ここでは、宮崎駿についての概要を書いていきます。

宮崎駿は日本人で最も重要な表現者です。どうしてそのように言えるかというと、神々と共に働く表現者は日本にも多くいますが、宮崎駿程に高いレベルで神々と共に重要なメッセージを残し続けた人はいないからです。そういう意味で、宮崎駿作品から我々人間が学ぶことができる要素は非常に多くあります。

しかし、ただ楽しく宮崎駿作品を鑑賞していても、神々が宮崎駿作品にどのようなメッセージを残したのかということは気付きにくいものです。ですから、このホームページでは全ての宮崎駿作品について、神々がどのようなメッセージを残してきたのかということについて、非常に詳しく解説を書いていきます。そういったことを言葉として理解した上で宮崎駿作品を改めて見返すと、宮崎駿作品を通して我々は神々のメッセージを受け取ることができ、多くの学びを得ることができます。

以下、宮崎駿作品に神々が込めてきたメッセージの概要と宮崎駿がどのようにして神々と共に働いてきたのかということについて、書いていきます。これらの内容は、様々な宮崎駿作品の解説を読んで頂くための前提となる部分なので、このページで全体像を理解して頂き、その上でそれぞれの作品の解説を読んで頂けると幸いです。

※宮崎駿作品が持っている重要なメッセージは宮崎駿本人が意識的に映画に込めたメッセージと完全に一致するわけではありません。神々が宮崎駿作品に関与することで意図的に残したメッセージを宮崎駿本人が気付いていないケースも多くあるからです。宮崎駿自身、作品に意識的にメッセージを込めるということを好んでいない面もあります。
 

【宮崎駿作品にどのようなメッセージを神々が込めてきたのか】

神々は人間と共に作品を創ることで、様々な「真実」を表現してこようとしてきました。それは映像作品に限らず、音楽や絵画や小説といった様々な方法で神々は行なってきた形になります。どうして、神々が「真実」を作品の中に表現しようとしてきたかというと、人間は「真実」を見失っているからです。

そして、宮崎駿は神々と共に大きく分けて2つの「真実」を描いてきました。1つは「気持ち」に関する「真実」、もう1つは「気」に関する「真実」です。この2つに分けて書いていきたいと思います。ただ、後で書きますが、この2つは繋がっています。
 

[「気持ち」に関する「真実」]

・「光」と「闇」

現代を生きる我々は「愛」と「欲望」が対の構造を持っていることを忘れています。つまり、「愛」が誰かを「幸せ」にし、世界をより良い場所にすることと、それに対して「欲望」が誰かを「不幸」にし、世界を破滅に向かわせるということを忘れてしまっている形になります。そして、このようなことを忘れているからこそ、多くの人が「愛」ではなく「欲望」を選んでしまい、皆が知らず知らずの内にお互いを苦しめている現状があります。

「愛」は「相手のことを大事と想う気持ち」であって、だからこそ「相手のため」に何かをしようとし、その結果として、相手のことを思いやり、様々な「問題」を解決していきます。このような形で「愛」は他者を「幸せ」にしていきます。それに対して「欲望」は「自分が利益を得ることを目指す気持ち」であって、だからこそ「自分のため」に何かをしようとし、その結果として、相手に対する配慮に欠け、何らかの「問題」を作っていきます。このような形で「欲望」は他者を「不幸」にしていきます。

「愛」と「欲望」の違いは難しいものではなく、「愛」=「相手のため」、「欲望」=「自分のため」というとてもシンプルな対立構造を持ったものです。そして、この「愛」と「欲望」の対立軸は「光」と「闇」の対立軸のことを意味します。

「愛」と「欲望」の違いをこのような文章だけで理解したとしても、理解はとても浅く、実感はとても薄いです。しかし、例えば『天空の城ラピュタ』を具体例に考えると非常に理解が深まります。 

 

パズーとシータは強い「愛」=「光」=「相手のため」の立場であり、ムスカは強い「欲望」=「闇」=「自分のため」の立場です。だからこそ、物語の中で、パズーとシータはいつも「愛」を動機に「相手のため」に行動を起こすことによって「問題」を解決し、ムスカはいつも「欲望」を動機に「自分のため」に行動を起こすことによって「問題」を作ろうとします。

ムスカが「自分のため」にラピュタを欲しがり、「恐怖」によって世界を支配しようとする姿勢は「欲望」が故に「問題」を作り、他者を「不幸」にする姿勢です。それに対して、パズーとシータが「地球のため」にムスカにラピュタを渡さないように努力する姿勢は「愛」が故に「問題」を解決し、他者を「幸せ」にする姿勢です。このような「愛(誰かのため)」と「欲望(自分のため)」の対立の中で物語は進んでいるので、この物語の中でパズーとシータとムスカがそれぞれの場面でどのように振る舞うのかを分析すれば、我々は「愛」と「欲望」の違いを理解できます。

例えば、映画最後のパズーとシータが滅びの言葉を言うシーンは有名ですが、あの場面でムスカはシータに銃口を向けた状態で「ひざまずけ、命乞いをしろ、小僧から石を取り戻せ」と言い、その後にムスカはパズーに対して「小僧、娘の命と引き換えだ。石のありかを言え」と言います。それに対して、パズーとシータは滅びの言葉(「バルス」)を使い、ムスカにラピュタが渡らないようにするために、自分達が死んででも世界を守ろうとします。

この場面でのムスカの振る舞いが意味することは、「欲望」の立場の人間は相手を「恐怖」によって支配しようとするということです。「欲望」の立場は相手を「自分のため」に都合のいいように動かすためによく「恐怖」を使います。「恐怖」は相手を操作する上で非常に力のある感情だからです。そして、強い「欲望」の立場の人間は相手の命を奪うことや、その相手が愛する誰かを殺すことをほのめかすことによって、相手を「恐怖」で支配しようとします。

「愛」と「欲望」は「相手のため」と「自分のため」という点で相反するものです。だから、強い「欲望」の立場になると「愛」を本当に失い、相手の命を全く大事と思えなくなり、相手の命を奪うということを「自分のため」に使うことができるようになります。そういったことを説明するためにも、この映画にはムスカの「見ろ、人がゴミのようだ」という台詞があります。

それに対して、本当に「愛」が強い人間は自分の命を「誰かのため」に犠牲にすることができます。ここでパズーとシータが自分達の死を覚悟して滅びの言葉を使ったことにはそのような意味があります。これは『風の谷のナウシカ』でナウシカがオームの暴走を自分の死を覚悟して止めたことと同じ意味を持っています。自分の命は自分にとってとても大事なものです。しかし、本当に「愛」が強くなると、自分にとって大事な自分の命さえも、「誰かのため」に犠牲にすることができるようになります。そういった強い「愛」をこの場面は意味しています。

このように、強い「愛」と強い「欲望」の人間が闘う様子を見ることを通して、我々は「愛」と「欲望」の違いを学ぶことができます。それは特別な知識などではなくて、言われれば当然のことばかりです。しかし、「愛」と「欲望」の対立軸を意識して『天空の城ラピュタ』を観ていないと、そういった学びを我々が得られることはできません。だからこそ、こういった意味を理解した上で宮崎駿作品を観ることがとても大事になります。

こういった「光(愛)」と「闇(欲望)」の構造について、宮崎駿作品は多くの重要な「真実」を表現してきましたし、『天空の城ラピュタ』はそういった「光」と「闇」の構造が最も分かりやすい映画作品です。また、宮崎駿が制作したテレビアニメの『未来少年コナン』も『天空の城ラピュタ』と同様に「光」と「闇」の対立軸について多くを学ぶことができます。

『未来少年コナン』は『天空の城ラピュタ』よりも長い分、内容量も多いので、我々が学ぶことができる要素は非常に多いです。また、登場人物の個性も『天空の城ラピュタ』と非常に似ていて、パズー=コナン、シータ=ラナ、ムスカ=レプカといった形で対応しますし、『天空の城ラピュタ』にはいない個性を持った人物も多く描かれるので、かなりの学びを我々にもたらします(ちなみに、ギガントはラピュタと同じ位置付けです)。宮崎駿の映画を全て観たことがある方でも、『未来少年コナン』を全話観ている方は少ないと思います。とても素晴らしい作品なので、御覧になって頂けると幸いです。『未来少年コナン』全話についても解説を別で書きます。

『未来少年コナン』は、YouTubeやNetflixから全作品観ることができますので、リンクを貼付けておきます。是非御覧になって頂けると幸いです。

Youtube:https://www.youtube.com/watch?v=cu0csl0dI08&list=PLIvTKdGqNQjaec7byZ31d_nYKLXbwucAg
Netflix:https://www.netflix.com/title/80083476​


・「光」の種類

宮崎駿作品は「光」と「闇」の対立軸だけではなく、「光」同士の違いも表現しています。我々日本人は「愛」を曖昧に捉えてしまいがちですが、「愛」には種類があります。そういった「愛」の種類について、宮崎駿作品は多くを教えてくれます。

例えば、『もののけ姫』の中ではアシタカもサンもエボシ御前もそれぞれの「愛」のために動いています。サンは森のために、エボシ御前はタタラ場のために、アシタカはその両方のために動いています。しかし、三人は同じ「愛」を抱いているわけではありません。

サンとエボシ御前は同じ「愛」の立場の人間で、「闘いの心」で生きる立場であり、「闘いの心」とは「自分が愛する者を傷つける何者かと闘う気持ち」=「自分が愛する者を守ろうとする気持ち」です。それに対して、アシタカは「問題解決の心」で生きている立場であり、「問題解決の心」とは「自分が愛する者を助けるために問題を解決しようとする気持ち」です。「闘いの心」は「愛」の実践のために「闘い」を使う立場であるのに対して、「問題解決の心」は「愛」の実践のために「問題解決」を目指す立場だからこそ、このような違いが生まれます。ですから、『もののけ姫』を通して我々は「闘いの心」と「問題解決の心」の違いを学ぶことができます。

サンは「森のため」に「闘い」を実践し、エボシ御前は「タタラ場のため」に「闘い」を実践し、アシタカは「森とタタラ場の両方のため」に「問題解決」を実践しようとします。つまり、サンとエボシ御前は全体よりも部分を大事にするのに対して、アシタカは部分よりも全体を大事にしています。「闘いの心」と「問題解決の心」の違いの中で最も重要な要素が、部分を大事にするのか、全体を大事にするのか、という違いです。

「闘いの心」を抱くのであれば、人は自分が愛する人を守ることが何よりも優先順位の高いことと捉え、そのために「闘い」を使うようになります。その結果として、視野が狭くなります。全体よりも部分を優先することをしたいと思うからこそ、このような態度が生まれます。

それに対して、「問題解決の心」を抱くのであれば、人は愛する人のために「問題解決」することを目指します。その結果として、視野が広くなります。何故ならば、小さな問題よりも大きな問題の方が、より解決すべき問題だからです。つまり、部分よりも全体を優先したいと思うからこそ、このような態度が生まれます。

何かしらの困難な状況を乗り越える上で、基本となる「愛」の感情は「闘いの心」と「問題解決の心」です。ですから、この2つの感情について適切な理解をすることは、我々がこの世界をより良い場所にしていく上でとても重要なことです。『もののけ姫』は「闘いの心」と「問題解決の心」の違いが非常に見事に描かれているからこそ、本当に価値のある作品です。宮崎駿作品はこのような形で、それぞれの「愛」の違いを我々に教えてくれます。
 

「愛」は大きく分けて五種類であり、「水・火・風・土・金の気持ち」です。この五種類をまとめて「光の気持ち」と言います。アシタカは「水の気持ち(問題解決の心)」を実践するのに対して、サンとエボシ御前は「火の気持ち(闘いの心)」を実践しています。

神々は、この基本的な「光の気持ち」の違いが物質のデザインによく表れるように物質をデザインしています。例えば、「水」が汚れたものを洗い流す様子は「浄化」であり「問題解決」であるのに対して、「火」が何かを焼き尽くす様子は相手を打ち負かす方向性であり「闘いの心」です。

宮崎駿作品の主人公達は、「水・火・風・土・金の気持ち」の違いを見事に表現しています。それは主人公達の1つ1つの言動を観察することでよく理解できます。逆に言うと、「水・火・風・土・金の気持ち」を人間に伝えるために、神々はそれぞれの登場人物の言動に関する「アイデア」を宮崎駿にもたらしています。

また、それぞれの主人公の着ている服の色などに、それぞれの人物が「水・火・風・土・金の気持ち」のどの「光の気持ち」と共に生きている人なのかがよく表現されています。これは100%一致しているというわけではありませんが、かなり一致しています。ここでは、「水の気持ち(問題解決の心)」と「火の気持ち(闘いの心)」を例にそれぞれの主人公達の服装などを取り上げたいと思います。

 
 

水色と言われるように「水の気持ち」の色は青であり、「火の気持ち」の色は火と同じで黄色・オレンジ・赤です。そういったことを表現するためにも、アシタカは青の服を、サンは赤のメイクを顔にし、赤のお面を付けています。

 

そして、エボシ御前は赤の服と赤の帽子を被っています。

『もののけ姫』以外にも、例えば『紅の豚』の主人公のマルコは「火(闘いの心)」であることを表すために赤い飛行機に乗っていますし、『紅の豚』というタイトルにもそのことは表れています。

「水の気持ち」を持つ主人公達も、多くは水色の服を着ています。『千と千尋の神隠し』のハクは川の神様なので、「水の気持ち」を強く抱いて生きていることは「水」という点で繋がっています。ナウシカは「水の気持ち」に加えて「金の気持ち」も持っているのですが、「水の気持ち」を持っているからこそ青色の服を着ています。『風たちぬ』の堀越二郎も幼少期からずっと青色の服を着ている姿が描かれますし、『崖の上のポニョ』のフジモトも青色の服を着ている姿で登場します。ちなみに、強い光は全てのものを白く照らし出すことに表れているように、白は「光」の基本色だからこそ、青と白の組み合わせでよく描かれています。

  
 

以下、「光の気持ち」五種類について、詳しく書いていきたいと思います。

水の気持ち:「愛」の実践のために「問題解決」を行なおうとする心=「向上心・問題解決の心」
火の気持ち1:「愛」の実践のために「笑い」を使おうとする心=「元気・笑いの心」
火の気持ち2:「愛」の実践のために「闘い」を使おうとする心=「闘いの心」
風の気持ち:「愛」の実践のために「思いやり」を使おうとする心=「優しさ」
土の気持ち:信じることのために何かをやり始めようとする気持ち・やり続ける気持ち=「勇気・忍耐」
金の気持ち:相手を大事と想う気持ちそのもの=「愛」そのもの

それぞれの人間はこの「光の気持ち」のどれを抱きやすいのかという傾向があります。ですから、「水の気持ち」を抱きやすい人を「水の人」、「火の気持ち」を抱きやすい人を「火の人」と呼んだりします。そして、宮崎駿作品の主人公達はこの五種類のどれかが明確に分かれていますので、以下に主要登場人物が「水・火・風・土・金の人」のどれなのかを一覧で書いていきたいと思います。
 

〔水の人:「向上心・問題解決の心」(色:青、紫)〕

「水の気持ち」は「向上心・問題解決の心」のことを意味しますが、「問題解決の心」は自分以外の問題を解決することであって、「向上心」とは自分の問題を解決することです。両者は「問題解決」という点で同じであって、だからこそ同じ「水の気持ち」です。詳しくはここに書いています。

http://junashikari.com/emotion/水の感情について/

宮崎駿作品の中で登場する主な「水の人」は以下になります。

アシタカ、ハク、ユパ、堀越二郎、シュナ、おじい、ラオ、フジモト、ナウシカ(「金」もあり。漫画版は「水」が強い)、ソフィー(老人になる時は「火」、映画最後は「金」)

これらの人物はいつも問題が起きる度に、「愛」を動機としてその問題を解決することを目指します。これらの人物の多くは冷静な姿勢で「水の気持ち」を実践しています。アシタカやハクやユパやラオが「水の人」の個性を理解する上でとても分かりやすいです。

〈水の気持ち「これ以上、憎しみに身を委ねるな!!」〉    〈水の気持ち「双方動くな!!」〉     
 
   〈水の気持ち「シシ神よ、鎮まりたまえ!」〉   〈水の気持ち「降伏しろ、コルベットはもはや戻らん」〉
 

アシタカもユパも同じように「闘い」を止める場面があります。アシタカはサンとエボシ御前の「闘い」を止め、ユパはナウシカとトルメキア兵の「闘い」を終わらせます。これは「水の気持ち」の持つ「問題解決」のことを表現するための場面であって、アシタカとユパが同じ立場の人間であることを人間に伝えるための構造でもあります。アシタカもユパも強い行動と的確な発言を使って「問題解決」をしますが、これは「水の気持ち」の理想的な在り方を表現しています。

 

また、ハクは千尋のために様々な「問題解決」をしますし、ラオはラナや世界全体のために「問題解決」を行ないます。そして、ハクもラオも「問題解決」のために千尋やラナに冷たく接する場面がありますが、これらは「水の人」の特徴を表しています。「水の人」は「愛」の実践のために何よりも「問題解決」を優先するので、必要であれば「愛」を抱く相手に対しても、必要があれば冷たく接することができます。これは他の「光の人」には非常にしづらいことです。例えば、「金の人」だと、相手に対する「愛」が故に相手に冷たく接することがどうしてもしづらくなります。そういった「水の気持ち」の特徴を表現するための描写になります。「水の気持ち」にはこういった「厳しさ」があるということは「水の気持ち」の基本的な特徴だからこそ、宮崎駿作品にはこのことが描かれています。

 
 

堀越二郎も「問題解決」を目指しながら生きていることが強く描かれています。ただ、彼は飛行機作りに関する様々な「問題解決」をすることによって、より良い飛行機を作ろうとする形で「水の気持ち」を実践している人物として描かれます。これは、我々の感覚からすると「向上心」と言った方が理解しやすいです。また、堀越二郎がいじめられている子を助けたり、骨折した女性を背負う場面だったり、親を待つ子供達にお菓子をあげようとする様子もありますが、これらは「愛」のための「問題解決」の方向性であって、堀越二郎が「水の気持ち」と共に生きていることを分かりやすく示すために神々が描いたシーンです。堀越二郎はこういった「問題解決」の場面において、一貫して冷静に対処します。堀越二郎は宮崎駿作品の他の「水の人」と異なり、人間同士の「問題解決」をすることがメインではなく、飛行機作りにおける「問題解決」がメインの人であって、一つの「水の人」の在り方を伝えるための人物です。

余談ですが、堀越二郎の声優を務めた庵野秀明は「水の気持ち」でアニメーション制作を行なっています。堀越二郎も庵野秀明も「水の気持ち」で物作りをしているからこそ、このような配役を神々が導いています。また、堀越二郎に指導をしていた黒川は「火の気持ち」で物作りと向き合っていますが、その姿は現実世界で庵野秀明を過去に指導していた宮崎駿自身とも重なります。後で詳しく書きますが、宮崎駿は「火の気持ち」で物作りを行なっているからです。ですから、本当は黒川は宮崎駿が声優を務めていてもいいキャラクターでした。

〈不安「しくじるとポニョは泡になってしまう」〉    〈焦り「いかん!人工衛星まで堕ち始めた!」〉 
 

フジモトは「水の気持ち」を強く抱きながら生きているのですが、「水の気持ち」が堕ちやすい罠のことをよく表現しているキャラクターとして描かれています。例えば、「問題解決」を目指す気持ちは「焦り」や「不安」に堕ちやすいものですが、フジモトは「問題解決」を目指すが故に「焦り」や「不安」にも堕ちます。また、フジモトは人間嫌いとして描かれますが、「水の人」は問題をいつも見つめるが故に、問題を抱える人に対して「嫌悪」を抱いてしまうという「闇」に堕ちがちです。フジモトはその点も表現しています。また、「水の気持ち」であっても、必要以上に問題を深刻に考えたり、必要以上に慎重な悪い癖を持っている様子も描かれますが、こういった傾向は「問題解決」が故に堕ちやすい罠です。宮崎駿作品においては、アシタカやユパといった、非常に完璧な形で「水の気持ち」を実践しているキャラクターは『崖の上のポニョ』以前に既に描かれているので、フジモトを通して不完全な「水の人」を神々は描いた形になります。

〈金の気持ち「よかった。オーム、ありがとう。」〉    〈水の気持ち「(私達を)運びなさい!」〉  
 

ナウシカは「金の気持ち(愛そのもの)」を抱く描写が多くあります。「金の気持ち」は物質の金と同様にとても美しいです。ナウシカの「愛」がとても美しく描かれる時、その時にナウシカが抱いている感情は「金の気持ち」です。それに対して、ナウシカがとても強い行動を行なっている時にはナウシカは「水の気持ち」を抱いています。その時は「美しさ」というよりも「力強さ」を我々はナウシカから感じます。

『風の谷のナウシカ』は漫画と映画でナウシカの個性が少し異なります。例えば、映画のナウシカは自分の父が殺されたことで「怒り」に堕ちて敵兵を殺してしまいますが、漫画のナウシカは自分の父が殺されて「怒り」に堕ちることで敵兵を襲うのではなくて、「問題解決」のために「水の気持ち」で敵兵に斬り掛かります。漫画版のナウシカは「金の気持ち」よりも「水の気持ち」を強く抱き、映画版のナウシカは「水の気持ち」よりも「金の気持ち」を強く抱いているという傾向があるということは言えます。漫画と映画のナウシカの違いについては『風の谷のナウシカ』の解説で、非常に細かく説明します。

 


〔火の人:「元気・笑い」「闘いの心」(色:赤、オレンジ、黄)〕

「火の気持ち」は「元気・笑い」と「闘いの心」の2つの側面を持っています。「元気・笑い」とは「相手のため」に相手に「元気・笑い」を与えようとする気持ちであり、「闘いの心」とは「相手のため」に敵と「闘う」ことをしようとする気持ちのことを意味します。ですから、「火の気持ち」を強く抱く人は「元気・笑い」と「闘いの心」を行ったり来たりする人も多いです。普段はとても「元気」で人に「笑い」をもたらすのが好きなのですが、誰かが自分の愛する人を攻撃したりすると「闘いの心」で闘う姿勢になるような形です。

宮崎駿自身が「火の人」で、「元気・笑い」と「闘いの心」の間を行ったり来たりしている方です。だからこそ、宮崎駿作品には「火の人」が多いという背景もあります。例えば、『紅の豚』などは登場人物のほとんど全員が「火の人」です。そういった背景もあって、「火の気持ち」を表す「紅」=「赤」という言葉がタイトルに置かれています。また、スタジオジブリの「ジブリ」という名前は「熱風」という意味ですが、これも「火の気持ち」を表すために神々が授けた名前になります。

火や太陽の色が赤、オレンジ、黄であることによく表れているように、「火の気持ち」の色は赤、オレンジ、黄です。ですから、宮崎駿作品の中で登場する「火の人」は赤、オレンジ、黄の服をよく着ていますし、髪の毛の色が赤毛だったりします。

「火の人」であっても、人によっては「元気・笑い」と「闘いの心」のどちらか一方に偏る人もいます。ですから、「元気・笑い」と「闘いの心」を行ったり来たりする人なのか、それとも「元気・笑い」と「闘いの心」のどちらか一方を強く抱いているのかということは一覧化する必要があるので、以下に整理していきます。

・火の気持ち1&2=「元気・笑い」「闘いの心」両方
パズー、コナン、ルパン、アスベル、フィオ、リサ、キキ、ポルコ、サツキ、宗介

 〈元気・笑い「僕の頭は親方の拳骨より固いんだ」〉  〈闘いの心「(ムスカに向かって)待てーー!!」〉
 
    〈元気・笑い〉                     〈闘いの心「ラナに触るなー!!」〉
 
〈元気・笑い「今はこれが精一杯」〉              〈闘いの心「(クラリスを)自由にしてやれ」〉
 
〈元気・笑い「(チコの実を)長靴一杯食べたいよ」〉 〈闘いの心「その子(ナウシカ)を行かせてやれ!」〉
 

パズーとコナンはほとんど同じ個性であって、シータやラナを「元気・笑い」によって笑顔にすることもあれば、シータ・ラナを傷つける何者かが現れた時は、その敵に対して「闘いの心」で挑みます。この二人は「火の人」が「愛」が故に「元気・笑い」と「闘いの心」の間を振れるということを理解する上でとても分かりやすい人物像です。アスペルも同じような意味を持っています。また、宮崎駿が描くルパンは『ルパン三世』の原作者であるモンキー・パンチが描いたルパンと異なり、「火の気持ち」が強い人物として描かれています。

〈元気・笑い「宗介も元気だしなー!!」〉     〈闘いの心「除草剤じゃないなら結構です!!」〉
 
               〈元気・笑い「ありがとう!」〉       〈闘いの心「なにとんちんかんなこと言ってんのよ!」〉
 
〈元気・笑い「もちろんそのつもり!」〉    〈闘いの心「描いて描いて描きまくる」〉
 

また、そういった「火の人」の個性を女性でよく表現しているのが、フィオやリサやウルスラです。この三人も普段は「元気・笑い」によって周りの人を笑顔にするのですが、敵が現れた時や困難な状況に立ち向かわないといけない時は「闘いの心」で挑みます。

          〈元気・笑い〉              〈闘いの心「真っすぐ飛びなさい!燃やしちゃうわよ!」〉
 
〈絶望(焦りが故にほうきを折ってしまう)〉       〈嫌悪「だって、お客さんちっとも来ないんだもん」〉
 

キキも「元気・笑い」と「闘いの心」を振れて生きています。普段は「元気・笑い」で非常に可愛らしいのですが、トンボが飛行船から宙吊り状態になった時はブラシに向かって「真っすぐ飛びなさい!燃やしちゃうわよ!」と言う程に「闘いの心」を抱いています。ただ、キキはいつも「火の気持ち」を抱いているわけではなくて、「嫌悪・嫉妬・絶望・不安・焦り」といった「闇の気持ち」にも堕ちる様子も描かれます。

 〈元気・笑い「ばあちゃん、まだお迎えこねえのか?」〉                              〈闘いの心〉                
                              〈怠惰〉                          〈優越感(見下し)「汚ねえのが一杯出てきやがったな」〉
 

ポルコもキキと同じく「火の気持ち」と「闇の気持ち」の両方を抱いている人間として描かれています。ただ、キキが「嫌悪・嫉妬・絶望・不安・焦り」といった「苦悩」をもたらす「闇の気持ち」を抱くのに対して、ポルコが抱く「闇の気持ち」は「欲望・怠惰・優越感」といった「快楽」をもたらす「闇の気持ち」を抱きます。「闇の気持ち」は「苦悩系」と「快楽系」の2種類あり、「火の人」が抱きやすい「闇の気持ち」をこの二人は捉えている形になります。また、キキがトンボを「闘いの心」で助けるのと同様に、マルコは映画の最後にフィオのために「闘いの心」でカーチスと闘います。

   〈元気・笑い「メイ!橋があるよー!」〉                  〈闘いの心「こんなところで寝ちゃダメでしょ!」〉   
 

また、サツキはメイに対する「愛」から「元気・笑い」と「闘いの心」の間を揺れている様子が描かれています。メイと一緒に遊ぶ様子などは「元気・笑い」であって、メイを説教している場面などは「闘いの心」です。ただ、サツキは子供らしい子供として描かれているので、母の病気やメイの迷子を通して「不安・恐怖」に堕ちる場面も描かれます。

〈闘いの心「大丈夫だよ、僕が守ってあげるからね」〉                            〈闘いの心〉                         
 

宗介も「元気・笑い」と「闘いの心」の両方を持っている子として描かれていますが、宗介の特徴は非常に幼い子供の「闘いの心」を多く表現している点です。ポニョに対して、ポニョをなんとか守ろうとする様子は子供の「闘いの心」であって、大人の「闘いの心」が非常に凛々しさを伴うのに対して、宗介は非常に可愛らしい「闘いの心」です。ですから、宗介の姿は我々に幼い子供の「闘いの心」のことを教えてくれます。
 

・火の気持ち1=「元気・笑いの心」
メイ、ポニョ、トンボ、おソノ

メイ、ポニョ、トンボ、おソノといったキャラクターは「火の気持ち」の「闘いの心」を抱かずに「元気・笑い」ばかりを抱く人物として描かれています。

  〈元気・笑い〉                〈嫌悪「嘘じゃないもん。。」〉
 
      〈元気・笑い〉                     〈嫌悪〉          
 

メイもポニョも子供ですが、そもそも子供は「火の気持ち」の「元気・笑い」を強く抱きながら生きている存在です。どうしてこのようなことが起こるかというと、幼少期の子供の身体は「火の気」を強く受け取りやすい状態だからです。地球に最も大きな「光の気」を与えているのは太陽であって、太陽が地球にもたらしているのは「火の気」です。だからこそ、「光の気」を受け取りやすい子供は「火の気」を一番受け取りやすくなります。その結果として、子供は「火の気」と共に生きることになり、大人よりも「元気」ですし「笑い」に満ちています。

ただ、子供だからといっていつも「火の気持ち」を抱けるわけではなく、その魂が何かしらの「闇」を抱えているのであれば、「闇の気持ち」も抱きます。例えば、メイは「火の気持ち」を抱きながらも「負けず嫌い」を抱える様子が描かれています。そういったことを表すメイの発言が「メイ怖くないもん!!」といった台詞です。また、ポニョもフジモトなどに対して「嫌悪」で接する様子が描かれます。

『崖の上のポニョ』は小さな子供が抱いている「火の気持ち」のことを強く表現しています。ポニョは「火の気持ち」の「元気・笑い」を強く抱き、宗介は「火の気持ち」の「闘いの心」を強く抱きながら生きている子供として描かれています。ですから、我々は『崖の上のポニョ』から子供の「火の気持ち」を学ぶことができます。

 

トンボやおソノは子供が「元気・笑い」を抱きやすいこととは関係無しに、純粋に「火の気持ち」の「元気・笑い」を抱き続けている人間として描かれているキャラクターです。この2人はいつもキキに対して「元気・笑い」で接し、そのことによってキキを「元気」にします。

宮崎駿は『魔女の宅急便』の本も発表していて、その本のタイトルは『元気になれそう』です。キキが「元気」になることをトンボやおソノやウルスラといった「火の人」が支えているという構造は「火の気持ち」という点で繋がっていると理解して頂けると幸いです。

このような意味で、『魔女の宅急便』は、キキが様々な「火の人」との出会いや試練の中で「火の気持ち」を強くしていく物語です。そういった意味合いと重なるのが『千と千尋の神隠し』であって、千尋は物語の中で「水の気持ち」を強くしていきます。だからこそ、キキが「火の人」と出会っていったのと同様に、千尋はハクという「水の人」と出会っている側面もあります。

 

キキは未熟な「火の人」であり、千尋は未熟な「水の人」であって、そんな二人が自分自身の「火の気持ち」と「水の気持ち」を強くしていくという形でこの二つの物語のことを理解して頂けると、この二つの作品を比べることによっても我々は多くを学ぶことができます。そのことはDVDのジャケット写真にもよく表れています。キキはパンに囲まれ、千尋は水に囲まれていますが、パンが我々にもたらすものは「カロリー=熱量=火の気」だからです。


・火の気持ち2=「闘いの心」
クシャナ、サン、エボシ御前、ジーナ、本庄、銭形

〈闘いの心「焼き払え!」〉                            
 

サンとエボシ御前については既に説明しましたが、エボシ御前と非常に近い立場の「闘いの心」を抱いているキャラクターとして描かれているのが、クシャナです。クシャナもエボシ御前も、人間のために森や腐海に生きる命と闘おうとする立場です。ただ、クシャナについては映画のナウシカだと描き切れていない要素がかなりあり、宮崎駿が描いた漫画の『風の谷のナウシカ』を読んで頂けるとクシャナが「愛」が故に「闘いの心」を抱いていることを深く理解できます。

〈闘いの心「女を桟橋の金具くらにしか思ってないんでしょ!」「マルコ、また女の子を不幸にするつもり?」〉
 

『紅の豚』のジーナはサン、エボシ御前、クシャナなどと異なり、より柔らかい「闘いの心」を抱いている人物として描かれます。「闘いの心」の中にも、過激なものから比較的柔らかいものまで様々です。ジーナはマルコに対する「愛」が故に、マルコに対して「闘いの心」で説教をよく行ないます。様々な空族や賞金稼ぎがジーナの店では大人しくしている様子も、ジーナが柔らかな「闘いの心」で「闇」に打ち勝っていることを表しています。

〈闘いの心「こんな旧式機、日本にも一杯あらあ!」〉     〈「見事にあの巨人機についてしか書いていない」〉
 

『風立ちぬ』の本庄は「闘いの心」で飛行機作りと向き合っている人物として描かれます。「日本はもう十年も遅れているんだ!」といった言葉をよく言いますが、日本が他国に技術が劣っていることを問題と捉え、そういった問題に対して「闘いの心」で向き合っている人物として描かれます。堀越二郎は「水の気持ち」で物作りに向き合い、本庄は「火の気持ち」で物作りに向き合っているという構造は、「光」の物作りにおいて基本的な2つの感情を表しています。どうして、「水の気持ち」と「火の気持ち」が物作りにおいて基本となる感情なのかについては、『風立ちぬ』の解説で説明します。余談ですが、この2人の構造は、アニメーション制作を「火の気持ち」で行なってきた宮崎駿(本庄の立場)と「水の気持ち」で行なってきた庵野秀明(堀越二郎の立場)とも重なります。

〈闘いの心「警察官の血が疼くわ」〉                   〈「長官!犯罪であることは明白ですぞ!」〉
 

『ルパン三世 カリオストロの城』の銭形は「闘いの心」で警察官を務めている人物として描かれています。上司に逆らう様子から、銭形が上の立場の人間の命令に従って警察官を務めているわけではなく、銭形自身の良心に従って警察官を務めていることがよく分かります。

 

〔風の人:「優しさ」(色:緑)〕

「風の気持ち」は「優しさ」です。我々現代人は「優しさ」という言葉を色々な意味で使いますが、本来の「優しさ」とは「愛」のために「思いやり」を実践することを意味します。「思いやり」は相手の立場になって考えることであって「想像力」とも言えます。そういった「思いやり」をするからこそ、相手の苦労や相手の境遇のことなどを考え、自然と「優しさ」を実践したい気持ちになります。これは「水の気持ち」が「問題解決」を目指す気持ちや、「火の気持ち(元気・笑い)」が相手を「元気」にしようとする気持ちや、「火の気持ち(闘いの心)」が愛する者を傷つける何者かに「闘い」を挑む気持ちとは異なります。宮崎駿作品に登場する「風の人」は以下の三人です。

ハウル、草壁タツオ、キキのお父さん

           〈優しさ「上手だ」〉      〈無の心(ソフィーのキスに対しても心が動かない)〉
 

ハウルは「光」と「闇」の両方を抱えていますが、ハウルが持つ「光」は「風の気持ち」=「優しさ」です。映画の中でハウルが「優しさ」を実践する様子は度々描かれます。

 

また、「風の気持ち」の色は緑だからこそ、ハウルは姿を変えても「光」を保っている限り必ず緑色のイヤリングが輝いています。逆に、「光」を完全に失った時はイヤリングさえも見えなくなっています。(風の最も大きな役割は物理的に移動できない植物が色々な「気」に触れることを支えることです。そして、植物の葉の色は緑色です。だからこそ、「風の気持ち」の色は緑色です。)

「風の気持ち」=「優しさ」は相手を支える方向性であって、具体的な問題と向き合うことには不向きな「光の気持ち」です。ハウルは自分が抱える「光」は「風の気持ち」なのですが、そういった「風の気持ち」では具体的な問題と向き合うことができないが故に「闇の気持ち」に手を付けてしまっている人物として描かれます。つまり、ハウルは「光」のために「闇」を使う人物として描かれています。ハウルについての詳しい解説は『ハウルの動く城』の解説で書きます。

      〈優しさ「くたびれたかい?」〉   〈優しさ「うまくいかなかったら帰ってきていいんだよ。」〉
 

『となりのトトロ』『魔女の宅急便』のお父さん二人は「風の人」として描かれています。二人が本質的に同じ人間であることを示すために、二人のデザインはほとんど同じです。先程、「風の気持ち」は具体的な問題と向き合うことよりも、相手を支える方向性に向かうということを書きましたが、この二人はそういった「風の気持ち」の特徴を理解する上でとても参考になります。草壁タツオはメイのわがままにも決して怒らず「優しさ」で接し、キキのお父さんはキャンプの道具を借りてきた時に、キキの急な旅立ちの日程変更にも怒らず「優しさ」で接します。

       〈闘いの心「ちょっと待ちなさい!キキ!」〉       〈闘いの心「メイの馬鹿!!」〉     
 

例えば、「火の人」などであったら、こういった場面に直面した時、「闘いの心」でメイやキキに説教をします。そういった立場にいるのが、サツキとキキのお母さんです。整理すると以下のようになります。

   少しワガママな火の人     風の人(「優しさ」で接する)   火の人(「闘いの心」で接する)
      メイ          草壁タツオ            サツキ
      キキ          キキのお父さん          キキのお母さん

「風の気持ち」は相手を支えもするのですが、相手に対する「甘さ」にも繋がりやすい感情です。そういったことをよく表すのが、キキのお父さんが修行への旅立ちの時に「うまくいかなかったら帰ってきてもいいんだよ」という言葉です。これは「優しさ」ですが、「甘さ」にも近い言葉です。「水の人」や「火の人(闘いの心)」であれば、修行によってキキの心が成長することを思うので、「うまくいかなくても何とか頑張るんだよ」と言うタイミングだと思います。

 

また、「風の気持ち」が「甘さ」に近いことを表現するためにも、草壁タツオがよく寝坊をしていたり、病院に行く時に道を間違えたり、キキのお父さんがキャンプ道具のひもを足で引っ掛けてしまう様子が描かれます。こういった細かい描写にも、神々は明確なメッセージを込めています。

「風の気持ち」は「思いやり」によって相手を支えるのですが、「甘さ」にも繋がりやすい感情です。それに対して、「水の気持ち・火の気持ち(闘いの心)」は相手の成長を促すのですが、相手に対する「嫌悪」にも堕ちやすい性質を持っています。そういった対比を宮崎駿作品は的確に捉えています。

宮崎駿作品において「風の人」はそこまで多く描かれていません。それは、問題が山積みの現代において必要なのは「風の人」よりも「水の人」や「火の人」だと考える神々の考えがあります。また、全てのきっかけである「愛」そのものを表現する「金の人」を強く描く必要があるという考えもあります。

神々が「水の人・火の人・金の人」を宮崎駿に描いてほしいと思うからこそ、宮崎駿の心に「水の人・火の人・金の人」を描きたいという気持ちと「水の人・火の人・金の人」に関する「アイデア」が起こります。その結果として、宮崎駿作品には「風の人」が少ないという傾向が生まれています。
 

〔土の人:「忍耐・勇気」(色:土色)〕
なし

宮崎駿作品の主要キャラクターの中に「土の人」は一人も描かれていません。これは「風の人」が少ないことと同様に、神々が「土の人」を描くことを今はすべきではないと思っている考えが反映されています。

「土の気持ち」は「勇気・忍耐」のことであって、「信じることのために何かをやり始めようとする気持ち・やり続ける気持ち」のことを意味します。ですから、「土の気持ち」自体に「愛」は含まれていません。

「水の気持ち・火の気持ち・風の気持ち」は「愛」を動機として何かしらの行動を起こす気持ちです。そして、「金の気持ち」は「愛」そのものです。それに対して、「土の気持ち」は「愛」を動機として生まれる感情ではなく、「自分が正しいと思うこと」を動機に何かしらの行動を促す気持ちです。もし「自分が正しいと思うこと」が「光」を実践する上で正しいことであれば、「土の気持ち」は一つの「光」の武器となるのですが、もし「自分が正しいと思うこと」が間違っていることであれば、「土の気持ち」は恐ろしい凶器となります。

宮崎駿作品には「土の人」は描かれていませんが、庵野秀明の『エヴァンゲリオン』の中で「土の人」として描かれているのが碇ゲンドウです。碇ゲンドウは「闇」も持っていますが、彼が基本的に抱いている気持ちは「土の気持ち」であって、彼は「人類補完計画が正しい」という間違った考えを抱いている「土の人」として描かれています。

ちなみに、碇ゲンドウのサングラスが土色をしていることも「土の人」であることを示すためのデザインです。『エヴァンゲリオン』も宮崎駿作品と同様に、登場人物が抱く「光の気持ち」の色はかなり対応しています。宮崎駿作品とは直接の関係はありませんが、参考のために載せておきます。ただ、『エヴァンゲリオン』の登場人物は皆「闇」を抱え、不完全な「光の人」として描かれています。

  
  

碇シンジ:水→青・紫
惣流・アスカ・ラングレー:火(闘いの心)→赤
綾波レイ:水→青・紫
葛城ミサト:火(元気・笑い+闘いの心)→赤
赤木リツコ:水→青・紫
真希波・マリ・イラストリアス:火(元気・笑い)→黄・オレンジ・赤(マリはピンク)

宮崎駿が神々と共に「光」を強く描いてきたのに対して、庵野秀明は神々と共に「闇」を強く描いてきたアニメーション作家です。人間は「光」と「闇」についての理解を失ってしまっているからこそ、「光」と「闇」の理解を促すために神々が世に送った二人のアニメーション作家がこの二人だと認識して頂けると幸いです。神々はこの二人をこのような位置付けで考えているからこそ、『風立ちぬ』の堀越二郎の声を庵野秀明が務めるということも導いた形になります。

ですから、この二人の作品を深く理解すれば、今のこの時代に、神々が我々人間にどのような「光」と「闇」と教えたいのかを理解できます。そして、宮崎駿作品の中で「土の人」は描かれず、庵野秀明の作品の中で「土の人」が非常に危険な人間として描かれていることから、神々が今はまだ人間は「土の気持ち」が必要な段階ではないと思っていること、人間が「土の気持ち」を抱く事を危険視しているということが理解できます。

「愛」があると「光」を実践できない場面はありますし、「愛」がある人にはできない「光」はあります。例えば、ものすごく酷いことを「光」のためにしなければならない時、「愛」があるとそのすべきことをすることができません。「土の気持ち」はそういったことをするために存在する「光の気持ち」です。

そして、今の人間の現状は「愛」が足りていない段階であって、だからこそ「愛」があるとできないことをできるようにするべき局面ではありません。そういった現状だからこそ、神々は人間に「土の気持ち」を教えたいと思っていないと言えます。そういった神々の意志が宮崎駿と庵野秀明の作品に反映されています。

碇ゲンドウは人類補完計画という間違ったことを信じ、それが正しいと思い込んでいて、そのためであればありとあらゆる酷いことができるが故に、「闇」を増やしてしまっています。「土の気持ち」は「光の気持ち」の一つですが、「土の人」が間違ったことを信じるのであれば、このようなリスクを生みます。そして、人生は短くはないので、「土の人」が生涯を通して正しいことを信じ続けることは簡単なことではありません。また、物事を正しく判断するためには、「真実」を根拠に判断する必要がありますが、我々現代人は「真実」を見失っているので、今は適切な判断を非常にしづらい局面です。そういった背景があって、神々は「土の気持ち」を非常に危険視している形になります。

 

〔金の人:「愛」そのもの(色:金)〕
シータ、ラナ、グランマンマーレ、クラリス、草壁靖子、里見菜穂子、ナウシカ(「水」もあり。漫画版は「水」が強い)、『魔女の宅急便』の老婦人

  〈愛(昇っていくラピュタを見ている時の目線)〉  〈愛(残され島に辿り着いた時の目線)〉        
 
〈愛「はい(ルパンに心を盗まれたことを認める)」〉 〈愛(二郎の「ここで一緒に暮らそう」に対する表情)〉
 
〈愛「あの子達、見た目よりずっと無理してきたと思うの」〉〈愛「ポニョを人間にしてしまいましょうよ!」〉
 
〈愛「疲れたでしょ?いっぱい走って」〉  〈愛「それをキキという子に届けてほしいの」〉
 

「金の人」については一番分かりやすいかもしれません。上のように整理できることは感覚的に理解できると思います。どうして「金の人」は感覚的に理解しやすいかというと、「金の気持ち」=「愛」はとても美しいからです。上に列挙している人物は皆「愛」の美しさと共に生きている人物です。

 

これらの人物は皆「金の気持ち」=「愛」をいつも強く抱きながら生きているのですが、目の前の問題と向き合う時には「水の気持ち」や「火の気持ち(闘いの心)」を使っている様子も描かれています。例えば、ナウシカは問題と向き合う時に「水の気持ち」を使い、シータやラナはムスカやレプカと向き合わないとならない時に「闘いの心」を使います。

そういった感情の変化から我々は「愛」がどのように「水の気持ち」や「火の気持ち」に繋がるのかということを感覚的に理解することができます。「愛」は「水の気持ち・火の気持ち・風の気持ち」の根本にあるものであって、「金の気持ち」は「愛」そのものの感情です。ですから、「金の気持ち」=「愛」が強ければ強い程、より強い「水の気持ち」や「火の気持ち」に繋がります。ナウシカ・シータ・ラナといった人物はそういったことを強く表現しています。

それに対して、クラリス、草壁靖子、里見菜穂子、『魔女の宅急便』の貴婦人といった人物は「金の気持ち」を抱いている様子しか描かれていません。これらの人物は「金の気持ち」によって、どのように「光」を実践するのかを表現している人物です。ナウシカ・シータ・ラナも「金の気持ち」で相手を支えるということを行ないますが、クラリス・草壁靖子・里見菜穂子は「金の気持ち」でどのように相手を支えるのかということを我々に伝えることに特化した人物であると理解して頂ければ、と思います。


※『ハウルの動く城』のソフィーとマルクルについて

ここまで全く説明してきませんでしたが、ソフィーは「水の気持ち・火の気持ち・金の気持ち」を実践している人物として描かれています。ソフィーが若い姿の時は「水の気持ち」または「金の気持ち」を、老人になる時は「火の気持ち」または「闇の気持ち」を実践しています。宮崎駿作品の中で、最も多くの種類の「光の気持ち」を抱いている人物がソフィーです。

〈水の気持ち〉                  〈金の気持ち〉  
 
〈闘いの心「虫ども!掃き出しちゃうよ!」〉    〈嫌悪「もうこの家出てってやる!」〉  
 

ソフィーが老人の姿になると「火の気持ち」を抱き、若い姿になると「水の気持ち」を強く抱くのとちょうど正反対に、マルクルは子供の姿の時は「火の気持ち」を抱き、老人の姿になると「水の気持ち」を抱く姿が描かれます。子供の姿の時はとても「元気」で、老人の姿の時は冷静に「問題解決」をしようとしています。ですから、マルクルが映画の中で「変装じゃありません!魔法です!」と言う通り、マルクルは魔法を実践しています。

この台詞は変装が魔法と同じ意味を持つという神々のメッセージでもあります。例えば、女性の方だと分かりやすいと思いますが、メイクの仕方をガラッと変えると、そのメイクによって自分の人格にも変更が少し加えられます。外見の変更は自分自身に対するセルフイメージを変えるので、このような人格の変更が行なわれます。ですから、人格の変更を魔法と捉えるのであれば、変装やメイクは魔法です。

〈元気・笑い〉                  〈水の気持ち〉 
 


説明が長くなりましたが、それぞれの登場人物がどの「光の気持ち」と共に生きている人物なのかを踏まえた上で、それぞれの作品を鑑賞するのであれば、我々は「水・火・風・土・金の気持ち」について理解を深めることができます。神々としては、人間がそのように「光の気持ち」について理解を深めることを元々狙って、宮崎駿に登場人物の個性の「アイデア」を与えている形になります。

我々はいつも自分の「気持ち」によって何かを行っています。だからこそ、「気持ち」がこの世界を作っているとも言えます。ですから、我々人間が最も理解すべき「真実」とは「気持ち」に関する「真実」です。

現代を生きる我々は「光」と「闇」の対立軸を忘れたが故に、「欲望」を選んでしまい、そのことで様々な「問題」を作り続けています。そして、「光」同士の違いを忘れたが故に「光」同士で協力し合うことが困難な状況があり、様々な「問題」を解決することができていない現状があります。

それぞれの「光の気持ち」は長所と短所を抱えています。そして、宮崎駿作品はそういった「光の気持ち」の長所と短所を的確に捉えた登場人物達が描かれています。ですから、それぞれの登場人物がどういう「光の人」で、その「光の気持ち」のどのような長所と短所を実践しているのかを意識しながら宮崎駿作品を観るのであれば、我々はそれぞれの「光の気持ち」の長所と短所を学ぶことができます。

このような意味で、宮崎駿作品は我々が「光の気持ち」に関する「真実」を理解するための教科書のような意味を持っています。

 

[「気」に関する「真実」]

現代を生きる我々は、神々や悪魔がいることを忘れてしまっています。どうして、我々がそういった目に見えない存在のことを忘れてしまったのかというと、そういった存在が我々にどのように関与しているのかが分からなくなってしまったからです。

神々や悪魔といった目に見えない存在は「気」を司り、「気」を操ることによって、地球に生きる様々な命に関与しています。ですから、我々が神々や悪魔のことが分からなくなってしまったのは、「気」のことを忘れたからと言えます。

「気持ち・気分」という言葉が示すように、我々は「気」を「持つ・分かつ」ことによって「気持ち・気分」を抱いています。例えば、大都会にいる時と大自然の中にいる時とでは、我々の「気持ち・気分」はかなり異なります。これは、その場所が持っている「気」の違いによって起こる現象です。大都会にある「気」はいいものではないが故に「欲望」といった「気持ち・気分」を抱きやすいのに対して、大自然にある「気」はいいものであるが故に「愛」といった「気持ち・気分」を抱きやすいです。

「気」は大きく分けて2種類であり、「光の気」と「闇の気」です。「光の気」を我々人間が受け取ることができたのであれば、「愛」を基本感情とする「光の気持ち」を抱く事ができ、「闇の気」を我々人間が受け取るのであれば、「欲望」を基本感情とする「闇の気持ち」を抱くことに繋がります。

そのことを宮崎駿作品は的確に描いています。我々人間には「気」は見えません。ですが、アニメーションという方法であれば、「気」を見えるように描くことができます。そして、宮崎駿作品の中では「気」が見える形で描かれているが故に、我々が「気」のことを理解する手助けとなります。
 

・「光の気」について

このような意味で、例えば「水の気持ち(問題解決の心)」を抱くのは我々が「水の気」を抱くからであり、「火の気持ち(闘いの心)」を抱くのは我々が「火の気」を抱くからです。このような形で、「光の気持ち」の原因となる「光の気」が五種類あり、それは「水・火・風・土・金の気」です。この五種類の「光の気」が「水・火・風・土・金の気持ち」を作ります。

これは古代中国で起こった五行思想や古代ギリシャで起こった四大元素説と同じ考え方になります。古代中国では「気」と呼び、古代ギリシャでは「プシュケー」という形で「気」のことを呼んできましたが、本質的には「気」も「プシュケー」も両者は同じです。

古代中国(五行思想)      水   火   木   土   金
古代ギリシャ(四大元素説)   水   火   風   土  エーテル

そもそも、心理学とは英語で「psychology」と書きますが、この言葉は「プシュケー(psyche)」=「気」を語源に持っている言葉です。つまり、我々人間は元々は心の動きは「プシュケー」=「気」によって成り立っていることを知っていたのであって、現代では忘れ去られてしまっただけになります。

また、「気」の考え方は科学とも繋がり、「気」のことを踏まえた上で宇宙を捉えるのであれば、何故太陽系がこのような形をしているのかも理解できます。太陽系は五種類の「光の気」を地球に送るためのシステムです。以下のような形で、それぞれの星に宿っている「気」と星の名前は対応関係を持っています。「気」のことを理解していたかつての人間はその星に宿る「気」に合わせて、それぞれの星の名前を付けているので、このような対応関係を持っています。

水星:「水の気」
太陽:「火の気(元気・笑い)」
火星:「火の気(闘いの心)」
木星:「風の気」
土星:「土の気」
金星:「金の気」

太陽と月が地球から見て、全く同じ大きさに見えるという構造は、神々が太陽系をデザインしたからこそ起こっています。このような現象が偶然起きたと考える方が不自然だからこそ、このように言えます(太陽は「光」の星であるのに対して、月は「闇」の星です)。そして、神々が太陽系をデザインしたと言えるからこそ、水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星といった太陽系のそれぞれの惑星も必要だからこそ存在していると言うことができ、それぞれの惑星は地球に「光の気」を送っています。太陽系の構造については、詳しくはここに書いています。

http://junashikari.com/energy/「気」と太陽系の関係性/

物体には「気」が宿ることができます。逆に言うと、「気」を宿すために物体は存在します。太陽系のそれぞれの星は必要だからこそ存在するのであって、それぞれの星は大量の「気」を宿し、その「気」を地球へ送るために存在しています。このような意味で、精神と物体は「気」を通して繋がっているものなのですが、我々人間は「気」のことを忘れたが故に、精神と物体が繋がって見えなくなってしまい、そのことを原因に「真実」が見えなくなってしまいました。

宮崎駿作品の中で直接的に星の神々が「光の気」をもたらしている描写があるのは、『崖の上のポニョ』のグランマンマーレです。グランマンマーレは金星に宿る神様、つまり金星神として描かれます。

 

どうして、グランマンマーレが金星神であると言えるかというと、「金の気」を司っている様子が描かれていますし、「私達は元々泡から生まれたのよ」という発言があるからです。金星神は別名アプロディーテー(ヴィーナス)ですが、「アプロディーテー」とは「泡の女神」という意味を持っていると解釈することもできますし、海の泡から生まれたという神話もあるからこそ、この発言はグランマンマーレが金星神であることの根拠となっています。アプロディーテーの名前については、こちらのウィキペディアに詳しく載っています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/アプロディーテー

あと、『崖の上のポニョ』の中でグランマンマーレが最初に描かれる場面で、月が金色に近い色で描かれ、その星に帰るような形で描かれています。金星神は海の神様のような形で描かれていますが、金星神は太陽系における「金の気」を司っているが故に、海にも強く関与している神様なので、このような形で描かれています。

 

『崖の上のポニョ』の中で描かれる月と実際の金星を並べると、非常に似ていることを理解できます。また、グランマーレが登場するシーンでこの星からの「金の気」が降ってくる様子も映画の中で描かれています。左の写真の左上のものが星の「金の気」です。これはグランマンマーレが星の神様であることを描くための描写であって、「金の気」をメインで司る星の神様は金星神だけなので、この点からもグランマンマーレが金星神であると言えます。

 

また、「金」というポイントを強調するために、グランマンマーレが関与する宗介のお父さんが乗っている船の名前は「小金井丸」になっています。

 

また、宮崎駿作品においては、他にも「光の気」について描写されています。上の写真はハクが「水の気」を使い、ナウシカがオームの「金の気」に触れる場面です。


・「闇の気」について

宮崎駿作品の中では「闇の気」について、非常に的確な描写があります。例えば、『もののけ姫』の中で描かれるタタリ神は元々はイノシシですが、「闇の気」を受け取り過ぎたことでタタリ神になっている存在として描かれています。タタリ神の身体を取り囲んでいるミミズのようなものが「闇の気」です。

 

物語の中でもヒイ様という巫女(シャーマン)が「深手の毒に気触れ(きふれ)、身体は腐り、走り走る内に呪いを集め、タタリ神になってしまったのだ」という言葉を言いますが、この発言で言われている「呪い」が「闇の気」のことです。

 

ハウルの場合は、ある時はカラスの羽根のような「闇の気」を抱えている時もあれば、液体のような「闇の気」を抱えている時もあります。これはそれぞれの「闇の気」の違いを説明するための描写です。カラスの羽根ような「闇の気」は「怒りの気」として、液体のような「闇の気」は「絶望の気」として描かれます。どうしてそのように言えるかというと、ハウルが爆撃機を襲う時に「怒りの気」を使っている様子や、ハウルが「絶望の気」を出す時にはハウル自身が「絶望だ、、なんという屈辱」と言い、マルクルは「闇の精霊を呼び出してる」と言っているからです。宮崎駿作品はこのように、パズルのようにして様々な描写の意味を解き明かすことができるようになっています。

そして、神々は「光の気」を、悪魔は「闇の気」を司り、「気」で我々の「心」に関与しています。神々からの「光の気」を受け取ることができれば「光の気持ち(水・火・風・土・金の気持ち)」が強まり、悪魔からの「闇の気」を受け取ることになれば「闇の気持ち(欲望・嫌悪・怒り・絶望など)」が強まります。だからこそ、悪魔の「闇の気」を抱え過ぎると、その「闇の気」を司る悪魔に「心」を支配されることに繋がります。悪魔からの「闇の気」は我々の「闇の気持ち」を強くするものなので、我々に「欲望」や「怒り」などのパワーを与えるものでもありますが、あまりに受け取り過ぎると自分の「心」を悪魔に支配されることに繋がります。

そういったことを描くために、タタリ神は悪魔の「闇の気」によって「心」を完璧に支配された存在として、ハウルは悪魔の「闇の気」によってパワーを得ながら、支配されつつある存在として描かれます。

 

また、『千と千尋の神隠し』の中では千尋の両親が「欲望」が故に豚になってしまう描写がありますが、悪魔に「心」を支配された状態を豚という形で描いています。これは『紅の豚』のポルコが戦争で「闇の気持ち」を強く抱き、「闇の気」を多く抱えたことも同様の意味を持っています(ポルコは「光」も強く持っています)。動物はそれぞれ異なる「気持ち」を学んでいますが、豚は「闇の気持ち」を学ぶ動物であるからこそ、このような描写を宮崎駿は神々と共に行なっています。

現代を生きる我々は「闇の気」によって我々が「闇の気持ち」を抱くことを忘れています。そして、あまりにも「闇の気持ち」と仲良くし過ぎると、タタリ神や千尋の両親のように悪魔に「心」を掴まれてしまうことを忘れています。『もののけ姫』で言われるように、「闇の気」は「心」を悪魔に操作される「呪い」です。そういったことを人間に伝えるために、神々は宮崎駿作品に関与することを通して「闇の気」に関するこのような描写を表現しています。人間を「不幸」にし、世界を酷い状態にしている原因は「闇の気」だからこそ、神々はそのことを伝えるために、宮崎駿と共に「闇の気」に関する描写をしてきました。


・「病気」と「元気」

「病気」と「元気」の対の構造も、宮崎駿作品は「気」に関する「真実」を表現しています。

 

アシタカは悪魔の「闇の気」によってパワーを得ながら、その「闇の気」によって「病気」を抱え、その「病気」に殺されつつある存在として描かれています。「病気」という言葉は「病の気」と書きますが、「病の気」とは「闇の気」のことです。ですから、「病気」という言葉は「病気」の原因が「闇の気」であることを説明している言葉であって、これは「真実」です。

現代を生きる我々は「病気」の原因が「闇の気」であることを忘れてしまっています。だからこそ、「闇の気」を受け取り続け、そのことによって「病気」を抱え、その「病気」によって苦しんでいます。そして、自分がどうして「病気」になってしまったのかも分からない状態があります。神々は人間が「病気」を煩うことによって苦しまないように、「病気」の原因が「闇の気」であることを宮崎駿と共に描いてきた形になります。

先程引用したヒイ様の「深手の毒に気触れ(きふれ)、身体は腐り、走り走る内に呪いを集め、タタリ神になってしまったのだ」という言葉も病気に関する「真実」を表現しています。「気が触れる」とは「正気でなくなる・気が狂う」ことを意味しますが、「かぶれる」とは「気触れる」と書きます。「気が触れる」のも「気触れる(かぶれる)」のも「闇の気」が原因だからこそ、この2つの言葉はほとんど同じ構造を持っていて、「闇の気が自分に触れる」ということを「気が触れる」「気触れる」と表現しています。そして、「闇の気」を腕に抱え込んだアシタカは実際に腕が気触れて(かぶれて)いる人として描かれています。

 

「闇の気」を抱えると「病気」になることと対の関係性にあるのが、「光の気」を抱えると「治癒」されるということです。自然治癒力とは神々が「病気」を「光の気」で「治癒」していることを意味します。そういったことを説明するために描かれているシーンが、オームが「金の気」によってナウシカの怪我を治す場面です。

 

『千と千尋の神隠し』の中でもハクが千尋に対して、「そなたの内なる風と水の名において、解き放て」と言いながら気功を行ない、立てなくなっていた千尋が走ることができるようになるシーンがありますが、ここで「内なる風と水」と言われているものは「風の気」と「水の気」のことです。ハクは千尋に「風の気」と「水の気」を送ることで千尋は「治癒」されています。気功とは「気」を送ったり抜いたりする行為なので、宮崎駿作品の中では多くの気功の場面は様々に描かれています。

 

『もののけ姫』の中でも、アシタカがシシ神によって病気を「治癒」されたり、シシ神に見つめられることで体が軽くなる様子も描かれていますが、これも「光の気」によって体が「治癒」されることを描いた場面になります。

物事には必ず理由が必要であり、その理由を起こすのはいつも魂の「意志」です。魂の「意志」がないところで自然に何かが起こるということは基本的にあり得ません。しかし、我々現代人は魂の「意志」が無くても何かが勝手に起こるという思想を無意識にすり込まれているが故に、「病気」も「治癒」も身体が勝手に起こすという思想を信じさせられている現状があります。しかし、実際は「病気」も「治癒」もそれを行なっている魂がいるからこそ起こるのであって、身体が勝手に「病気」を作ったり、「治癒」を行なうと考えることは、考え方としてとても不自然です。何故ならば、それは原因が無いのに何かが起こるという考え方だからです。この世界のありとあらゆる事柄は全て、何かしらの魂の「意志」によって起こっていることです。そして、そういった「意志」が全ての事柄の原因そのものです。

また、よく笑うと癌のキラー細胞が生まれ、自然治癒が進むということは明らかになっていますが、どうして笑うとキラー細胞が生まれるかというと、笑うと「火の気」が身体に入るからです。「火の気持ち」の一つは「元気・笑い」だからこそ、「笑い」は「火の気」を我々にもたらします。そうすると、神々が我々の身体に「火の気」で関与しやすくなり、その結果として神々がキラー細胞を作っています。このような形で「光の気」と「治癒」は非常に密接な関係を持っています。

そもそも、「元気」という言葉は「元の気」のことを意味し、太陽系において中心であり、最も大きな星である太陽からの「火の気」のことを意味しています。ですから、「元気」という状態は「火の気」が入ることによって保たれているということをかつての人間は知っていた形になります。

 

ポニョは「火の気持ち」と生きている存在として描かれ、だからこそ、ポニョが宗介の傷を舐めると、その怪我が治ったという描写もあります。舐めるという行為は「気」を強く与えることに繋がるということを説明するための場面でもあります。こういった背景もあり、動物は傷口を舐めて治しています。動物は我々人間よりも神々の導きに素直なので、我々人間以上に正しいことをよく行なっています。

このような形で、宮崎駿作品には「気」に関する「真実」が描かれています。ですから、我々が「気」のことを学ぶ上でとても参考になります。「気」は目に見えないので、我々が「気」に対して適切なイメージを抱く事は難しいことです。しかし、アニメーションという方法は見えないものを描くことができます。だからこそ、神々と共に「気」に関する「真実」がそこに描かれているのであれば、我々は目に見えない「気」に関するイメージを適切に抱くことができます。

絵画などでも「気」のことは描くことができます。例えば、クリムトの『接吻』は「愛」の原因の「気」である「金の気」が描かれているので、我々が「金の気」について適切なイメージを持つ上でとても役立ちます。しかし、一枚の絵画だけだと物語が無いので、一体どういう経緯があって、これだけの「金の気」に二人が包まれたのかということが分かりません。そして、そういった部分を理解しない限り、「金の気」について適切なイメージを抱くことはできません。どれだけの強い「愛」を2人が抱く時に、このような形で「金の気」に包まれるのかが分からないからです(逆に言うと、物語を原作にした絵画にはこういった部分を表現することができるので、神々も悪魔もそういった絵画を人間が描くことにかなり関与してきました)。

アニメーションは物語があるので、一枚の絵の意味を鑑賞者は深く理解することができます。その点にアニメーションの大きな価値がありますし、宮崎駿作品は膨大な重要な絵画が積み重なってできたものとして考える方が、我々が宮崎駿作品から多くを学ぶ上では一つの適切な見方です。


【宮崎駿がどのように神々と共に働いてきたのか】

神々はどのようにして人間の作品制作に関わっているかというと、人間に「アイデア」を与えたり、人間の「気持ち」に関与することで作品制作に関わっています。神々は「気」を司る存在であり、「気」を人間に与えることでそのような関与をしている形になります。

「気」には「アイデア」を乗せることができます。そして、神々は「アイデア」が乗った「気」を人間に与えることで、我々に「アイデア」を与えています。この構造を説明している言葉が「気付き」という言葉です。「気付く」という言葉は「気」が「付く」と書きますが、「アイデア」が乗った「気」が人間に「付く」という構造を説明しています。また、「思い付く」という言葉も同じ構造を持っており、「思い」が「付く」と書きますが、これは神々の「思い」=「考え」が「付く」という構造を説明しています。まとめると、この「気付く」と「思い付く」という言葉は「思い」=「考え」が乗った「気」が「付く」ことによって、我々の「心」に「アイデア」が浮かんでいるということを説明している言葉です。神々は宮崎駿の身体に「思い」が乗った「気」を「付ける」ことによって、宮崎駿の「心」に「アイデア」をもたらしています。

また、「気持ち・気分」は「気」を「持つ・分かつ」と書いていることが示すように、我々の「気持ち・気分」の原因は「気」です。そして、神々は「気」を宮崎駿に与えることで、宮崎駿の中に「気持ち・気分」を作り、そのことで作品制作に関わってきました。例えば、宮崎駿が自分の作品の中の1つの場面に納得するかどうかに神々はずっと関わってきました。我々人間は自分の「意志」で納得したり、しっくりくるような感覚を得ることはできず、自分が納得するかどうか、自分がしっくりくるかどうか、という感覚は我々の「意志」を超えて、我々の「心」に起こる現象です。そういった部分に神々は関与することで、神々は宮崎駿の作品に関与してきました。

このような意味で、宮崎駿がアニメーションを作る際に神々が行なってきた関与は大きく分けて2つであって、「気付き・思い付き」によって与える「アイデア」と「気持ち・気分」によって与える「納得」です。宮崎駿はアニメーションを作る際に、絵コンテ(漫画のようなもの)の作成とスタッフが描いた絵の最終チェックをいつも行なってきました。この2つの作業はそのまま「アイデア」と「納得」に相当します。神々からストーリーと描き方の「アイデア」を受け取り、それを絵コンテに表現し、スタッフが描いてくるアニメーションの最終的なチェックをすることで、神々が求めるレベルに到達することを行なってきました。

ですから、宮崎駿のアニメーション制作の方法は、神々が非常に関与しやすい形になっています。一般的に考えると、宮崎駿のアニメーションの作り方は非効率的に見えるのですが、神々と共に働く上では非常に好ましい作り方です。こういった制作方法自体も神々が宮崎駿に関与することで、作ってきた方法です。宮崎駿は神々が人間に観てほしいアニメーションを制作することを非常に高い水準で行なってきた人間であって、だからこそ、宮崎駿作品は神々からのメッセージに満ちています。

また、宮崎駿が登場人物の抱く感情を表現するためには、その感情を宮崎駿が経験を通して学ぶ必要があります。感情に関することは、自分がその感情を経験しない限り、なかなか理解することができないです。ですから、神々は宮崎駿に様々な「気」を送ることで様々な「気持ち・気分」を抱かせ、「気持ち・気分」についての学びをもたらしてきました。

宮崎駿がどうして神々と共に強く働くことができたかというと、神々からの「アイデア」と「気持ち」を受け取り続けることができたからです。これは誰にでもできることではなく、本当に大変なことです。例えば、少しでも「心」が「甘さ」などに堕ちると、間違った「アイデア」を悪魔から受け取ったり、「納得」する感覚やしっくりくるような感覚を神々から得られなくなります。

神々は「光の気」を、悪魔は「闇の気」を司り、「気」で我々の「心」に関与しています。神々と共に働くためには、「光の気」を受け取る必要があり、「光の気」を受け取るためには「光の気持ち」を抱く必要があります。そして、「光の気持ち」とは「愛の気持ち」のことです。宮崎駿が神々と共に強く真に共に働くことができたのは、宮崎駿が「愛」を抱き続けたからです。

宮崎駿は「火の気」を魂に多く抱える人間であり、基本的には「火の気持ち」によって「愛」を抱いている「火の人」です。宮崎駿は、にっこりしてユーモアのあることを言ったり行なったりすることによってその場にいる人に「元気・笑い」をもたらすこともあれば、アニメーション制作の現場では何らかの問題に対して「闘いの心」を使って非常に厳しく接していることもあります。そういった2つの「火の気持ち」の間を生きている人であることは、宮崎駿を撮影している映像などを見るとよく分かります。

また、宮崎駿は「水の気持ち」もよく抱く人であって、そのことが自分自身の作品に対する様々な「問い」に繋がっています。「これは映画になるのだろうか?」「この時代にふさわしい作品とは何だろうか?」という形で様々な「問い」を設定して生きていることは映像を見ると分かりますが、「問い」は「問題解決の心」から生まれる心の動きです。ですから、宮崎駿が「水の気持ち(問題解決の心)」もよく抱いている人であることは映像を見ると理解できます。

宮崎駿は「火の気持ち・水の気持ち」を抱き続けることを通して、神々と共に働くことを実現してきました。そして、そういった「火の気持ち・水の気持ち」を支えてきたのが「子供達にこの世界の美しいものや希望を見せてあげたい」「今の人間が見るべきものを作りたい」「世の中をいい方向へ向けるための作品を作りたい」といった宮崎駿自身の「信念」であって、そういった「信念」を通しながら作品を作り続けてこられたのは、宮崎駿自身の魂の「愛」が大きく、「強さ」があり、「賢さ」があったからです。

宮崎駿は太陽神様と「縁」があり、その「縁」を通して「気」を受け取りながら作品制作を行なってきた人間です。「縁」という漢字に「糸」という漢字が含まれていることに表れているように、「縁」とは「気」が流れるラインのことを意味します。我々にもし「縁」が見えるのであれば、宮崎駿からは一本の線のように見える「縁」が太陽に伸びています。宮崎駿はこの「縁」を通して、太陽神様とアニメーション制作を行なってきました。太陽神様は太陽系における長の神様であり、太陽系において最も大きな「火の気」を司る神様です。天照大神やアポローンといった様々な名前を持っています。

宮崎駿が太陽神様と「縁」があることの根拠は複数あります。一つは「スタジオジブリ」という名前であって、「ジブリ」とは「熱風」のことを意味しますが、このことは太陽神様が「火の気」を司る神様であることと繋がっています。また、宮崎駿はかつて照樹務(テレコム)という名前でも作品を作っていましたが、「照」は「太陽の光」を表す言葉であり、「樹」は「木」、「務」は「一つのことに力を出して働く」ということで「人生の役割」を意味し、「テレコム」は「telecommunication」=「遠距離通信」の略です。ですから、「照樹務(テレコム)」で「太陽神様との遠距離通信を実践することを務める樹」といった意味を持ち、宮崎駿という人間の本質を照樹務(テレコム)という名前は見事に表現しています。

また、神々はどんな表現者の作品にしてもデビュー作にその表現者に関する重要な情報を残すようにしますが、宮崎駿の最初の監督作品である『ルパン三世 カリオストロの城』にも宮崎駿が太陽神様と共に「真実」を表現するために生まれてきたことは強く描かれています。『ルパン三世 カリオストロの城』では、「光(クラリス・ルパン)」と「影(カリオストロ)」の対立関係が描かれ、映画の最後には古代ローマの遺跡が蘇ります。そして、古代ローマの遺跡が蘇るために必要な秘密が「光と影を結び 時告ぐる… 高き山羊の 陽に向かいし 眼に我を納めよ」という言葉に表現されています。太陽神様としては、この構造に宮崎駿の本質を表現しています。

光と影を結び 時告ぐる… 高き山羊の 陽に向かいし 眼に我を納めよ」という言葉は「眼に陽を向けている山羊」が宮崎駿自身であって、「我」は太陽神様のことです。つまり、宮崎駿の心に太陽神様が「光の気」を通して関与していること、関与し続けようとしていることを「高き山羊の 陽に向かいし 眼に我を納めよ」と表現している形になります。そして、光と影を結び 時告ぐる…」とは、太陽神様と宮崎駿が共に働くことによって、「光と影(闇)」の関係性を表現することができるということを表現しています。「光と影」は決して交わるものではありませんが、強い関係性を持ったものです。だからこそ、「結ぶ」という言葉は「関係性」ということを表す言葉として捉えられます。

 

また、どうして古代ローマの遺跡がこの言葉によって蘇るという構造を持っているかというと、古代ローマ人達は「光と闇」の関係性や「気」のことや神々のことをよく理解していたからです。映画の中でも古代ローマ人達が信仰していた神々の石像が描かれています。つまり、「光と闇」の関係性を明らかにするということは、古代ローマ人達が知っていたことを再び思い出すということと同じ意味を持っていて、宮崎駿はそのことを行う人間だからこそ、このような構造を持っています。

 

また、映画の中でもルパンが「ローマ人がこの地を追われる時、水門を築いて沈めたのをあんた(クラリス)のご先祖さんが密かに受け継いだんだ。正に人類の宝ってやつさ」という言葉を言いますが、これは古代ローマ人達が大事な目的のためにこのことを行ったことをよく捉えているセリフです。本当に大事な人類の宝は「真実」であって、そういった「真実」を建築物や彫刻物は保存してくれる力があります。だからこそ、古代ローマ人達は建築物や彫刻物を水に沈めたということをほのめかすセリフです。

こういった様々な理由から、宮崎駿が太陽神様と共に「真実」を表現するために生まれ、そのことを強く実践してきたということは理解できます。ですから、宮崎駿作品は太陽系の長の魂である太陽神様からの人間に対するメッセージに満ちています。太陽系に生きる我々人間にとって、太陽神様は父親に当たる存在ですから、我々人間が宮崎駿作品から多くを学ぶことはとても大事なことです。

宮崎駿のように、これほどまでに長期間、本当に高い水準で神々と働き続けることは普通はできません。何故ならば、悪魔がその邪魔をするからです。宮崎駿が少しでも「欲望・嫌悪・怒り・恐怖・不安」といった「闇の気持ち」を抱くのであれば、悪魔はその間は「闇の気」を与えることができます。そして、悪魔はその「闇の気」に間違った「アイデア」を乗せたり、間違った「納得」の感覚を与えたりします。そういったものが宮崎駿に不正解を教え、作品自体をどんどん悪いものにしていきます。宮崎駿の闘いはそういった「闇の気持ち」との闘いとも言えます。

神々は常に宮崎駿に「正解」を教えようとし、悪魔は常に宮崎駿に「不正解」を教えようとします。そういった中で宮崎駿が多くの「正解」を神々から受け取り続け、時に悪魔からの「不正解」を受け取ってしまいながらもそれを修正し、最終的には神々からの「正解」で作品をまとめ上げてきた形になります。

1つのアニメーションは膨大な選択肢の中からどういった選択肢を「選択」するのかということの結果です。一本の木をどのように描くかということでさえ、無限の選択肢があります。そういった選択肢の中で「正解」を「選択」し続ける必要があります。そして、宮崎駿はいつもそういった膨大な「選択」を行なっていく必要があります。これは本当に大変な「選択」の連続であって、気が休まることが出来ない闘いです。

そして、悪魔は宮崎駿の「選択」を間違わせるために、直接宮崎駿に関与するだけではなくて、宮崎駿の周りの人間に関与し続けてきます。例えば、悪魔はジブリのアニメーターに徹底的に関与し、「不正解」を描かせ続けたりします。それをすると宮崎駿の「心」をどのように悪魔が「闇の気持ち」に堕としていけるかというと、そのアニメーターに対する「嫌悪」「怒り」「苛立ち」に堕とすことができます。

「闘いの心」は「愛」が根底にありますが、「闘いの心」から「愛」が無くなると「嫌悪」や「怒り」といった「闇の気持ち」になってしまいます。宮崎駿の場合、「子供達にこの世界の美しいものや希望を見せてあげたい」といった信念を少しの時間でも忘れてしまえば、その時間は「闘いの心」から「愛」が無くなり、そのアニメーターに対する「嫌悪」「怒り」だけの状態に堕ちてしまいます。そして、その時間は宮崎駿は「闇の気」を受け取ってしまうので、その後にアニメーターに対する「嫌悪」や「怒り」がおさまらなくなったり、「苛立ち」といった「闇の気持ち」に堕ちてしまいます。そして、その時間は神々と共に働くことができなくなり、悪魔から「不正解」を教えられる時間に入っていきます。

悪魔はそういった形で、宮崎駿に「不正解」を与えるために、宮崎駿の周りの人間に関与し続けてきました。また、「闇の気」は「病気」の原因なので、「闇の気」が多く宿ると宮崎駿の身体の調子が悪くなります。そして、身体の調子が悪いと集中力を保てなくなり、「火の気持ち」を抱くことがしづらくなるので、神々と共に働きづらくなります。

しかし、悪魔からのこういった攻撃は、負けてしまわない限りそのことさえも利用できるものです。例えば、悪魔が宮崎駿に対して強い「怒り」をもたらすのであれば、宮崎駿は強い「怒り」がどのようなものなのかを理解することができ、アニメーションの中で表現できます。そういった形で、宮崎駿は「闇の気持ち」についても理解をしていき、アニメーションの中に活かしています。また、こういったことを宮崎駿以上に行なってきたのが庵野秀明であって、庵野秀明は「闇」の本質をアニメーションの中で真に表現しています。

宮崎駿がやってきたことは、悪魔に強く襲われながらも「光」を貫き、その中で「真実」を摑み取るという行為です。また、悪魔の攻撃を「光」のために利用することでもあります。具体的にそこにいるのはアトリエやスタジオにいる宮崎駿だからこそ、こういった闘いは周りの人には理解されづらいですが、宮崎駿の心の中ではそういった闘いが常に非常に大きく繰り広げられています。だからこそ、作品を一本完成させるごとにボロボロになり、引退を何度も考えてきた形になります。

今地球を荒らしている悪魔達は人間に「真実」を忘れさせる方向でずっと人間に関与してきました。だからこそ、現代を生きる我々は「真実」を忘れています。そういった悪魔達だからこそ、宮崎駿のように重要な「真実」を神々と共に描いていると、悪魔から強く襲われます。そして、宮崎駿程に重要な「真実」を残してきた表現者は稀であって、だからこそ、宮崎駿は地球の中でも悪魔に最も襲われてきた類いの人間の一人であることは言えます。

宮崎駿がどれだけ大きな闘いを乗り越え、本当に価値あるものをこの世に残してきたのかを、これらの文章を通して理解して頂けると幸いです。そして、宮崎駿のそういった努力が無駄にならないためにも、我々は宮崎駿作品をもっと大事にする必要があります。


【最後に】

我々日本人は宮崎駿作品の本当の価値を理解してはいませんし、娯楽作品のように捉えてしまっている人も多くいます。そのことを象徴するのが、テレビで『天空の城ラピュタ』が放映され、滅びの言葉をパズーとシータが言う場面になる時に、Twitter上で「バルス祭り」が起こるという現象です。2016年の1月15日のテレビ放映時には、パズーとシータが「バルス」を言った一分間に35万ツイートも「バルス」とつぶやかれています。詳しくはここに書かれています。

http://www.oricon.co.jp/news/2065361/full/

『天空の城のラピュタ』の「バルス」のシーンを本当に心を動かしながら観るのであれば、こういったツイートはできずに、涙ぐんでしまいます。パズーとシータが自分の命を捨ててまで世界を守ろうとする姿を見つめることになるからです。そして、そんな涙ぐんでいる時にこういったツイートはできるものではなく、「軽さ」を持って観ているからこそ、こういったツイートが大量発生します。

「真実」は「重い」ものであって「軽い」ものではありません。逆に言うと、「軽さ」を持って「真実」を見ても、「真実」を本当に理解することはできません。我々日本人は「軽さの闇」に囚われているからこそ、宮崎駿作品をエンターテイメントのように捉えてしまい、そこに「真実」が描かれているのにも関わらず、「真実」を理解することができていない現状があります。そして、そういった形で「真実」を見えないようにしているのが、我々に「闇の気」で関与することによって「軽さの闇」をもたらしている悪魔でもあります。

宮崎駿自身は悪魔に打ち勝ち、神々と共に働くことによって、「真実」を表現してきました。それに対して、我々日本人は宮崎駿作品を観る時に悪魔に負けがちですし、映画を観ている時は心を動かすことができても、現実の世界に活かすことができていません。そういう方向ではなく、我々が適切な形で宮崎駿作品を観ることができ、現実世界に活かすことができたのであれば、その時に初めて、我々日本人は宮崎駿作品を通して「光」へ向かっていくことができます。

このホームページでは、全ての宮崎駿作品について一つ一つの台詞に至るまで可能な限り解説を書いていきますので、宮崎駿作品と合わせてこのホームページの解説を読んで頂けると幸いです。私としては、神々と宮崎駿が創り上げてきた本当に価値ある作品の中に込められている神々のメッセージを一つでも多く皆様が理解して頂けるのであれば、本当に嬉しく思います。