「純粋」とはどういう心の状態かというと「曇り無き眼で物事を見る心」のことです。我々はいつも様々なアイデアを得ながら生きています。そして、そういったアイデアが増えていけばいくほど、曇り無き眼で物事を見ることができなくなっていきます。なぜならば、自分の知識に物事を当てはめて考え始めるからです。

自分の知識に物事を当てはめていくということは、バイアスをかけた状態でその物事を見ることを意味しています。つまり、真にその物事を見ることができないようになります。

生きている間に我々が得ていくアイデアの中で最も我々に対して影響力が強いアイデアが「常識」です。そして、我々日本人はとにかく曇り無き眼で物事を見ることよりも、いつも「常識」に当てはめて物事を見ています。つまり、我々は真に物事を見てはいないのです。これは非常に大きな問題です。

「常識」が「いい常識」であるのであればそれはいいことかもしれません。しかし、それが「悪い常識」であるならば、そういった「常識」は我々を狂わせていきます。そして、実際日本を支配している「常識」は「悪い常識」ばかりです。そのような常識はいくらでも書けますから、参考までに箇条書きをしておきます。

・「電車の中では静かにしておかないといけない」→電車の中で会話による気の交換が行なわれないので、電車の中が闇の気に満ち、いつもその闇の気を吸うことになる。

・「比較的収入がある相手とでなければ結婚しても不幸せになる」→好きでもない相手と結婚して不幸せになる。

・「学校を卒業したら会社に入るのが普通」→自分の生き方を自分で選ぶ前にそれを放棄することになる(本当にやりたい仕事に就いていない場合)、親の場合は子供を縛ることになる。

・「路上生活者に寄付をしないのが普通」→彼等はゴミをあさってそれを食べ、そのことによりどんどん精神が悪くなり社会に戻っていくことが不可能となっていく。酷い場合には凍死する。

・「靴を履くのが普通」→「足の裏とは闇の気が出る場所であるにも関わらず、それが出ていかず、浄化が進まない」(これは世界共通)

こういったことを書き始めたならば、永延と書き続けることができます。それ程までに「悪しき常識」が我々を支配しています。大事なことはそういった「常識」に対して「問い」を行ない、自分なりの解釈を行なった上でその「常識」に従うかどうかを決めることです。このプロセスをほとんどの日本人が行なっていません。

「常識」とは「誰かが言い始めたアイデアが広がったもの」に過ぎません。「誰かのアイデアであって、あなた自身のアイデアではない」というこの認識をよく持って下さい。「常識」とは何なのかということを理解しなければ真に「常識」について問うことはできません。なぜならば、「問う」ためにはその対象をよく知らなければならないからです。

そして、「常識」について距離を置かず、その「常識」の中に生きる場合、あなたは「常識」に支配された状態で生きることになります。その場合は、当然あなたの人生を生きることなど不可能です。あなたは「常識」によって生きさせられることを生涯に渡って行ない続けるだけになります。そのような人生を送りたいのかどうかということをよく考え、その上で「常識」に従うかどうかを決めるのです。

これは非常に重大な問題であることは分かって頂けるはずです。我々が無知であることが如何に我々の生を狂わせているのかということを気付いていかなければなりません。

「常識」など結局「誰かの意見」です。「誰かの意見」に黙って従うのが人生なわけがなく、「誰かの意見」に黙って付いて行きたいとあなたは思ってはいないはずです。我々があまりにも「自分の意見」を持たないが故に今の社会では「常識」が「誰かの意見」に過ぎないということすらも見えなくなっています。

そういった「常識」についての正しい認識をまず得て下さい。そして、その上で一つ一つの常識に対して真に「問い」を行なって下さい。その時に「疑い」ではいけません。なぜならば、「疑い」の気持ちで疑問を持つならば、ほとんど全ての「常識」が間違って見えてくるからです。本質を見抜くためには「疑い」ではなく「問い」が必要です。

そして「問い」を行なう上で必要な感情が「純粋性」です。これは「常識」に対する「問い」というよりも、「純粋性」はこの世の全てに対する「問い」について必要なものと認識して下さい。逆に言うと、我々がこれほど「問い」を行なえないのは我々が「純粋性」を失っているからです。

「純粋性」とは光の感情であり、「水の気」「火の気」「風の気」が共通して持っている感情です。どうしてこの三つ全てに含まれているかというと、「愛」と同様に光の立場を取るために必要な基本的な感情であるからです。その意味は、「問い」を行なうために必要なものが「純粋性」であるということです。

「純粋性」が無ければ自分の人生を生きることも難しくなります。なぜならば、「純粋性」が無ければ「問い」を行なえず、知らず知らずに様々なアイデアに支配されていくからです。

いつも何のアイデアも持たずにその対象を曇り無き眼で見つめることによって、初めて物事の真の姿が見えます。つまり、「純粋性」を持って初めて、物事の本質が見えるようになります。


※私の名前は「芦刈純」と言います。この「純」という名前は神々から授かった名前です。皆さんの名前の多くも実はそのようにして神々から授かったものです。神々は両親がどんな名前を付けるか考えている時に、その魂に合った名前のアイデアをその両親に落とします。そのことによって、名前は本人にとって重要なメッセージとなっているのです。これだけ問題だらけの社会の中で、それらの問題を解決していくためにはまず「問い」を行なう必要があります。そういった「問い」を行なってもらうためにも「純」という名前を私に付けたと神々は言います。私の書いていることが理解できる皆様はどうして私がこのように多くのことを理解できるのか、ということの根本的な理由を理解して下さい。その根本的な理由は私の「純粋性」にあります。自分を自慢したいとかそういうことではなくて、この一つの明確なこの現象を通して、「純粋性」について理解してほしいと思っているからこそ、ここにこのような補足文章を書いています。