者」の危険性はあります。

こんなことを書いても、ほとんどの人の心には届きませんし、適切に使われることもありません。そのことを、誰よりも知っています。

しかし、「善」の道を命をかけて歩む未来の誰かが、この言葉の真意を深く理解し、この知恵と共に「善」を実践してくれるなら、それはとても嬉しいことです。そういう人間は、世を良くしていくからです。