中島美嘉の『Over Load』について解説を書きます。『Over load』は、曲もPVも金星神が創っており、その内容は金星神からの中島美嘉に対するメッセージの曲です。

「over load」という英語は通常、「overload」と表記され「過重負担」という意味を持った単語です。しかし、ここでは「over」と「load」の間にスペースが与えられていて、「over」と「load」は別々の単語として書かれています。これはどうしてかというと、金星神が「過重負担」という意味ともう1つ意味を与えたかったからです。

「load」とは「(精神上の)重荷、苦労」といったことを意味し、「over」には様々な意味がありますが、その1つに「〜を越えて」という意味があります。つまり、「over load」=「重荷を越える」という意味で読む事もできます。金星神がこのタイトルに込めたもう1つの意味はこの「重荷を越える」ということです。

中島美嘉は15年間悪魔に襲われることを人生の役割として持って生まれてきた人間です。それは「過重負担」とも言える役割です。そして、その悪魔に襲われる時期を越えるということが「重荷を越える」という意味です。この歌のタイトルはそういった中島美嘉の人生のことを表しているのであって、この歌もPVもそういったことを表しています。

歌においては、中島美嘉の経験していること、中島美嘉と金星神が二人でどのように「光」を選んでいくのかといったことが歌われる中で、「光」と「闇」に関する様々な重要なことが説明されています。そして、PVにおいては悪魔の「闇の気」に襲われる中島美嘉本人と、「金の気」に満ちた場所に金星神が描かれる形で描かれています。そして、この二人が交互に歌う形で、それぞれの言葉を話す形で進行します。最後の方は二人で歌うようになりますが、これが意味する事は、中島美嘉と金星神が共に働いている姿です。

以下、この歌とPVについて解説を書いていきます。まだ『中島美嘉について』を読まれていない方はこちらから先に読まれて下さい。こちらの文章が前提となります。

・中島美嘉について
http://junashikari.com/art/中島美嘉について/

 

【歌詞解説】

一度この歌の歌詞を全て書いた後に、歌詞の一行一行の意味を解説していきます。
 

地下鉄の波に夢がのまれてく
繰り返しの日々に疲れ果てている
また今日も
同じ靴で
同じ道を行く

空さえ飛べる気がしたあの頃
不安なんてまだ一つもなかった
心から
笑えたのは
いつが最後だろう

誰かのせいじゃない事なら
僕らはもう解っているから
変わる 勇気を

光り輝くために僕ら
この瞬間(とき)を今乗り越えていこう
願う力で叶えられる
泣いてもいい
また明日
笑えるなら


眠れない夜に観ていた映画の
ヒロインを自分に重ねて泣いてた
いつからか
一人きりが
上手になってた

次の週末まで乗り切れるのは
愚痴も恋愛も聞いてくれる様な
変わらない
友達が
元気くれるから

大人になって気付いたのは
大人になんてなれない事
夢は 消えない

少し遠回りして僕ら
強く優しく今生きて行こう
恥ずかしい事なんてないさ
つまずいて
転んだって
立ち上がれる

胸に詰め込みすぎて
自分追い込みすぎて
苦しい日々も
無駄なんかにはしない日がくるから


光り輝くために僕ら
この瞬間(とき)を今乗り越えていこう
願う力で叶えられる
泣いてもいい
また明日
笑えるなら

少し遠回りして僕ら
強く優しく今生きて行こう
恥ずかしい事なんてないさ
つまずいて
転んだって
立ち上がれる


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「地下鉄の波に夢がのまれてく」
「繰り返しの日々に疲れ果てている」
「また今日も」
「同じ靴で」
「同じ道を行く」

この歌詞の意味は、多くの人々が「夢」を追いかけるのではなく、無目的に、ただ漠然と「繰り返しの日々に疲れ果て」ていく中で、「夢」を失っていくということを表しています。「夢」とは中島美嘉の金星神が創った楽曲において、必ず「愛の夢」のことを意味しており、「欲望の夢」ではありません。つまり、「誰かのために何かをしたい」という気持ちから生まれた「夢」のことを意味します。そのことについては『A MIRACLE FOR YOU』の中でも解説しています。

http://junashikari.com/中島美嘉について/『a-miracle-for-you』について/

人は同じような毎日を疲れ果てた状態で過ごしていると、心を失っていきます。心を失っていくとは、感情があまり動かなくなっていくことを意味します。例えば、子供の頃の我々はとても小さなことを「楽しい」と感じ、ちょっとしたことで「喜び」を感じます。何故ならば、その感覚が「新鮮」だからです。しかし、年を重ねるにつれて、色々なことを分かったような気になってきます。そうすると、様々な体験を「同じ」として認識していきます。そして、「同じ」という認識を持ち始めると、様々な体験は「新鮮」ではなくなっていきます。そうすると、心が動かなくなっていきます。

しかし実際は、昨日の空と今日の空でも全然「違う」ものです。もし、魂が昨日の空と今日の空を「違う」と感じられるのであれば、いつも空は「新鮮」な存在だから、心を動かすことができます。しかし、魂が昨日の空と今日の空を「同じ」と認識し始めると、それらは「新鮮」ではなくなっていきます。そうすると、感情が動かなくなっていきます。

「地下鉄」とは、とても強い「闇の気」が溜まっている場所です。なぜならば、人は呼吸によって絶えず「闇の気」を体外に出していますが、地下鉄は多くの人が利用するが故に「闇の気」が増えていくからです。また、「闇の気」は下に溜まる傾向があり、「闇の気」を浄化するためには「風」や「雨」が必要ですが、地下鉄は地下にあるが故に「風」や「雨」が入らず、浄化ができないからです。

ここでどうして「地下鉄の波」という「波」という表現が使われているかというと、その「闇の気」を担当している悪魔の関与を思わせるためです。「闇の気」が「波」に近いことは、このPVの中でも映像として表現されています。

「光の気」は神々が司り、「闇の気」は悪魔が司っています。そういった悪魔の「関与」を思わせるために「波」という動くイメージを、この歌では与えています。「光の気」と「闇の気」をこのPVでは視覚的によく表していますが、そのことについてはPVの解説で書きます。

また、「靴」とは「闇の気」が溜まるものです。人間の身体にはよく「気」が出る場所が複数ありますが、その一つが足の裏です。我々人間という種が誕生する段階において、我々は土の上を裸足で歩く事が想定されていました。だから、足の裏から「闇の気」が浄化されるように、我々の身体は設計されています。土は「気」をよく吸う性質があるからです。しかし、現代人は靴を履きます。ですから、足の裏から出た「闇の気」はいつも靴に溜まっていきます。ですから、ここで「靴」と言われているのは「闇の気」を思わせるための言葉です。

つまり、「地下鉄」「靴」という言葉が使われているのは、「闇の気」が溜まっているものを表す言葉だからです。そして、「闇の気」は悪魔が関与しているものですが、そういった「闇の気」に囲まれながら生きていると心を失っていきます。以下、そのことについて説明していきます。

何かを見て、我々がどのように思うかという事に対して、神々も悪魔も関与できます。ですから、もし悪魔からの「闇の気」を持っているならば、その「闇の気」をコントロールしている悪魔から、「何かを見て、どのように思うか」ということをコントロールされます。その一つの方法が、人間に対してありとあらゆることを「同じ」と思わせることです。先程説明したように、様々なものを「同じ」として認識し始めると、我々は心が動かなくなっていきますが、悪魔は我々の心を殺すためにそのような形で様々なものを「同じ」と見せてきます。これは悪魔が使う一つの「呪い」の方法になります。

「気分」とは「気を分ける」、「気持ち」とは「気を持つ」と書きますが、「光の気」を我々が持つ時、我々はとても「気分」が良くなります。それに対して、「闇の気」を我々が持つ時、我々は「気分」が下がっていきます。そして、「気分」がいい時は色々なものに対して新鮮な感覚を得られます。それに対して、「気分」が下がっている時、何を見ても心は動きません。これは、御自身の人生を振り返るとよく分かると思います。気分がいい時は色々なものに感動でき、気分が悪い時は心が動きにくくなります。

それは神々は様々なものを「新鮮(違う)」と感じさせ、悪魔は様々なものを「同じ」と感じさせていることが一つの理由です。気分がいい時は空を美しいと思えます。なぜならば、「新鮮」に感じられるからです。しかし、気分が悪い時は空を美しいと思えません。なぜならば、「どうせ同じ空でしょ」くらいにしか思えないからです。

神々は様々なものを「違う」と感じさせることによって、人間の心がより動くように働きかけます。何故ならば、神々は我々の魂の進歩を促したいからです。様々なものを感じることによって、我々は魂の感じる力を上げることができます。それに対して、悪魔は様々なものを「同じ」と感じさせることによって、心が死んでいくように働きかけます。何故ならば、悪魔は我々をコントロールしたく、感じる能力を下げていけば、より人間をコントロールしやすくなるからです。感じる能力を下げていけば、何が「光」で何が「闇」かが分からなくなっていきますから、より「闇」を人間に選ばせやすくなってきます。それが悪魔の狙いになります。

何かを感じるためには、魂がまずそれを「感じよう」としなければいけません。当たり前ですが、「しよう」と思わない限り、それを「する」ことはできないからです。つまり、何かをするためには我々の「意志」が必要です。そして、その「感じよう」というモチベーションに「新鮮」かどうかということが関わってきます。それを「新鮮(違う)」と思うのであれば、人は「感じよう」と思います。それが「新鮮ではない(同じ)」と思うのであれば、人は「感じよう」とは思いません。そして、使わない能力は衰えていきます。我々が感じることをしないのであれば、我々の魂の感じる力が下がっていきます。「同じ」と「違う」については詳しくはこちらの文章を読んで下さい。

http://junashikari.com/other/「同じ」と「違う」/

説明が長くなりましたが、冒頭の歌詞にはこれだけの意味が込められています。「地下鉄の波に夢がのまれてく」という歌詞は「闇の気」によって「愛の夢」が失われるということを意味していますが、その説明をそれ以下の歌詞が行なっています。「繰り返しの日々に疲れ果てている また今日も 同じ靴で 同じ道を行く」という形で、「繰り返し」「また今日も」「同じ靴」「同じ道」という「同じ」という意味を持った言葉を四回置くことで、「闇の気」が我々に様々なものを「同じ」として認識させていることを説明しています。

この歌詞は、出来事として同じことを毎日繰り返していることを描くための歌詞ではなくて、出来事を毎日「同じ」として認識している主人公のものの捉え方を表す歌詞です。毎日同じことをしていても、毎日を「違う」ものとして認識して生きている人は一日一日を大事にしながら生きていくことになります。何故ならば、毎日が「違う」からです。これは「光」の立場の生き方になります。そういう人はこの歌詞のような考え方にはなりません。

この歌の作詞者は中島美嘉本人ですが、御本人もこういった意味が込められていることを漠然としか感じていないと思います。では、どうして中島美嘉にこのような重要な意味を込めた歌詞が書けるかというと、中島美嘉は金星神と共にこの歌詞を書いているからになります。

 

「空さえ飛べる気がしたあの頃」
「不安なんてまだ一つもなかった」
「心から」
「笑えたのは」
「いつが最後だろう」

この「空さえ飛べる気がしたあの頃」の「空」は、冒頭の「地下鉄」という言葉との対の関係性を持っています。「空」は「光」の存在です。「空」を見ていて「気分」が良くなったことがある人は多いと思いますが、そのことから「空」が「光」であることは分かって頂けると思います。どうして「空」を見ていると「気分」が良くなるかというと、空は「光の気」を多く持っていて、我々は「見る」ことによって目から「気」を摂取しているからです。また、地下鉄に入ると「気分」が悪くなる人も多いと思いますが、そのことから地下鉄には「闇の気」が溜まっている場所であることは分かって頂けると思います。

そして、ここで「空さえ飛べる気がしたあの頃」というのは、中島美嘉の魂は天使のようだったということを意味しています。我々は輪廻転生をしていますが、中島美嘉は今回もう一度人間をやるのではなくて、天使になることができた魂だったということも意味しています。

紀元前三世紀から2012年12月まで、2300年間金星からの金の気が降り注ぎませんでした。そして、その金星からの「金の気」が降り注ぎ始めた直後に30歳になるように生まれてきて、金星神と共に歌を歌い、金星神とそっくりな顔をしているのが中島美嘉です。これはどう考えてもとても重要なポジションであって、そのようなポジションに置かれる魂なのですから、中島美嘉は神々からとても評価されている魂です。

人間としての生を我々が過ごした後に、天使になるか神々になるかを決めるのは神々です。天使や神々並みの魂である魂を、必ずしも天使や神様にする必要はありません。そういった優れた魂であっても、もう一度人間に宿すことはありますし、今は地球の「闇」が強い時代ですから、むしろ優れている魂でも人間に宿すことの方が多いです。中島美嘉もそういう魂であって、この「空さえ飛べる気がしたあの頃」という言葉には、金星神からの「あなたは天使に生まれ変わっても本当は良かったの」という中島美嘉に対するメッセージが込められています。

「光」に満ちた魂は「闇」の感情を持ちにくいですから、「不安」という「闇」の感情を抱きにくくなります。「不安なんてまだ一つもなかった」という言葉の意味は、前の言葉からの繋がりで、「あなたの魂は天使のように『光』に満ちていたから、不安という『闇』を抱くこともなかった」ということを意味します。そして、「闇」に堕ちてしまったが故に心から笑えなくなってしまったことがここで歌われています。

「闇の気」を身体に多く抱えてしまうと、本当の自分がよく分からなくなってしまいます。なぜならば、自分の生がかなり身体に宿ったその「闇の気」に影響された状態で続いていくからです。また、本人も本当の自分を失っていることに気付けなくなってしまいます。なぜならば、その「闇の気」を司っている悪魔が、そういったことに気付けないように心に関与をするからです。だから、「闇の気」を抱えることとは非常に恐ろしいことです。

ただ、心から笑えなくなってきているということは本人も自覚できる現象です。単純に、自分がどういった感情を経験しているかということは我々は覚えていられるからです。悪魔は我々を心から笑えないようにしていきます。なぜならば、心の底から清々しい気持ちで笑うということは「光」の行為であって、そういったことを人間が行なうと「闇の気」の浄化が行なわれてしまうからです。そうすると、悪魔としてはその人間を「コントロール」しにくくなっていきます。

「笑い」には大きく分けて二種類あり、「光の笑い」と「闇の笑い」です。この2つは使っている感情が異なります。「光の笑い」とは先程も書いたように、心の底から清々しい気持ちで笑うという方向であり、「闇の笑い」とは例えば人を馬鹿にして笑うといったことです。悪魔に「闇の気」を多くもたらされると、「闇の笑い」はできても、「光の笑い」はしづらくなっていきます。そういったことをここでは描いていて、この「光の笑い」のことを「心の底から笑えた」という言葉で表現しています。

中島美嘉の楽曲において、「笑う」という歌詞は非常に重要な意味を持っています。例えば、新曲『Forget Me Not』においては「一人じゃない ねえ笑って」という歌詞が度々歌われます。この『Forget Me Not』も金星神からの中島美嘉に対する語りかけの歌ですが、この歌の「ねえ笑って」という歌詞は「光の笑い」のことを意味しています。『Forget Me Not』は中島美嘉の様々な重要な楽曲の歌詞が使われており、それぞれの楽曲と合わせて理解すべき歌です。『Forget Me Not』については、また別で解説を書きます。

 

「誰かのせいじゃない事なら」
「僕らはもう解っているから」

「地下鉄の波に〜〜」「空さえ飛べる〜〜」「心から笑えたのはいつが最後だろう」という歌詞からの繋がりで、この歌詞が歌われているので「自分が闇に堕ちたのは誰かのせいじゃない」ということを意味しています。また、ここで言われている「僕ら」とは、中島美嘉と金星神のことです。

我々はいつも変わっていきます。しかし、それは必ずその本人の「意志」によって起こっていることです。そういうことが「誰かのせいじゃない事なら」という言葉に表現されています。「人は周りの環境にかなり影響されながら、人格形成をしている」といったことはよく言われますが、もしこの言葉がそのまま正しいのであれば、我々の魂は自分の「意志」ではなくて、周りの環境によって形成されていることになります。しかし、実際は周りの環境が自動的に自分を変化させるのではなくて、周りの環境からどれだけの影響を受けるかということを、自分の魂が、自らの「意志」で決めることによって、自分がどれだけその環境から影響を受けるかが決まっていきます。

そういった例を挙げると、とても性格のいい人(「光」の人)がものすごく空気の悪い職場(「闇」の人が多い場所)に入るとします。その職場は「闇」なので、いつも社員が他の社員などの「愚痴」を言ったりします。そうすると、その新入社員はいつも先輩社員の様々な「愚痴」を聞くことになります。そうすると、その新入社員もいつしか人の「愚痴」を言うようになっているというケースです。

流されやすい人とは、そのようにすぐに周りの影響を受けます。何故ならば、その職場で行なわれている「愚痴」という行為に対して、その人の魂が「不同意(NO)」をしないからです。「愚痴」とは「嫌悪」の感情で行なわれるものですが、人の「愚痴」を聞いている時に、その「愚痴」を面白がったり、共感してしまうと「嫌悪の気」をその人からもらいます。何故ならば、魂が「嫌悪」に「同意」をしているからです。

我々はいつもこの「同意(YES)」「不同意(NO)」というプロセスを魂で行なっています。そして、もし「同意」するならば、身体と魂にその「気」をもらい自分が変化します。その逆に「不同意」を行なうならば、身体にも魂にも「気」は入りません。

我々は「嫌悪」といった何らかの「闇」の感情を持つことによって、自分の中にその「闇の気」を入れていくということを行なっています。そのことについて、周りの環境は我々に影響を与えているのですが、最終的にその闇の感情を持つかどうかを決めているのは、我々の「意志」です。

人の「愚痴」を面白がったり、共感をするというプロセスは「嫌悪」に「同意(YES)」するということです。そうすると、「嫌悪の気」が自分の魂に入り、より「嫌悪」の感情を抱きやすくなります。そして、「嫌悪の気」が魂に増えていくと、色々なことに対して「嫌だな」と思いやすくなっていきます。そうすると、その「嫌悪」を発散させるために、他の社員と同じように「愚痴」を行なっていくようになっていったりします。

このような形で我々は自分自身の魂を自分の「意志」によって、変化させていっています。分かりやすく言うと、今自分がどういう感情を抱くのかということによって、未来の自分の性格が決まっているということです。このように説明すると非常に分かりやすいと思いますが、その性格が変化するプロセスがどのように成立しているのかを詳しく説明しようとすると、「気」の話をする必要がある形になります。

ですから、中島美嘉がどんなに悪魔に襲われていて、悪魔から「闇の気」を与えられようと、もし彼女がその「闇の気」に「同意」をしなければ、彼女の身体や魂に「闇の気」が入ることはありませんでした。そういった中島美嘉自身が、自分が闇を抱えたのを自分のせいだと認めるということがこの歌詞の持つ1つの意味です。

そして、より重要な意味は、中島美嘉が今回生まれる前に自分が悪魔に強く襲われ「闇」に一度堕ちるということを選んだ魂であるということです。中島美嘉は15年間悪魔に襲われることを役割として持っていた人間です。そして、神々がそういった役割の話を中島美嘉に持ちかけた時に、中島美嘉は、地球のためにその役割を自分で引き受けるということを行なっています。つまり、中島美嘉が悪魔によって苦しめられ、「闇」に堕ちてしまったのは、中島美嘉自身の選択によるものです。そういう意味も込めて、「誰かのせいじゃない事なら 僕らはもう解っているから」という言葉が歌われています。

また、「僕ら」という歌詞なので金星神もまた自分のせいで中島美嘉が「闇」に堕ち、苦しんでいると思っているということを表しています。これはどういうことを意味するかというと、神々の一人として、金星神は中島美嘉にそういった役割の話を持ちかけたということを意味します。中島美嘉が強い「闇」を経験してきたことは、神々のせいでもあります。何故ならば、そういった役割を中島美嘉に与えたのが神々だからです。金星神はそういったことをこの歌詞で中島美嘉に伝えておきたいからこそ、この歌詞を置いています。

ここでは「僕らはもう解っているから」という言葉がありますから、中島美嘉自身が自分のそういった役割に気付いた後のことをこの歌では想定しています。つまり、この歌は未来の中島美嘉に対する金星神が創った歌であって、未来の中島美嘉がこのように考えるようになるということを先に示している曲です。何故ならば、そのような曲が事前にあるのであれば、中島美嘉が自分自身に関する様々なことを受け入れやすくなるからです。

 

「変わる 勇気を」

変わることには「勇気」が必要です。中島美嘉は悪魔によって様々な「闇」のものを好きにさせられてきました。だから、彼女が「光」に変わりたいと思うのであれば、今までに「好き」になってしまった様々な「闇」を「否定(不同意)」しないといけません。自分が「好き」なものを「否定(不同意)」することは、魂にとって大きな闘いです。それが苦しいからといって、逃げるのであれば、「逃げ」という闇に捕まってしまい、「光」は選べません。そして、悪魔達はそこで中島美嘉が「闇」に堕ちるように関与してきます。

実際に自分が持っている問題を目の前に突きつけられた時に、多くの人間は「闇」に堕ちていきます。自分の問題を自分で引き受けるのは、とても苦しい大きな試練です。多くの人はその試練に耐えられません。そのために多くの人は何をするかと言うと、自分の抱えている問題を認めなかったり、逃げたりします。

そういった様々な闘いをするには大きな「勇気」が必要となります。それは「決意」とも言えます。「勇気」「決意」とは、その問題のことを知らないと抱くことはできません。そして、こういった魂の問題を「知る」ということは、魂で「認める」ということを意味します。この、魂で「認める」という心の動きを行なうためには「強さ」が必要です。何故ならば、「認める」ことは辛いことであるからです。そういった「強さ」と共に「認める」ことを行なった上で、「変わる勇気を」持たないといけません。

金星神が創った中島美嘉の楽曲において、「勇気」とはいつも「愛」のことを意味しています。我々は強い「愛」を持つ時、必然的に「勇気」も抱えます。なぜならば、強い「愛」があれば、誰かのために何かをしようという気持ちがとても強くなるからです。そういった気持ちが「勇気」を生んでいきます。このことについては『A MIRACLE FOR YOU』の中でも解説を書いています。

http://junashikari.com/中島美嘉について/『a-miracle-for-you』について/

金星神はいつかそういう日が来ることを分かっていました。だから、中島美嘉の歌詞に様々なメッセージを込めてきました。彼女自身の曲の中に、多くの根拠が残されているのであれば、中島美嘉が自分の問題を「認める」時に、「疑い」に堕ちる可能性が減るからです。根拠がない話に対しては、人は簡単に「疑い」を持てます。しかし、明確な根拠がある話に対しては「疑い」を持ちにくいです。

中島美嘉は「賢さ」を持っています。その「賢さ」を信じているからこそ、金星神はこういったメッセージを楽曲に残してきました。もし、彼女が「賢さ」に欠けていたのであれば、これらの文章を読んだところで「理解」ができません。そして、「理解」ができない限り、金星神が中島美嘉の楽曲に残してきた様々なメッセージを「根拠」にすることができません。中島美嘉の「賢さ」を信じているからこそ、金星神はいつもこういった大事なメッセージを込めた曲を創ってきました。

金星神も多くの光の神々も、中島美嘉が「光」の方向性を選んでくれることを切に願っています。私は神々の組織の一員として、人間として、現場担当で動いている魂になります。そして、中島美嘉も現場にいますから、光の組織の中で直接的に接することができるのは私だけです。もし彼女がこの闘いを引き受ける「勇気」があるのであれば、私は彼女が望む限り、死ぬまででも全力で彼女を支える気持ちでいます。しかし、彼女が望まないのであれば、私は何もできません。全てはそれぞれの魂の「意志」にあるからです。

全ては中島美嘉本人が決められます。なぜならば、中島美嘉の「意志」に直接神々も悪魔も関与することはできないからです。神々や悪魔は「気」を通して、中島美嘉に「〜をしたい」と思わせることはできますが、最終的に何を選ぶのかは中島美嘉の魂の「意志」が決めます。全ては中島美嘉が決められるということは、この『Over Load』のカップリング曲である『No Answer』にも描かれています。

「不安な今を乗り切ったら思い出話と笑ってる このドラマのエンディングは全部君が決められるよ no answer」

この歌詞も金星神から中島美嘉に対する語りかけの歌詞です。『Over Load』と『No Answer』は同じような意味を持った歌だからこそ、同じシングルの中にあります。『No Answer』の解説については別の記事で書きます。

 

「光り輝くために僕ら」
「この瞬間(とき)を今乗り越えていこう」
「願う力で叶えられる」
「泣いてもいい」
「また明日」
「笑えるなら」

この言葉も金星神と中島美嘉が二人で話している言葉であって、未来において中島美嘉が金星神からいろいろなことを学んだ後に言っている言葉です。中島美嘉がこの言葉を言うためにはこの言葉の意味を知らないといけません。しかし中島美嘉は、まだ「願い」の意味や「涙」の意味や「笑う」ことの意味というものを、はっきりとはわかっていないので、今はこの言葉は言えない形になります。しかし自分の役割や「気」に関する様々な知識を得ていくことで、この言葉の意味がわかるようになり、その上で金星神と同じ気持ちでこういったことを思いながら生きていけるようになります。当然中島美嘉がそういう風にして生きていきたいと思わない限り、こういったことを思いながら生きていくことは不可能ですが、まず中島美嘉がこういったことを言うために必要なことは、中島美嘉がこういった言葉の意味を知るということです。

「光り輝くために僕ら」という言葉は文字通り「光」を選び、強い「光」になってゆくということです。そして金星神とは「愛」の神様ですから、金星神とともに強く「光」の方向へ向かうということは、強い「愛」の方向性で生きていくということを意味しています。

そしてそのために、「この瞬間(とき)を今乗り越えていこう」という言葉がありますが、どうしてこの「とき」という言葉が「瞬間」という言葉で表されているかというと、我々の心の闘いとはいつも「瞬間」の闘いだからです。「現在」は次々と我々に迫ってきます。それは「瞬間」がやってきていると言えます。そして「光」の感情を抱くか「闇」の感情を抱くのかというのは、これは「瞬間」の問題であって、その「瞬間」に「闇」の感情に「同意」をしてしまうのであれば、我々はそこから「闇」の感情を抱いていくということになってしまいます。逆に、その「瞬間」に「愛」などの「光」の感情を抱くのであれば、我々は「光」の感情を抱いていくことになります。

感情とは、その感情が起こる最初の「瞬間」というのが非常に大事です。一度ある感情を抱くと、その感情とは持続されていくからです。だからこそここでは「瞬間」という言葉が使われています。なぜならば我々が「光」の感情を抱くのか「闇」の感情を抱くのかという闘いは「瞬間」の闘いだからです。

「願う力で叶えられる」とありますが、「願い」とは誰かのために何かを実現したいと思う気持ちです。これを「願望」とも言います。しかし現代の「願望」という言葉の使われ方は乱れてしまっていますから「願い」という言葉で考えた方が、より適切に理解ができます。

本来は「願望」と「欲望」は対の関係性にあります。「願望(願い)」は「誰かのために何かを実現したい」と思うことであるのに対し、「欲望」とは「自分のために何かを実現したい」と思うことです。そして「誰かのために何かを実現したい」と思う気持ちは「愛」によって成立するものであって、そう言った「願い」を抱いて生きているのであれば常に「愛」を抱くことになります。ですから強い「願い」とは強い「愛」を持続させます。

「この瞬間(とき)を今乗り越えていこう」という言葉の後に「願う力で叶えられる」という言葉が並んでいるのは、そういった意味があります。先程も書いたように「この瞬間(とき)を今乗り越えていこう」という言葉の本当の意味は「光」の感情を抱き続けていこう、ということであって「願い」がそれを可能にするということです。もし、そういった「願い」のために何かをし続けるのであれば、生きている間ずっと「愛」を抱きながら生きていくことになります。そうすると、「光」の感情を抱く時間が圧倒的に増え、「闇」の感情を抱く時間が必然的に減りますから、魂は「光」に満ちていきます。

「何のために生きるのか」ということは、我々がどういう感情を持つかということにおいて非常に重要なことです。そして基本的に「自分のため」に生きるか「誰かのため」に生きるかの二択しかありません。この二択のことを考えなくても我々は無意識にそのどちらかを選択しています。そしてその時に「誰かのため」に生きていこうと思うことが「願い」の方向性であって、そういった「願い」を実際に、具体的に、現実的にどういったことを行うことで「誰かのため」になることができるのだろうかと考え、目標などを作ることによって「願い」の力は、より強まっていきます。なぜならば現実感がある「願い」の方が、より我々は努力ができるからです。

「泣いてもいい また明日 笑えるなら」とありますが、「泣く」こととは浄化のためにあります。水は「気」を宿しやすいものであるがゆえに、水は様々な「気」を洗い流してくれます。だから我々は「泣く」とすっきりします。どうして「泣く」とすっきりするかというと、例えば我々が「悲しみ」の中で泣いている時などは、そういった「悲しみの気」を涙が洗い流してくれるからです。我々の感情の原因は「気」です。「悲しい」時というのは「悲しみの気」が我々から多く生まれすぎている時のことを表します。そういった「悲しみ」の原因である、多すぎる「悲しみの気」を涙は洗い流し、我々の悲しみを抑えてくれます。そしてこれは「闇の気」であっても同様です。涙は「闇の気」も洗い流してくれます。例えば「絶望」した時に泣くことなどありますが、それも「絶望」という「闇の気」の浄化を促してくれます。

ですからここで「泣いてもいい」という言葉が置かれているのは「闇の気」や「悲しみの気」の浄化を促すことを意味しています。そして「また明日 笑えるなら」という言葉は文字通りの意味であって「また明日『光』の喜びを感じて生きていけるのなら」ということを意味します。我々には「泣く」という方法が用意されています。これは非常にありがたいことであって、そういった方法を、よく使ってほしいと金星神が中島美嘉に対して思っているからこそ、こういった歌詞を金星神は置いています。

 

「眠れない夜に観ていた映画の」
「ヒロインを自分に重ねて泣いてた」

「眠れない夜」とは「闇の気」をたくさん抱えている夜のことです。「闇の気」をたくさん抱えると我々は眠れなくなります。なぜならばその「闇の気」を司っている悪魔によって眠れないようにされるからです。どうして悪魔が我々を眠らせないかというと、眠ってしまうと我々は「闇の気」の浄化を行ってしまうからになります。睡眠の大きな目的とは「闇の気」の浄化です。ですから眠ると「闇の気」は浄化されていきます。悪魔はその人間を「コントロール」するために、その人間の身体に「闇の気」を入れて溜めていきます。その「闇の気」が抜けていかないように、我々を眠らせないように仕向けてきます。

つまり、「眠れない夜」とは「悪魔から襲われている夜」のことです。「そういった夜に見ていた映画」という歌詞であって、それは「悪魔に襲われている主人公を描いた映画」という意味を金星神はこの言葉に込めています。なぜならば、ここに「ヒロインを自分に重ねて泣いてた」とあるように、中島美嘉自身が悪魔に襲われている人間だからです。

金星神は中島美嘉に、ある映画と自分を重ねてもらうためにこの歌詞を中島美嘉に書かせています。中島美嘉は『4分間のピアニスト』という映画が非常に好きです。ここで言われている「映画」とは、その『4分間のピアニスト』のことを意味しています。また中島美嘉は『ブラックスワン』も好きです。そして『ブラックスワン』も、ここで言われている「映画」のひとつとして位置付けられています。

『4分間のピアニスト』も『ブラックスワン』も、共通しているひとつのテーマは「悪魔に襲われている芸術家」という点です。『4分間のピアニスト』の方は、そのような見方をしなければ、そういった映画であるということにもあまり気付くことができません。『ブラックスワン』の方は、そういった悪魔に襲われていることを一応分かりやすく描いてはいるのですが、日本人の多くはそういった形で『ブラックスワン』を観ることができていません。ですが両者は本質的に同じことを描いている映画であって、悪魔に襲われた主人公が何を経験するのかということを描くために神々が創った映画です。この映画を通して我々は人間が悪魔に襲われると、どのようなことを経験するのかということを学ぶことができます。そういった学びのために神々はこれらの映画を創っています。

中島美嘉は『4分間のピアニスト』と『ブラックスワン』のヒロインと全く同じです。中島美嘉は悪魔に襲われている芸術家であって『4分間のピアニスト』と『ブラックスワン』のヒロインが経験したことと同じようなことを経験してきました。しかし悪魔がどのように中島美嘉に関与してきたかということを中島美嘉が分からない限り、自分が悪魔によってそういったことを経験してきたということを理解することができません。中島美嘉は『4分間のピアニスト』も『ブラックスワン』も好きですが、中島美嘉はその映画の意味をすべて理解しているわけではありません。そして金星神としてはこの二つの映画の非常に細かな点まで中島美嘉に理解してほしいと思っているからこそ、この映画を好きにさせています。そして何よりも中島美嘉が悪魔に襲われている主人公をテーマにした映画を好きになっているという事実が、将来において中島美嘉を助けることになります。

どのようなことが助けに繋がるかというと、ひとつは神々によって何かを「好き」にさせられるという現象が起こるということについて確信を持つことができるということです。自分がとても好きな映画が自分自身について描いているということに確信を持つと、それは誰かによって好きにさせられたということに気付くことになります。そして、神々も悪魔も中島美嘉の何が好きかということに関して関与ができます。中島美嘉がこれから「光」を選んでいく上で、自分が何を好きかということが必ずしも自分自身で決めてきたわけではないということを知ることがとても大事です。なぜならば、自分で好きになったと思うのであれば、その好きなものを否定する事は難しいですが、悪魔によって好きにさせられたということを知るならば、悪魔によって好きにさせられたものを否定することは簡単になるからです。

また、『Over Load』の中で悪魔に襲われた主人公の映画を取り上げることで、中島美嘉が自分が悪魔に襲われてきたということに確信を持つきっかけになります。実際、この歌のPVではこの歌詞が歌われる時にテレビの画面に中島美嘉が何かに恐怖を感じ逃げる映像が映ります。これは中島美嘉が悪魔に襲われているということを意味する映像であって、そのことからここで言われている「映画」というものが、悪魔に襲われた主人公を描いている映画のことを意味していることに確信を持つことができます。

また、『4分間のピアニスト』や『ブラックスワン』の解説を真に書ける人間を信じることにも繋がります。この映画をよく観ると、間違いなく悪魔に襲われている主人公の話です。しかしそういった観点を持っている人間、つまり本当に「気」のことを分かっているシャーマンでなければわからないようにも描かれています。『四分間のピアニスト』『ブラックスワン』についての解説は別で書きます。

この『Over load』という歌は、「光」と「闇」の関係性を伝えるために生まれた歌であって、悪魔に襲われた中島美嘉が、いかにして「光」を再び選んでいくかということを描いた歌です。そして中島美嘉を助けるという役割を持っているのは私です。だからこそ金星神としては私と中島美嘉をつなげるために中島美嘉にこの二つの映画を好きにさせ、そのことを歌の歌詞に残しています。

補足ですが、『ブラックスワン』は2010年公開であって、この歌が発表された2009年当時にはまだ発表されていませんでした。しかし『ブラックスワン』は2007年1月には詳細なアウトラインが既に完成しており、神々はこの映画が悪魔のことを人間に伝える映画として非常に成功した映画になることに確信を持っていました。何故ならば、『ブラックスワン』の監督であるダーレン・アロノフスキーも主演のナタリー・ポートマンも神々と共に芸術を創っている人間であり、彼らが失敗するとは考えられなかったからです。ブラックスワンの制作過程については、ここに書いてあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブラック・スワン

ですから、『Over Load』で言われている「映画」とは、一つは間違いなく『4分間のピアニスト』であって、もう1つは『ブラックスワン』になります。そして、中島美嘉はその2つの映画を金星神の関与によって好きになっています。中島美嘉がこの2つの映画が好きなことはこちらに書いてあります。

http://www.vogue.co.jp/celebrity/interview/2014-02-mika-nakashima/page/2#moveto

ここに書いてあるように、中島美嘉は『4分間のピアニスト』の主人公の気持ちがよく分かります。なぜならば、あの主人公が抱いている感情を中島美嘉は経験しているからです。中島美嘉はあの主人公と同様に、悪魔によって「闇の気」を大量に入れられているからこそ、同じような強い「闇」の感情を経験しています。

私はシャーマンになる直前の時期、中島美嘉のことを理解するために、神々によって悪魔に襲わせられた時期があります。その時は非常に強い「闇」に私自身堕ちていました。だからこそ、中島美嘉が共感する『4分間のピアニスト』の主人公の「爆発しそうな感情」というものが分かります。

『四分間のピアニスト』においては主人公が最後にソロでピアノを弾きますが、悪魔と共に演奏をしています。「怒りの気」と「欲望の気」によって主人公は悪魔にピアノを弾かされています。

『ブラックスワン』においては主人公が悪魔と共に踊る場面が描かれています。「欲望の気」によって主人公は踊っています。

私も悪魔に取り憑かれていた時、悪魔と共に演奏をしたことがあり、その映像も残っています。曲を弾いているのではなく全て即興ですが、悪魔によって何を弾くかを関与されている形になります。「絶望の気」や「欲望の気」で弾いています。イヤホン型マイクを使用しているので、イヤホンやヘッドフォンをしてこの映像を観るとその場にいるような感覚で聴くことができます。ですので、もし聴かれる場合はイヤホンやヘッドフォンをして聴いて頂ければ、と思います。また、この映像を観るとこの演奏を私にさせた悪魔から「闇の気」をもらいますので、聴き過ぎないようにして下さい。

悪魔に取り憑かれた状態において芸術を行なう場合、我々人間は悪魔から「闇の気」をもらい、その「闇の気」が我々に「パワー」をもたらします。そして、その我々が得る「パワー」の代償に、人間は悪魔によって演奏をさせられ、演奏時間以外の時は様々な好ましくない闇の感情を経験させられます。『四分間のピアニスト』の演奏と『ブラックスワン』のダンスと私の演奏動画は当然内容は異なりますが、全てがパワーを持った芸術であることは感じてもらえると思います。このような「パワー」を悪魔は人間に与えますが、そういったことを繰り返していくと、完璧にその人間は悪魔に支配されてしまいます。何故ならば、悪魔と共に芸術をするという行為を通して大量の「闇の気」を悪魔からもらい、その大量の「闇の気」によって悪魔から支配されるからです。

中島美嘉はこの『四分間のピアニスト』の演奏の感情がよく分かります。何故ならば、中島美嘉も悪魔に取り憑かれた状態において芸術を行なったことがあるからです。中島美嘉は身体に大量の「闇の気」を悪魔から入れられているが故に、悪魔からもたらされる強い「パワー」を使って歌うことができます。しかし、その代償に『四分間のピアニスト』と同様に、日常生活の中で様々な「闇」の感情や「闇」の経験をさせられることになります。例えば、中島美嘉が今抱えている耳の病は悪魔からもたらされたものです。

「光」は「ただ与える」のに対し、「闇」は「ギブ&テイク」です。我々が悪魔から得るものに対して、その代償として我々が失うものは大き過ぎます。何故ならば、我々は魂を支配されたり=魂を奪われたり、病気にかかったりする=身体を奪われるからです。中島美嘉の『SUPER WOMAN』の中で以下のような歌詞が歌われます。

「何がそんなに怖いの?たった1つ無くすくらいはなんてことないじゃない! I just wanna some fun」

この歌詞で言われていることは、我々が悪魔と共に働くのであれば、悪魔から魂を奪われるということを意味しています。また、魂を支配されるだけではなくて、悪魔はよく取り憑いている人間を殺します。例えば、映画『ダークナイト』において悪魔と共にジョーカーを演じたヒース・レジャーも、悪魔と共に歌を歌っていたカート・コバーンも悪魔によって殺されています。

長くなりましたが、「眠れない夜に観ていた映画のヒロインを自分に重ねて泣いてた」という歌詞の意味を伝えるためには、『四分間のピアニスト』『ブラックスワン』の話をしなければならず、悪魔に取り憑かれた芸術家が何を経験するのかを書く必要がありました。そして、この説明だけでも全然不十分ですので、『四分間のピアニスト』『ブラックスワン』の解説は別で書きます。この映画の持っている意味を神々は中島美嘉に伝えたいからこそ、この2つの映画を中島美嘉に好きにさせているわけですので、このホームページにおいてはこの二本の映画の解説は書く必要があります。

※自分の悪魔との演奏映像をアップしたので念のため書いておきますが、今は悪魔との縁などは一切残っておらず、神々とだけと共に働いています。このように演奏することもありませんし、こういった「闇」の感情を抱く事も選びません。悪魔に襲われている人間のことを理解するためには、実際に自分も悪魔に襲われない限り分かることはできません。何故ならば、重要なことは経験だからです。こういった文章を読んだからといって、誰かが説明してくれたからといって、悪魔に襲われることがどういったことであるかは決して理解できません。何故ならば、それはただの言葉だからです。中島美嘉のことを理解するために、神々によって、私は悪魔に襲われていただけでなく、悪魔に強く取り憑かれた女性と付き合っていた時期もあります。悪魔に襲われていた時期も、悪魔に取り憑かれていた女性と付き合っていた時期も、非常に最悪な経験をしてきましたが、そのおかげで中島美嘉のことを少しでも理解できる人間に近づく事ができたと思っています。神々としては、私を苦しめることも望みません。しかし、止むを得ずそういったことを行なってきました。何故ならば、神々は中島美嘉を助けたいと強く願っているからです。また、私は中島美嘉と同様に、今世生まれ変わる前に、中島美嘉のために様々な「闇」の経験をすることについて同意をした魂です。だからこそ、神々は私にそういった苦行を与えます。神々がそういったことをいつも人間に行なっているわけではないということは理解して頂けると幸いです。

 

「いつからか」
「一人きりが」
「上手になってた」

「愛」を使うためには、誰かがいないといけません。だからこそ悪魔は中島美嘉を一人きりにしてきました。なぜならば一人であれば「愛」を使う機会を減らすことができ、悪魔のもたらす「闇の気」に共感させやすくなっていくからです。

「光の気」を受け取るためにも、「闇の気」をもらってしまうためにも必要なことは「共感」です。この「共感」無しに、「気」をもらうことはありません。ですから、神々は中島美嘉に「光」の「共感」をしてもらえるような状況を用意しようとし、悪魔は中島美嘉に「闇」の「共感」をしてもらえるような状況を作ろうとします。その大きな一つの要素が「他者と会うかどうか」という点です。

中島美嘉は自身もよく言っているように、一人で家にいることを好むタイプです。元々そういう面もあったのかもしれませんが、悪魔によって、「闇の気」を大量に入れられていく中で、そういった一面を強くさせられた形になります。また、悪魔は中島美嘉の人間関係を徹底的に壊そうと努力をしてきました。なぜならば人間関係が崩れていくということは「愛」が強い魂にとって苦しいことだからです。そして、中島美嘉を「闇」に堕とすために悪魔たちは中島美嘉の持っている関係性を壊してきました。そういったことを経験していくと関係性を持つこと自体が嫌になっていきます。そしてそういった心の動きを利用して中島美嘉に「一人でいたい」と思うようにさせてきた形になります。

そういった意味がこの「いつからか 一人きりが 上手になってた」という言葉に込められています。この「上手になってた」とは、主に「一人きりの時間を楽しむことが上手になってた」ということを意味します。

また、中島美嘉は家に1人でいる時に、本や映画やドラマを観ていることが多いですが、では、どういう本や映画やドラマを観ているかというと、悪魔が創ったものばかりを、悪魔によって観させられています。つまり、「闇」が描かれている作品を中島美嘉は好んで観ています。そういった作品を悪魔によって好きにさせられているからです。例えば、海外ドラマは悪魔が創ったものが非常に多いですが、そういったものをよく中島美嘉は観させられています。

「闇」を楽しむ作品を中島美嘉が観ている時、悪魔達は中島美嘉に強く「闇の気」を送ることができます。なぜならば、「闇」の「共感」を簡単にさせられるからです。例えば、中島美嘉がホラー作品などを鑑賞している時は、悪魔達が「恐怖の気」を中島美嘉に送ります。「恐怖」とは、二つの面を持っており、「嫌悪」の面と「快楽」の面があります。だからこそ我々はお化け屋敷を楽しんだりします。なせならば「恐怖」というものは本質的に楽しむこともできるものだからです。それを現代では「スリルを楽しむ」と言ったりします。そして、中島美嘉は「恐怖」を楽しむ事ができる魂ですし、悪魔にそのように「闇」の教育をさせられてきました。それは、彼女がスカイダイビングやジェットコースターを楽しむことができることに表れています。こういったアトラクションは「恐怖」から得られる「快楽」を楽しむ一つの道具です。また、コンサートで空中ヨガを通してスリルを味わうことも中島美嘉は楽しむことができています。

話が逸れていますが重要なので書いておくと、この空中ヨガを使っていた2015年のツアーは本当に危険なもので、悪魔としては中島美嘉に怪我をさせるつもりでした。場合によって殺していたかもしれません。実際中島美嘉も公演中にヒヤッとした経験をしています。我々はいつも自分の身体全部を完璧に意識できているかというとそうではありません。そして、我々の無意識の部分に神々も悪魔にかなり関与されながら、我々は生きています。例えば、良い癖は神々によってやらされており、悪い癖は悪魔にやらされています。

そして、「闇の気」が入った人間の意識に悪魔は簡単に関与できるので、悪魔はこういった危険なことを中島美嘉が行なっている時に簡単に事故を起こせます。ですから、金星神はこの空中ヨガの間全力で「気」を送りながら中島美嘉を守っていました。悪魔に襲われた人間がよく悪魔に殺されることがあるという話を先程書いたので、この話もここで書いておきたかった形になります。

また、この公演は当初ここまで空中ヨガの高さを出すつもりはなかったようなのですが、悪魔がこの公演の関係者に関与したことにより、高さを上げています。このように、中島美嘉の周りの人間にも悪魔は関与することで中島美嘉に最悪な経験をもたらそうとします。このことも『ブラックスワン』の話と非常に近い話なのでここで書いておきます。

ちなみに、この空中ヨガ中、『CANDY GIRL』が歌われていますが、その歌詞の中に「孤独な夜の中では 危険な賭けもできるから」という歌詞があります。「孤独な夜の中では」とは、「闇の気」が強まった状態を表します。何故ならば、昼が「光」であるのに対して、夜は「闇」の時間であり、「光」は「愛」が故に「孤独」ではなく、「闇」は「愛」が無いが故に「孤独」であるからです。そういった意味で、「闇の気」が強くなると、「危険な賭けもできる」=「スリルを楽しむことができる」という意味を持った歌詞です。どうして、「闇の気」が強くなると危険な賭けもできるかというと、悪魔がそれをやらせやすくなるからです。「闇の気」が増えると「恐怖の気」からもたらされる「快楽」が増えます。そういった「餌」と引き換えに、悪魔は中島美嘉から何かを奪おうとし、神々はその悪魔の手から徹底的に中島美嘉を守っていました。

その一連のやり取りを悪魔は楽しんでいます。何故ならば、神々にとって中島美嘉が如何に大事な人間であるのかということを悪魔はよく分かっているがために、少しでも中島美嘉に危険な目を遭わせるのであれば、神々としては気が気ではないからです。中島美嘉も気付いていないレベルで、この空中ヨガ中の中島美嘉の身体を通して、金星神と悪魔は「気」で戦い合っています。悪魔は神々を苦しめることも楽しむ魂です。だからこそ、この空中ヨガのことは悪魔にとってはとても面白いものであり、だからこそこれを中島美嘉にやらせた形になります。

随分脱線してしまい申し訳ないのですが、重要度が高い話だったのでここで書いておきたかった形になります。



「次の週末まで乗り切れるのは」
「愚痴も恋愛も聞いてくれる様な」
「変わらない」
「友達が」
「元気くれるから」

中島美嘉にとって週末は関係ありません。つまりここで言いたいのは「次の休みまで」ということであって、どうしてここで「週末」という言葉が置いてあるかというと一般の方が共感しやすいような形で描かれているからです。そういった「休みの日」まで「乗り切れるのは 愚痴も恋愛も聞いてくれる様な 変わらない 友達が 元気くれるから」と言っているわけであって、中島美嘉にはそういった友達がいます。そしてそういった友人が中島美嘉を支えてくれているのは事実であって、ここではそういったことが描かれています。ただ「愚痴も恋愛も聞いてくれる」友達であっても全てを話すわけではありません。

どうして金星神がこの歌詞を置きたかったかというと、友人というものは「光」を実践していく上で非常に大事だからです。なぜならば「光」の立場とは「愛」の立場であって関係性を非常に大事にするからです。そしてそういった大事な関係性が多くあればあるほど、またそういった大事な人たちと多くの時間を過ごせば過ごすほど「愛」は強くなっていきます。中島美嘉が「愛」を選んでいく上で、つまり「光」を選んでいく上で非常に重要な要素であるからこそ、ここにこの歌詞が書かれています。

 

「大人になって気付いたのは」
「大人になんてなれない事」
「夢は 消えない」

我々は本来皆「子供」です。何故ならば、「大人」というものは人間が作ったアイデアに過ぎないからです。「子供」と「大人」の区別などというものは本当はなく、我々は生まれてから死ぬまでずっと「子供」であるべきです。何故ならば、「大人」という考え方は人間が創ったアイデアであるからこそ、生き方として不自然であって、不自然な生を生きていると「光」は実践しづらくなります。なぜならば、「愛」とは作られた自分=不自然な自分から生まれるものではなくて、自然な自分から生まれるものであるからです。

この歌詞においては、そういったことが表現されています。我々が「大人」になっていく時、我々はどういうことが行うかというと、「大人」というイメージに自分自身を重ねていくということを行います。そしてこれは我々に対するひとつの「呪い」となります。なぜならば、自分を変形させて、ある別の存在に作り上げてしまうからです。ですから「大人になる」ということは魂にとって非常に悪影響が出ることであり、悪魔が人間に創らせたひとつのアイデアでもあります。

「大人」とは自分の心に従いづらい存在です。なぜならば「大人」というイメージ自体がそういった要素を抱えているからです。「大人」だからこれをしなければいけない、「大人」だからこういう風に振舞わないといけない、という形でどんどん魂を「不自由」にしていきます。そして魂にとって「不自由」とは極めて「闇」に寄りやすい状態です。なぜならば、我々は「自由」の方が心地よく、「不自由」は居心地が悪いからです。そして、居心地が悪いと我々は「嫌悪」という「闇」の感情を抱いていきます。ですから自分を「大人」に重ねていく、自分が「大人」になっていくことととは、魂が「闇」を抱えやすくしていく過程でもあります。「大人」という言葉については詳しくはこちらに書いています。

http://junashikari.com/word/「大人」について/

そして、ここでどうして「夢は消えない」という言葉があるかというと、「夢」とは中島美嘉の金星神が創った楽曲においてはいつも「光の夢」=「愛の夢」のことを表していて、そういった「光の夢」とは子供であれば目指し続けることができるものだからです。大人になっていくと自分の心に従わなくなっていきます。そして自分の「夢」とは、自分が本当に自分の心に従った上で生まれてくるものであって、そういった本当の自分を維持していないと目指すこともできなくなります。

だからこそよく起こるのが、自分の「夢」を諦めて、自分がやりたくない仕事を始め、「大人」のイメージに自分を重ねていき、そこで自分の抱いていた「夢」に対するモチベーションさえなくなっていくという現象です。どうして「大人」になっていくと「夢」を実現したいとも思えなくなるかというと、大人になると「闇の気」を多く抱えやすくなるものであり、「闇の気」を多く抱えていくと「光の夢」というものをやりたいと思えなくなるからです。なぜならば「光」と「闇」とは矛盾し合う関係にあるからです。それを具体的にいうと、悪魔が我々に「光の夢」をやってほしくないと思っているからこそ、我々の「夢」に対するモチベーションを下げているというおとです。そういった悪魔の狙いの中で、我々は「大人」になっていく過程で「夢」を実現したいと思えなくなっていきます。そういったことをここでは伝えたいからこそ金星神はこの歌詞をここで置いています。

補足ですが、「大人」になっても「欲望の夢」に対するモチベーションは維持できます。「光の夢」とは「愛の夢」のことであって、「誰かのための夢」のことです。「欲望の夢」とは「自分のための夢」であり、悪魔としてはそのような動機で動く人間に関してはモチベーションを下げる必要がありません。何故ならば、その人間が「欲望」の気持ちで動いている限り、その人間に悪魔が関与し続けることは可能であるからです。その過程の中で、その悪魔自身にとって都合のいいようにその人間を動かしていきます。

金星神は中島美嘉の楽曲において本当によく「大人」と「子供」の違い、そして「光の夢」について歌っています。なぜならば金星神がそれを最重要と考えているのであって、どうして最重要だと考えているかというと、「大人」という問題も「夢」という問題も我々日本人にとって誰もが経験する問題だからです。

 

「少し遠回りして僕ら」
「強く優しく今生きて行こう」
「恥ずかしい事なんてないさ」
「つまずいて」
「転んだって」
「立ち上がれる」

「少し遠回りして僕ら」という言葉の意味は中島美嘉が一度「闇」に堕ちるということです。そしてその上で「光」を実践していこうということが「強く優しく今生きていこう」という言葉に込められています。そして「恥ずかしい事なんてないさ つまずいて転んだって立ち上がれる」という言葉は中島美嘉が今までしてきたことや、これからすることのすべてが重要だからです。今までの中島美嘉が経験してきたことは、我々が神々や悪魔のことを理解する上で非常に重要な資料となります。そしてこれから中島美嘉がどういったことを経験していくのかということも我々にとって非常に重要な資料となります。だからこそ、そこに恥ずかしいことなどひとつもなく、むしろすべて意味があることばかりです。そういった意味を込めた歌詞ですし、純粋にこの言葉通りに「どんなに転んだって躓いても一緒に頑張っていこう」という金星神の中島美嘉に対する語りかけでもあります。

 

「胸に詰め込みすぎて」
「自分追い込みすぎて」
「苦しい日々も」
「無駄なんかにはしない日がくるから」

ここで言われている「胸に詰め込みすぎて 自分追い込みすぎて 苦しい日々」というのは悪魔に襲われてきた時代のことです。そしてそういった日々を「無駄なんかにはしない日がくるから」と金星神が中島美嘉に語りかけていることを表しています。これは本当にその通りであり、中島美嘉が悪魔に襲われてきたことはこの地球にとって必要だったからです。ですから当然無駄などではなく、とても重要であって、中島美嘉はこの33年間の間にこの星のために真に貢献しています。そしてそういう「無駄なんかにはしない日が来るから」と言っているということは、中島美嘉が「光」を選び、中島美嘉が人生の中で経験してきたことの意味を知る日が来るということです。そしてこのホームページに書かれてある中島美嘉についての文章自体がそういったことを促すためにあります。

 

「光り輝くために僕ら」
「この瞬間(とき)を今乗り越えていこう」
「願う力で叶えられる」
「泣いてもいい」
「また明日」
「笑えるなら」

「少し遠回りして僕ら」
「強く優しく今生きて行こう」
「恥ずかしい事なんてないさ」
「つまづいて」
「転んだって」
「立ち上がれる」

この歌詞がこの歌において二度歌われているのは、この歌詞が大事だからです。内容は上に説明したことと全く同じですが、金星神が中島美嘉と共に「光」を実践していくことを願っている歌詞であって、そのための方法を中島美嘉に教えている歌詞でもあります。

この歌の解説は様々な重要事項を説明する必要があったために、この歌の解説からは少し逸れてしまった部分もありますが、この歌の本質的な意味は金星神からの中島美嘉に対する語りかけです。中島美嘉が自分自身について理解するためにも、様々な根拠をこの歌詞の中に金星神は残しており、中島美嘉が「光」を実践するためにどのようなことをしていく必要があるのかということも金星神は教えています。

そして、そういったことはPVにおいても表現されていますから、以下PVの解説を書いていきます。

 

【PV解説】 

このPVにおいては、中島美嘉と金星神の二人が登場します。前半は中島美嘉が悪魔に襲われている様子が描かれていますが、そのことを「闇の気」が迫ってきたり、出口のない場所を逃げ惑う姿で表現しています。それに対して、金星神は「金の気」に満ちた場所の中で歌い、中島美嘉を導こうとしています。

そして後半になると、中島美嘉から「金の気」が出始め、そうすると中島美嘉と金星神が共に歌い始めます。これは、中島美嘉が金星神に「共感」をするということを表現した映像です。つまり、金星神が中島美嘉を導いている様子です。

そして、最後は氷の球体(「水の気」)が金の中から現れ、その氷の球体が悪魔の支配から中島美嘉を救います。その様子を、蜘蛛の巣や中島美嘉がいる部屋が崩れることに表現しています。それが終わった後は、金星神が最後まで歌う形でこのPVは終わります。

以下、このPVの流れや様々な要素をより詳しく説明していきます。このPVはどの歌詞を中島美嘉と金星神のどちらが歌っているかということも非常に大事であって、非常に細かくできています。


[このPVの流れについて]

冒頭中島美嘉が「闇の気」の強い部屋にいる様子が描かれます。実際に「闇の気」が迫ってくる様子も描かれます。

「闇の気」とは悪魔が司っている「気」ですから、「闇の気」に迫られていることとは悪魔から襲われていることを意味します。こういった「闇の気」を摂取するとどのようになるかというと、「欲望」「恐怖」「怒り」「嫌悪」「優越感」「劣等感」といった「闇」の感情を抱きやすくなり、感情だけではなく思考も悪魔に関与されやすくなります。何故ならば「気」が感情と思考の原因であるからです。そういったことについてはこちらに詳しく書いています。

http://junashikari.com/energy/

また、「闇の気」が迫ってくる様子だけではなくて、靴がベッドの周りに置いてあることからも中島美嘉が「闇の気」に満ちた場所で生きていることがよく分かります。靴とは「闇の気」に満ちたものです。なぜならば、我々は足の裏から「闇の気」を出すということをいつも行っているからです。ですから自分が寝る場所であるベッドの周りに靴がたくさん置かれているという状態は、これは非常に好ましくない状態です。なぜならば靴から「闇の気」をもらいながら寝てしまうからです。靴についてはこちらに詳しく書いています。

http://junashikari.com/日常生活について/靴について/

中島美嘉がそういったことも悪魔にさせられているということを表現するためにもこのPVはこういった描き方をしています。実際、中島美嘉は部屋に靴を飾ったりもしますが、これは「闇の気」を非常によく吸うような行為であって、そういった行為を悪魔によって知らず知らずのうちにやらされています。

中島美嘉は冒頭「闇の気」をじっと見つめていますが、そういった「闇」との同調を、「闇の気」を見る中島美嘉を映像として表現することで描いています。何故ならば、見るという行為は「気」の摂取の1つの方法であるからです。

悪魔からの「闇の気」を身体に抱えながら生きていると、知らず知らずの内に自分の首を絞めるようなことをしてしまいます。何故ならば、現代の人間は「気」の観点を忘れているが故に、こういった罠に気付かないからです。

そして、こういった状況の中で以下の歌詞が歌われます。

「地下鉄の波に夢がのまれてく」
「繰り返しの日々に疲れ果てている」
「また今日も」
「同じ靴で」
「同じ道を行く」

このPVは地下鉄という「闇の気」に満ちた場所で撮影されているわけではないですが、同じように「闇の気」に満ちた場所を実際に「闇の気」を映像として表現することや、ベッドの周りに靴を並べることで表現しています。また、この映像から逆に、この歌詞の意味が「闇の気」のことを意味している歌詞であることがよく分かります。このようにして、神々は歌詞の意味を真に我々に伝えるために、PVでその歌詞の持つ本当の意味を映像として表現しています。

そして太陽の方向を見ると「光の気」に包まれるような描写があります。

これは何を意味するかというと太陽のもたらしている「光の気」のことです。この「光の気」の映像の部分では

「空さえ飛べる気がしたあの頃」
「不安なんてまだ一つもなかった」

という歌詞が歌われます。ですから、この映像から逆に、この歌詞の内容が「光の気」によってそういった「光」の感情を抱いていたということを意味していることが分かります。つまり、中島美嘉が以前は「光の気」をもっと抱えていて、今よりも「光」の感情をよく抱いていたということを表現しています。

そして部屋を出ると迷路のような場所に入ってしまいます。これは一体なにを表現しているかというと逃げ場のない世界です。中島美嘉は悪魔に襲われることによって非常に苦しい状況を多く経験してきました。そして逃げ場のない状況というものも悪魔によってよく用意されてきた形になります。

悪魔に襲われると自分の感情を抑え切れなくなったり、理由も分からず気分が堕ちてしまうものですが、そういった心の問題とは「気」の問題です。現代は「気」の観点を忘れているが故に、解決策が見当たりません。このような意味で解決策が見つからないということを出口の無い世界で描いています。

また、悪魔は現実的にどうしようもない状況を用意してきます。その1つが中島美嘉が抱えている耳の病などです。歌手であるのに耳の調子が悪く、そういった状況でありながら歌わないといけないという状況は非常に恐ろしい状況です。中島美嘉は様々な西洋医学の医者に耳の病気を治してもらおうと試みていますが、成功することはありませんでした。そういった現実的に解決策のない問題も出口のない世界を描くことで表現しています。

悪魔は中島美嘉がデビューした頃から中島美嘉の耳を攻撃することは決めており、実際に中島美嘉の耳に集中的に「闇の気」を入れることで耳管開放症という病を引き起こしています。中島美嘉が歌っている楽曲の中には悪魔が創った楽曲もありますが、その1つである『RESISTANCE』の中に以下の歌詞があります。

「歌えなくなった女はその理由を探しまわる」
「闇を行く人の群れにつぶやく声もとぎれてた」

この『RESISTANCE』という曲は「抵抗」という意味を持ったタイトルであって、悪魔の神々に対する「抵抗」を意味している楽曲です。そして、「歌えなくなった女」とは中島美嘉自身のことであって、この歌が発売された2002年当時から悪魔は中島美嘉の耳を狙っていたということが分かります。悪魔が神々に対して行なおうとしてきた「抵抗」の1つが中島美嘉の耳に病を植え付けるという方法であって、実際にその「抵抗」は行なわれました。

そして、ここで「闇を行く人の群れにつぶやく声もとぎれてた」という歌詞がありますが、これは人間が「気」の観点を失っていることを表す歌詞です。誰も何故中島美嘉の耳が悪くなったのかという根本的な原因は分からないという状況を描いています。ですから、この出口の無い場所を彷徨う映像とは、『RESISTANCE』の「闇を行く人の群れにつぶやく声もとぎれてた」ということを表現している映像でもあります。

中島美嘉は本当に地獄のような経験をしてきた人間であって、この『Over Load』のPVではそういったことを描くためにこういった迷路のような場面を描いています。自分が最悪な状況に置かれることや原因不明で気分が堕ちてしまったり乱れてしまったりすることは本当に出口の無い迷路に入るようなものです。私も見えない力によって、様々な地獄を経験してきたからこそ、そういった苦悩のことはよく分かります。

こういったことは経験無しには理解できることではありませんが、それを映像として表現する事で我々は少しはその精神状態を理解することができます。我々日本人は中島美嘉の経験してきた状況を理解するためにこの映像を観るべきだと思っています。

そして金星神が中島美嘉に対して歌い始めます。このタイミングも緻密に計算されています。冒頭の

「地下鉄の波に夢がのまれてく」
「繰り返しの日々に疲れ果てている」
「また今日も」
「同じ靴で」
「同じ道を行く」

「空さえ飛べる気がしたあの頃」
「不安なんてまだ一つもなかった」
「心から」
「笑えたのは」
「いつが最後だろう」

の部分は中島美嘉が歌っています。なぜならば中島美嘉が主語で歌われている歌詞だからです。それに対して、ここでは歌われる歌詞は以下の歌詞であって、金星神が主語で歌われるべき歌詞です。

「光り輝くために僕ら」
「この瞬間(とき)を今乗り越えていこう」
「願う力で叶えられる」
「泣いてもいい」
「また明日」
「笑えるなら」

この歌詞は金星神の中島美嘉に対する語りかけの歌詞です。だからこそ、金星神が歌っています。そして、これは現実的にはどういうことを意味するかというと、金星神が「気」を中島美嘉に送ることによって、中島美嘉がこういった発想や考えを持つことを意味します。我々は自分が抱く発想や考えが全て自分が作ったと思ってしまっていますが、実際は神々も悪魔も我々の思考や発想にかなり関与しています。

この歌詞を書いたのは中島美嘉自身であって、この歌詞は金星神からの言葉を金星神からの「気」を中島美嘉が受け取ることによって書いています。ですから、中島美嘉が金星神の「気」を受け取りながら生きていることは、中島美嘉の日常においても同様であって、日常的に中島美嘉の心の中には金星神からの思考や発想も多く生まれています。それは金星神が中島美嘉に「気」を通して語りかけているからであって、そういった語りかけの様子を映像として表現しています。

神々が「気」を送る時、「気持ち」で送ります。何故ならば、「気」を作るためにはその「気」の「気持ち」を持たないといけないからです。そもそも、「気持ち」という言葉自体が「気を持つ」と書いてあるように、我々は自分の魂で「気」を作ることによっても自分の「気持ち」を作っています。それは神々も同様であって、神々はより「気」を強く操っている存在です。

金星神が中島美嘉にいつも送っているのは「金の気」ですが、「金の気」を金星神が中島美嘉に送るためには金星神が中島美嘉に対して「金の気」の感情である「愛」を抱く必要があります。ですから、この映像では金星神の中島美嘉に対する「愛」を、中島美嘉に金星神が歌いかける様子によって表現しています。

(この点は初期の段階では読み飛ばしてほしいのですが、「気持ち」の持ち方について厳密に書きます。我々人間の魂は身体という物体に宿っており、物体には様々な「気」が宿ることができます。だからこそ、我々は自分の魂で「気」を作ることだけによって「気持ち」を抱いているわけではなく、様々な「気」が我々に宿ることによっても「気持ち」を抱いています。そして、我々に様々な「気」を宿しているのが神々や悪魔です。それに対して、神々や悪魔は物体ではありません。ですから、様々な「気」が外部から自分に宿ることはなく、自分自身の魂で「気」を作ることで「気持ち」を抱いています。どうして我々人間が物体に宿っているかというと、神々や悪魔と比べて我々はまだ未熟な魂であるからこそ、自分自身だけの力で様々な「気」を作る能力が低いからです。自分自身で「気」を作り、「気持ち」を抱く能力が低いからこそ、神々や悪魔から「気」をもらいながら「気持ち」を抱き、その中で、自分が「光」と「闇」のどちらを選ぶのかを決めている段階です。そして、その過程において魂を進歩させている段階になります。我々人間は様々な「気」「気持ち」について学んでいる立場になります。「我々人間は様々な感情を学ぶために生きている」と言うと分かりやすいと思いますが、その背景にはこういった「気」と身体という物体の関係性があります。)

金星神は「金の気」に包まれて描かれています。また装飾品も金ですし、いる場所は「金の気」に満ちた星である金星なのでここで描かれる世界も「金の気」に満ちています。またここで中島美嘉が着ている服も金星神が着ている服と似ていて金星神はノースリーブを着ています。

また、金星神は円形の中にいますが、正円とは「光」を表す図形です。それに対して正四角形とは「闇」を表す図形です。こういったことも金星神は意図してこのPVの制作に関与しています。このことについては後で詳しく書きます。

そして歌詞解説でも書きましたが、「眠れない夜に観ていた映画のヒロインを自分に重ねて泣いてた」と歌われる場面で、中島美嘉がテレビの画面に映っています。これは悪魔に襲われている芸術家を主人公にした映画である『四分間のピアニスト』『ブラックスワン』のヒロインと中島美嘉が全く同じ事を経験していることを示しています。

この歌詞を歌う時に、左右対称で中島美嘉が現れる描写がありますが、これもまたそのヒロインと中島美嘉が同じであるということを示すための映像です。

「大人になって気付いたのは」
「大人になんてなれない事」
「夢は消えない」

という歌詞が歌われる部分で、中島美嘉の腕から「金の気」が生まれる様子が描写されます。どうして、この場面で「金の気」が生まれているのかというと、金星神からの「金の気」を受け取っているからです。では、どうしてこの歌詞が歌われている時から金星神から「金の気」を受け取る事に繋がっているかというと、この「大人になって気付いたのは 大人になんてなれない事 夢は消えない」という歌詞の内容自体が金星神からの中島美嘉に対する語りかけの内容だからです。中島美嘉が金星神からのこの内容に「共感」をしているからこそ「金の気」を受け取るに至っています。

また、金星神が中島美嘉に「気」を送る事によって伝えている発想だからこそ、ここで「気付いた」という言葉が使われています。「気付く」という日本語は「気」+「付く」と書きますが、神々から「気」をもらうことによって教えられている状態を表す言葉です。我々は自分自身の力で何かにふと気付くことはできません。何故ならば、気付こうと思って気付くことはできないからです。「気付く」という現象は我々が起こすことではなくて、起きるものであるからこそ、我々の「意志」を越えています。

また、金星神はいつも「大人」という言葉の問題を中島美嘉の歌の中に取り上げています。そういった観点からも、この歌詞が金星神からの語りかけを意味していると言えます。

だからこそ、それ以降の部分は二人で歌うようになります。中島美嘉が金星神からの「金の気」に「共感」するからこそ、二人で歌うことに至ります。中島美嘉が金星神からの「金の気」で歌うということをここでは、二人が一緒に歌うという映像で表現しています。

そして二人で歌っているその歌詞とは

「少し遠回りして僕ら」
「強く優しく今生きて行こう」
「恥ずかしい事なんてないさ」
「つまずいて」
「転んだって」
「立ち上がれる」

という歌詞であって、この映像から逆にここで「僕ら」と言われているのが中島美嘉と金星神であるということが分かります。

また、中島美嘉と金星神が歌っている時に、「金の気」に包まれた状態から氷の球のようなものが生まれ、中島美嘉がそれを見つめる様子が描かれます。このことの意味は後で書きます。

「胸に詰め込みすぎて」
「自分追い込みすぎて」
「苦しい日々も」
「無駄なんかにはしない日がくるから」

という歌詞は中島美嘉だけが歌います。これはどういうことを意味するかというと、中島美嘉がどういう役割を背負っていて、今までの日々にどういう意味があったのかということを受け入れるということを意味します。

「胸に詰め込みすぎて 自分追い込みすぎて 苦しい日々」とはこのタイトルの「Over Load」の内の「Load(重荷)」に相当します。そういった日々が無駄ではなかったということに中島美嘉が気付くためには、そういった日々の意味を中島美嘉自身が受け入れる必要があります。つまり、中島美嘉が自分自身の人生の役割を受け入れる必要があります。

そういった受け入れが行なわれていることを、中島美嘉が一人でこの歌詞を歌うということに表現しています。金星神と共に歌うのであれば、それは金星神が「気」で関与していることになりますが、中島美嘉自身が一人で歌うということはこの歌詞の内容が中島美嘉の言葉となっているということを意味します。そして、自分の言葉となるためにはその言葉を受け入れている必要があるので、こういった構造から逆に中島美嘉が自分の人生の役割に気付き、そのことを受け入れているということをこの映像で表現しているということが分かります。

そして、この歌詞が歌われた後に、氷の球のようなものが蜘蛛の巣を突き破り、中島美嘉がいる「闇」の場所を崩れさせます。これは中島美嘉が悪魔の支配から救われることを意味します。

見えづらいですが、氷の球のようなものが蜘蛛の巣を突き破っています。

どうして蜘蛛の巣と「闇」の部屋が掛けて表現されているかというと、蜘蛛とは「闇」の虫であって悪魔の象徴だからです。そういう意味があって、蜘蛛の巣と悪魔の「闇の気」に満ちた部屋を掛けて表現しています。

では、この氷の球のようなものとは何かというと、浄化の象徴である水のことを表すものです。水とは「気」を洗い流す力があり、だからこそ浄化の象徴です。中島美嘉が悪魔からの支配を終わらせるためには、彼女の身体に溜まっている「闇の気」を浄化する必要があります。また、中島美嘉と悪魔の間にある縁を切ることを行なう必要があります。そういったことを氷の球で表現しています。そして、これは具体的に書くと「水の気」のことを表しています。「水の気」について詳しくは後で書いています。

中島美嘉が自分の人生の役割に気付き、それを受け入れるためには、誰かが教えなければなりません。その役割を担当しているのが私であって、中島美嘉を悪魔の関与から助ける役割を持っているのも私です。そして、私は水の人です。中島美嘉が金星神と共に働いているのは、中島美嘉の魂が「金の気」の多い魂だからです。それと同様に、私は魂に「水の気」が多い魂であって、中島美嘉と同様に神々と共に働いています。私が水の人である事に関してはこちらに書いています。

http://junashikari.com/profile/芦刈純プロフィール/

中島美嘉はこの浄化のプロセスの直前に振り返って誰かを見ます。中島美嘉が振り返って見ている先にいるのが私という形になります。つまり、氷の球のようなものは私自身を意味しています。

先程説明しませんでしたが、どうしてこの「水の気」が「金の気」から生まれているような描写があるかというと、私自身金星神に支えられながらシャーマンになっているからです。金星からの「金の気」が地球に降り注ぎ始めたのは2012年12月であって、私はその後に旅人になりながら世界を放浪する中でシャーマンになりました。その旅の過程で非常に運命的な出会いは数多くあり、その出会いは神々によってもたらされてきました。

「金の気」が降っているからこそ、神々は私と出会わせたい人間と私を出会わせることができてきました。そして、その過程の中でシャーマンという人生の役割に気付いています。つまり、私は金星神の導きのおかげでシャーマンになっています。この「金の気」から「水の気」が生まれる映像はそういった私の状況を映像として表現しています。

ですから、私をシャーマンにすることによって中島美嘉を助けようと当時から神々が計画していたことがよく分かります。というか、中島美嘉と私がいつか関わるということは我々が生まれる前から神々は計画しており、だからこそ、私の誕生日と中島美嘉のデビュー日は同じ11月7日にしています。

中島美嘉が悪魔の支配から助けられた後は金星神のみが歌います。

そしてこの歌詞が歌われます。

「光り輝くために僕ら」
「この瞬間(とき)を今乗り越えていこう」
「願う力で叶えられる」
「泣いてもいい」
「また明日」
「笑えるなら」

「少し遠回りして僕ら」
「強く優しく今生きて行こう」
「恥ずかしい事なんてないさ」
「つまずいて」
「転んだって」
「立ち上がれる」

これは一体何を意味するかというと、時間がこの曲が生まれた2009年現在に戻っていることを意味します。何故ならば、悪魔の支配から逃れた時のことを意味するのであれば、金星神と中島美嘉は一緒に歌っているはずだからです。

このPVにおいて基本的に描かれているのは中島美嘉の未来です。まだ中島美嘉は悪魔の支配から逃れることができてはいない状態だからです。そういった未来の映像を映し出した後に再び2009年現在に戻すことによって、2009年当時「これからも共に頑張っていこう」という意味を込めて金星神が中島美嘉に歌いかけている様子を表します。

2009年以降も中島美嘉は悪魔によって多くの苦悩を経験しています。そういった苦悩を乗り越えていこうということを最後に金星神は中島美嘉に歌いかける形でこのPVは終わっています。

 

[気の描写について]

このPVの重要な要素は「気」の描写です。そのことについてだけここで説明します。

このPVにおいては、実際に中島美嘉に悪魔からの「闇の気」が迫ってくる様子が描写されています。神々は「光の気」を司っており、悪魔は「闇の気」を司っていますから、「闇の気」に迫られているということは悪魔に襲われていることを意味します。

そして「光の気」の1つが太陽の光です。だからこそ、我々は太陽を浴びていると「気分」が良くなります。感情の原因は「気」です。「気分」とは「気を分ける」、「気持ち」とは「気を持つ」と書きますが、どうして太陽を浴びていると「気持ち」がいいのかというと、太陽からの「光の気」を受け取るからになります。

このPVにおいては「光の気」のことも映像として説明してあります。中島美嘉が窓の外の光を見つめ、その光に手をかざすと光に包み込まれる描写です。これは「光の気」のことを映像として表現しています。

そして、「闇の気」が黒の煙のように描写されていたのに対して、「光の気」は輝いた美しい形をしています。このPVにおいては複数の「光の気」が表現されており、この「光の気」は太陽からの「光の気」なので、「火の気」です。

太陽系とは、「水・火・風・土・金の気」の5つの「光の気」を地球に供給するためのシステムです。太陽・火星は「火の気」、水星・海王星・天王星・冥王星は「水の気」、金星は「金の気」、土星は「土の気」、木星は「風の気」を地球に与えており、我々はそれらの「光の気」から影響をもらいながら生きています。太陽系の成り立ちについてはこちらに詳しく書いています。

http://junashikari.com/solar-system/太陽系について/

太陽系がどうしてこのような形なのかということには理由があります。その理由が地球上に降り注ぐ「光の気」を整えるということです。そして、それらの星からどれだけの「光の気」をどのように与えるのかということを決めるために、それらの星には神々が宿っており、その一人が金星神であって、中島美嘉は金星神と縁で繋がっています。

科学的知識だけであれば、太陽系が何故このような形で成立しているのかを解明することは不可能です。神々が存在する事は太陽からの「光の気」を感じるだけで知ることができます。ですから、神々は存在し、太陽系は神々が創ったはずです。そして、神々が無意味にこのような形で太陽系を創るわけがありません。そこには必ず理由があるはずであって、その理由が「気」になります。

このPVにおいて、「火の気」の次に登場するのは「金の気」です。「金の気」は非常に分かりやすく金色です。

この「金の気」の映像の後に金星神が歌い始めることから、この金色の存在が「金の気」であると間違いなく言えます。また、発展系の話なので、ここは今は流しておいて頂きたいのですが、「火の気」と「金の気」は似ています。だからこそ、ここで「火の気」に金色が混ざり込むような形で「金の気」に変化していっています。

そして、もう1つの「光の気」とは「水の気」です。

ここでは、氷のような形で描いてあります。どうして球体で描いているかというと、正円とは光の図形であり、球体とはどこから見ても正円であるが故に「光」の形であるからです。図形については後で説明を書きます。

水という液体は「水の気」によって成り立っている物体です。そして、水とは我々の浄化を促します。例えば、我々はシャワーを浴びるとスッキリしますが、それは水によって身体に付いていた「闇の気」が浄化されるからです。

このPVにおいて、中島美嘉はこの「水の気」をきっかけに悪魔の支配から救われるということを描いています。何故ならば、「水の気」自体に浄化の役割があるからです。この「水の気」が蜘蛛の巣のようなものに当たり、その蜘蛛の巣を壊すと同時に、「闇の気」に満ちた部屋も崩れていきます。

このような形で、このPVにおいては「金の気」「火の気」「水の気」の三種類の「光の気」と「闇の気」が描かれています。「気」は通常見えるものではなく、こういった形で見える形で「気」が表現されている映像とは非常に価値があるものです。また、このPVを創った映像作家も「気」のことを表現しようとしてこういった映像を創ったわけではないはずです。だからこそ、神々がこの映像を創っていると言う事ができ、我々が「気」を視覚的に学ぶ上で非常に重要な資料です。

 

[図形について]

金星神が円形の場所にいることや「水の気」が球で描かれていることは、円という図形が「光」の図形であるからです。以下、図形の基本法則である円と正四角形について説明していきます。

神々と悪魔には厳密なルールがあります。その1つのルールがどういった形が神々のものであって、どういった図形が悪魔のものであるかということです。そして、図形に関して基本的なルールが、正円が「光」であるのに対して、正四角形が「闇」であるということです。

だからこそ、虹は正円の一部を切り取ったような形ですし、空に時折出る日暈は正円をしています。虹や日暈は神々が創っているものだからこそ光のものであり、だからこそ神々の図形である正円で創られます。

また、随分前に六本木に悪魔がかなり移動した時がありましたが、その時は空に正四角形が現れていました。雲もまた「気」によって成り立っているものだからこそ、そこだけ「気」が異質だと、雲の形に反映されます。ここでどうして正四角形が出たかというと、悪魔が「闇の気」で通路を作っていたからになります。

また、正四角形が悪魔の図形であることは、中島美嘉が出演していた『Kate』のCMにも表現されています。

『Kate』のCMは悪魔が創ったものであって、神々を挑発するために生まれたものです。Kateのキャッチコピーは「no more rules」ですが、この英語は「ルールなどない」という意味です。では、ここで言われている「ルール」とは何なのかというと、「気」のことを表しています。何故ならば、我々にとって「気」とは生の「ルール」そのものであるからです。

人間が「気」のことを忘れたが故に、人間が悪魔にいいように遊ばれていることを「もう人間は気なんて忘れてるぜ。笑」と悪魔が面白おかしく表現したのがこのキャッチコピーであって、こういったキャッチコピーを使う事により悪魔は神々を挑発しています。悪魔とは神々に対する挑発を楽しむものです。何故ならば、「闇」に満ちた魂にとって挑発とは面白いものだからです。

そして、この『Kate』のCMは悪魔が様々なルール説明を行なっています。どうして悪魔がこのようなことを行なったかいうと、これも悪魔の神々に対する挑発です。ルール説明をしている様々なCMを悪魔が創り、テレビで流しているのに、そのルール説明に人間が全く気付かない様子をいつも神々に見せることで神々を挑発しています。

また、金星神と顔が似ている中島美嘉をこのCMに起用することで、悪魔としては一層挑発の面白みが増します。何故ならば、金星神と顔が似ている中島美嘉に様々な「闇」を働かせる内容を演技させたりするということは、神々や悪魔からすると金星神が「闇」を働いているように見えるからです。『Kate』のCMについての詳しい解説は別で記事を書きます。

『Kate』CMの第二話において、中島美嘉が金星神と繋がっていることを悪魔が描いた描写があります。金星神は金星にいて、中島美嘉はコインロッカーから金星神と見つめ合っています。ただ、悪魔が描いているので、少しのジョークも入れています。それがこの正四角形を通して中島美嘉と金星神が繋がっている描写です。

このコインロッカーと金星にある正四角形の窓のようなものは中島美嘉と金星神の間にある縁のことを意味しています。また、このCMは音楽が中島美嘉の『Love Addict』が使われていますが、この曲は悪魔によって創られた曲です。そして、このCMにおいては、この歌の以下の歌詞が歌われています。

「手に染まる愛を喰らい 飛べるのさ」
「一瞬の儚い者に指令は下された」

この映像制作者でさえも全く気付いていないと思いますが、この歌詞とこの映像は完璧に一致しています。この二行の歌詞もこの映像も、金星神と中島美嘉の縁を悪魔側が表したものだからです。

金星神は太陽系において「金の気」を司る神であり、中島美嘉と金星神が「縁」で繋がっているということは、金星神が中島美嘉に「金の気」を送ることができるということを意味しています。

この歌詞は、この金星神と中島美嘉の関係性を歪んだ形で表現したものです。その理由の一つが「飛べる」という言葉から感じるのは「喜び(光)」ではなく、「快楽(闇)」という点です。つまり、「手に染まる愛を喰らい」の「愛」とは実は「欲望」のことを意味しています。人間は「愛」とは何かということを忘れてしまっていますから、「愛」と「欲望」を混同させるために、悪魔がこのような歌詞を書かせています。

そういった意味で、金星神が「欲望の気」を中島美嘉に送っている様子がこの映像に表現されています。だから、悪魔の図形である正四角形で二人は繋がっており、金星神は非常に闇っぽい表情を浮かべます。しかし、実際は金星神が中島美嘉に「欲望の気」を送ることなどなく、金星神は「金の気」を中島美嘉に送っています。

また、「一瞬の儚い者に指令は下された」とありますが、「一瞬の儚い者」とは人間のことであり、ここでは中島美嘉のことです。ですから、「中島美嘉に金星神が命令をした」ということを意味します。しかし、金星神が中島美嘉に「命令」をすることはありません。なぜならば、神々は「導き」は行なっても「命令」はしないからです。もし「命令」であるならば、その「命令」された魂は「奴隷」となりますが、光の立場は「自由」と「意志」を大事にしています。何故ならば、「愛」とはその魂の「意志」によって生まれるものであって、「愛」が成立するためには絶対に「自由」が必要だからです。だからこそ、決して「光」の立場は誰かに「命令」はしません。

それに対して、「闇」の基本原則は「支配」です。「闇」は「欲望」を基本とした、「自分のため」の感情ですから、「闇」の存在は、「自分のため」に相手を「支配」しようとします。ですから「闇」は「不自由」です。そういった「不自由」がこの「指令」という言葉に表現されていて、だからこそ、この表現は金星神と中島美嘉の縁の歪んだ解釈です。この映像の中でも、金星神が上から見下すような目線で、中島美嘉を見る場面で終わっています。そういう観点からも実際にはない「闇」の関係性のことをここで表現しているが故に、正四角形で縁が表現されています。

中島美嘉はこのような形で悪魔とも曲を創り、映像を制作してきましたが、そのことから逆に我々は多くを学ぶことができます。そして、中島美嘉は神々と働くだけではなく、悪魔と働くことを通して人類に重要なことを教える役割を抱えていた人間です。ですから、彼女がこういった形で悪魔と共に働いた過程とは、彼女が自分の人生の役割を果たし、この地球に「光」を増やす1つの過程です。

悪魔と共に働いていたということを人が知ると、多くの人はショックを受けると思いますが、中島美嘉はデビューしてから15年間はそういったことを行なうためにも生まれています。だから、それは正しいことであって、必要なことです。中島美嘉がいつかこういったことを知る時が来たのであれば、自分が「光」のために「闇」も実践したということを真に理解して頂ければ、と思います。それがこの『Over Load』の歌詞である

「胸に詰め込みすぎて」
「自分追い込みすぎて」
「苦しい日々も」
「無駄なんかにはしない日がくるから」

の内容の一部でもあります。何故ならば、中島美嘉は『Kate』のCMに出演することで日本人から「闇」のイメージも持たれ、そのイメージによって苦しんできたこともあるはずだからです。

 

[左右対称について]

このPVは左右対称で描かれています。中島美嘉がいる部屋も金星神がいる場所も左右対称です。しかし金星神がいる場所とは円形の場所の中にいるから結果的に左右対称に見えるだけです。また、微妙な造りも左右対称にはできていません。ですから、本質的には中島美嘉がいる部屋だけが左右対称に造ろうとして、左右対称に造られています。

どうして左右対称で描かれているかというと「闇」とは左右対称を好むものだからです。悪魔はよく左右対称の世界を作ろうとします。なぜならば左右対称という表現が我々に独特の感覚をもたらすからです。

例えばスタンリー・キューブリックという映画監督がいますが、キューブリックは左右対称を非常に好む映画監督です。なぜならば彼は悪魔と繋がって映画を創っていたからです。これは非常に感覚的な問題なのですが、キューブリックの作品などを観ている時というのは独特の感覚を感じられます。以下にキューブリックの左右対称な表現がまとめられている映像を貼り付けておきます。

左右対称というイメージは我々の現実感を減らし、陶酔していくような感覚を我々に与えます。そのような映像だと我々を「闇」に落としやすいが故に、悪魔はよく左右対称を使います。何故ならば、現実感を失っている時の感情や陶酔の快楽を得ている感情とは「闇」の感情だからです。

とにかく映像表現において左右対称の世界を描くことで我々の現実感を減らしていき、そのことによって悪魔は我々に「闇の気」を入れていきます。キューブリックが悪魔と繋がって映画を作っていたということは彼の作品をよく観るとわかります。彼は「狂気」「恐怖」「欲望」といったものをいつも描いているからです。(『2001年宇宙の旅』は除く)

また、キューブリックに限らず、「闇」の絵画も載せておきたいと思います。絵画においても、よく「闇」は左右対称を使います。これらは全て悪魔や闇の精霊によって描かれたものです。


このPVにおいては、中島美嘉が悪魔に襲われていることを左右対称の部屋にいることで表現しています。逆に言うと、そのことを表現するために左右対称の部屋が使われています。

また、悪魔は我々に幻覚を見せますがそういう時も左右対称をよく使います。それは、1つは非現実感・陶酔感を持たせるためでもあり、もう1つの理由は幻覚を創るのがめんどくさいからです。

例えば、ドラッグなどを使用すると悪魔から何かを見せられることを通して、我々は普段見えないものが見えます。我々がドラッグなどを使用して何かを見る時、それを作っている存在が必ずいるはずです。何故ならば、勝手に何かが生まれるということはあり得ないからです。我々人間はそういった当たり前のことも見落としてしまっています。

また、我々の脳が勝手にそのようなものを作るというようなことを言う脳科学者もいますが、いいかげんな説明をしています。何かが創られるためには必ず魂の「意志」が必要です。何故ならば、「意志」無くして「判断」はできず、「判断」ができないと何かを創るということは不可能だからです。そのような「判断」の能力が脳自体にあるわけではなく、基本的にこの世の判断の全ては魂によって行なわれています。

悪魔がどうして我々に幻覚を見せるのかというと、我々に「闇の気」を入れるためです。何故ならば、心が強く動けば動くほど「気」を入れられるというルールがあるからです。例えば、何か芸術作品に対するとてつもない感動体験は我々の性格を少し変えます。何故ならば、その感動体験によって「気」をその芸術作品から強く摂取するからです。

悪魔は「闇の気」を我々にたくさん入れることを通して、我々人間を支配しようとしてきます。何故ならば、その人間の身体に宿している「闇の気」が多ければ多い程、悪魔はその人間に関与しやすくなるからです。そういった形で、悪魔としては自分のおもちゃとしての人間を増やすために、「闇の気」を入れようとしてきます。

そして、「闇の気」を入れるために我々を楽しませるような幻覚を見せます。しかし、目的はその悪魔のためであって、我々を楽しませなければいけないこと自体は悪魔はめんどくさいと思っています。だからこそ、左右対称や同じ表現を多用することをよく行ないます。

こういった悪魔がよく行なうことは中島美嘉の『FOCUS』のPVにもよく描かれています。これも悪魔が創ったPVの1つになります。この楽曲においては「見えなかったものが見えた」という歌詞がありますが、だからこそドラック体験などによって悪魔がよく人間に見せるようなものを描いています。

左右対称や反復のイメージが繰り返されています。

悪魔としてはこういったPVを創ると何が面白いかというと、中島美嘉が悪魔に見える点です。悪魔は幻覚を見せる時に、その悪魔によっては自分自身を投影します。自己主張が強い悪魔はよくこういったことを行ないます。このPVはそういった悪魔が行なう幻覚の見せ方の1つであって、金星神の見た目をしている中島美嘉がこういった悪魔が行なっていることを映像の中で行なうことは面白いことです。何故ならば、悪魔としては金星神が悪魔のようなことをやっているように見えるからです。

またこの冒頭、「闇の気」が映像として表現されます。紫色の「気」とは「闇の気」のことを表していますが、これは『LOVE IS ECSTACY』のジャケットやPVなどでも同様に表現されています。

「ECSTACY」とは「恍惚状態」であって、「LOVE IS ECSTACY」とは「愛」を「欲望」している状態を表します。だからこそ、「闇」の歌であって悪魔によって創られています。例えば、「乾いた声に導かれていく」という歌詞がこの歌の中にはありますが、「乾いた声」の「悪魔の囁き」のことを意味しています。

そういった意味を悪魔はPVやジャケット写真にも込めており、紫色の「気」=「闇の気」を表現しています。

このことから我々は逆に、「愛」を「欲望」することの危険性も理解できますし、深い紫色が闇の色であり、そういった色の「闇の気」が存在することも学ぶことができます。『Over Load』においても「気」のことを表現している映像があったので、この話も説明しておきました。

 

【最後に】

非常に長くなりましたが、以上が『Over Load』の楽曲とPVの解説になります。

中島美嘉の歴史とはそれぞれの作品に非常に多くの意味が込められています。何故ならば、いつも神々か悪魔のどちらかが全力で創ってきたからです。神々はこの星のために中島美嘉の作品に関与し続け、悪魔は神々を挑発するために中島美嘉の作品に関与し続けてきました。

我々はその過程から多くを学ぶことができます。だからこそ、中島美嘉の楽曲やPVが鑑賞されるべき時期はこれからになります。今までは1つの準備期間であって、こういった楽曲やPVの解説と合わせて中島美嘉の作品が鑑賞される時代のために中島美嘉は今まで苦労してきたのであって、私はこれから説明をしていく役割を持っています。

この解説ではわざと悪魔の関与についても多く説明しました。何故ならば、中島美嘉が悪魔に襲われてきたこと、中島美嘉が悪魔とも共に働いた意味というものを早い時点で説明しておく必要があると判断したからです。また、この『Over Load』の中に「苦しい日々も 無駄なんかにはしない日がくるから」という歌詞があることも悪魔の関与について説明した1つの理由です。

中島美嘉の今までの歴史は無駄などではなく、この星のために本当に必要なプロセスでした。そういったことをこの楽曲・PVと合わせて、この解説をよく読んで頂く事で理解して頂けると幸いです。

また、先程も書きましたが、中島美嘉の今までの人生はこの星のために必要だったのであって、中島美嘉はこの地球の「光」を増やすために「闇」も経験・実践してきたということをいつか御本人に知ってほしく思っています。

それは中島美嘉本人の苦労が報われるためであって、悪魔と共に働いたことについての自分に対する罪悪感を抱かないようにするために必要な情報でもあります。そういったことがこの投稿から少しでも伝わると幸いです。