「信じる」の対義語が「疑い」であって、「信じない」のであれば「疑う」しかないと思ってしまうと、罠に捕まってしまいます。実際は、何かを疑問視する心の動きには、「疑い」とは別に「問い」という心の動きもあるからです。

「疑い」は元々相手の発言などに対して「不信感」があるものですが、「問い」は元々相手に対して「不信感」があるわけではありません。また、「疑い」が感情的であるのに対して「問い」は冷静です。例えば、見知らぬ人が自分に道を尋ねてきた時に、「疑い」を抱く人は「この人何かの詐欺なんじゃないか」といった「不信感」を抱いているのに対して、「問い」を抱く人はそのような「不信感」を抱くわけではありません。

そして、「不信感」の根底には「自分のため」を思う心があり、「不信感」が無い根底には「自分のため」を思っていない心があります。つまり、「自分のため」に何かを疑問視する心の動きが「疑い」であるのに対して、「誰かのため」に何かを疑問視する心の動きが「問い」です。現代は、「疑い」と「問い」を分けて考えることが常識化されていないので、意識化して頂けると幸いです。英語と合わせて理解することも大事で、これは「doubt」と「question」の違いと捉えてもいいかもしれません。

生きていると、何かを疑問視しなければならない場面が頻繁に訪れます。そういった時に、可能な限り「疑い」ではなく「問い」を抱くことが大事です。何故ならば、「疑い」よりも「問い」の方が物事の本質をよく見抜くことができるからです。

「疑い」は「不信感」が故に元々「否定的」なので、物事を一方通行でしか考えられません。例えば、誰かが犯人だと「疑う」場合、その人が犯人であることの根拠ばかりを探そうとします。それに対して、「問い」は「不信感」が無いが故に元々「客観的」なので、物事を二方向から考えられます。例えば、誰かが犯人だと「問う」場合、その人が犯人であることの根拠とその人が犯人ではない根拠を探します。

酷い場合は、誰かの「疑い」が故に冤罪事件が発生するケースもあり、犯罪者でもない誰かが刑務所に入れられることもあります。こういうことが分かると、「疑い」という心の動きが如何に危険なものなのかが分かりますし、「問い」を選ぶべきだということも分かります。