http://junashikari.com/artist-support/what-is-art/

この文章は上のリンクにある『芸術とは何か(心理学的定義)』を読まれた後に読んで頂けると幸いです。また、目に見えない存在の話に抵抗感がある方は読まれない方がいいかもしれません。以下、芸術の神学的定義について書いていきます。

「芸術とは何らかの精神性の真実を捉えたもの」という定義を『芸術とは何か(心理学的定義)』で説明しましたが、この定義をより深く理解するためには、神学的にこの定義を掘り深める必要があります。

結論から書かせて頂くと、「芸術とは何らかの目に見えない存在のことを伝えるもの」です。これが、芸術の神学的定義です。

我々人間は「気」を「持つ」ことによって「気持ち」を抱いています。特に、芸術家と呼ばれる方々の多くは、芸術家以外の方々よりも感性が敏感で、様々な「気持ち」が自分に起こりやすいです。

つまり、芸術家の方の多くは「気」に敏感であるが故に、様々な「気」を「持ち」やすい形になります。「気」に対する感度のことを「霊感」と言いますが、このような意味で、芸術家の方々は「霊感」が高い方が多いです。「霊感」と芸術の関係性については、こちらのページで説明しています。

http://junashikari.com/other/what-is-talent/

「気」がどういうものであるのかが分かると、何故「芸術とは何らかの目に見えない存在のことを伝えるもの」と言えるのかが分かります。ですから、「気」の説明をしていきます。

「気」は目に見えない霊的な存在が司るものであって、目に見えない存在は「気」を通して、我々生き物の心に関与し、地上を動かしています。

目に見えない存在とは言っても、「八百万の神」と言われるように、目に見える山や川も神であって、だからこそ、それぞれの山や川に行くと異なる「気持ち」を感じたりします。彼らの身体である山や川には、彼らの「気」が宿っており、我々は呼吸などを通してその「気」を摂取することにより、「気持ち」や「気付き」を得る形です。

それぞれの神々は自分自身の「気」でできるだけ多くの人間を守ろうとしています。そして、芸術家の作る作品は人々がそういった「気」を「持つ」ことを促す道具です。

例えば、美空ひばりの表現する精神性は彼女の繋がっている神様の司る一つの精神性そのものであって、そういう歌を日本人が聴くことで、美空ひばりの繋がっている神様は、人々がその神様の「気」を「持つ」ことを強く実現してきました。そして、そういう「気」を通して、人々を支えてきました。

このような形で、良い芸術家の作る作品は人々が何らかの「気持ち」を抱くこと(「気」を「持つ」こと)を促す装置を作ることにより、神々が人間を守ることを支えています。この構造は悪魔が芸術を通してやろうとしていることでもあり、悪い芸術家は何らかの悪魔の司る「気」が地上に蔓延することを促す存在です。

神々の司る「気」はその神々の「気持ち」そのものです。様々な宗教などで、一人の神が様々な側面を持つことが説明されることはよくありますが、そういった説明通り、同じ神の中に様々な精神性が混在し、そういった異なる精神性を異なる人々に神々は与えています。

例えば、先程美空ひばりを例に挙げましたが、彼女は太陽神様(アマテラス)の使いであって、桑田佳祐も星野源もトータス松本も太陽神様の使いです。太陽神様は日本神話では女として捉えられますが、古代ギリシャ神話では男として捉えられます。太陽神様は自分の中に男の側面も女の側面もありますし、男の側面の中にも様々な男の側面があります。

そういった様々な側面にどのような精神性があるのかを、美空ひばりも桑田佳祐も星野源もトータス松本も教えてくれます。こういった形で、神の使いとして生きる芸術家はその神のことを我々に教えてくれます。このような意味で、「芸術とは何らかの目に見えない存在のことを伝えるもの」です。

インドなどでは「化身」という考え方がありますが、優れた芸術家は神の化身です。美空ひばりはまさに太陽神様の使いであって、しかも彼女は太陽神様の女性的な側面を表現している方ですから、アマテラスの「化身」です。「化身」だからこそ、彼女を通して我々はアマテラスの本質を理解することができます。

それぞれの神々には膨大な側面がありますが、神々は自分自身がより多くの人間に関与するために、自分の中に膨大な側面を持ちます。人間を見渡すと、本当に多種多様な人間がいることは明らかですが、そのような多種多様な人間が共感できる「気(持ち)」を自分の中に用意しようとする結果、神々は自分の中に膨大な側面を作る形になります。

ただ、神々はそのような膨大な側面を全て人間に流行らせたいと思っているかというとそうではなく、ある「気(持ち)」については本当に人間に広げたいと思ってはいても、別の「気(持ち)」についてはできるだけ人間に広げたくないと思っています。

どうしてこのような考え方になるかというと、ある人間が何らかの「気(持ち)」を抱くということは、その人間がその「気(持ち)」に似るということだからです。似た方がいい精神性もあれば似ない方がいい精神性もあるので、神々は自分の司る「気」の中にも優先順位を作っています。

どのような「気(持ち)」を人間に広げたいと思うかは、神々によって全く考え方が異なります。例えば、ある神様は「優しさ」を最も広げたいと思っているのに対して、別の神様は「元気」を最も広げたいと思っているような形です。また、その「優しさ」や「元気」の中にも種類が膨大にあり、それぞれの「優しさ」、それぞれの「元気」の中のどれを広げたいと思うのかは、その神の方向性に依ります。

ここまで理解すると分かってくるのですが、ほとんどの神の使いとしての芸術家を通して、神々が表現したい「気(持ち)」とは、彼らが司る様々な「気(持ち)」の中でも、彼らがとても広げたいと思っている「気(持ち)」であるということです。

どうしてこのように言えるかというと、優れた芸術家の数には限りがあり、そういった限られた使いを通して何らかの「気(持ち)」を表現しようとするならば、自ずと彼らが最も広めたい類の「気(持ち)」を表現させようとすることは明らかだからです。

また、どんなに優れた「気(持ち)」であっても、人々に受け取ってもらえなければ意味がないので、時代との兼ね合いも考えながら、神々は自分の繋がっている芸術家の方向性を決定しています。

例えば、昭和だからこそ、美空ひばりはあれだけ流行ることができた精神性を表現しているのに対して、今の時代であれば、若い人にはなかなか届きづらい精神性です。それに対して、星野源は今だからこそ流行ることができる精神性で、若い人にも届きます。

このような形で、神々はその時代の傾向との兼ね合いを考えながら、時代に共感される何らかの「気(持ち)」の中でも良いと思うものを地上に流行らせようとします。そのことを通して、できるだけ多くの人間の心を支えようとしています。

美空ひばりや星野源のような人間だけが神々と繋がっているわけではなく、我々人間は皆、何らかの神々と「縁」で繋がっています。「縁」とは「気」が流れるラインのことであって、その「縁」を通して「気」をもらうことによって、神々から支えられています。

逆に言うと、そういう神々との「縁」無しに生きていくことはとても難しいです。例えば、家を出た時に忘れ物に「気付く」といった現象がありますが、この現象は我々に「気」が「付く」ことにより起こる現象で、神々が「忘れ物をしてるよ」と教えてくれていることを意味します。

我々の日常は何をしている時も、こういった「気付き」の連続であることが分かってくると、如何に神々に支えられているのか、如何に神々の支え無しには生きていけないのかが分かってきます。

芸術家もまた、目に見えない存在の支え無しには作品を生み出すことは不可能です。何故ならば、芸術家が作品を生み出す時に最も必要なものは「アイデア」であって、「アイデア」は目に見えない存在からの「気付き」によって与えられることによって、我々の心に浮かぶものだからです。

ですから、優れた芸術家の多くは自分が繋がっている神の使いとして作品を制作しています。「神の使い」という言葉は現代では非常に大げさに感じられる言葉ですが、実際は多くの人間が神の使いです。

例えば、健康に良い野菜を売る八百屋で働く、心の清いおばさんなどは、ほぼほぼ神の使いです。彼らは野菜を売ることを通して、様々な人間の心身の健康を支えることを役割とする神の使いです。

では、神の使いとして生きる芸術家はどういう人間かというと、八百屋さんが野菜を通して、人々の心身の健康を支えるように、芸術家は作品を通して、人々の精神の健康を支えることを役割としています。

このような意味で、優れた芸術家は何らかの神様の精神性を強く地上に伝える人間であって、そのようなことを通して、何らかの目に見えない存在のことを伝えています。そして、そのことを通して、何らかの神様の「気」が地上に広がることを促しています。

こういった説明が「気」の観点から考えた際の、芸術の神学的意味合いや芸術の持つ真の役割になります。このようなことを分かった上で芸術制作と向き合う方が、より適切な形で芸術活動をしやすくなりますので、参考にして頂けると幸いです。