「悟り」と言うと何かとても特別なものと思われてしまいがちです。「悟りの境地に辿り着く」と言うと、まるで一生の目的のように語られてしまいます。しかし、「悟り」とはそのようなゴール地点なのではなく、それはスタート地点に過ぎません。

この宇宙のシステムを理解することが「悟り」の意味です。そして、この宇宙は全て気(エネルギー)によって成り立っています。ですから、「気のことを理解すること」=「悟りの境地に辿り着く」ということになります。

気は言葉のレベルではなくて経験のレベルでしか理解することはできません。経験が必要ですので、そのために修行が必要ということになります。そして、修行とは瞑想や気功といった所謂修行のみがそうなのではなくて、日常を過ごすことも含みます。

「悟り」とは我々の日常が気によってどのように成り立っているのかを理解することですから、どうか日常とかけ離れたものだと思わないで下さい。我々の意識次第では、我々の日常生活は気について学ぶ修行の場にもなります。しかし、学ぶためには様々なものの見方が必要です。

そのような様々な観点を得るために私の文章があると理解して頂き、私の文章で得た様々な観点を日常に当てはめて過ごすことによって、そして自分の心をいつも見つめることによって、気についての理解を深めていって下さい。日常における修行は御自身の意識次第であり、そういった意識だけでできるものであるとも言えます。

しかしながら、やはり所謂修行を行なう方が理解の進み方が早くなりますので、時間を作って頂き修行を行なって頂くことをお勧めします。また、修行を日常の中に入れるのならばより大きな効果を望めるでしょう。例えば毎朝1時間瞑想を行なうといった方法はとても有効です。

 

修行には、瞑想・気功・シャーマニズムなどの方法があります。何よりもまず先に行なうべきなのが瞑想です。瞑想はただ座っているだけでできるものですから、どなたでも今日から御自宅で始められます。瞑想とは身体の中に流れる気と自分の心の関係性を捉える行為であり、身体に宿っている闇の気を浄化する営みです。

瞑想についてはこちらに詳しく書いておりますので、こちらを御覧になって下さい。http://junashikari.com/修行について/瞑想について/

 

次に行なうべき修行は気功です。気功とは気を操る行為であり、実は我々の日常とは全て気功です。なぜならば、人と会話をすることも、ものを食べることも、道を歩くことも、音楽を聞くことも、パソコンに向かうことも、これらは全て気を受け取ったり出したりする行為だからです。我々はそれを常に行なっています。

初期の段階においては、瞑想とは身体の中の気を扱う行為、気功とは身体の外の気を扱う行為と御理解下さい。両者を実践する中で、瞑想も気功であるということに気が付いていきますが、最初の段階では混乱する恐れがありますのでこのように理解して頂いた方がいいように思えます。魂は我々の心臓に宿っています。我々の魂からすると身体は最も身近な外界です。我々の魂が何らかのその魂の外界の気に触れる行為、それが気功です。そして、我々の身体を含む万物は気を持っていますから、我々の日常の全ては気功であると言えます。

それで、どのような気功修行を行なえばいいかということですが、とにかく自然に触れて下さい。自然とは本当に良き光の気を持っているものであり、彼らに触れると我々の気分は良くなっていきます。このことは非常に分かりやすいと思います。どうして気分が良くなるかというと、自然の持っている良き気に触れているからです。

山に行くのもいいでしょうし、川に行くのもいいでしょう。そのようなことでなくとも、観葉植物を飼い、毎日その植物をじっと見たり、匂いを嗅いだり、話しかけたりするのもいいでしょう。太陽を浴びることも、風を感じることも、雨に打たれることもとてもいい気功修行になります。

(というか、太陽をよく浴びること、水をよく飲むことは全ての基本です。水は最低でも一日3リットルは飲みましょう。)

とにかく重要なことは、立ち止まってその目の前の自然を感じようと集中することです。我々の日常はそういったことに集中する時間を本当に持ってはいません。それをやってみるのです。そして、それを続けるのです。そうすると自然の持っている素晴らしい光の気のことを理解することができます。

そして、自然の持っている気を感じることとはそれらの良き気を自分の中に入れることを意味します。「気を感じている時はその気を自分の中に入れている」これは大事な法則なのでよく覚えておいて下さい。自然からもらう良き気によって、あなたの身体は良き気に満ち、そのことがあなたの心の状態を整え、浄化の助けも行なってくれます。

瞑想と気功を混ぜることも当然可能です。川の近くで瞑想を行なったり、太陽を浴びながら瞑想を行なうこともいいでしょう。ただし、そういったことを行なう場合は一体自分は身体の外の気と身体の中の気のどちらを感じているのか、ということを意識的に分析しなければいけません。

 

次にシャーマニズムについてです。シャーマニズムには色々な意味がありますが、気のことを理解するための修行方法として、植物を使った儀式が最も有効な方法です。ここでは植物の名前は書けませんが、私が行なっている儀式では気を100倍程に感じられます。ですから、気のことを学ぶとてもいい機会となります。

どうして植物の名前が書けないのか、ということについてですが、その植物が違法なわけではありません。間違った方法でそういった植物を摂取する方がいると事故に繋がり、そのことで違法になってしまう可能性があるからです。漢方などもそうですが、摂取方法を誤るとどんな良薬も危険なものとなってしまいます。私は私が使っている植物の重要性をとても分かっているからこそ、その植物を守るために今はその名前を公にしていない形になります。

私が使っている植物には光の精霊が宿っています。もしシャーマン無しに摂取したとしても気を100倍で感じるという状況は作ることができません。そして、たとえシャーマンがその儀式をその植物と行なったにしても、そのシャーマンとその精霊が真に良き関係性を作っていない限り、その植物は我々に良き形では作用しません。

私はその植物の精霊達といい関係性を作ってきました。その関係性によって、もし私とその儀式を行なうのであれば気を100倍で感じるという状態を実現することができます。植物を使った儀式について、詳しくはこちらを御覧下さい。

光の幻覚性植物について
http://junashikari.com/修行について/光の幻覚性植物について/​

気を100倍で感じるこの儀式は基本的にハードです。儀式の間の数時間が一年分の経験にさえ匹敵すると思います。それだけ濃い経験をし、しかもそれを乗り越えてこそ、悟りへ向かうことができます。

 

悟りとはスタート地点です。それぞれの人間が持っている人生の役割を真に果たす上で、適切なスタート地点に立つことはとても大事です。なぜならば、世界のことを真に理解せずに、一体何が本当に善きことなのか、ということを判断することはとても難しいからです。

気について理解するのです。そのためには努力が必要です。何らかの修行を継続的に行ない、そして日常においても常に気についての多くの観点を持って世界を見つめること。この両者を行なう中で必ず「気とは何なのか?」ということをあなたは経験として学んでいきます。

これは魂の修行において最も大事なことですが、大事なことは御自身の手で摑み取るのです。誰かが言っていることを鵜呑みにするのが修行ではありません。御自身が一つ一つのことを御自身の手で学んでいくことです。

そしていつも、考えるのではなく感じるのです。我々人間は感じることを軽視し、考え過ぎてきたために、ここまで「世界の真実=気に関する体系=真のスピリチュアリティー」を失ってきました。考える行為は対立するAとBの両方を味方できます。論理とはそのようなものです。しかし、感じることはそうではありません。あなたが何かを感じるということ、それはあなたが感じているからこそ、あなたにとって何よりも確かなものなのです。

感じる修行を行なって下さい。感じることの能力を上げていくのです。これはそのまま霊感を上げていくということも意味します。霊感とは全く特別なことなのではなく、この世界を感じる能力のことを意味します。

霊感について
http://junashikari.com/energy/霊感とは何なのか?/

霊感という言葉が示しているように、真に感じる能力を得たのならば「霊」を「感」じることくらいどなたでもできるようになります。そして、霊だけでなく神も天使も悪魔も感じるようになります。そうすると神々はもはや信じるものではなく、あなたは神々のことを知ることになるのです。

宇宙人は1万種以上いますが、宇宙全体で見ると人間は本当に遅れています。「神はいるのかいないのか?」「魂は存在するのかしないのか?」などという議論を行なっているのは人間くらいです。どうしてこのような事態になってしまったかといえば、人間が感じる力=霊感を失ってきたからです。

どうか感じる力を上げていって下さい。そのことで、この世界の大事なことは全て知ることとなります。このことを「悟り」と言います。そして悟った後にすべきことをするのです。