明けましておめでとうございます。

全然更新が滞っているホームページにも関わらず、頻繁にチェックして下さる方がいらっしゃることを有り難く思っています。今年も頻繁に更新する時期もあれば、そうでない時期もあると思いますが、大事なことを整理したいと思っていますので、今年もどうぞよろしくお願いします。

このページでは、今年の抱負を【表現について】と【文章について】の二つに分けて書いていきたいと思います。
 

【表現について】

今年一年間で非常に重要な要素は鶴見岳の本質を音に変換することだと思っています。というのも、今は鶴見岳に生きていますし、鶴見岳にいつまでいられるかも分からないからです。

現状、鶴見岳について表現することは全然進められていません。というのも、鶴見岳を表現する上で太鼓の音は必要不可欠だと感じるのですが、太鼓の演奏に関する実力がまだ必要レベルに達していないからです。去年は耳の不調によって太鼓の修行ができない時期も長く、そのよう意味で、太鼓修行は今年の課題として残っています。

太鼓だけに限らず、西洋弦楽器・和楽器の演奏技術も足りていないので、それを養いつつ、レコーディングを積み重ねることでCDアルバム1枚くらいの音楽を作ることができないものかと思っています。

鶴見岳に生きていると、何が鶴見岳的で何が鶴見岳的でないのかが体感として分かりやすいです。その点がその山に生きることの重要性であって、その点を活かすべきだと思っています。

また、今年は鶴見岳が中心になると思いますが、大分の鶴見岳以外の山、大分以外の山や島と向き合う機会も訪れそうなので、そういう機会は最大限に活かしたいと思っています。

表現者として自分はまだまだ駆け出しに近いと思っていて、今は外向きな活動よりも地道な修練が大事な時期だと思っています。ですから、外向きな活動は必要最低限にして、日々の修練と作品制作に時間を割きたいと思っています。

最終的には音楽映像作品にまとめ上げていきたいと思っていますが、音楽さえできてしまえば、映像については後からでも制作しやすいので、音楽の方を優先的に考えています。というか、後からでしか作れない映像もあります。例えば、数十年後に鶴見岳(伽藍岳)が小規模な噴火などをするかもしれないわけですが、その時の噴火の映像と合わせなければ意味が伝わらない音楽もあるかと思います。

この国は自然の持つ意味を見失っています。そして、世界一の人が入れる温泉湯量を誇る別府温泉の根源にある鶴見岳は日本の中でも世界の中でも非常に特殊で重要な山です。だからこそ、大事なことを伝えるために、鶴見岳の本質を表現のレベルに変換することは非常に重要なことだと思っています。
 

【文章について】

正確さを求める性格上、説明的な文章の作成は比較的時間がかかりますし、日々があまりにも忙しく、文章作成以外の事柄も色々やっていますので、最近は文章の方は作成できずにおります。

ただ、今後はホームページのジャンルの一つである『Poetry(詩)』を結構書いていきたいと最近よく思います。というのも、詩は説明ではないので、文量は説明的な文章よりは少なくても成立しますし、書くための時間も短時間で済むからです。

今までたくさん書いてきた説明的な文章は、自分の考えというよりも、「1+1=2」という数式のように、分析と経験に基づいて論理を構築していくようなものでした。

それに対して、詩は自分が何をどのように感じているのかを書くべきのように思っていますし、その部分により比重を置くことができます。最近はそれをやるべきのように思っています。

というのも、非常に特異な状況を生きている自分が、何をどのように感じながら生きているのかということは、私自身が何をどう感じているのか?という点を超えて、何らかの真実を伝え得ると思うからです。

分析的な説明文章は、その文章の背景にある「精神」の部分を他人に教えづらいです。それに対して、感情的な詩的文章は、その「精神」の部分を他人に教えやすいです。だからこそ、その部分をもっとやっていくべきなように思っています。

参考までに、日本の「和」の精神性について、説明的な文章と詩的な文章の両方を書いてみたいともいます。
 

[説明的な文章]

「古来より日本は和の精神を重んじてきた国でしたが、それが本質的に意味することは、日本という国は対立を問題と考え、そういう問題を生み出さないように冷静に問題解決をすることを重んじてきたということです。〜(略)〜。」

こういった説明は私の感情の部分はできるだけ削ぎ落として書くようにしています。というのも、より客観的に真実を伝えたいと思うからです。それに対して、同じ問題を「詩」の形式で書くと
 

[詩的な文章]

『「和」の背景にあるもの』

それが「自分のため」であろうと
それが「正義のため」であろうと
「闘う」ことは避けた方がいい

何故ならば、「闘い」を始めた瞬間に「対立」は生まれ
「対立」が新たなる「問題」を生み出すから
その結果は自分にとっても相手にとっても大抵ろくなことにはならない

「正義」のための「正論」を振りかざしたところで
相手にそれを受け取れるだけの「強さ」や「向上心」がなければ
その「正義」の拳はただの「問題」の発端となる
そして、残念ながら、多くの人間は「強さ」も「向上心」も足りない

しかし、理不尽なことをされれば不愉快な「怒り」が絶え間なく迫ってくるだろう
そして、我々人間は皆「未熟」だから、理不尽なことをされずに生きていくことは困難だろう
だから、この苦悩は生きることの一つの試練として受け入れざるを得ない

どんなに理不尽なことをされても
その「怒り」の「炎」に取り込まれてしまうのではなく
「水」によって消し続けること

時にその消火作業は延々と続くかもしれないが
それは引き受け、やり続けるしかない

決して湧き上がる「怒り」によって動かず
その「怒り」を鎮める段階を最初に持ち
「水」のように様々に形を変えながら
その場その場で「冷静」に対処をする

ある時は自分が謝り
ある時は笑いを使い
ある時は愚か者を演じ
ある時は跪く

こういった「水の道」を最重要視することが「最善」だと私は考える
様々な「怒り」を他人から向けられる経験と
様々な「怒り」が自分に迫ってくる経験と
膨大な人間分析がどう考えてもそう結論付けるからである

この哲学が四方を海に囲まれた島国である日本の「和」の精神の基盤にある
というのも、「調和」を「重視」するということは「対立」を「問題視」することであり
この哲学は「対立」を「問題視」することの王道の考え方だからである

我々日本人の心は無意識にも「和」の精神が起こりやすい
もはや「和」の精神もかなり失われつつ時代ではあるが
「対立」を「問題視」する傾向はまだこの国には残っている

その背景にあるこの哲学を知ってほしい
何故ならば、そのことで「怒り」の「炎」は消しやすくなるから


こういった詩的な文章は私自身を成立させている「精神」の部分を、説明的な文章よりも多く伝えてくれます。そのような意図があるので、アートとしての詩としての完成度を高くすることはほぼ考えておらず、精神の部分ができるだけ伝わればいいという判断の中で書いています。

また、自分は「厳しさ」と生きている人間なので、その精神が直接的に伝わりやすい詩的な文章はどうしても説教臭くなりやすいですが、それはもうしょうがないこととして諦めています。というのも、説教臭さを消すために言葉を柔らかくすると、精神の部分が伝わらない文章になってしまうからです。

この「詩」は随分長くなってしまいましたが、数行で終わるような「詩」も自分の中に多くあります。そういうものも整理していければと思います。
 

【最後に】

様々な方のご支援によって自分の活動は成立していますが、相変わらず経済的には厳し過ぎる状況を生きています。もし御支援頂ける方がいらっしゃいましたら、以下まで寄付をお願いできると幸いです。

りそな銀行 福岡支店(店番号:711) 口座番号 0255762(普通預金) 芦刈 純(アシカリ ジュン)

これまでもこれからも、言葉と表現によって真実を整理していくことを目指して生きていくわけですが、今年一年が非常に大きな前進となるように、日々を頑張って生きていきたいと思っています。