このページでは近況報告を書いていきたいと思います。自分がどこで何をしているのかを具体的に書くのは一年二ヶ月ぶりです。ですので、この一年二ヶ月の間どこで何をしていたのかを含めて、現在の状況を書いていきたいと思います。
 

【現在の状況】

2019/11/3から今日までの4ヶ月間、富士山近くの山の中に籠り、修行と研究を行なっています。この修行と研究は少なくとも数年は続くと思っています。

どんな日々を過ごしているかというと、ずっと山の中に籠り、地上に降りることは月に一度か二度だけの日々を過ごしています。その中で、精神修行・楽器修行といった修行に加えて、心理学研究・神学研究といった研究を並行して行なっています。この修行と研究の目的は、人間の心の成り立ちについての理解を深めるという意味で共通していますが、その内容について概要を書いていきたいと思います。
 

[精神修行と楽器修行について]

楽器を弾くという行為は様々な精神性に入ることを強く促します。だからこそ、古来より、日本の修行僧の中には尺八を用いて修行をする宗派もある程です。

そして、様々な異なる楽器の音色は異なる精神性へ演奏者を導くものですし、同じ楽器であっても、弦楽器であれば、その楽器のチューニングを変えることによって、入っていくことができる精神性はかなり異なります。

そのような意味で、様々な楽器を通しての演奏修行は、様々な精神性を理解するための修行になります。昔はコントラバスだけを通して、そういった精神修行を行なっていましたが、現在は様々な楽器を通して、コントラバスだけでは実現できない精神修行も行なっている形です。

この一年二ヶ月の間、様々な楽器を学んでいましたが、それは現在行なっている楽器修行を通した精神修行を行なうための準備を行なっていた側面があります。

以前も書いたことのある、シタールやタブラといったインド楽器に加えて、サントゥールやスワマンダルというインドハープ、バンスリと言われるインドフルート、尺八などの和性フルート、琴などの和性ハープ、そして、バイオリン・ビオラ・チェロといった西洋弦楽器などを学んでいました。

当然、この短期間にこれだけの数の楽器をマスターすることは不可能で、それぞれの楽器の演奏能力は低いのですが、楽器修行や演奏を通した精神修行をする上での準備は整ったと思っています。引き続き、これらの楽器と向き合いながら、演奏技術の向上と共に、様々な精神世界を旅するつもりです。そういうことを行なっていく中で、様々な精神性をより深く理解することができ、心のことをより深く広く説明できるようになると思っています。

また、そういった精神修行の側面に加えて、新しい音楽を生み出すための方法論を確立しようとしているところもあります。

音楽は精神を表現するための道具です。だからこそ、新しい音楽は新しい精神性を表現することを可能にします。そして、新しい精神性を表現するということは、この世の精神の多様化を促しますし、この世の精神性が多様であるということは価値のあることです。何故ならば、自分がどのような精神性を持った存在になるのか、ということについて、より多くの選択肢を人間が持つということには価値があるからです。

そして、まだ人類が知らない新しい音楽への扉は数多くあります。その一つの扉がチューニングの考え方です。基本的に、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスといった西洋弦楽器はチューニングを変えないのですが、チューニングを変えることにより、その楽器はまるで異なる世界観を表現できるようになります。コントラバス弾きとしての自分は、こういったことを長年研究してきたので、チューニングを変えるということが新しい音楽の創造への扉になっていることは、経験的・分析的に知っています。

そういった考え方を、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロといった西洋弦楽器や、シタールなどのインド弦楽器にも応用しようとしています。また、そういった形で特殊なチューニングにした弦楽器が他の楽器とどのように音が混ざることができるのかを実験しようとしています。

こういった意味で、精神修行として楽器を使っているのに加えて、新しい音楽を生み出すための方法論を確立するためにも、今は様々な楽器と向き合っています。このような研究を深めていくことが、心の成り立ちを説明するためにも、新しい音楽の扉がどこにあるのかを説明するためにも、とても大事だと思い、日々楽器と向き合っています。

こういったことはそれぞれの楽器の特性を理解することで、より分かるようになるので、以下、それぞれの楽器の表現する精神性の概要を説明したいのですが、全ての楽器を取り上げると長くなりますので、琴とチェロについてだけ少し説明させて下さい。


・琴について

この10ヶ月の間、特に力を注いでいた楽器が琴です。琴には複数の種類があり、その中でも3種類の琴と向き合っているのですが、とりわけ十七絃というベース琴に大きな可能性を感じています。

幸いなことに、自分は日本一の十七絃奏者である邦楽界の巨匠、沢井一恵先生に弟子入りすることができ、たくさんの時間を共に過ごすことができました。人間国宝のような方ですので、映像として記録することがとても大事だと思い、20時間近くのインタビューや様々な演奏映像の撮影など、たくさんの映像を撮影していました。以下の映像は半年前程に作成したものです。
 


沢井一恵先生の生み出す音は本当に深く、その音を間近で感じることを通して、十七絃の可能性を強く実感し続けてきました。また、先生やこの先生のお弟子さん達と接する中で、日本の琴の音楽がどのような現状にあるのか、どのような部分に問題と可能性があるのかを分析していました。

日本の音楽シーンで使われる大抵のベース楽器は、エレキベースまたはコントラバス(ウッドベース)ですが、十七絃というベース琴はエレキベースやコントラバスと並んで、日本音楽のベース楽器になり得ることを感じております。先程、新しい音楽への扉の考え方として、チューニングの考え方を書きましたが、十七絃に関しては、この楽器自体が新しい音楽の扉の意味を持っています。

本質的には大きな可能性を秘めている楽器なのですが、大抵の日本人が十七絃という楽器を知らない状況だからこそ、使われていない現状があります。そういった問題を解決するためにも、この楽器の存在を広めるためにも生きていくつもりです。そのために、自分自身が十七絃を弾けるようにしなければならないと思っています。

そういった音楽の発展の意味でも重要な楽器ですが、この楽器は精神修行においても、あまりにも優れている楽器です。というのも、コントラバスでも出すことのできない、豊かで複雑な低音が出る楽器だからこそ、深い精神性に入ることができるからです。一般の方が「お琴」という言葉を聴いて想像するのは、十三絃という音の高い琴なのですが、十七絃は全く異なる音が出ます。参考までに、『六段の調べ』という有名な曲を十七絃と十三絃で弾いた映像を貼り付けておきます。こちらの上の映像も半年程前に撮影したものです。
 


人間の心というものについて研究している自分にとって、人間が入ることができる様々な精神性の中でも最も深い精神性に入ることを可能にする十七絃という楽器は本当に必要な道具です。この楽器があるからこそ、今までに入ることのできなかった精神性に入っていくことができ、深い精神性の本質を経験的にも言語的にも捉えることがしやすくなります。

琴という楽器は龍という存在と重ねて考えられることが多いのですが、十七絃の音色は本当に龍の精神性を強く表現することを可能にするので、私自身が「龍の気持ち」を学ぶ上でとても役立っています。龍は目に見えない存在なので、我々にはよく分からない存在ですが、十七絃という楽器があるからこそ、「龍の気持ち」というものを我々は音で感じることができる側面があります。

また、基本的に、十七絃と十三絃を一人の人間が同時に弾くことはほとんどされず、同時に二台を弾くような曲もありません。しかし、同時に弾いてこそ、非常に凄まじい形で「龍の気持ち」が表現できることがよく分かってきました。十七絃の深く強い低音に加えて、十三絃の鋭い音が加わることで、非常に強い感情を表現することができるからです。もちろん、十三絃奏者と十七絃奏者の二人が同時に弾けば、十三絃と十七絃の音は同時に鳴りますが、二人の演奏家が合わせようとすることで失われるものも多くあります。そういった問題を、一人で弾くことにより解消できます。

琴と向き合う自分としては、十七絃と十三絃の二台弾きの奏法の開発を生涯をかけて追究していくつもりです。この奏法こそ、十七絃と十三絃の双方の音を最も活かすように感じていますし、新しい音楽の扉がそこにあることを強く確信しているからです。

十七絃のように、コントラバスも深い精神性に入ることを強く可能にする楽器なのですが、コントラバスと十七絃の二つのベース楽器を通した精神修行をすることで、人間が入ることができる、様々な深い精神性について理解を深められると思っています。だからこそ、この二つのベース楽器とは死ぬまで向き合っていくことになるだろうと思っています。

参考までに、コントラバスと十七絃の二つの楽器のみで作られた録音を貼り付けておきます。この録音でコントラバスを弾いているのは自分のコントラバスの師匠である齋藤徹先生、十七絃を弾いているのは自分の琴の師匠である沢井一恵先生です。お二人はそれぞれの楽器を極める境地まで達した巨匠で、このお二人から楽器を学ぶことができたことは本当に良かったと思っています。
 


残念ながら、齋藤徹先生は昨年五月に亡くなりました。齋藤先生がそれ程長く生きられない可能性を踏まえて、自分は昨年2〜3月に合計20時間近くのインタビューを撮影し、そのデータを大事に保管しています。将来的には良い形で様々な芸術家にシェアしようと思っています。

齋藤先生はコントラバスという楽器の奏法について大きな発展を実現した人でした。一時期NHKの番組を持っていたこともありましたが日本では有名ではなく、しかし、海外からの評価は非常に高く、特に、世界中の様々なコントラバス奏者が高く評価していた方でした。知られざる巨匠だったと思っています。

音楽においてベース楽器は非常に重要な要素です。何故ならば、ベースがその音楽の空気感を大きく作り出すからです。だからこそ、ベースが発展すれば音楽が発展します。そういう観点で考えた時、齋藤先生が生み出してきたコントラバスの新しい理解と奏法の数々は音楽を大きく発展させる可能性を秘めたものです。

自分としては、齋藤先生が残したそういった宝が良い形で受け継がれ、様々な新しい音楽を生み出すきっかけになることを促すことも、生涯をかけてやっていきたいと思っています。

 

・チェロについて

先程、バイオリン・ビオラ・チェロも始めたということを書きましたが、この数ヶ月特に向き合っている西洋楽器はチェロです。チェロはコントラバスでは絶対に表現することができない「美」を表現することが可能な楽器でありながら、ヴァイオリンやヴィオラには無い中低音の豊かさを持っている楽器です。

チューニングを変える方法論をチェロに応用することをこの数ヶ月色々試していましたが、この方法論が極めて有効であることがよく分かってきました。

(少し具体的な音楽の話になってしまうので括弧書きで書きますが、コントラバスと同様に、チェロはハーモニクスの音がヴァイオリンやヴィオラに比べて豊かです。チューニングを変えると、普通のチューニングでは出すことのできないハーモニクスの音を出すことが可能になりますが、チェロのハーモニクスの音は元々とても豊かだからこそ、チューニングを変える方法論がとても有効な楽器です。)

(また、チェロは楽器の共鳴がとても豊かな楽器なので、そういう意味でもチューニングを変える方法論はとても有効です。例えば、通常のチェロのチューニングはCGDAですが、だからこそ、A線でDの音を鳴らすとD線が共鳴し、その時に豊かな音が生まれます。それに対して、もしチューニングをCGEAに変えると、A線でEの音を鳴らすとE線が共鳴し、通常のチューニングでは得られない豊かな音が発生します。)

(このように、ハーモニクスと共鳴の二つの観点から、チェロを変則チューニングで演奏することが、とてつもなく有効であるということを、経験的・分析的によく分かりました)

チェロの歴史的にも、変則チューニングが使われたことはあります。例えば、以下の二つの動画の内、上の動画はスタンダードチューニングによるバッハのチェロ組曲ですが、下の動画は変則チューニングによるコダーイのチェロ組曲です。チューニングを変えるだけで、チェロから生まれる音の空気感が全く異なることは、この二つの動画から感じられると思います。
 


こういったチェロのチューニングに関する研究はまだまだされていない領域がたくさんありますので、そういった領域を研究していくことが、世界の音楽をより豊かにすることに繋がっていくと思っています。

また、そういった音楽的な研究の側面に加えて、精神修行の意味でも、チェロは非常に役立っています。十七絃から生まれる音は低く深く、その音色は自ずと「強さ」を表現することになりやすいので、十七絃を弾く行為は「強さ」に関する精神性を学ぶことに繋がりやすいのですが、チェロは「美」に関する精神性を学ぶことに繋がります。

この世には様々な精神性がありますが、「強さ」と「美」という二つの方向性は、様々な精神性の中でも非常に重要な二つの方向性です。大雑把に言うと、「強さ」と「美」は「男」と「女」の基本対立軸でもあります。だからこそ、こういった二本柱で精神修行を進めていくことは、人間の抱くことができる精神性を研究していく上でとても有効で、だからこそ、十七絃とチェロを始めた側面もあります。

また、ヴィオラはチェロでは入ることのできない「美」に入る力を持っている楽器であることを痛感しています。例えば、ヴィオラでチェロの曲を弾いている下の動画を御覧になって頂ければ、チェロでは表現できない「美」をヴィオラが表現することができることを感じて頂けると思います。
 


また、当然ヴァイオリンはヴィオラやチェロでも表現できない「美」を表現することを可能にしてくれます。例えば、以下の動画の一曲目はヴァイオリンでなければ表現できない繊細な「美」を表現しています。この精神性は「氷の気持ち」の「美」で、この曲を作曲したショスタコーヴィチが北国であるソビエト連邦の作曲家であることも非常に自然です。
 


この例が象徴するように、それぞれの楽器には表現することのできる精神性が元々決まっています。そういったことを明らかにすることが、それぞれの楽器奏者が自分の位置付けを理解する上でも、様々な作曲家が適切にそれぞれの楽器を曲に使っていく上でも、とても大事なことです。自分としては、そういった知識を整理するためにも、自分自身が様々な楽器と関わっています。

和楽器にせよ、西洋弦楽器にせよ、インド弦楽器にせよ、それぞれの楽器と向き合っていく中で分かっていくことは多くあると思っています。そういう意味でも、これからも様々な楽器と向き合っていくつもりです。
 

[心理学研究と神学研究について]

・映像作品の分析

山に籠っている状態ですので、ほとんど人と会うことはないのですが、映画やドキュメンタリーといった様々な映像作品を通して、様々な人間の心の研究を進めています。

例えば、最近重点的に研究していた映画監督は山田洋次監督です。彼の作品を何十本も観ては、その物語の持つ意味合いと登場人物達が表現する精神性の分析をしていました。

山田洋次監督は我々の人生がどのような意味合いを持つものなのかを様々な形で教えてくれるので、我々日本人にとって彼の作品は本当に重要な教科書です。そういった教科書が活かされるために、将来的には山田洋次作品について膨大な解説を書くつもりですが、その準備を進めている形です。

また、山田洋次作品の中での役者の演技も非常に重要な意味を持っています。例えば、『男はつらいよ』シリーズの中での渥美清の演技、『学校』シリーズの中での西田敏行の演技、『おとうと』の中での吉永小百合や笑福亭鶴瓶の演技、『幸せの黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』の中での高倉健の演技などは、その精神性の意味を深いレベルで分かることができれば、本当に我々に多くを教えてくれるものです。

だからこそ、将来的にその演技の解説を書くために役者ごとの分析をしていますが、それぞれの役者の研究作業は本当に果てしない作業です。というのも、重要な役者は膨大な様々な作品に出演していて、その全てを分析することは時間的に現実的ではないからです。例えば、吉永小百合研究は非常に重要な研究なのですが、彼女は100作品以上に出演されていて、その全てを観ることは不可能です。

そういう状況だからこそ、その役者の出演している重要な作品を探しては、その作品の中でのその役者の演技を分析しています。一人の役者の演技にはある程度の傾向があるものですので、そういった傾向を分析するために、その役者の出演している作品をできるだけ分析していく必要があります。

ただ、若い役者は役者歴が短いが故に出演作品数が限られていますから、網羅的に研究を進めることができます。そのような意味で、一時期重点的に研究していたのが浜辺美波です。その研究内容は以下のリンクに書いています。一般的に考えると、浜辺美波は「今流行っている若手の綺麗な女優」といった感じで捉えられると思うのですが、彼女は本質的に吉永小百合のような大女優になる可能性のある能力の高い役者で、だからこそ、浜辺美波研究は非常に重要です。

http://junashikari.com/actor/minami-hamabe/

度々書いていることですが、優れた役者達は演技中に演技をしているわけではなく、本当にその登場人物に成るということを実現します。だからこそ、彼らの演技には人間の心に関する真実があり、その真実を通して、我々は我々の心に関する真実を学ぶことができます。

そして、そういった学びが人々の人生を強く支えていきます。例えば、どういった精神性が自分の「幸せ」を実現するのか、どういった精神性が他者を「幸せ」にするのか、といったことから、「弱さ」というものがどれだけ人を邪悪にしてしまうのか、「強さ」というものがどれだけ他者を守ることを可能にするのか、といったことを、優れた役者達の演技は、具体的に我々に教えてくれます。

我々が生きていく上で、こういった心に関する基本を理解した上で生きていくことはとても大事なことです。何故ならば、例えば「弱さ」といったものがどれだけ他者を傷付けるものなのか、自分自身さえも醜くするものなのかを分かった上で生きるのであれば、「弱さ」に同調してしまう自分を止めようと頑張りやすくなるからです。逆に言うと、今の日本人が「弱さ」を抱えがちなのは、「弱さ」の弊害を多くの人が知らないからです。

こういった心に関することは言葉だけの説明では絶対に理解できないもので、我々は映画といった物語を見つめ、その中での役者達の演技を見つめ、その意味合いを言葉で理解する中で、より深く心について理解していくことができます。

だからこそ、様々な重要な映像作品や重要な役者の演技はとてつもなく大事で、そういったものに関する解説を作っていかなければならないと思っています。そのためには、自分が誰よりもその作品や演技の意味合いを理解しなければならないと思っているからこそ、地道に研究を進めています。

目に見えない存在の話を取り上げることに関して抵抗感のある方は以下は読み飛ばして頂きたいのですが、こういった映像作品研究は、心理学研究の側面を強く持っていますが、神学研究にも繋がっていきます。というのも、様々な重要な監督や重要な役者は神懸かっているからこそ、その監督や役者の繋がっている神様についての研究にもなるからです。

以前も書いたことがありますが、優れた役者達は巫女やシャーマンと言われる人間とほぼ同じです。つまり、優れた役者達は、演技をする時に自分に目に見えない存在を宿すからこそ、自分自身ではない存在になることができます。

例えば、吉永小百合が様々な映像作品の中で表現する精神性は、「美」の女神である金星神(ヴィーナス)の司る、日本人的な「美の気(持ち)」であることがとても多いです。吉永小百合は演技をする時に、金星神からの「気」を「持つ」ことを行なうことで、「気持ち」を抱き演技をしていますが、だからこそ、彼女の演技を通して、金星神がどのような日本人的な「美の気」を司るのかを理解できます。

また、そもそも吉永小百合自身が金星神のある側面ととても似ているとも言えます。そういう意味では、吉永小百合は金星神の化身です。化身という考え方は、今の日本では一般的ではない考え方ですが、インドなどでは一般的な考え方ですし、吉永小百合が女神のような存在であることは、感覚的には理解して頂けると思います。

こういう意味で、吉永小百合研究は金星神研究と繋がっています。また、金星神と繋がっている役者は吉永小百合以外にもたくさんいて、先程書きました浜辺美波も金星神と働いている役者です。だからこそ、浜辺美波研究をすることで、金星神研究はより進むことになります。(この二人が金星神と繋がっている根拠を書くと長くなりますので割愛します。)

このような形で、ある神様について理解するために有効な手段は、その神様と繋がっている役者達を膨大に研究していくことです。また、優れた役者だけではなく、優れた歌手も神懸かりを通して精神性を強く表現する人間ですから、歌手分析も非常に重要です。


・歌手や音楽家の分析

だからこそ、日常的に様々な歌手についても研究しています。日常的に様々な歌手を分析していますが、例えば、最近研究しているのは昭和歌謡の世界です。昭和歌謡は本当に素晴らしいものが多く、当時の歌手達の歌声は、現代では失われつつある良い日本人の精神性を教えてくれますし、その歌手が繋がっている神のことも教えてくれます。

また、歌手だけに限らず、作曲家や音楽プロデューサーと呼ばれる人々の分析もしています。例えば、アストル・ピアソラというタンゴの巨匠の音楽を分析することは少なくないのですが、彼の音楽を通して、彼の音楽の表現する「火の気持ち(闘いの心)」の精神性や彼が繋がっていた太陽神様の研究にも繋がっています。また、秋元康、小室哲哉、つんく、小林武史といった、日本の有名な音楽プロデューサーについても分析し続けています。

こういった心理学研究や神学研究は大学などで実践されている研究とはあまりにも異なります。大学で実践されている心理学研究はフロイトやユングといった、何らかの心理学者達が作り上げた心理学を学ぶことが主流でしょうし、神学研究は何らかの聖典を研究する方向性などが主流だと思います。

しかし、本当の心理学研究も神学研究も実際に生きている人間を分析し尽くすことが最善の道です。その人間がどのように心を動かしながら生きているのか、その人間にどのように神が関与しているのか、といったことの方が、絶対的なリアルだからです。そして、真実はリアルを適切に分析することで見えてくるからです。

もちろん、フロイトの生み出した精神分析学やユング心理学といったものから、様々な宗教の聖典の研究も将来的にしていくつもりです。ただ、それよりも優先的に、現実的に生きている人間の分析をする方が優先順位が高いと思い、台湾では台湾人を分析することで道教研究を進め、タイではタイ人を分析することで仏教研究を進め、インドでインド人を分析することを通したヒンドゥー教研究を進め、今は山籠り修行をしているので、映像作品や音楽作品を通して、心理学研究・神学研究を進めています。

私は哲学科出身ですが、こういった問題は哲学科でも起こっています。今の大学で行われている哲学研究の大抵はニーチェやデカルトといった哲学者の研究をすることを意味していて、現実の人間を分析することを通して哲学を研究する方向性は主流ではありません。しかし、最も王道の哲学研究は現実を分析することを最優先する立場だと思います。

大学研究者達からすると、私のような立場の研究方法は邪道にも見えるかもしれませんが、私にとっては最も王道のスタイルを選んでいます。彼らの研究スタイルとは異なる研究スタイルを取っているからこそ、彼らには明らかにできない真実を明らかにできると考えています。研究者皆が同じような研究スタイルを取っていても明らかにできる真実には限りが生まれます。だからこそ、私のような変わった研究者がいた方が、世の中にとってはいいことだと思っています。


・短期的な旅

山籠り修行は何年にもなると思いますが、時折、非常に短期間でどこかを旅することを通して、心理学研究・神学研究をすることもあると思っています。例えば、沖縄に久高島と言われる聖地があるのですが、その島には行かないといけないと思っていますし、そういうことをすることで、古来より沖縄ではどのような信仰があったのかを少しは理解できると思っています。

また、実際に現地に行かなくてもNHKの『世界ふれあい街歩き』などの番組を見ていると、その現地のことを少しは感じられますし、その場所や人々についても分析できます。この番組はその場所や人々の良い側面をよく見せてくれるものなので、その地域の肯定的な側面について少し学ぶことができる道具として活用しています。もちろん、この番組だけでその地域に生きる人々の精神性について理解をしたと思うのは間違いだと思っています。ただ、何も知らないゼロの状態よりはいいだろうと思い、この番組は時折分析しています。

 

・歴史の分析

また、歴史の研究も始めています。映像作品や音楽作品の研究や、旅を通してその地域に住む人々の分析をすることは何年も続けていることですが、歴史の研究は後回しにしていました。いつか始めなければならないと思っていたのですが、ようやく始めた形です。

歴史は様々な人間達の生きた物語の蓄積によって生まれた結果です。だからこそ、その人間達がどのような精神性と共に生きていたのかを分析できれば、我々にとって非常に大事な教えとなりますし、心理学的にも神学的にも大事な真実が見えてきます。

ただ、その歴史上の人物がどのような精神と共に生きていたのかを分析することは容易ではありません。役者や歌手と違って、多くの歴史上の人物の映像や録音は残っていないからです。もし、その表情や体の動きや声があれば、精神性の分析はしやすいのですが、多くの場合は文字で残された資料しかありません。

しかし、撮影機器や録音機器が生まれた20世紀の歴史に関しては、その歴史上の人物の映像も録音も残っています。だからこそ、その人物が使っていた精神性を分析しやすいです。そういう背景があって、最近はNHKが作った『映像の世紀』シリーズを通して、歴史を分析しています。
 


例えば、第二次世界大戦のきっかけを生み出した、歴史上最も大きな悪を成し遂げた悪党であるヒトラーの映像や録音は残っていますが、その声や体の動きから、彼がどのような精神性と共に生きていたのかを理解できますし、何故彼があれだけの力を手に入れることができたのかも理解できます。

多くの悪党と呼ばれる人間は「欲」という「闇」だけをベースに動きます。それに対して、ヒトラーが多くの悪党よりも力のある悪党であった一つの理由は、彼が「支配欲」といった「闇」に加えて、「闘いの心」という「光」さえも使えたことです。つまり、「闇」のための「光」さえも使えたことが、ヒトラーの悪党としてのレベルの高さを生み出していました。

彼はドイツ民族を優先し、ドイツ民族を苦しめる可能性がある他の民族を敵とみなし、戦争を繰り返しました。そういった考えの一つの表れが、ユダヤ人の虐殺という形でも歴史に残っています。「誰かを守るために敵を倒そうとする精神性」が「闘いの心」ですが、ヒトラーの「闘いの心」の使い方は、「闘いの心」という「光」の危険性を我々に教えてくれます。

しかし、歴史学と心理学が結びついていないからこそ、我々はこういった形で大事な教訓を学ぶことはできておらず、だからこそ、歴史を心理学的に理解し、そういった理解と共に生きていくことはとても大事です。そのようにして学んでいって初めて、歴史を学ぶことは我々の人生に活かされ始めます。

また、歴史と神学的分析を組み合わせることによっても、我々は大事な教訓を得ることができるのですが、そういった分析は通常の歴史研究では絶対に行なわれないことです。その歴史上の人物がどの神様と働いてきたのかを分析することで、その神様の特徴が分かるからです。

例えば、地球の歴史上、最強の戦士達を生み出していたのが、古代ギリシャのスパルタという都市国家です。スパルタの戦士達が如何に強かったのかということは、様々な歴史上の資料から確認を取ることができますし、その軍隊がスパルタを如何に守っていたのかは歴史に残っています。

今でもスパルタ教育という言葉が残っている程に、スパルタの戦士修行は厳しいものでしたが、そういったことから、スパルタで信仰されていた神様が如何に厳しい側面を持った神様であるのかを理解することができます。また、その神々が人間の「強さ」を養うことを得意としている神々であることも分かります。こういった形で、歴史はある神様についてのある真実を教えてくれます。

ヒトラーとスパルタのことを繋げて考えるだけでも、我々は大事な学びを得ることができます。「誰かを守るために敵を倒そうとする精神性」という「闘いの心」は世界最強の戦士を生み出す可能性を秘めた精神性であるのと同時に、間違った相手を敵に考えてしまうのであれば、とてつもなく酷いことを行なってしまう危険な精神性であるということです。

こういった形で、歴史学と心理学と神学を組み合わせ、大事な教訓を得る時、我々は何らかの精神性についての可能性と危険性の両方を理解することができますし、ある神様の性格についても理解することができます。そして、こういったレベルで理解して初めて、歴史を学ぶことは強く活かされてきます。

また、こういったことを学ぶ上で非常に大事なものが映画です。例えば、ヒトラーについて学ぶ上で非常に大事な映画の一つが『ヒトラー ~最期の12日間~』という映画です。
 


『ヒトラー ~最期の12日間~』の中でヒトラーを演じたのは、ブルーノ・ガンツという役者の大巨匠です。彼は長年の間、様々な映画の中で神懸かった演技を繰り返してきた役者で、だからこそ、彼のヒトラーの演技は適切である可能性が非常に高いですし、この映画は様々なヒトラー研究を踏まえて生み出されたものだからこそ、描写が信用できます。

この映画を観ると、ヒトラーが如何にヒステリックな側面を持っていたのかを我々は感覚的に理解することができます。では、ヒステリックであるということはどういうことかというと、「邪気」に強く動かされているということです。自分でも自分の感情が制御できない程に、「邪悪な気(邪気)」を「持つ」からこそ、「邪悪な気持ち」に振り回されることになります。

力のある悪党は「邪気」と強く働いています。そういう意味で、ヒトラーという悪党が非常に強く「邪気」と働いていたことは間違いなく、そういった真実をこの映画の中のブルーノ・ガンツの演技は我々に感覚的に教えてくれます。また、邪悪な力と共に働くということが如何に虚しいことであるのかも、この映画は我々に教えてくれます。

このような形で、優れた歴史映画は歴史について心理学的・神学的に適切に理解を深めることを強く促してくれます。だからこそ、我々が歴史から大事な教訓を得ることを、優れた映画は可能にしてくれます。

歴史を学ぶことに関して、特に我々が最も理解すべきものは戦争の本質です。戦争を経験した人々は既に多くが亡くなっていて、現代人の多くが戦争を知らない時代であり、一歩間違えれば戦争が始まる可能性がある時代だからこそ、優れた戦争映画を通して戦争の本質を理解することがとても大事です。

戦争の本質は、「~~年~~がきっかけで~~戦争がありました」といった教科書の文字からは絶対に学ぶことができないことで、物事を客観的に伝えるドキュメンタリー作品よりも、主人公の心を追体験できる物語映画作品からこそ、学ぶことができます。

例えば、映画『プライベート・ライアン』では、映画冒頭に人類上最大規模の上陸作戦であるノルマンディー上陸作戦が描かれますが、この描写を観ることで戦争の残酷さと過酷さは理解できます。また、映画『フューリー』では一台の戦車に乗っていた五人の戦争経験を描いたものですが、信仰と戦争の関係性、戦争がどのような心の試練をもたらすのかを非常に適切に描いている傑作です。
 


他にも、『硫黄島からの手紙』『ダンケルク』『アメリカン・スナイパー』『この世界の片隅に』『シンドラーのリスト』といった様々な優れた戦争映画があり、我々が戦争について理解することを促してくれます。

このような意味で、本当に歴史を学ぶということを可能にする道具は、優れた的確な映画を観ることです。だからこそ、将来的には、それぞれ作品ごとに解説を作っていくつもりです。また、私自身が知らない優れた戦争映画もたくさんあるはずなので、そういった作品を探し、分析していくつもりです。
 

【最後に】

大変長くなりましたが、今現在の近況を報告しようとすると、今自分がやっていることにどのような意味があるのかを説明する必要が出てきますので、長い説明となってしまいました。本当は、他にも様々な意味があるのですが、大事な点だけを書きました。

世のために自分ができることの中で、自分にしかできないことを実践していくことが、世の中にとって、とても大事なことだと思っています。そういう結果として、常識的には全く普通ではないことを強く実践する日々を過ごして生きています。

音楽的には、チューニングにここまでこだわる音楽家はいませんが、チューニングにこそ新しい音楽の可能性、様々な精神性を表現することの可能性があるからこそ、自分は音楽的にはその部分に専念すべきと思っています。その結果として、弦楽器研究家のような形に行き着いています。

心理学的・神学的には、映像作品にここまでこだわる心理学者・神学者はいないと思いますが、映像作品にこそ我々の心に関する真実が表現されているからこそ、自分は心理学的にはその部分に専念すべきと思っています。その結果として、映画研究家のような形に行き着いています。

音楽にせよ、心理学にせよ、神学にせよ、哲学にせよ、それぞれのジャンルでは、知らず知らずの内に実践方法がすり込まれています。その点に大きな罠があります。チェロ奏者の多くにとって、スタンダードチューニングで演奏することのみがチェロ演奏だと思ってしまっているでしょうし、心理学研究者の多くにとって、所謂心理学を研究することが心理学だと思ってしまっているでしょうし、神学研究者の多くにとって、聖典を研究することが神学研究だと思ってしまっているような形です。

こういった構造は、人間が実践している様々な学問について同様に言えるはずです。だからこそ、こういった罠があることを知ることだけでも、人間が様々な真実をより多く明らかにしていくことに繋がっていくはずです。そして、真実は我々に歩むべき「道」を明らかにしてくれます。だからこそ、我々は真実を明らかにする上での罠がどこに潜んでいるのかを知るべきです。この文章を通して、そういった罠の一つを知って頂けると幸いです。

私がやっていることは需要のあることではありません。心を使って生きている我々が心の成り立ちを理解することは、適切に心を使って生きていく上で役立つことは明らかなことなのですが、その必要性を多くの人は知らないからです。

また、私がやっている研究は常識とはかけ離れている研究なので、抵抗感を感じる人も少なくないと思います。特に、宗教というものが警戒視される日本においては、私のような目に見えない存在について説明する存在は宗教家にも見えかねません。

私は宗教家ではなく研究家であって、霊能力者ではなく学者でありたいと思っています。数学者のように、一つ一つの物事を分析的に論理的に明らかにしようと生きているのですが、その分析対象が数式ではなく、役者や歌手といった人間だからこそ、数学のようには見えません。ただ、私の感覚としては、いつも数学をやっている感じで分析を行っています。

その最初の数式は、「気+持ち=気持ち」「気+付き=気付き」という数式です。この言葉(数式)は、「気」を「持つ」ことによって「気持ち」は生まれることと、「気」が「付く」ことによって「アイデア」が浮かぶという真実が込められている言葉(数式)です。

この大前提の数式を踏まえて、膨大な人間を分析しながら、「A」「B」「C」といった形で分けていくことにより、「気(持ち)」の種類を分類しています。例えば、こういった形で「愛」の種類などを分類しています。

こういった分析の積み重ねの中で、例えば、「吉永小百合=金星神の使い」といった結論に至るのですが、この結論だけを書いてしまうと宗教のように思われやすいですし、この結論に至る理由を理解するためには、様々なことを理解していく必要がありますが、それは結構時間のかかることです。

結局、心のことを理解することは自分の心を見るべきように見ることの積み重ねによって理解できることですから、自ずと修行になります。しかし、修行は苦しいものですから、多くの人はそれをしたいとは思いません。「弱さ」に同調してしまえば、見たいように自分を見るでしょうし、「甘さ」に同調してしまえば、見るべきように自分を見る見方を誤ったりします。

ただ、「正しく生きるために、なんとしてでも真実を理解したい」と切実に思う人間は、強い動機を持っていますから、学ぶことに対する努力を惜しまず、「弱さ」や「甘さ」に同調することも防げます。そういう人間の学びの積み重ねが、自分の未熟に対する自覚、その未熟を取り除くための動機、正しい「道」への確信、といったものと繋がっていきます。その結果として、自身の成長の実現と世のための具体的な何かを実践することへ繋がっていきます。

私は十代の頃から、正しく生きるための「道」をずっと探して生きてきました。だからこそ、哲学を志し、芸術を志し、旅人として世界を放浪することを選びました。そして、そういった日々を過ごす中で、様々な人が正しい「道」へのヒントと、間違った「道」への誘惑を与えてきました。そんな中で、何が正しいのかを見つけ出していくことは楽なことではありませんでしたし、とても時間のかかることでした。今でも全ての「道」の種類を知っているとは到底言えず、だからこそ、毎日自分自身や様々な「道」について問い続けています。

私としては、自分がそうであったように、そうであるように、正しく生きるために正しい「道」が何なのかを知りたいと切実に思う誰かにとって、「道」しるべを残したいと思っていますし、「道」の案内役でありたいと思っています。

宮崎駿にせよ、山田洋次にせよ、吉永小百合にせよ、西田敏行にせよ、偉大な人々は正しい「道」と間違った「道」が何なのかを表現を通して我々に教えてくれます。自分としては、そういった彼らの功績が後世もっと活かされるようにするための解説係でありたいと思っています。

そういった解説を志す人間は、誰よりも様々な「道」について理解しなければなりません。だからこそ、私は本気で、我々の心について日本一分かっている日本人になろうとしています。そして、そういった学びを深く得続けることは、ただ文献を読むような研究では不可能で、精神修行や具体的な人間の分析を良い形で実践していくしかありません。そして、様々な楽器を通した修行は様々な精神世界に入ることを導きますし、様々な映像作品の分析は様々な具体的な人間の分析を可能にしてくれるからこそ、こういった生き方に落ち着いています。

かつての中国では、仙人修行というものがありました。今現在山に籠っているのは、そういった仙人修行の意味合いを強く持っています。「仙人」という言葉は様々な意味を持っていますが、分かりやすく言うと理想的な人間のことを意味します。また、神に似た人間のことでもあります。

私はただの人間です。ただ、神々のことを説明しようとしている自分としては、彼らの精神性を理解する必要があります。そして、本当の意味で彼らの精神性を理解するためには、彼らの抱いている精神性に共感する必要があり、そのためには、自分自身の魂を可能な限り、彼らのレベル近づけていく必要があります。

小学生には老人の気持ちは分かりませんが、その小学生がその老人と同じような人生を歩んでいけば、その老人の気持ちは分かるようになると思います。それと同様に、人間には神々の気持ちは分かりませんが、その人間がその神々と同じような心理的経験を歩んでいけば、少しはその神の気持ちが分かるようになります。

様々な楽器は神々が司る様々な精神性を自分に教えてくれます。また、吉永小百合のような偉大な役者も神々が司る精神性を自分に教えてくれます。そういったものを感じる日々を過ごしながら、より高い精神性を獲得していくことで、少しでも神々の精神性に近づくことができ、彼らのことが少しずつ見えてくると思っています。

このような意味で、精神修行・楽器修行といった修行に加えて、心理学研究・神学研究といった研究、そして仙人修行が繋がっていることを少しでも理解して頂けると幸いです。そして、近況報告としては、このような意味で繋がっている修行と研究の中を一生懸命生きていることを伝えられると幸いです。