アーティストは、自分が知っている精神性を表現しようとすべきです。何故ならば、アートとは「何らかの精神性の真実を表現したもの」ですが、自分が知らない精神を表現しようとしても、その真実を表現できないからです。また、表現できないだけに関わらず、様々な悪影響をもたらすからです。

例を挙げると、「愛してる」という歌詞を歌う歌手は「愛」をよく知っていなければなりません。そうでなければ、「愛してる」という歌詞を「愛」の精神で歌うことはできませんし、鑑賞者は「愛」に対する間違った理解をしてしまい得るからです。例えば、「依存」の精神で「愛してる」という歌詞を歌うのであれば、その声に「依存」の精神性が自ずと表れてしまうのですが、そういった歌を聴いた人は「依存」のことを「愛」だと誤解してしまいます。

「愛」とは何なのかを見失いがちな現代においては、こういった悪い構造がよく生まれますし、そういった悪い歌が、より一層「愛」というものが何なのかを見失わせています。

「愛」とは何なのかが見失いがちな社会だからこそ、歌手の方も「愛」に対する誤った理解を得ている方は少なくありませんし、自分が間違った理解をしていることさえも気付いていません。そして、そういう人間が「愛」を歌うことの弊害も知りません。

この社会の様々な大事なことに対する理解の不足が、このような悪い構造を生み出していることを知って頂けると幸いです。特に、アーティストの方は、世の中に悪影響をもたらす表現を生まないようにするために、絶対にこういう構造を理解しなければなりません。

こういった問題は歌だけではなく、演技の場合も同様です。例えば、正義のヒーローの主人公がいたとして、そのヒーローを演じる役者は「善」や「正義」とは何なのか、をよく知っていなければなりません。そうでなければ、非常に浅はかな演技をすることとなり、そういう作品を鑑賞した方が「善」や「正義」に対する誤った理解を得てしまうからです。

実際、浅はかなヒーローを演じてしまう役者は少なくなく、その弊害として「善」というものに対して、非常に浅はかな印象を抱いている日本人は少なくありません。しかし、本当の「善」とは非常に深みがあるものであり、浅はかなものではありません。

その深みを役者は的確に表現しなければならないのですが、その深みを表現するためには、自分自身の人生の中で「善」へ向かう努力を徹底的に行ない、その中での様々な葛藤を乗り越え、それぞれの葛藤の持つ意味を経験を通して理解し、それを表情や声などで表現しなければなりません。このような意味で、「善」を表現する役者は演技に自分の人生をかけていなければなりません。

しかし、現代の日本は非常に軽さに堕ちてしまいがちで、自分自身の人生をかけて「善」を貫こうとする方も少なく、自ずと役者と言われる方も、現代の時代の軽さの中を生きがちです。つまり、自分の人生をかけて「善」のために役者として生きることを貫いている役者は多くはありません。しかし、そういった生き方では、本当の意味での「善」を演技を通して表現することはできません。

例えば、ヒーローが抱える一つの要素として、「使命感」というものがありますが、そういった「使命感」と共に生きていない限り、「使命感」を的確に表現することは不可能です。そして、現代の日本人は我々には皆「役割」=「使命」があることを見失っていますから、「使命感」と共に生きていない役者も少なくなく、そういった人物がヒーローを演じてはなりません。

ハリウッドの一流の役者などは、こういった心の修行を実践しています。例えば、キアヌ・リーブスは自分の演技を通して世の中を良くすることを真に目指している役者ですし、そういった「使命感」と共に生きている役者です。だからこそ、彼は様々な作品の中でのヒーローの葛藤を見事に演じることができます。
 


キアヌ・リーブスが「使命感」と共に生きていることは、アナ・デ・アルマスのインタビューを見れば分かります。このインタビューの中で、アナ・デ・アルマスは自分の人生において最も大事なアドバイスをくれた相手としてキアヌ・リーブスの話をします。彼女は言います。

「撮影中、自分の演技がうまくいかなくて、しかも撮り直しをすることがなくて、それで酷くガッカリしてしまったが故に、私は『誰も気にしないわ。私達は誰かの命を救っているわけでもないし』と言ってしまったの。そしたら、キアヌが凄まじく深刻に私を見つめ『二度とそんなことを言うな。我々は真に命を救っている。我々は人々の人生を変えるために映画を作ってるんだ。』と言ったの。」

このエピソードは、キアヌ・リーブス本人が如何にヒーローであるのかを物語っている出来事です。彼は実人生の中でも「使命感」と共に生きているからこそ、映画の中でもヒーローを見事に演じることができます。このキアヌ・リーブスの話を通して、ヒーローを演じる人間は本当のヒーローでなければならないという教訓を我々は得ることができるはずです。

もちろん、役者に指示を与える監督は、役者以上に、自分の人生経験を通して、様々な大事なことを分かっていなければなりません。そうでなければ、適切に役者の演技に指示を出すこともできませんし、役者の演技が的確かどうかを見抜くこともできないからです。

日本映画の中には、原作が非常に優れているにも関わらず、映画が非常に浅はかな作品が少なくありません。例えば、優れた漫画が原作で、役者も充実しているにも関わらず、非常に浅はかな映画になるといった形です。そういった作品が生まれてしまうのは、監督が原作の深みを全く理解していないことが大きな原因なのですが、そういったことをやってしまう監督の大抵は、映画監督という仕事が、様々な精神性を理解するための修行を前提とするものであることを知らないと思います。そういった監督が生まれないためにも、こういった知識を常識化することは大事です。

また、こういった構造は楽器演奏でも同じです。例えば、その演奏家がある名曲を演奏しようとしている時、その演奏家はその曲の精神性をよく知っておかなければなりません。そうでなければ、その曲の持つ精神性を表現できないだけでなく、その演奏を聴いた方が、誤った形でその名曲の精神性を理解してしまいます。

たとえ、優れた演奏家の真似がかなりできていたとしても、その音にはその演奏家の抱いている精神性が表れてしまい、真似られていた優れた演奏家の表現する精神性は表現できないものです。だからこそ、演奏家がある曲を演奏する場合には、演奏以前に、その曲の持つ精神を学ばなければなりません。

ここまで、歌と演技や演奏を例に、アーティストは自分が知っている精神性を表現しようとすべきであるということを説明してきましたが、これは絵画であっても、ダンスであっても同じです。絵画であっても、ダンスであっても、そのアーティストの抱く精神性が表れるからです。

繰り返しになりますが、アーティストが何かを表現する場合、その表現しようとしている精神性を事前に学ばなければなりません。これは一種の精神修行とも言えますから、アーティストは本来修行者であるべきです。

逆に言うと、このような意味でアーティストが修行者であるべきだということが常識化されていない世の中だからこそ、非常に優れたアートが生まれづらい世の中になってしまっています。音楽でも映画でも絵画でも、本当に優れたアートは、凄まじくある精神を表現しているもので、その作品が鑑賞者に与える衝撃は凄まじいものです。

そういった作品こそ、本当の意味で「何らかの精神性の真実を表現したもの」であって、キアヌ・リーブスが言うように、誰かの人生を変えるだけの力を持つものです。そういったものを表現することを目指すのがアーティストの使命ですから、この文章を通して、アーティストがどうあるべきなのか、アーティストは何を表現すべきなのかについて、理解を深めて頂けると幸いです。