中国三大宗教の一つに「道教」があり、「道教」のマークは「陰陽図」です。人は「陽(光)」と「陰(闇)」と理解した時に「道」を知るからこそ、「道教」のマークは「陰陽図」だと理解しています。

「光」と「闇」の構造を理解することは「正解」と「間違い」を知るに過ぎません。それが「道」を知るということの意味です。そして、「道」を知っているからといって、自分がその「道」を歩む努力をしなければ、「道」の先には行けません。

その「道」を進む努力の過程で人は様々なことを学ぶことができます。その内容は、「愛」や「幸せ」や「強さ」や「賢さ」の価値であり、「欲望」や「快楽」や「弱さ」や「愚かさ」の危険性です。

こういうことは「経験」しなければ学べないからこそ、我々は生きています。生きていなくても、こういったことを学ぶことができるのであれば、我々は生きる必要ありません。つまり、本当に大事なことは言葉だけで理解できるものではなく、「経験」が必要で、「経験」を得るために我々は生きています。

これが「人は何故生きるのか?」という普遍的な「問い」の答えです。我々が生きるのは、「大事なこと(光)」を学ぶためであって、その「大事なこと」を学ぶことを支えているのは、「大事ではないこと(闇)」を知ることです。

我々はいつも「分ける」ことによって「分かる」ことができます。もし、この世界に「光」しかなかったら、「光」が何なのかも「分かる」ことができないから、「光」の価値を理解することはできません。「闇」という対立軸があることで、人は「光」が何なのか「分かる」ことができ、「光」の価値も理解できます。

このことが、「何故この世界に闇はあるのか?」という普遍的な「問い」の答えです。「闇」は我々を「苦しめる」ものですが、そういった「苦しみ」を知っているからこそ、「光」の「喜び」の意味が深く分かるようになります。

こういった文章の持っている本当の意味は論理的に意味を理解するだけでは全然不十分で「経験」が必要です。そして、その「経験」が大きく深くなればなるほど、我々はこの文章の意味をより深く理解できます。

私自身、この文章の内容について理解をいつも深めています。自分が書いているから、当然文章にできる程には「分かる」ことはできているのですが、この内容をどこまで深く理解するかには果てがないからこそ、いつも学び続けています。

昨日よりは今日はもっと理解を深め、そして明日は今日よりももっと理解を深めるという形です。学ぶための「経験」をすることをいつも心掛けているからこそ、色々なことを学ぶことを続けていられます。

結局私も人間だから、「経験」を通してしか「分かる」ことはできません。「分かる」ことができたことを言語のレベルで整理し、その内容を他者に理解してもらうことを通して、人が「分かる」ことをしやすいように「道」を整えるのが私の役割だと思っています。

それぞれの人間は異なる「経験」ができます。逆に言うと、全てを「経験」できる人間は1人もいません。ですから、それぞれの人間は異なる大事なことを「分かる」ことができます。

そうやって学んでいったことを人間が「他者のため」にシェアすることをもっと目指し始めたならば、人間全体が「道」をよく知るようになるので、人間は「道」を誤りにくくなります。逆に言うと、今の人間が「道」を誤っているのは「道」を知らないからです。

宮崎駿も小津安二郎も、彼らの人生が大きな価値を持っているのは正しい「道」を整理し続けてきたからです。彼ら程大きなことをすることはできなくても、小さな形で「道」を教え合うことはできます。というか、現代人は本人が意識するにせよ意識していないにせよ、SNSなどを通して人は「道」を教え合っています。

「光」を選ぶのであれば「光」を肯定するので、「正しい道」を人に教えることができます。それに対して、「闇」を選ぶのであれば「闇」を肯定するので、「間違った道」を人に教えてしまいます。現代は「闇」が強いので、人々は「間違った道」を教え合いがちです。

人が「正しい道」を「他人のため」にもっと教え合うように時代が変化することを願っていますし、その基本軸を整理するために自分も努力しています。

どうしてこのことを大事に思っているかというと、繰り返しになりますが、「正しい道」を知らないせいで、人間は「道」を誤っているからです。

そこに倒れている人がいるなら助けるのが人間です。「道」を知らないが故に「間違った道」を進んでいる人がいるならば、「正しい道」を教えるのが人間です。こんなことは偉いことでも何でもなく、当然のことです。