【中島美嘉の自画像について】

中島美嘉が発表したソングブック『あまのじゃく』の中には中島美嘉自身が描いた絵画がありますが、その中で中島美嘉自身を的確に描いている絵画があります。この絵は金星神が中島美嘉のことを中島美嘉に伝えるために、中島美嘉に描かせた絵になります。
 


この左の絵は中島美嘉自身のことを描いています。だからこそ、この絵は中島美嘉自身の写真と一緒に見えるように神々の関与によって配置されています。左と右のページは本質的には同じ中島美嘉が写っています。どうして、この絵が中島美嘉自身と言えるかというと、その表現に根拠があります。

中島美嘉から四角形のようなものが出ていて、その先に手があり、美しく見える羽根のようなものも四角形から出ています。これは悪魔がどのように中島美嘉を捕らえているのかということを的確に表現しています。以下、それぞれの要素について説明していきます。


[中島美嘉の体から出ている四角形について]

図形にはルールが元々決まっており、円が「光(神々)」の図形であるのに対して、四角形とは「闇(悪魔)」の図形です。だからこそ、神々が創る虹や日暈は正円でもあります。また、自然界には多くの円があるにも関わらず、自然界にほとんど四角形は見当たりません。自然とは神々が創っているものであり、悪魔は創ることができないからこそ、このような結果が生まれます。

ここで四角形が並んでいるのは、悪魔からの「闇の気」のことを意味しています。そして、それは悪魔と中島美嘉の間にある「縁」のことも意味します。「縁」とは「気」が通るラインのことであり、悪魔は中島美嘉に「縁」を使って「闇の気」を送っています。そこで送られている「闇の気」のことを四角形で描き、それが並んでいることで中島美嘉と悪魔の「縁」を描き、その先に悪魔の手があります。「闇の気」の「縁」は先程取り上げた『KATE』のCMの中でも描かれています。

ある星にいる中島美嘉は金星にいる金星神のことを表し、ロッカールームにいる中島美嘉は中島美嘉本人です。中島美嘉と金星神が「縁」で繋がっていることを正四角形で描くことによって、金星神が中島美嘉に「闇の気」を送っているという嘘を悪魔は付いています。悪魔は自分達が楽しむために、事実をねじ曲げて表現し、そのことを神々に見せることを面白がっています。また、このCM中に流れる歌詞は『LOVE ADDICT』の「手に染まる愛を喰らい 飛べるのさ   一瞬の儚い者に指令は下された」です。ここで歌われている「手に染まる愛」とは「欲望の気」のことであり、「飛べるのさ」とは「快楽」のことです。そして、金星神が中島美嘉に「指令を下す」という形で、実際はあり得ないことを描いています。何故ならば、金星神は中島美嘉に「金の気(愛の気)」を送っているのであって、中島美嘉の「意志」を大事にするが故に「指令を下す」ことはあり得ないからです。円と四角形の意味やこの『KATE』CMについては、『Over Load』の解説ページに詳しく書いています。

http://junashikari.com/中島美嘉について/『over-load』-について/


​[四角形から出ている羽根について]

絵の話に戻りますが、「闇の気」を表す四角形から孔雀の羽根のようなものが伸びています。しかし、実際の孔雀の羽根とは異なります。なぜならば、『あまのじゃく』の中には他の絵もありますが、別の絵には孔雀の羽根がそのまま描かれており、この絵の中にある羽根とは異なるものだからです。この絵の羽根は、悪魔が中島美嘉に与えている「闇」の「美」を意味します。孔雀は「美」を象徴する動物ですが、それと非常に似た形だけれども異なる羽根を用意することで、悪魔のもたらす「闇」の「美」のことを描いています。だからこそ、その羽根の先に悪魔の目も描いてあります。

悪魔は我々に「餌」を与える代わりに我々に「闇の気」を入れ、我々の魂を「支配」していきます。「ギブ&テイク」とは「闇」の立場の考え方であって、悪魔はいつもそれを実践しています。そして、中島美嘉が最も悪魔から与えられている「餌」とは「闇」の「美」であって、中島美嘉自身、悪魔がもたらす「闇」の「美」を好きになっています。こういった形で、悪魔がもたらす何らかの「闇」を「好き」になるといことが「呪い」です。現代人にとって「呪い」とはあまりにも遠いものに思えてしまいますが、実際は我々にとって非常に身近なものであり、それは悪魔のもたらす「餌」を「好き」になるということです。

例えば、我々現代人にとって最も身近な「呪い」とは「欲望」の性行為が「好き」ということです。性行為は「愛」のためにも「欲望」のためにも使えますが、「欲望」のために使うのであれば、大量の「闇の気」を性行為を通して摂取することになります。現代はAVがありますが、AVに悪魔はかなり関与しており、悪魔はAVを通して人々に「呪い」をかけていっています。AVを通して人は「欲望」の「性行為」が「好き」になるからです。

他にも、例えば悪魔は「かっこよさ」を「餌」にします。それは音楽でも絵画でもダンスでも俳優でも同じなのですが、「闇」の「かっこよさ」を使う芸術家とは非常に多くいます。例えば、映画『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーは「闇」の「かっこよさ」を持った演技を行なっていました。あの演技は悪魔とのチャンネリング(体に宿すこと)を通して実現していたために、ヒース・レジャーはあのような演技ができています。そして、あの映画を観てジョーカーに惹かれてしまった鑑賞者は「呪い」にかかってしまい、「闇」に寄せられます。何故ならば、音楽を見ることと全く同様に、演技を見るという行為自体が「気」を摂取するための方法だからです。我々は自分が「好き」なものに対しては、より心が動き、心が動けば動く程「気」の摂取量は増えますから、悪魔は我々に「闇の気」を多く入れるために「闇」の何かを「好き」にさせ、それを鑑賞させます。ヒース・レジャーに取り憑いた悪魔はそういう方法によって、自分の「闇の気」を地球中に広げるためにヒース・レジャーの演技に関与しています。ヒースもいい演技ができるからいいと思っていたのですが、その代償に悪魔に殺されています。

このような形で、「呪い」は我々にとって非常に身近な存在であって、悪魔が中島美嘉にかけてきた最も強い「呪い」とは、中島美嘉に「闇」の「美」を「好き」にさせるという「呪い」です。例えば、中島美嘉はアレキサンダー・マックイーンが好きですが、アレキサンダー・マックイーンとは悪魔によって服を作らされていた人物です。我々が何かをデザインする時に神々も悪魔もかなり関与しており、マックイーンは悪魔と強く共に働いていたからこそ、「闇」の「美」を多用することができ、あのようなデザインができています。また、マックイーンは悪魔と共に働いていたからこそ、自殺をしています。実際は、自殺ではなく、悪魔によって殺された形になります。悪魔は我々に自殺をしたい気分にさせることはできます。そして、悪魔と共に強く働くということは悪魔からの「闇の気」を大量にもらうことになりますから、悪魔は簡単に自殺願望を抱かせることはできます。ヒース・レジャーもジョーカーを演じた直後に亡くなっていますが、悪魔と強く共に働いた芸術家が悪魔によって殺されることはよくあることです。神々と共に働く芸術家が自殺をすることはほぼあり得ません。何故ならば、神々は我々に生きていてほしいと思うからです。そして、偉大な芸術を行なう人間は必ず神々か悪魔のどちらかと共に働いています。ですから、マックイーンが自殺したという事実から、マックイーンが悪魔と共に働いていたということは理解して頂ければ、と思います。

マックイーンだけに限らず、現代の世界のファッションの最先端は非常に「闇」の「美」を多用します。中島美嘉は元々ファッションが好きな魂ですから、悪魔達は中島美嘉の魂のその点を利用し、「闇」の「美」を好きにさせ、そのことで「闇の気」を入れていった形になります。

CDであろうと、服であろうと、建築であろうと、全て同じなのですが、何かがこの世界に生まれる時、それを一体神々と悪魔のどちらが創ったのかということが非常に重要です。何故ならば、神々が創ったものは神々の持ち物になり、悪魔が創ったものは悪魔の持ち物になるからです。例えば、マックイーンの服は悪魔の持ち物であって、神々は絶対にそこに関与することができません。そして、悪魔は自分の持ち物ですから、その服には「闇の気」で関与ができます。だからこそ、マックイーンの服は我々に「パワー」を与えます。しかし、この「パワー」とは「闇の気」であって、我々を「支配」していくものです。悪魔は我々に「闇の気」という「パワー」を与えますが、同時に我々の魂を「支配」します。これが人間と悪魔の間で行なわれる「ギブ&テイク」になります。

そのことは悪魔が創った曲である中島美嘉の『SUPER WOMAN』の「何がそんなに怖いの?ひとつぐらい無くすくらいはなんてことはないじゃない!」という歌詞にもよく表れています。我々は悪魔からもたらされる「餌」を食うのであれば、その「餌」を食うことによって入れられる「闇の気」によって、魂を「支配」されていきます。そして、酷い場合はヒース・レジャーやアレキサンダー・マックイーンのように悪魔によって命を奪われます。「気」が感情と思考の原因であるということがよく分かると、悪魔との「ギブ&テイク」の構造がよく分かります。しかし、今の人間は「気」のことを忘れているが故に、この構造が見えなくなっており、簡単に悪魔の「餌」を食ってしまっています。

中島美嘉はファッションだけでなく、音楽も「闇」の「美」を好きにさせられてきました。元々中島美嘉の内面にはそういった面はありましたが、そういった面をより強くさせられた形になります。また、歌い方においても「闇」の「美」を好むように悪魔に関与され続けてきました。

中島美嘉のそういった面をよく表している本人の言葉があり、「コンプレックスがあればあるほど、人は美しくなれる」という言葉です。この言葉は悪魔が中島美嘉を呪うために入れた1つの「アイデア」になります。「気」は感情と思考の原因ですから、中島美嘉が何かを考えている時に悪魔は「闇の気」で中島美嘉に様々なアイデアを入れることができます。そして、中島美嘉の魂はこの考え方を「好き」になってしまったが故に、「コンプレックス(劣等感)」を肯定する1つの「アイデア」を悪魔によって入れられた形になります。

「コンプレックス(劣等感)」とは「比較の闇」という1つの「闇の感情」です。「比較の闇」とは「劣等感」「優越感」「ナルシズム」など、自分と他人を比べることによって生まれる感情のことを意味します。そして、「比較の闇」の中では「優越感」は「快楽」を伴うものであり、「劣等感」とは「苦悩」を伴うものです。このように、「闇の感情」には「快楽」を与えるものと「苦悩」を与えるものがあります。そして、「苦悩」は誰もが嫌なものだからこそ、その「苦悩」を原因として、その「闇の感情」を抱くことを止めるということはあります。しかし、それを「苦悩」と思わないようにするための何らかの「アイデア」を持つ場合、そういった「苦悩」を肯定するための理由が生まれます。悪魔が中島美嘉に入れた「コンプレックスがあればあるほど、人は美しくなれる」という思想は、中島美嘉が「劣等感」を理由に「比較の闇(自分と他人を比べること)」をやめないようにするための1つの方法でした。そして、中島美嘉の魂もこの思想を「好き」になってしまったが故に「呪い」にかかってしまっています。

そして、その「呪い」によって、中島美嘉の「比較の闇」は強くなってしまっています。そして、「比較の闇」が強くなればなるほど、悪魔は中島美嘉に「闇の気」を入れやすくなりますから、悪魔は中島美嘉を「支配」しやすくなります。悪魔はその悪魔自身のために、このような「呪い」を中島美嘉にかけ続けてきました。ですから、中島美嘉はこのような「呪い」を多く抱えており、その「呪い」を解くために必要なことは、その「呪い」の構造を言葉で理解し、その「呪い」によって自分の魂に染み付いた考え方を止めることです。そういったことを実践していく中で、

今の人間は心の成り立ちについて見えなくなってしまっています。だからこそ、「呪い」ということがあまりにも遠いものに思えてしまっています。しかし、実際我々を「闇」に落とすのは「呪い」です。何故ならば、「呪い」とは「闇」を「好き」になるということであって、その「呪い」をきっかけに「闇の気」を摂取し始めるからです。中島美嘉はそういった「呪い」に一度かかることを今世の役割を選んでいる人間とも言えます。悪魔に襲われ続けることを選ぶということはそのような意味があります。神々は中島美嘉が今までにかかってきた「呪い」を解くことができるだけの「強さ」や「賢さ」がある魂だと信じているが故に、中島美嘉に今世の役割を提案しています。

しかし、これからそういった「呪い」を解くことを行なうかどうかを決め、実践するのは中島美嘉の魂です。その過程は楽ではありません。何故ならば、自分が「好き」なものを否定していかなければならないからです。私は今まで多くのシャーマンの弟子を育ててきましたが、多くの人はこの段階で「闇」に堕ちてしまいます。何故ならば、苦しいことができないからです。

真に「誰かのため」に生きたいと思うのであれば、変わるだけの「強さ」を持つことができます。これが「光」の基本姿勢です。「自分のため」に生きるのであれば、「呪い」を解くだけの「強さ」は生まれません。しかし、「誰かのため」に生きたいと思う時、その相手のために我々は「強さ」を作ることができるものです。

中島美嘉は本当はとても「愛」の強い人間です。それは彼女の身体に宿っている「闇の気」を取り払った時に中島美嘉自身が強く感じることだと思います。今中島美嘉の身体に宿っている大量の「闇の気」は中島美嘉が「愛」の感情を抱くことを常に徹底的に邪魔しています。ですから、中島美嘉自身、自分の「愛」がどれだけ強いのか、どれだけ強かったのかということがハッキリとは分からない状態だと思います。

中島美嘉が身体に宿っている「闇の気」を取払い、悪魔に関与されていない本来の自分に戻った時に初めて中島美嘉は自分の意志で「光」と「闇」の選択ができます。今の段階では、その選択に悪魔が強く関与しているが故に、中島美嘉自身の意志の選択をすることが非常に困難です。

長くなりましたが、悪魔が中島美嘉にかけている「呪い」についてでした。この自画像においては、「闇」の「美」の「呪い」が描かれていますが、悪魔は我々に「美」という「餌」と引き換えに、我々の魂を「支配」するということはよくあります。悪魔が「美」を使うということは非常に重要ですから、頭にとめて頂けると幸いです。


[髪型について]

この自画像においては、髪が広がるように描かれていますが、これは何を意味するかというと、中島美嘉が「闇の気」を徹底的に受け取りやすい状態に自分を置いていることを意味します。

どうして人間が髪を持っているかというと、髪で「気」を受け取り、溜めるためです。我々の脳は非常によく使う部分であり、その脳に「闇の気」が溜まらないために髪はあります。脳内に「闇の気」が溜まると、物忘れが激しくなったり、記憶がすり替わったりします。そういったことが起きないようにするために、脳にある「闇の気」を我々は髪に移動させながら生きています。だからこそ、髪はあります。(脳と記憶の関係は後で詳しく書いています。)

そういう意味で髪は「気」を溜められるものです。ですから、髪を通して「気」は受け取ることができます。この自画像においては、悪魔が中島美嘉にもたらしている「餌」である「闇」の「美」に寄り添うような形で髪が描かれていますが、これはそういった「闇の気」を中島美嘉が受け取りやすい状態に自分を置いていることを表すための表現です。

また、余談ですが、中島美嘉はウィッグ(カツラ)を好んで使います。これもまた悪魔が中島美嘉に仕組んでいる「餌」であり、中島美嘉にウィッグを好きにさせたという「呪い」でもあります。ウィッグを使えば、毎日でも髪型を変えられるので、様々なファッションを楽しむことができます。中島美嘉の魂は「美」を求める魂だからこそ、ウィッグを使いたがります。しかし、ウィッグを使うと実際の髪が表面に出ないので、髪から「気」を摂取することが不可能になります。それを行なうことによって、悪魔は金星神からの「金の気」を中島美嘉が受け取ることがしづらいようにしています。中島美嘉のように神々と「縁」がある人の場合、神々はその身体に「気」を送っており、髪とは我々が神々から「気」を受け取るために非常に有効な場所です。そこを使えなくなることは、「光の気」を送りづらくなるので、神々は非常に望まない状況です。

中島美嘉の2003年のコンサートツアーのDVDの中で、中島美嘉は髪を振るような仕草を無意識に行なっていますが、これは金星神からの「金の気」を受け取るために、金星神が中島美嘉にさせていることです。このDVDでは、合成で「金の気」のことも描かれています。それに対して、それ以降は帽子を被って歌う機会が増えていますが、帽子もウイッグと似た意味を持っていますから、神々は「気」を送りにくくなります。中島美嘉は知らず知らずの内にそのように悪魔にとって都合のいいように誘導されています。

また、髪と関連した話ですが、昔の中島美嘉は裸足で歌っていたのに対して、今はハイヒールを履いて歌っています。これも悪魔が仕組んだ罠であり、足の裏とは「闇の気」が出る場所です。ですから、靴を履いていないと「闇の気」が足の裏から出やすくなり、「闇の気」の浄化がよくできます。ですから、神々と共に「光」を歌いやすくなります。それに対して、靴を履いてしまうと「闇の気」が出づらくなってしまい、「光」の歌は歌いづらくなります。そして、ハイヒールの場合、時に「痛み」も伴いますから、「嫌悪」の感情を抱かせやすくなります。「痛み」とは本質的に「嫌悪」の感情に非常に近いものです。そして、最近の中島美嘉はかなり高いハイヒールを履いて歌っていますから、転ばないようにしないといけないという「不安」や「恐怖」も悪魔は抱かせやすくなりますし、美しく見せたいという「欲望」や、自分は美しいという「優越感」にも堕ちやすくなります。元々中島美嘉が裸足で歌い始めたのは金星神の「導き」ですが、今ハイヒールを履いて歌っているのは悪魔からの「コントロール」です。それは「気」に関する、神々と悪魔の都合から生まれている現象になります。


[膝を抱えるポーズについて]

我々は自分の感情によって、体のポーズを変えます。逆に言うと、ポーズには元々意味が決まっています。この絵の中の中島美嘉の姿勢は「膝を抱える」ポーズであって、「膝を抱える」とは「悲しみ」「絶望」の感情によって生まれるポーズです。中島美嘉の様々な楽曲の中で「膝を抱える」というポーズの意味については既に歌われているので、歌詞を抜粋します。
 

「どれだけの夜を泣き明かし」
「どれだけの時間がたって」
「空が晴れているだけで怖くて」
「ただ膝だけかかえ座り込んでた日々」(『LETTER』)

この歌は中島美嘉が耳の病を抱え、活動休止していた頃の心境を歌ったものですが、強い「絶望」の歌です。悪魔達は「闇の気」を中島美嘉に入れることで、その「絶望」を強くし、徹底的に中島美嘉の心に「闇」を植え付けていった時期でもあります。「どれだけの夜を泣き明かし」とは、「絶望」「悲しみ」のこと。「空が晴れているだけで怖くて」という歌詞についてですが、「空」とは「光」の存在であり、その存在に対して「恐怖」を抱くということは、とてつもない「闇」に堕ちていることを説明しています。そういった深い「闇」の中で「絶望」していることを歌った歌だからこそ、最後に「膝だけかかえ座り込んでた日々」という歌詞を置いています。

 

「黒く染まる夜は  膝を抱えて  君といた日を  思い返すよ」(『ひとり』)

『ひとり』は失恋の歌であり、この歌詞は「悲しみ」を表す歌詞です。


「膝を抱える」とは「悲しみ」「絶望」のポーズであるという根拠が既に中島美嘉の歌の中にあるからこそ、金星神はこの自画像において膝を抱えるポーズを中島美嘉に描かせています。何故ならば、中島美嘉は本当は今でも「悲しみ」や「絶望」を抱えているからです。「負けず嫌い」や「強がり」によって、そういった「悲しみ」や「絶望」を表には出さないようにしていますし、中島美嘉自身その方法や「欲望」を使って、自分の「悲しみ」や「絶望」を見ないようにもしていますが、金星神は中島美嘉の心が全て見えます。ですから、中島美嘉の本当の状態は分かり、その本当の状態をこの絵の中に描いています。

 

【ソングブック『あまのじゃく』について】

最近発表されたソングブック『あまのじゃく』は中島美嘉に対する悪魔の「支配」が終わる前に、中島美嘉が自分自身に対してどのような認識を持っていたのかを保存するために生まれたものです。中島美嘉が自分自身について理解する時が来れば、かなりその認識は変わります。だからこそ、変わる前の中島美嘉の自分自身の認識を保存することは非常に重要であって、後で日本人の多くが読むことを神々は想定しています。

そもそも「あまのじゃく」とは「天の邪鬼」と書きます。「邪鬼」とは「鬼」のことであり、悪魔のことを意味します。中島美嘉は天(神々)の使いとして、15年間悪魔に襲われ続け、自分自身が悪魔のようになっていくことを役割としてきた魂です。そういった意味を込めて、この本のタイトルを神々が『あまのじゃく』にしています。

また、日本古来の「天の邪鬼」という言葉は、天探女という女性からも来ています。天探女はその名が表すように、天の動きや未来、人の心などを探ることができる「光」のシャーマンとされており、この説話が後に人の心を読み取って反対に悪戯をしかける小鬼(「闇」のシャーマン)へと変化していったということです。これは中島美嘉が「光」の歌手から「闇」の歌手へ変化していった過程と非常に似ています。神々や悪魔と共に働く歌手とは、シャーマンと何ら変わりがありません。また、中島美嘉に元々シャーマンの能力があるということは、誰かの病気が分かったりすることがあるという彼女の経験から明らかです。