歌詞:http://www.kasi-time.com/item-15923.html
楽曲ダウンロード:https://itunes.apple.com/jp/album/zhi-zhuno-mi/id574714603?i=574714636

中島美嘉の『蜘蛛の糸』という楽曲の解説を書きます。まだ『中島美嘉について』を読まれていない方はこちらから読んで頂けると幸いです。こちらの文章の内容を前提に『蜘蛛の糸』を解説していきます。

http://junashikari.com/art/中島美嘉について/

中島美嘉の『蜘蛛の糸』は中島美嘉が悪魔から強く襲われることを役割として持って生まれてきたことを理解する上で、非常に重要な歌です。この歌は金星神が作った「闇」の歌ですが、中島美嘉の楽曲の中で、金星神が「闇」の楽曲を創ったのはこの一曲だけになります。そういう意味で、この曲はとても重要な曲です。

作詞は中島美嘉本人になります。中島美嘉本人はこの詩を金星神と共に書いていますが、中島美嘉本人が意図したことと金星神が意図したことは異なると思いますが、金星神は中島美嘉にメッセージを送るためにこの歌詞に関与しています。この歌において、「蜘蛛の糸」は「闇の気」のことを意味しています。

この歌は今でも中島美嘉は好きですが、この歌が中島美嘉にとって非常に重要な歌だからこそ、金星神が中島美嘉の『蜘蛛の糸』が好きという気持ちを守っている形になります。このことについては最後に解説します。

以下、歌詞の解説を書いていきます。


「影が揺れる 乱れぬ力」
「雲が落ちる 吸い込まれてく」
「涙の海 星の近い海」
「鎖纏い 底を這ってゆく」

※「光と闇」のことを「光と影」と言うこともあるので、「影」とは「闇」のことです。そして、「闇」を表す「影が揺れる」という歌詞の後に「乱れぬ力」という歌詞があるので、「乱れぬ力」とは悪魔の力を意味していると言えます。何故ならば、「闇」を司っているのは悪魔だからです。また「乱れぬ力」という歌詞から、この悪魔が確固たる力を持った強い悪魔であることが分かります。実際、中島美嘉をずっと襲っている悪魔は非常に力のある悪魔であって、地球を最も強く荒らしている悪魔になります。

そして、「雲が落ちる 吸い込まれてく」とは神々が「影」=「闇」に中島美嘉を陥れることを意味します。何故ならば、雲は神々が司っているものだからです。「雲」は地上に「影」を作るものですが、そういった雲が落ちることによって、「影」=「闇」に「吸い込まれてく」ということを意味します。仮にそのまま「雲に吸い込まれてく」と解釈しても、雲が地上に降りた時、雲の中は霧がかっていて視界が非常に悪く、迷子になりやすい状態です。迷子は「闇」の状態と言えます。

そして、「海」も「雲」同様に神々が守っている場所です。そして、「星」には神々が宿っているので、「星」は星の神々のことを意味します。どうして、ここで「涙の海 星の近い海」という形で「涙」という歌詞があるかというと、神々が泣いていることを意味しているからです。「海」は神々のものであって、その海が「星の近い」と書かれていることから、ここで言われている「涙」が神々の「涙」であることが言えます。神々としては中島美嘉を「闇」に陥れないとならないことに関して、本当に悲しみを感じています。神々は本当はそのようなことはしたいとは思っておらず、そういったことをせざるを得ない状況になってしまったからこそ、しているだけだからです。だから、神々は中島美嘉が苦しんでいる様子を見て、涙を流しています。そういったことを表現しています。

そういった海の底を「鎖纏い 底を這ってゆく」とは、神々の守っている「海」の中で「自由」を奪われている状態のことを意味します。「鎖」は「不自由」=「支配」を象徴しています。普通は神々の領域の中で「自由」を奪われることはあり得ないので、この歌詞は神々によって「自由」を奪われている中島美嘉の姿を描いています。

神々も悪魔も人間に「気」で関与し、人間の「感情(気持ち)」と「思考(気付き)」に関与していますが、それぞれの関与の方法は神々と悪魔で異なります。何故ならば、神々はその人間に対する「愛」が故に、その人間の「意志」=「自由」を尊重するのに対して、悪魔はその悪魔自身の「欲望」が故に、その人間を「支配」=「不自由」するからです。「愛」の立場とは「自分よりも相手を大事」と思う立場であって、だからこそ相手の「意志」を尊重します。それに対して、「欲望」の立場とは「相手よりも自分が大事」と思う立場であって、だからこそ相手を自分のための道具にします。こういった

神々:「愛」「意志」「自由」
悪魔:「欲望」「支配」「不自由」

という関係性は常にあります。それは「愛」と「欲望」の違いがこういった構造を元々持っていて、神々は「愛」に満ちた魂達であって、悪魔は「欲望」に満ちた魂だからです。

しかし、この歌詞のまとまりでは神々によってある人間が「自由」を奪われているという点が、中島美嘉の人生の役割を強く表しています。この歌詞のまとまりの意味を整理すると、

「影が揺れる 乱れぬ力」(力のある悪魔のこと)
「雲が落ちる 吸い込まれてく」(神々が中島美嘉を「闇」に陥れること)
「涙の海 星の近い海」(神々の悲しみ)
「鎖纏い 底を這ってゆく」(神々が中島美嘉の「自由」を奪っていくこと)

という形になります。この歌詞のまとまりから、神々が中島美嘉を悪魔に襲わせることによって、中島美嘉の「自由」を奪っていくということが分かります。そして、この次の歌詞で、どのような形で中島美嘉の「自由」を奪われていくのかが説明されています。


「探しても探しても」
「見つからない…」
「削っても削っても」
「無くならない…」
「晴れないままのこの空で 共に宴を」

※「探しても探しても 見つからない…」とは「光」が見つからないことを意味します。神々がある人間を「闇」に落とそうとするならば、その人間は確実に「光」が見つからなくなります。何故ならば、「光の気」をもたらすのは神々であって、神々が人間に「光の気」をもたらさないのであれば、その人間は「光」を見つけられなくなるからです。「光」は「愛」に関する「相手のため」の「気持ち」であって、そういった「光の気持ち」の原因は「光の気」です。神々が「光の気」を与えるのをやめるからこそ、「愛」が見つからなくなります。

「削っても削っても 無くならない…」とは「闇」が無くならないことを意味します。神々がある人間を「闇」に落とそうとするならば、その人間は確実に「闇」が無くならなくなります。何故ならば、「闇の気」を浄化するのは神々であって、神々が人間から「闇の気」を浄化しないのであれば、その人間は「闇」がただ増えていくからです。「闇」は「欲望」に関する「自分のため」の「気持ち」であって、そういった「闇の気持ち」の原因は「闇の気」です。神々が「闇の気」の浄化をやめるからこそ、「闇」しか見つからなくなります。

「闇の気持ち」は「欲望」だけではなく、「嫌悪」「怒り」「絶望」「恐怖」「疑い」「不安」「依存・執着」「怠惰」「後悔・罪悪感」「優越感・劣等感」「苛立ち」「憂鬱」「咎める心」「甘さ」「嫉妬」「頑固」「負けず嫌い」「逃げ」「焦り」「無心」「暴力の快楽(SMなど)」「自傷心(リストカットなど)」「被害妄想」「軽さの闇」「混乱」「非現実の闇(現実感が無くなる気持ち)」など、30種類あります。詳しくはこちらに書いています。

http://junashikari.com/emotion/感情一覧(光・闇・中立)/

「探しても探しても『光』が見つからない…」「削っても削っても『闇』が無くならない…」という状態に達すると、こういった30種類の「闇の気持ち」をぐるぐる回ることになります。そうすると、どう生きても救われない状態が生まれます。私は中島美嘉のことを理解するために、このことを長く体験してきたのでよく分かりますが、こういった状態を経験する人間は地獄を経験します。

誰も中島美嘉の心の中を見ることはできず、中島美嘉と同じことを経験してきた人はほとんど誰もいません。何故ならば、神々によって「闇」に落とされることを経験する人間がほとんどいないからです。我々人間はいつも神々にかなり支えられている中を生きていますが、現代人は神々がどのように我々の心を支えているのかが分からなくなってしまっています。だから、神々からの支えが無くなる状態で生きるということがどれだけの地獄をもたらすのかを今の人間は想像もできません。だから、本当に中島美嘉のことを理解できる人間は誰一人以内と思います。そのことだけでも辛いことですし、悪魔はそこさえも利用して中島美嘉を苦しめます。

悪魔は神々とは全く異なり、本当に酷いことをする魂達です。「探しても探しても『光』が見つからない…」「削っても削っても『闇』が無くならない…」という状態は、悪魔達に心を支配され、悪魔のいいおもちゃにされることを意味します。「気持ち」=「気」を「持つ」ことによって「感情」は生まれる、「気付き」=「気」が「付く」ことによって「発想・アイデア・思考」は生まれる、という言葉が示すように、悪魔の「闇の気」に支配されると、「気持ち」と「思考」を悪魔に掴まれてしまいます。

悪魔は神々を苦しめる為に、中島美嘉を苦しめます。強い「愛」を抱えた魂達にとって最も苦しいことは、自分にとって大事な誰かが苦しむことです。そして、中島美嘉は自分自身の意志で、地球のために自分が地獄を経験することを選んだ魂です。ですから、神々の中島美嘉に対する「愛」はとてつもなく強いです。そして、そういった話を中島美嘉に持ちかけたのは神々でもあります。だから、神々としては、自分にとってとても大事な中島美嘉が、自分によって苦しめられていると感じていますし、これは真実です。だからこそ、悪魔は神々を苦しめるために、中島美嘉を苦しめます。

この構造は絶望的な構造なのですが、神々としてはどうしても必要でした。悪魔が人間に何をしているのかを見失った人間に悪魔が何をしているのかを教えるためには、悪魔に徹底的に襲われることによって、悪魔が人間に何をしているのかを身を以て教える人間が必要だったからです。

歌詞の解説に戻りますが、こういった形で神々によって「闇」に堕ちた人間に残された道は「闇」を楽しむしかありません。「晴れないままのこの空で 共に宴を」とは、悪魔と手を結び、「闇」を楽しむことを意味します。「闇」には「快楽系の闇」と「苦悩系の闇」の二種類があります。例えば、「絶望」「不安」などは「苦悩系の闇」であるのに対して、「欲望」「優越感」などは「快楽系の闇」です。そして、それぞれの「闇の気持ち」は別の「闇の気持ち」に転じます。ですから、「闇」を選ぶ魂はできるだけ「苦悩系の闇」に堕ちずに、「快楽系の闇」に自分を置く必要があります。ですから、「光」を選べず、「闇」しか選ぶことができない魂は、必然的に「快楽系の闇」を楽しむしかありません。

元々は「光」が強かった中島美嘉は、このような過程によって神々によって「光」を奪われ「闇」に落とされ、悪魔によって「闇」を強く経験させられ、日々「苦悩系の闇」を経験する中で、なんとか「快楽系の闇」で自分を保っています。ただ、「光」は全て奪われたわけではなく、金星神が中島美嘉の「愛」はなんとかずっと保っています。歌詞について整理すると、

「探しても探しても見つからない…」(「光」が見つからないこと)
「削っても削っても無くならない…」(「闇」が無くならないこと)
「晴れないままのこの空で 共に宴を」(「快楽系の闇」を選ばざるを得ないこと)

ということを意味します。この三行の詩には中島美嘉の経験してきた地獄が表現されています。


「掴んでは消える」
「蜘蛛の糸」
「選ばれし者が辿るの」
「争い合えば」
「切って落とされ」
「誰しもが持つ」
「蜘蛛の糸」
「惜しまずに紡いで垂らせ」
「気付いてほしい」
「あの叫びに。」

※ここで歌われている「蜘蛛の糸」が「闇の気」のことです。「闇の気」は「誰しもが持つ」ものです。だからこそ「誰しもが持つ」という歌詞が置かれています。「掴んでは消える」「争い合えば 切って落とされ」とは「闇の気」を司る悪魔に翻弄されている状態を意味しています。悪魔は人間に「闇の気」を入れるために人間を戸惑わせ、苦しい目に遭わせ、「不安」や「絶望」などに同調させることで「闇の気」を入れます。そして、そういった過程の中でより多くの「闇の気」を人間は抱えることになります。「闇の気」を悪魔がその人間に入れるためには、その人間が「闇の気持ち」を抱いていないといけません。だからこそ、悪魔はその人間が「闇の気持ち」に堕ちるような経験をその人間にもたらします。

中島美嘉は大量の「闇の気」を抱える必要があったので、「惜しまずに紡いで垂らせ」という歌詞があります。また、「選ばれし者が辿るの」とは「私は特別」という感情の歌詞であって「優越感」の歌詞です。中島美嘉は実際特別な人間です。そういった真実を表現しながらも、それを「優越感」の感情で表現しています。

そして、「気付いてほしい あの叫びに。」とは神々の嘆きのことを意味します。金星神がこの曲を通して表現したかったのは中島美嘉が一体どのような「闇」を経験するのかということです。そのことを描くことで、中島美嘉本人がいつかこの曲の意味を真に理解した時に、自分自身について理解することを目指し、この曲を創っています。神々は中島美嘉が苦しむ様子を見ながら、嘆いています。だからこそ、ここで「あの叫び」と描かれているのは神々の嘆きと言えます。悪魔は中島美嘉に「闇の気」をもたらしているときに嘆くことはなく、むしろ面白がっています。ですから、ここで「あの叫び」を発しているのは悪魔ではなく、神々であると言えます。

中島美嘉が「神々の叫びに気付いてほしい」=「自分自身がどういうことを背負っている人間なのかを知ってほしい」という金星神の「願い」を込めて、この「気付いてほしい あの叫びに。」という歌詞が置かれています。また、ここで「。」が置かれているのは、中島美嘉が自分自身がどういう人間であるかを知る時に、中島美嘉の苦悩は終わるということを意味しています。

中島美嘉がどういった役割を背負っている人間なのかを説明する人間は私であって、中島美嘉が抱えている「闇の気」の浄化をするのも私の役割です。ですから、中島美嘉が「神々の叫びに気付く」時とは、中島美嘉が私の解説を読み、納得する時を意味します。そして、もし中島美嘉がこれらの解説を読み、納得をしてくれるのであれば、それは中島美嘉が私のことを信用してくれるということを意味します。

私は一刻も早く中島美嘉を助けたいと思っているので、中島美嘉を苦しめている中島美嘉の身体に宿った「闇の気」を早く浄化したいと思っています。ただ、私としては中島美嘉が私に「闇の気」を浄化することを頼んでくれなければ、浄化はできません。シャーマンは相手に頼まれない限り、浄化はできないというルールに縛られているからです。

そういう意味で、「気付いてほしい あの叫びに。」という歌詞は神々が中島美嘉を助けたいという想いです。神々がその神々自身のために「自分の嘆きを知ってほしい」とは思いません。何故ならば、「自分の嘆きを知ってほしい」とは「自分のため」の気持ちであって「欲望」だからです。神々の「願い」は中島美嘉を助けることです。だから、「気付いてほしい あの叫びに。」とは「中島美嘉が自分の役割に気付くこと」=「それを解説する私のことを信用してくれること」=「身体に宿った『闇の気』の浄化を私に頼んでくれること」を意味します。「闇の気」を浄化することで、悪魔が中島美嘉の心を「支配」することが終わるだけではなく、耳の病も治ります。何故ならば「病気」=「病の気」という言葉が示すように、病の原因は「闇の気」だからです。

『傷だらけのラブソング』が未来の中島美嘉のことを描いている作品だからこそ、中島美嘉は「未来」という名前を持った女の子の役を演じていることは『中島美嘉について』で書きましたが、その未来という女の子が浩輔という導き手を信じる時に言う台詞にも神々は中島美嘉に対するメッセージを込めています。中島美嘉が演じた未来は浩輔を信じる時に「こいつは、、インチキなんかじゃない!」という台詞を言います。(その他にも「人は変われる」という浩輔の言葉など『傷だらけのラブソング』には、中島美嘉に対する神々からのメッセージに満ちています。)

シャーマンとして生きていると、人々に「インチキ」と疑われてしまいます。そして、中島美嘉が私のことを知る時、悪魔は絶対に中島美嘉の心に私に対する「疑い」の「気持ち」を植え付けます。それは私が「インチキ」であるという「疑い」です。私なんかに絶対に耳の病を解決できるわけがないという「疑い」であって、それは「インチキ」と言い換えられます。中島美嘉が悪魔の「闇の気」によって耳の病を抱えることを神々も悪魔も分かっていたことは、『蜘蛛の糸』以前の『沙羅』『RESISTACE』にも表現されています。


「色が消えた 言葉も消えた」
「形もない さぁ戻りましょう」

※これは物理的に想像して頂けると分かりやすいのですが、照明などの「光」が無ければ「色」は失われていきます。ですから、「色が消えた」とは「『光』が失われた」ということを意味します。その繋がりからの「言葉も消えた」という歌詞なので、「神々の言葉が消えた」ということを意味します。身体が「闇の気」で満ちていくと、神々が「光の気」を入れることが困難になっていきます。そして、「気」には「アイデア(情報)」を乗せることができます(「気付き」=「気」が「付く」の構造)。だから、「光の気」を受け入れられなくなると、神々からの「言葉も消えた」という状態に陥ります。

「形もない」とは視覚や感覚が狂い始めることを意味します。「闇の気」を大量に抱えると、幻覚を観ることも感覚が狂うことも悪魔が起こそうと思えば起こせます。そういったことを意味します。「さぁ戻りましょう」とは、「闇に戻る」ということであって、「色が消えた 言葉も消えた 形もない」といった失われているものばかりに目が行っている「苦悩系の闇」から「快楽系の闇」に戻ることを意味します。

 

「呼ばれても呼ばれても」
「振り向けない…」
「歩いても歩いても」
「追い付けない…」
「悲しいままのこの胸で 共に宴を」

※「呼ばれても呼ばれても 振り向けない…」「歩いても歩いても 追い付けない…」とは、「闇の気」を司る悪魔に「支配」されている状態を意味します。神々から呼ばれても振り向けず、「光」の方へ行こうとしても追い付けないということを意味します。そして、そういった「自由」を奪われてしまった悲しい状況だからこそ、もう楽しむしかないという意味が、「悲しいままのこの胸で 共に宴を」という言葉に込められています。
 

「見えそうで見えぬ」
「蜘蛛の糸」
「選ばれし者が見えるの」
「編み上げながら 大きく育つ」
「強そうで弱い」
「蜘蛛の糸」
「確かな力が欲しいの」
「感じるままに」
「生きるように。」

※「闇の気」は見えませんが、大量に「闇の気」を抱えた時に幻覚を悪魔に見せられることはできます。「見えそうで見えぬ 蜘蛛の糸 選ばれし者が見えるの」という歌詞はそういったことを意味します。一番上に貼付けた『KATE』のCMでも、中島美嘉が幻覚を見ている様子が描かれますが、この歌詞の意味を表現しています。また、カラスの羽のようなものにくるまれますが、これは悪魔の羽のことを意味しています。『KATE』のCMはこのような形で、一話一話重要な意味を持っています。

「強そうで弱い 蜘蛛の糸」とは「弱さ」が「闇」を成長させるということを表している歌詞です。例えば、自分の「闇」を克服するためには「強さ」が必要ですが、「強さ」がないとどんどん「闇」に堕ちていくことができます。この歌詞はそういったことを意味しています。また、「強そうで」という歌詞から「自分を強く見せたい」という「強がり」のこともこの歌詞は表現しています。「強がり」とは「(自分のため)に自分を強く見せたい」という気持ちであって、「欲望」「負けず嫌い」といった「闇の気持ち」と非常に密接な関係にあります。そういう意味で「強がり」は「闇」そのものであって、「弱さ」は「闇」を助長します。そういった構造をこの歌詞は表現しています。

「確かな力が欲しいの」という歌詞は「欲望」の歌詞です。「自分のため」に「力が欲しい」という気持ちを抱くのは「欲望」だからです。そして、実際に中島美嘉は悪魔からの「闇の気」によって「力」を獲得しています。悪魔は我々を「闇の気」によって苦しめもしますが、その「闇の気」を使って我々に「力」ももたらします。そして、「力」をもたらしながら「欲望」に人間を陥れることによって、より多くの「闇の気」を入れ、その人間をどんどん「支配」していきます。中島美嘉が悪魔から「力」をもらうことで「闇」に堕ちていくことをこの歌詞は表現しています。

「感じるままに」という歌詞は、「直感に従う」ということを意味します。神々も悪魔も我々の「直感」にいつも「気」で関与しています。「闇の気」を大量に抱えた状態で「直感」をもたらすのは悪魔なので、そういった状態で「直感」に従うことは「悪魔に従う」ということに繋がります。中島美嘉は非常に「直感」に従う魂です。だからこそ、悪魔がもたらす「直感」によってどこまでも「闇」に向かっていくことは神々は分かっていました。だからこそ、中島美嘉はこのような役割を背負っているとも言えます。

「生きるように。」という歌詞は、中島美嘉が人生の一部で「闇」を経験することを人生の役割として持っていることを説明しています。中島美嘉にとって生きることは「闇」を経験することと言えるからです。もちろん、中島美嘉の人生全てで「闇」を経験するわけではなくて、人生の一部で「闇」を経験することをこの歌詞は意味しています。

 

【金星神が何故この曲を創ったのか?】

金星神は中島美嘉を救い出すためにこの曲を創っています。神々が中島美嘉に与えた人生の役割の中で「闇」を経験するということが、自分の楽曲に元々描かれていたのであれば、中島美嘉が自分自身がどういう人間であるのかということについて、納得ができるからです。

金星神は中島美嘉を悪魔から救うために、多くの楽曲に中島美嘉自身のことをよく描いてきました。しかし、金星神が創った「闇」の楽曲はこの一曲だけです。どうして、金星神はこのようなことをやったかというと、中島美嘉が「闇」に堕ちていった時、「光」の楽曲は簡単に悪魔に嫌わさせられるのに対して、「闇」の楽曲は悪魔であっても嫌わさせにくいからです。

「光」は「闇」を嫌い「闇」は「光」を嫌う
「光」は「光」を好み「闇」は「闇」を好む

という傾向は、元々「光の気」と「闇の気」の性質が持っています。ですから、「闇の気」に満ちていくのであれば、「光」は簡単に悪魔は嫌わさせられます。それに対して、「闇の気」に満ちていながら「闇」を嫌うことは困難です。

金星神はこの性質のことを踏まえて、わざと「闇」の楽曲を創り、中島美嘉がこの曲を好きだという気持ちを守っています。「自分がこの曲をずっと好きだった」という事実が金星神からの中島美嘉に対するメッセージと言えるからです。そういった形で金星神は中島美嘉に真実を伝えるためにこの曲を創っています。

 

【芥川龍之介『蜘蛛の糸』との関係】

中島美嘉の『蜘蛛の糸』は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と何の関係もない歌のように一見見えます。しかし、この中島美嘉の『蜘蛛の糸』と芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の本当に意味することを理解すれば、この二つの作品が同じことを意味していることが分かります。

中島美嘉の『蜘蛛の糸』は金星神が創った、神々が人間を「闇」に(止むを得ず)陥れることを表現した曲であるのに対して、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は悪魔が創った、神々が人間を「闇」に(好んで)陥れることを表現した小説です。どちらの作品も神々が人間を「闇」に陥れるという点は共通です。

中島美嘉はこういった構造を元々意図して『蜘蛛の糸』の作詞をしたわけではないと思います。しかし、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が表現しているものと同じことを神々の視点で描いています。こういった一致は、金星神がこの『蜘蛛の糸』の作詞をしたということを中島美嘉や日本人に証明するために用意した構造です。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の解説はこちらに書いています。

http://junashikari.com/energy/『蜘蛛の糸(芥川龍之介)』について/

こういった構造を用意することで、中島美嘉の『蜘蛛の糸』に金星神が込めたメッセージが本当であることを金星神は中島美嘉に伝えようとしています。

 

【私の人生との繋がり】

私は中島美嘉を助けることを自分の人生の役割の一つとして持って生まれてきています。だから、神々は私の人生の中で、中島美嘉と私の人生を繋げて考える多くのヒントを出しています。どうして神々はこれを行なったかというと、こういったことを中島美嘉が理解する時、より私のことを信用してくれることに繋がるからです。

そういったヒントの最も分かりやすいものが、中島美嘉のデビュー日と私の誕生日が全く同じ11月7日であることです。そして、この『蜘蛛の糸』というタイトルも、『蜘蛛の糸』が収録されている『MUSIC』のタイトルも重要なヒントの意味を持っています。

神々は私の人生と重ねるためにこの曲のタイトルを『蜘蛛の糸』にし、アルバムのタイトルを『MUSIC』にしています。そのことについては、私がシャーマンになるまでの過程を説明した以下の文章に書いていますが、そこからこの『蜘蛛の糸』『MUSIC』に関する部分だけを貼付けておきたいと思います。

http://junashikari.com/profile/profile2/

———————————————————————————————————————————————————–

高校を卒業して浪人生になった頃、ちょうど中島美嘉の『MUSIC』(2005/3/9発売)が発売されていた頃で、私は神々の導きでこのCDを買っています。CDショップ屋に行って、平積みにされている『MUSIC』を見て、買いたいという気持ちが自分の中に起こったことを今でも覚えています。また、どうして買いたいと思ったかというと、2004年の大晦日の紅白歌合戦で中島美嘉が『朧月夜』を歌っているのを観て、ひどく感動したからでもあります。

その紅白の映像はこちらのリンクから観ることができます。中島美嘉は最後の『祈り』の部分で金星神と共に見事に歌い上げていることを感じられると思います。一瞬上を向き、体全体を動かすことで、金星神からの「光の気」を受け取りながら歌っています。

http://v.youku.com/v_show/id_XMjI5MTQzMzY0.html

 

浪人生になった当初、いつもこの『MUSIC』を聴きながら予備校に通っていました。『桜色舞うころ』を聴きながら桜並木の中を自転車で予備校に通っていたことをよく覚えています。桜は綺麗だけど、浪人という現実が悲しく、複雑な気持ちで『桜色舞うころ』を聴いていました。

この『MUSIC』は私の人生にとって音楽との本当の出会いです。そういう意味で、このアルバムが『MUSIC』というタイトルを持っていることは私の人生とすごくシンクロしています。そういったことも神々は狙って、私にこのアルバムを買わせています。

私は小学生の頃はピアノを独学で弾いたりしていましたが、中学高校はバスケットボール一筋だったので音楽とは遠い生活を送っていました。しかし、大学生になる頃よりコントラバスを始め、大学卒業後もコントラバス奏者として生きていました。音楽と全然縁がなかった私がすごく音楽の方向へ向く変化が起こったのは、浪人時代に音楽との出会いがあったからです。そして、浪人の最初に買ったのが『MUSIC』であって、私にとって『MUSIC』は「音楽」との出会いそのものです。

このアルバムの中で『蜘蛛の糸』という曲があるのですが、この曲も好きで当時いつも聴いていました。この『蜘蛛の糸』を聴いていたのも神々の導きになります。『蜘蛛の糸』は芥川龍之介の小説のタイトルです。どうして神々の導きでこの曲を聴いていたかというと、神々は芥川龍之介を通して私を「闇」に導こうと考えていたからです。実際、私は浪人時代に、芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』を初めに買っていますし、芥川龍之介を通して強く「闇」に堕ちました。

中島美嘉の『蜘蛛の糸』は神々によって「闇」に導かれる人間のことをよく描いている曲です。中島美嘉は一度「闇」に堕ちることを人生の役割としている人間です。そして、その構造は私の人生も同じです。だからこそ、神々の導きによって、私はこの曲を当時よく聴いていた形になります。

———————————————————————————————————————————————————–

神々としては、中島美嘉が神々によって「闇」に陥れられることをこの曲に表現しながら、それと同じ役割を持っている私のことも重ね、私のことも意図していることを表現するために、この曲のタイトルを『蜘蛛の糸』にしています。実際、中島美嘉は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んだわけではなくて、このタイトルを付けていることも普通に考えると不思議なことです。そして、私は中島美嘉の『蜘蛛の糸』に影響されて芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を買い、芥川龍之介を通して「闇」に堕ちました。

芥川龍之介を読むことで「闇」に堕ちると書くと誤解されるかもしれませんが、実際は、芥川龍之介を通して悪魔が私を「闇」に陥れることを促した形です。芥川龍之介の作品の中には、様々な悪魔が付いた嘘が描かれています。そして、そういった嘘を信じるのであれば、人は「呪い」を抱え、「闇」に堕ちていきます。間違ったことを信じることは魂にとって「呪い」となります。芥川龍之介の作品とはそういった意味で、悪魔が人間に仕掛ける罠の本であって、「呪い」シリーズとも言える作品です。

当時、私はこの『蜘蛛の糸』を買い毎日読んでいました。そして、自分が買ったその本には芥川龍之介の『侏儒の言葉』というものも入っており、強く心惹かれました。どうして心惹かれたかというと、中島美嘉の『蜘蛛の糸』に描かれているように、神々がわざと私にこの本の内容を信じ込まさせたからです。そして、この『侏儒の言葉』を信じたが故に、深い「闇」に堕ち、「闇の気持ち」に共感していた私に悪魔はいつも「闇の気」を送ることで攻撃をしていた形になります。悪魔は私が「光」のシャーマンになるために生まれてきていることは知っていたので、私も中島美嘉と同様にずっと悪魔に襲われてきた立場の人間です。(『侏儒の言葉』については別で解説を書きます。)

このような形で、中島美嘉の『蜘蛛の糸』が「蜘蛛の糸」というタイトルを持っているのは、中島美嘉と私の人生を繋げるためのヒントを神々が創りたかったからです。

中島美嘉が『蜘蛛の糸』を創り、私がその曲に影響されて芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を買い、それを買ったが故に私が神々によって「闇」に陥れられたことは、この中島美嘉の『蜘蛛の糸』が描いている内容=「神々によって『闇』に堕ちる人間の姿」そのものです。

このようにして、中島美嘉と私の人生を交わらせることによって、中島美嘉と私が関わるべき人間同士であることを、金星神は中島美嘉に伝えようとしています。