相手を「支える」ことと「裏切る」ことは、「愛」と「欲望」の対立のことを意味します。「愛」は「相手のため」なので「相手を支えたい」と思いますが、「欲望」は「自分のため」なので「相手を裏切ってでも他の何らかの利益を選びたい」と思うことに繋がることもあります。

「支える」ことをされると、人は他人を「信じる」ことがしやすくなり、「疑い」をしづらくなります。極端な場合、たった一度の「支える」ことが「疑い」に堕ちていた人間に「信じる」力を与えることもあります。例えば、人間不信に陥った人がある人の「支え」によって助けられると、「もう一度人を信じよう」と思うことに繋がるといったケースです。

「裏切り」をされると、人は他人を「信じる」ことがしにくくなり、「疑い」を行いやすくなります。極端な場合、たった一度の「裏切り」が一人の人間を一生「疑い」に堕とすこともあります。例えば、自分が本当に愛し合っていると信じていた人が信じられないような形で自分を「裏切る」ことを行うと、「もう誰も信じない」と思うことに繋がるといったケースです。

このような意味で、「支える」ことは人を「疑い」から救い出し「信じる」力を与え、「裏切り」は人の「信じる」力を奪い「疑い」に堕とします。だからこそ、「支える」ことをすべきですし、「裏切り」はすべきではありません。また、「裏切り」をされた方はどんなに裏切られようと、「疑い」に堕ちないように気を付けて頂けると幸いです。

「騙す」という行為も1つの「裏切り」ですが、日本社会では様々な「騙し合い」が行われています。だからこそ、日本社会は「疑い」に堕ちている側面があります。あまりにも他人を簡単に人を「信じる」ならば、痛い目にあってしまうからです。日本社会では多くの人が「欲望」を選んでいるからこそ、「裏切り(騙し)」を行うことが多く、そのことによって人は「疑い」に堕ちやすい社会が生まれているという構造を理解することはとても大事なことです。

「信じる」の対義語が「疑い」であって、「信じない」のであれば「疑う」しかないと思ってしまうと、「疑い」の罠に捕まってしまいます。そして、「疑い」は元々「嫌悪」を含み、「嫌悪」を含む分、物事を実際よりも否定的に見ることに繋がるので、判断を誤ります。

「疑い」に堕ちることを防ぐことができる気持ちが「問い」の気持ちです。「疑い」は元々相手の発言などに対して「嫌悪」があるものですが、「問い」にはそういった「嫌悪」はなく、「疑い」が感情的であるのに対して「問い」は冷静です。

だからこそ、「疑い」と「問い」の違いを意識して生きることはとても大事であって、自分が「疑い」と「問い」のどちらを抱いているのかを見定められるようにすると、的確な判断ができるようになります。このことは意識して頂けると幸いです。

※分かりやすさを考えてここでは書きませんでしたが、「問い」の気持ちとは「水の気持ち」です。「水の気持ち」は「愛」の実践のために「問題解決」を行う気持ちですが、「問題解決」の1つとして「水の気持ち」は「問い」を実践します。