日本人は「軽さの闇」に強く囚われているということは書きました。「軽さの闇」とセットで、我々が強い関係性を作っているのがこの「非現実を求める闇」の気です。「非現実を求める闇」とは何かというと、文字通りこの現実ではない何かの中を生きるということであったり、自分とアニメか何かの登場人物を重ねて考える事であったり、自分に非現実の世界を生きさせてくれる何かを求める心のことです。

日本においてこの闇と顕著に仲良くしているのは「オタク」と呼ばれる人達です。彼等はアニメなどの非現実を極端に求め、その中に生きている人達も多くいるからです。また、「オタク」に限らず、例えばディズニーランドなどもこの闇の気に満ちています。

ディズニーランドが好きな人は多いと思いますから、こういったことを書くと非常に不快感を抱かれる方も多いと思います。しかし、ディズニーランドが行なっていることは「夢の国」の中に人々をできるだけ没入させようとすることです。つまり、ディズニーのコンセプト自体がそもそも「非現実を求める闇」そのものなのです。

大事なことはそこで入り込む世界がどんなに素晴らしいものであったとしても、それが非現実である限り、それは闇であるということです。我々はこの現実を生きるために生きています。そういう意味で、別のリアリティの中に生きることとはそれは闇の行為なのです。そこにディズニーランドが闇であるということの根拠があります。少なくとも、「別の世界の住人にすること」を狙ってはなりません。

例えば、映画というものは我々を強くその世界の中に引き込むものです。しかし、基本的に映画の目的とは人々の心を動かすことであって、その世界の住人にすることではありません。映画にしてもテーマパークにしても、それが光か闇かということを語る時に、その作家が何を目的としているのか、ということが非常に重要な判断材料となります。

また、映画の場合であっても映画の中を生きてしまう人というものもいます。そういう人にとっては映画を観る行為自体が闇の行為となります。逆にディズニーランドに行ってもその「夢の国」を生きるのではなくて、ジェットコースターをアトラクションとして楽しむ人もいると思います。その場合はディズニーランドは闇ではありません。作家の動機以上に大事なのは、それぞれの受け手の捉え方です。

我々の生きている世界は「非現実の世界」を我々に提供してくれるものが数多く存在します。アニメ、マンガ、ゲーム、映画、音楽、テレビ、ネット、テーマパーク、その選択肢は様々です。そういった世の中だからこそ、この「非現実を求める闇」の気が広がりやすいとも言えます。そして、「非現実を求める闇」に囚われている人達が新たなアニメやマンガやゲームなどを創ることにより、この闇の気はさらに強く広がっています。

自分が何か非現実の世界の中を生きるのではなくても、現代人は自分と何かの映画の主人公を重ねたりしがちです。これは非常に良くない心の動きです。何故ならば、この現実が非常に軽く捉えられるようになるからです。その主人公と自分を重ねるということが意味するのは、この現実がその主人公が生きている世界であるということも意味しています。この場合、「非現実を求める闇」の気だけではなく、「軽さの闇」の気とも共に働くことになります。「その主人公と自分を重ねるということ」は「非現実を求める闇」と共に働くこと、「この現実をその主人公が生きている世界と重ねること」は現実を軽くし、「軽さの闇」と共に働くことです。

ヘンリー・ダーガーという人物がいます。この「非現実を求める闇」の気に最も囚われていた人間です。彼は現代においてはアーティストとして認識されていますが、彼はただただこの「非現実を求める闇」の気と共に自分だけの世界を生きていた人間であり、生涯に渡って自宅に引き籠り、ある物語や絵を書き続けた人物です。彼はアートとしてそういったものを描いていたわけではなく、自分がその中を生きることとして描いていた形になります。https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘンリー・ダーガー