この文章はこちらの文章を先に読んでから読んで頂けると幸いです。

http://junashikari.com/mind/what-is-understanding/

リンク先のページに書いている通り、「分かる」という言葉が「分ける」と書くように、物事を「分かる」上で大事な1つの方法は「分ける」ことです。けれども、「分け方」を間違えると、物事はより「分かる」ことができなくなります。

悪い「分け方」の例を一つ挙げると、「体育会系」と「文化系」で物事を「分ける」と、物事が「分かる」ことができなくなります。何故ならば、この「分け方」はとてもよくない「分け方」だからです。

例えば、「体育会系」の「熱さ」は芸術製作をする上でも、有効なものです。しかし、「体育会系」と「文化系」で物事を分けると、芸術製作のような「文化系」のことをやる上で、「体育会系」の「熱さ」を使うことは間違っているように感じてしまいます。そうすると、そのアーティストは芸術製作の可能性を一つ失ってしまいます。

一般的に「体育会系」は「強さ」が養われやすい分野であるのに対して、「文化系」は「賢さ」が養われやすい分野です。体を使うことは「苦しさ」との闘いだからこそ「強さ」が養われ、頭を使うことは「愚かさ」との闘いだからこそ「賢さ」が養われるからです。そして、「強さ」と「賢さ」とは、我々が何をする上でも必要なものです。だから、「体育会系」も「文化系」も両方大事ですし、そもそも「体育会系」と「文化系」という言葉で物事を「分ける」のではなくて、「強さ」と「賢さ」という言葉を使って「分ける」方が「真実」が見えてきます。

また、現代の「体育会系」と「文化系」という言葉は様々な間違ったニュアンスが染み込んでしまっていて、言葉が汚れてしまっています。そういう理由もあって、「体育会系」と「文化系」という言葉を使うと、人はその誤ったイメージで「体育会系」と「文化系」という言葉を理解し、その理解によって物事を「分ける」ことを行ないます。そういう理由もあって、この2つの言葉はできるだけ使わない方がよく、当然これらの言葉を使って「分ける」ことは危険です。

「体育会系」と「文化系」という危険な「分け方」、「強さ」と「賢さ」という正しい「分け方」、の例を通して、適切な形で物事を「分ける」ことが、現実を適切に「分かる」上で大事であることを理解して頂けると幸いです。

間違った「分け方」が世界を狂わせていると言っても過言ではありません。人は、様々な学問を分けてはいけない形で分けてしまったからです。物理の世界は物理的なものしか信用しないのに対して、心理学の世界は物理的なものを考えない、といった形です。精神と物質は本質的に繋がっているのですが、それぞれを分けてしまっては、人は両者の繋がりを探そうとしなくなります。そのせいで、精神と物質の繋がりを人は忘れています。

我々が適切に物事を「分ける」上で、必ず必要なものが「言葉」です。「葉」は無数に分かれているものであるように、「言葉」は我々がありとあらゆるものを「分ける」上で絶対に必要なものです。というよりも、我々が様々な物事を「分ける」ことができるようにするために、「言葉」は存在します。

こういったことから、「言葉」の重要性も理解して頂けると幸いです。それが「分かる」ならば、言葉を汚してはならないということの価値が本当に「分かる」ことに繋がります。「言葉」が汚れていくことは、「分け方」自体を狂わせていくことに他ならないからです。

「言葉」が「言の葉」である意識を我々日本人は忘れてしまったから、日本人は物事の「分かり」方を見失っているのだと思います。逆に言うと、日本語は我々が大事なことを思い出す上で、いつも助けとなります。日本語は先人の残してくれた財産であり、我々が全然使えていない財産です。だからこそ、我々日本人が最も学ぶべきものは日本語だと思っています。

 

 

このような形で、誤った物事の「分け方」は我々に間違ったことを信じ込ませ、そのことが我々から「自由」を奪い、我々を「不自由」にします。だからこそ、我々にとって大事なことは、その「分け方」が正しいかどうかをいつも見抜こうとすることです。

 

人は常識に対して「問い」を行わないので、様々な学問分野の分け方が間違ってるなんて思ってる人はほとんどいません。このような現象と同じようなことが我々の日常には満ち溢れているので、「分け方」がちゃんと正しいかを明らかにするために、いつも「問い」を使って頂けると幸いです。