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この文章は上のリンクの『才能と霊感の関係性』を読まれた後に読んで頂けると幸いです。『才能と霊感の関係性』の内容を前提に、「才能」について説明を続けていきます。
 

【天才と鬼才の違い】

文字通り、「天才」は「天」が与えし「才」、「鬼才」は「鬼」が与えし「才」です。現代では、神々や悪魔が我々に「才能」を与えているという構造が忘れられているので、「天才」と「鬼才」という言葉が適切に使い分けられてはいませんが、本質的には、神々に「才能」を与えられた人間が「天才」、悪魔に「才能」を与えられた人間が「鬼才」です。

生まれた時から「霊感」が高い人の多くは、「天才」か「鬼才」のどちらかになりやすいです。その方が精神的に「清さ」や「強さ」や「愛」を保っていれば、神々の使いとしての「天才」になりやすいのですが、その方が精神的に「邪悪さ」や「弱さ」や「欲」に堕ちると、悪魔の使いとしての「鬼才」になりやすいです。
 

【「鬼才」を目指すことの危険性】

『才能と霊感の関係性』では、「鬼才」の方向性へ向かうために必要なことではなく、「天才」の方向性へ向かうために大事なことを書きました(上の写真は映画『トロイ』で見事なアキレスを演じた「天才」ブラット・ピットです)。それに対して、「鬼才」へ向かう方向性の説明もできます。

しかし、「鬼才」になることを目指すことは本当にオススメできません。何故ならば、「鬼才」は世の中に有害なことを多くする存在ですし、「鬼才」となったその人間も、悪魔が用済みになれば酷い一生を過ごすことになるからです。

そこで人類史に残る「鬼才」となった人間であるヒース・レジャーを例に挙げたいと思います。映画『ダークナイト』でジョーカーを演じた方です。
 


彼はジョーカーを演じるに当たり、ロンドンのホテルに長期間籠って生活しながら、『時計仕掛けのオレンジ』といった様々な映画を鑑賞しつつ、自分の表情や声をジョーカーに近づけていくための闇修行をしていました。

そういうことを通して、彼は大量の「悪い気」=「邪気」=「闇の気」を集めることを実現し、そういった「邪気」と働くことで「鬼才」となり、まるで悪魔としか見えない演技を実現しました。

しかし、映画の撮影後には悪魔に殺された形になります。彼は睡眠薬の多量摂取で亡くなったとされていますが、当時の悪魔がかっているヒース・レジャーに睡眠薬を飲ませること位は悪魔にとって非常に簡単です。

このような形で、「鬼才」は用済みなれば悪魔から捨てられます。殺されなくても生き地獄のような日々を過ごすことになる「鬼才」も非常に多いです。

生き地獄と言う程の地獄ではありませんが、ヒース・レジャーと全く異なる形で悪魔に利用された芸術家がヘンリー・ダーガーです。ヘンリー・ダーガーは、清掃員として生活費を稼ぎながら、誰にも気付かれることなく、膨大な作品を自宅で製作した芸術家です。彼が亡くなった後まで、彼がそのような作品を作っていたことは誰も知りませんでした。
 


彼の作風を見れば彼が抱いていた精神性は明らかで、彼は自分の生きている現実から逃れるために、自分だけの非現実の世界を作り出し、その世界に逃げ込むために作品を作らせられ続けた「鬼才」です。

掃除という作業はかなり「邪気」をもらいやすいので、清掃員という仕事は非常にコンスタントに「邪気」をもらいやすい仕事です。悪魔としては、そういった仕事で「邪気」を吸わせながら、悪魔が作らせたいものを作らせ、死後にその作品を広めた形になります。

「逃げ」の心理を経験したことがある方は分かると思いますが、「逃げ」という心はとても辛いです。そういった「辛さ」を使って、悪魔はヘンリー・ダーガーに作品を作らせ続けた形になります。これは一つの生き地獄の形です。

ヘンリー・ダーガーは膨大な作品の中で、様々な「狂気」を表現した芸術家でした。そういった作品を鑑賞すると、鑑賞者は様々な悪い影響をもらいます。例えば、「狂気」が好きになるといったことなどです。そういったことを実現するために、悪魔はヘンリー・ダーガーに生き地獄を与えた形になります。

ヒース・レジャーとヘンリー・ダーガーを例に挙げましたが、世の中のためにもあなた自身のためにも「鬼才」なんて目指すものではありません。
 

【「天才」と「鬼才」のなりやすさの違い】

「天才」と「鬼才」を比較した場合、「鬼才」よりも「天才」の方がなりやすいです。これを理解するためには、神々と悪魔の違いや、我々が持っている「役割」について理解を深める必要があります。

我々人間は「役割」を持って生まれてきます。というのも、我々が人間の身体に宿る時、神々は闇雲に無目的に我々を宿すわけはなく、その人間の能力や世界の状況などを踏まえて、非常に深く検討した結果として、誰をどこに宿し、どういったことを「役割」とするのかを決めているからです。

我々が「善意」を持って「夢」を抱く時、それは大抵生まれ持った「役割」のことが多いです。というのも、その「夢」を抱くことを「気」で導いているのが神々だからです。

ですから、そういう「夢」に向かうことを神々は全力で支えようとします。つまり、神々はその「夢」に向かうための「才能」を与えようとし、その人間を「天才」にする方向性を目指します。

それに対して、我々が「欲」などで「夢」を抱く時、それは生まれ持った「役割」ではないことが多いです。というのも、その「夢」を抱くことを「気」で導いているのが悪魔だからです。

悪魔は非常に悪趣味ですから、初めから実現できないことを目指させたりすることが非常に多いです。何か目標を抱かせ、それを実現させないことで挫折させ、その挫折を通して、その人間を「闇」に向かわせることをよく行なっています。

それとは反対に、悪魔がその悪魔自身のために人間を利用したケースがヒース・レジャーやヘンリー・ダーガーのケースです。彼らは悪魔が利用したかったからこそ「鬼才」になることができましたが、悪魔が利用したいと思わなければ、彼らは「鬼才」になることはありませんでした。

この説明を通して、我々が抱く「夢」に対して、神々と悪魔は全く異なるスタンスを持つことを御理解頂けると幸いです。神々は我々が自分の「役割」としての「夢」を抱くなら、それを強く支えたいと思うのに対して、悪魔は我々が自分の「役割」ではない「夢」を抱いても、それを支えることもあれば支えないこともあるということです。

もちろん、我々が自分の「役割」ではない「夢」を抱くなら、神々はその「夢」を支えたいとは思いません。何故ならば、そういう「夢」の大半は、世の中にとってもその人にとっても有害な「夢」だからです。それと同様に、我々が自分の「役割」の「夢」を抱くなら、悪魔はその「夢」を支えたいとは思いません。何故ならば、そういう「夢」の大半は、悪魔にとって都合の悪い「夢」だからです。

整理すると、以下のような構造になります。
 

      神々が与えた夢(役割)  悪魔が与えた夢(役割ではない)

神々       支える          支えない

悪魔       支えない       支える or 支えない      


ですから、「夢」の実現率で考えると、「鬼才」ではなく「天才」の方向性の方が高いです。こういう構造があるからこそ、「鬼才」よりも「天才」の方がなりやすいです。

「才能」が欲しくてこの文章を読まれている方もいらっしゃると思いますが、「才能」を手に入れることを目指す上でも、「天才」の方が「鬼才」よりもいいということを分かって頂けると幸いです。
 

【最後に】

「誰のため」にもならない無意味な「夢」を悪魔によって抱かされ、その「夢」を悪魔から支えられることもなく、けれども、悪魔によってその「夢」に対する「執着」を抱かされ、その「執着」と共にただ年老いていく人を見たことがあります。そして、こういう人は少なくありません。

初めから方向性を正しく持つことが大事です。「世のため」や「誰かのため」に切実に何かをしたいと思う人が、自分を「天才」にしていく努力をしていくことは正しいです。それに対して、「自分のため」に何かを実現するために「鬼才」にしていくこと程、危険なことはありません。

この文章を通して、「天才」と「鬼才」の違いや、「夢」と「役割」の関係性や、神々と悪魔のスタンスの違いなどを理解して頂けると幸いです。