先日の日記の内容と重複しますが、書き残しておいた方がいいように思っていることがあるので書きます。

この三日間は、大川の滝という滝に三日連続通っていました。一日目は大雨の後で滝壺に近付くことが困難だったのに対して、昨日と今日は滝壺近くの岩場まで進むことができ、そこで滝と向き合い続けていました。
 


結論から書かせて頂くと、大川の滝との出会いは一生の出会いになると思っています。それだけ、自分自身の人生にとって、向き合っていくべき大事な存在だと感じているからです。

滝という存在はよく龍神様に喩えられます。というのも、我々は滝を通して龍神様を感じられるからです。この三日間、大川の滝と向き合う経験は神様と直接向き合うような経験でした。我々人間は神々のことが見えないからこそ、神々の「凄まじさ」を知らず、だからこそ、傲ります。特に、そういった傾向は神々の本質を見失いがちな日本人にとって非常に顕著で、我々日本人は神々の偉大さを知らないが故に、自分の存在の小ささを知らず、謙虚さに欠けます。

もちろん、神々のことを研究している自分は、神々の偉大さを知っています。しかし、神々の偉大さを分析的に知っていることと、神々の偉大さを目の前にすることは、その理解の仕方が異なります。そして、凄まじく大きな滝と向き合う経験は、凄まじい神様と向き合う経験と似ていて、神々の偉大さを肌で感じているようでした。
 


何度も滝を目の前に跪いていました。奴隷のような「服従」の跪く行為もありますが、そうではなく、自分は神々に対する「忠誠心」の表れとして、時折跪くことをします。そして、偉大な滝を目の前に跪く行為は、生まれる前にやっていたであろうことを思い出すような経験でした。

我々は死ねば神々に会いますし、生まれる前も会っています。そして、我々は皆「役割」を持って生きていますが、神々から与えられた「役割」を引き受けるかどうかを我々は決めて生まれてきます。自分も、今世は今世の「役割」として、今のような生き方をしているわけですが、この「役割」を引き受ける前提に、神々に対する「忠誠心」があったことは確信しています。そういった当時の自分を感じられる経験はとても貴重な経験でした。
 


自分も普段は人間社会の中で生きているので、神々の偉大さを目の前にすることなく、知らず知らずの内に、意識が軽くなってしまったり、傲りが近づいてくるかもしれません。そういった時、この滝と向き合う経験を通して、頭を冷やし、己の小ささを感じ、神々への「忠誠心」を再確認することをしていきたいと思いました。もちろん、そのような経験をしなくとも、正しい精神性を保つようにしていくつもりですが、時折、この滝を目の前にすることによって、初心を思い出すことは大事なように感じています。

「忠誠心」の跪く行為の前提には、目の前の存在に対する圧倒的な「尊敬」の念と、目の前の存在と比べれば圧倒的に「未熟」な自分に対する「謙虚」があります。また、近づきすぎては死んでしまう滝を目の前にしていると、「畏怖」の念さえもありました。

そんな経験を促してくれる、この滝の価値は計り知れず、このような態度で大川の滝と向き合うことが、正しく生きようとする人間にとっては、非常に良い大川の滝との接し方だと思います。

大川の滝は一つの聖地に値する場所だと思います。今はただの観光スポットとして消費されるばかりですが、この場所の神聖さはとても強く、別の世界に来たような感覚さえもあります。逆に言うと、この三日間、大川の滝から帰る時は、いつも現実世界に戻るような感覚でした。あまりにも神聖さに差があるので、大川の滝から離れると気が抜ける感覚でした。
 


滝と向き合う行為の一つとして、大川の滝の神様(大川の神様)のことを感じるために、滝の前で踊っていました。踊るというよりかは、身体が勝手に動く感覚で、むしろ、「踊ろう」とする意識を持っては適切に踊ることはできません。滝と一心同体になることで、自然と身体が踊り始め、その踊りの感覚を通して、滝のことがよりよく感じられ、そのことで滝の神様の分析はできます。

そういう経験を通して、少しだけ大川の神様のことを分かったように思えます。しかし、その理解はあまりにも氷山の一角で、もし屋久島にまた滞在することや住むことがあれば、大川の滝によく行くようにしたいとも思います。そういうことで、大川の神様のことを少しずつ理解できると思いますし、自分を戒める意味でも、この滝と向き合う経験はいいと思います。

人間社会で生きていると、人間の価値観や考え方が基準点になってしまいます。しかし、人間という存在はあまりにも「未熟」ですから、人間の基準に合わせると「未熟」さが忍び寄って来ます。

だからこそ、神の基準が感じられる場所は非常に大事で、大川の滝は間違いなくその一つの場所です。「観光地」として写真を撮りに行くのではなく、「パワースポット」として「気(パワー)」をもらいに行くのでもなく、「聖地」として神を感じに行き、そのことを通して己の「未熟」を反省し、より良く生きるための一つのきっかけとして、大川の滝に多くの人々が行くようになることで、大川の滝の存在価値ははるかに高まると思います。

縄文杉と出会って人生観が変わる人はいます。自分も、7年前の縄文杉付近の森との出会いは、自分の人生を大きく突き動かす出来事でした。そして、今回の大川の滝との出会いも一つの重要な出会いだと思います。

そのような存在が複数ある屋久島は、日本人にとって、非常に重要な場所だと思います。しかし、屋久島が持つ意味を多くの人が知らないが故に、ただの観光地として理解されがちです。そういう現状を変え、屋久島が日本人に良い形でもっと影響を与えることを促そうとしている自分にとって、大川の滝と出会うことや大川の滝の意味合いを伝えていくことは大事だと思うので、この三日間があって良かったと思います。

 

※余談

滝のデザインにはその滝の神様の性質が表現されるものですが、大川の滝は「龍」というよりも、「鳳凰」の羽のようにも見えます。

自分はまだ「龍」と「鳳凰」の違いを確かに理解しているわけではありません。というのも、「鳳凰」についての経験的理解が浅いからです。ただ、「龍」と「鳳凰」の境界線に相当する存在はいると思います。

大川の神様は、そういった存在なのかもしれないと思いました。滝と向き合っている時も、極端な荒ぶる「龍」というよりは、凄まじさのある「龍」や「鳳凰」のように感じていました。この点が、今後大川の滝と向き合う上で非常に重要な分析のための観点だと思います。

「鳳凰」をテーマにした音楽を1ヶ月前くらいに作っていましたが、その映像として、今回撮っていた大川の滝の映像を使うべきなように感じています。