「教育」は「支配」ではなく「自由」であるべきです。しかし、日本で行われている「教育」の多くは「自由」ではなく「支配」です。日本では家庭では親が子に、学校では先生が生徒に、会社では上司が部下に「〜しなさい」という形で「命令」を行っていますが、「命令」は「支配」なので、これらの「教育」は全て「支配」です。

どうして「教育」は「支配」ではなく「自由」であるべきかというと、「自由」で「教育」することによって相手の心は本当の意味で成長するからです。それに対して、「支配」で「教育」をすることによって相手の心はどんどん悪くなっていきます。

例えば、「自由」は魂の「意志」を働かせることに繋がるので、「自由」を与えられた方は自分で全てを考えることによって「賢さ」を成長させます。それに対して、「支配」は魂の「意志」を働かせないことに繋がるので、「支配」された方は自分で考えないようになり「賢さ」を失っていきます。

また、「自由」は「愛」が生まれるために大事な土台であって、「支配」は「欲望」が生まれることを助長する土台です。「愛」は誰かからの「命令(支配)」によって生まれるものではなく、その人間の「意志」によって生まれるものであって、「欲望」は誰かからの「命令(支配)」によって感じる「ストレス」からの反動として生まれやすいものだからです。

また、自分自身の「意志」によってやっていることに対しては、人間は強い「やる気」を生み出すことができます。それに対して、他者からの「命令(支配)」でやっていることに対して、人間は強い「やる気」を生み出すことはできません。何故ならば、自分の「意志」でそれをやりたいと思い始めたわけではないからです。

このような理由があるからこそ、本当の「教育」は「支配」ではなく「自由」であるべきです。逆に、「支配」で「教育」してしまうと、「教育」された側の人間は「愛」と「賢さ」と「やる気」を失っていきます。

「教育」をする側は、「自由」で「教育」することよりも「支配」で「教育」することの方が楽です。何故ならば、相手を動かす上で相手に「命令」することは相手の「意志」を尊重することよりもとても楽だからです。それに対して、「自由」で「教育」することは「支配」で「教育」することよりも大変です。何故ならば、相手に「自由」を与えた上で相手を正しい道へ導くためには、相手に様々なことを納得してもらう必要があるからです。そして、相手に納得してもらうためには、教育をする側の人間は「何故それが正しいのか?」という「理由」を理解しておく必要があります。

例えば、「人をいじめることは良くない」ということについて相手に納得してもらうことは簡単です。何故ならば、「いじめられた子は可哀想だから」といった理由を誰もが説明できるからです。それに対して、「何故歌を学ぶべきか」ということを正しい形で教育できる人は多くはありません。何故ならば、歌というものの価値を考えたことがある人は少ないからです。そして、良くない教育者は歌を教える時に、歌を学ぶことの価値を教えないが故に、生徒は歌を学ぶことに対して納得をすることができません。そして、納得できないが故に自分の「意志」でそれを学ぼうとは思えず、「やる気」を生み出すことができず、「賢さ」を使うことにも繋がらず、学んでいる最中に「嫌悪」を感じます。

本当は歌を学ぶことは生きていく上でとても大事なことです。何故ならば、歌を歌うことは我々の心を強く支えるからです。本当に「絶望」している時などに、歌を歌うことで自分の気持ちを持ち直すことができるだけの力を歌は持っています。歌を歌うことには他にも様々な価値があります。しかし、歌うことの価値を多くの人が理解できていないからこそ、子供達の一部は歌の教育を受ける時に「嫌悪」を感じ、歌うこと自体に「嫌悪」を感じたまま大人になってしまいます。すると、その人は一生歌という大事なものを使うことができなくなります。このような「教育」は、その人の心を支える道具を一つ奪うための「教育」であって、本当の「教育」とは真逆の方向性です。

また、親が歌の価値を理解していなければ、家で子供が歌っている時に「近所迷惑だから歌うのはダメ」と言ってしまうことにも繋がります。だからこそ、そういったことができるだけ起こらないようにするために、歌の価値を社会全体でシェアすることはとても大事です。このことは歌だけに限らず、人間が生きていく上で接していくありとあらゆる物事に対して同様に言えます。

日本社会では、様々な物事を教え合っているにしても、その様々な物事の価値や意味を教え合う機会はとても少ないです。だからこそ、大人子供問わず、教育する側の人間は「何故それを学ぶべきか?」ということを説明できず、その結果として「支配」で「教育」してしまっています。そのことによって、「賢さ」と「愛」と「やる気」を奪い、他にも様々な問題を引き起こしています。だからこそ、様々な物事の意味や価値を学ぶことが、我々人間にとって最も大事なことの一つです。

そして、「教育」を実践する上で大事なことは、相手に対する「愛」を抱きながら「教育」をすることです。相手に対する「愛」が欠けた状態で相手に「教育」をすると、とにかく相手がそれを学んでくれればいいと思うので、相手に納得してもらうことを目指さなくなりがちです。それに対して、相手に対する「愛」を抱いている状態で「教育」をすると、相手に納得してもらうことを大事と思いやすくなります。何故ならば、相手に対する尊重が生まれるからです。

このような意味で、誰かに「教育」をすることは大きな心の闘いです。相手に対する「愛」を失ってはなりませんし、相手に納得してもらうためには相手に教えることについて、深い理解を得ていなければなりません。

日本社会では、教育する側の人間が教育される側の人間よりも立場が上になりがちな傾向がありますが、このことが「支配」の「教育」を促しています。本当はもっと対等な関係で、議論をしながら学ぶような形で物事を学んでいくことがとても大事です。そのことによって、教えられる方はよく「問い」を行うようになり、「問い」によって理解を深めていきます。また、教える側の人間も教えられる人間からの「問い」に向き合うことでより深く学んでいきます。そうやってお互いに教え合うことが「教育」の質を高めていきます。

世の中の親は皆、子供に対する教育者です。また、仕事に就けば人は部下に何かを教えないといけません。ですから、ほとんどの人が誰かに「教育」をしています。だからこそ、正しい「教育」とは何かということは日本人の皆がもっと考えなければならない問題です。

とにかく、このページを通して、「教育」には「自由」と「支配」の2通りがあること、「教育」は「支配」ではなく「自由」であるべきだということ、「自由」で「教育」するためには「愛」が必要であることを理解して頂けると幸いです。